大正政略恋物語

菱文を纏う

（９）

（……とすると、彼女は堀下の娘ではないのか？　しかし、養父（ちち）が堀下子爵に娘との結婚話を持ち掛けたことは、養父に確認が取れている……）

　娘ではないが、茂三が自由に扱える娘、となると、また調べた方がよさそうだ。しかし、これではっきりとした。楓は噂で聞いていた堀下子爵令嬢ではない。しかし、それがかえって良かったと思っている自分がいることを、健斗は意外な気持ちで受け止めていた。

（以前だったら、堀下子爵に立腹するところだが……）

　今は、楓が噂の令嬢でなくて良かったと思っている。楓は否定したが、書斎の書類はおそらく静子と掃除でもしたというところだろうし、食事も料理人の手さばきを真似たというだけあって、美味しいものだった。一緒に暮らし始めて少ししか楓のことは知らないが、それらのことを踏まえただけでも、華族令嬢にありがちな高慢さは備えていないだろうと分かる。それに、彼女は健斗の働き過ぎを心配した。おそらくそれが、彼女の本質なんだろうと思う。ナチュラルに他人を気遣える人間に、悪いやつはいない、と言うのが健斗の考えだ。
　ぱさりと報告書を閉じて、目をつむる。これからせねばならない事柄を整理しながら、健斗は自動車の揺れに身を投じた。



　
　＊



　
　ある日楓は、は静子に食器棚の奥にある缶について教えてもらった。紅茶といって、英吉利では一般的な飲み物らしかった。

「私にも淹れられるでしょうか」

　英吉利で一般的な飲み物なら、きっと健斗にもなじみ深い味の筈だ。夜の休憩に紅茶を差し入れてあげたいと思い、静子に訊ねると、淹れ方を教えてくれた。

（新鮮なお水を、五円玉くらいの泡が湧くまで沸かす。それから……）

　お湯を沸かしている間に、ティーポットとティーカップを出し、湧いたお湯をポットとカップに注ぐ。これはポットとカップをあたためるためで、ポットとカップがあたたまったらお湯は捨てるのだそうだ。あたためるお湯を捨てたら、ティーポットにティースプーン１杯の茶葉（缶の中身だ）をポットに入れ、沸騰直前のお湯を注ぐ。そして三分、蒸らすのだそうだ。

　この三分を数えるために静子が紅茶の缶の後ろから取り出したのは、透明のガラスの球が上下に二つ繋がった物体を中心に木製の柱が三本とガラスの球の両側に同じく木製の天井の付いた、不思議な道具だった。つながった上下のガラス珠は更にその繋がっている中心に当たる部分が細くなっており、木の天井と柱で立てた時に下の球になるガラス珠に少々の白い砂が入っている。上下に繋がった球を逆さにすると、二つのつながったガラスの球の中心に開けられた細い通り道を通って、白い砂が溜まっていた方から空洞だった方へと移動する。その砂が全て移り切ってしまうと、丁度三分なんだそうだ。これは砂時計と言われる道具で、計る時間に応じて二つのガラス珠の間に開けられた通り道と淹れられる砂の量が変わるらしい。峯山家の食器棚にあった砂時計は紅茶の蒸らす時間をはかる専用のもので、健斗が用意していたらしい。

　この砂時計で三分を計った紅茶を、ティーカップに注ぐと、見たこともない夕暮れのあかね色にも似た液体がカップの中を満たした。カップとかりんとうを三つ載せた小皿を盆に載せ、階上へ赴く。書斎の扉をノックしてもやはり応答はなく、失礼しますと言って、楓は扉を開けた。健斗は熱心に机に向かっていたが、ふう、と書類から顔を上げ、こちらを見た。

　……声をかける前に目が合ったのは、初めてだった。

「だ、旦那さま。休憩になさいませんか？　今日は……、勝手をしましたが、静子さんに習って、紅茶を淹れてみました……」

　湯呑より底が浅く口の広いティーカップから紅茶を零さないように盆を動かすのは、神経を使った。ことん、とテーブルに盆を置くと、健斗の視線がティーカップに注がれた。日本茶を差し入れた時にはなかった反応だ。

（やっぱり日本茶よりも紅茶の方がお好きなんだわ）

　健斗は無言のまま窓際へやってくるとソファに腰かけ、ティーカップを手に取った。そして長いまつ毛の瞼を伏せ、香りを楽しむようにティーカップを顔に近づけると、ひと呼吸の後、口に含んだ。ふたくち飲むと、健斗がかりんとうを摘まんだ。かりっ、という音がして、白い歯がかりんとうを食み、夜の空気の中によく響いた。

　かりっ、かりかり、とかりんとうをかみ砕き、のみ込むと、最後に残った紅茶を飲み、不思議そうな顔で、合うな、と言った。