大正政略恋物語

遠野まさみ

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七宝の縁

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 加えて健斗は、堀下家に居た楓と違って、その肩に、前会社社長である辰雄からの期待と、峯山製糸に勤める社員の将来を負っている。つまり、楓以上に健康に気を使わなければいけない人だった。

 楓の呼びかけに、健斗は今度は振り向いた。少し、驚いたような顔をしていた。

「……っ、……なんだ、君か」

 しかし、言葉の後半は落ち着いていた。外の暗闇のように冷ややかに楓を見、検分している。楓は健斗に余計なことを考えさせないように、南の窓際にあった背の低いテーブルの上に盆を置いた。

「静子さんが、作って行かれました……。あの、あまり夜遅くまでご無理をなさいますと、お体に触るかと思いますが……」

 楓が体の前で手を組み、緊張を含みつつ返答を待つと、健斗はちら、と盆の上を確認して、口を開いた。

「静子が持って行けと言ったか」

「い、いえ。静子さんは夕方、本家にお帰りになって……」

「ふん。ならば、お前が考えたのだな。早速、媚を売ろうというつもりか」

 声の低さに怖気づき、震えた喉は咄嗟に声を発しない。余計なことをしてしまっただろうかという後悔が、頭をよぎる。しかし誤解されたままにはしたくなくて、浅く息を吸うと、否と応えた。

「私が、旦那さまにとって、どんな人間に見えても、構いません……。ですが旦那さまは、多くの方の人生を預かるお方です。お健やかでなければ、そのお仕事に影響が出るかと。……どうか、旦那さまが責任をお感じになっていらっしゃる方々のことを思って、お食事を召し上がってはいただけませんか」

 どきん、どきんと心臓が大きく鳴る。人に意見するのなんて、叔父の家に預けられて間もない、あの時以来だ。あの時叔父にされた暴力を思い出して、体の前で組んだ手を、ぎゅっと握る。じっと楓を見つめてくる健斗の視線に耐え切れなくなって俯いた、その時。

「……違うな」

 健斗が小さく、そう言った。え、と聞き返すが、それに対する返事はなかった。

「用は澄んだだろう。部屋へ帰れ」

 そして、そう言われてしまうと、もはやその場に留まることは出来なかった。結局楓は、握り飯をテーブルに置いたまま、健斗の部屋を辞した。
 



 楓が書斎を退室した後、健斗は、音をさせずにしまった扉をじっと見つめていた。どうもあの娘は、この半年間会って来た女たちとは少し違うような気がする。

(She’s just playing coy。まあいい、どうせ金の自由が利かないこの家で、あの子爵令嬢が満足できるわけがない。質素な暮らしに逃げ帰るのは目に見えている)

 それに、と健斗は思う。

(女など、信用できるものか。上面でものを言う生きものなど、私の人生に不必要)

 故郷では兄がいたため、自分に婚姻の義務はなかったが、養子として、また養父の事業を引き継ぐものとして、会社の利となる婚姻は避けられなかった。

(結婚するのはやむを得ない。だが、私の人生は邪魔させない)
 そっと顔を覆っている髪に触れる。冷たい風が、窓の外を吹き抜けた。
 


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