勘左衛門の猫

猫絵師

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嘉恵

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建付けの悪い引き戸を開けると、勘左衛門の帰りを察して土間で指を揃えて迎える居候の姿があった。

嘉恵かえ。帰ったぞ」

「なーん」

彼女の精一杯の出迎えに勘左衛門は相好そうごうを崩した。

愛猫の嘉恵は甘える声を上げながら、まっすぐに立った尻尾を掲げて彼にすり寄った。

草履ぞうりを脱いでいる間も、嘉恵は勘左衛門の周りをせわしなく歩き回り、甘えるように頭突きを繰り出してくる。ゴロゴロと喉の奥からあふれる不思議な音に先程までささくれ立っていた気持ちが幾分か和らいだ。

「腹が減ってるか?」と声を掛けると、嘉恵の水晶のような目がきらめいた。彼女は言葉は話せずとも人語は理解している。

買ってきたばかりの鮎をぶつ切りにして馳走すると、彼女は子猫のように「うみゃ、うみゃ」と鳴きながら鮎をたいらげた。

彼女は腹を満たして満足すると、毛づくろいをして勘左衛門の膝の上でくつろぐのだ。

硬いてのひらで猫の柔い毛並みを撫でた。勘左衛門の至福の時間だ。

袴が毛だらけになるがそんなことは後で後悔すれば良い。

「今日は畠山様に呼ばれてな。今、巷で噂になっている《神隠し》を調べて参れと命を受けた。全く…そんなもの武士の仕事ではないわ…」

膝に乗せた猫相手に愚痴をこぼした。

嘉恵は猫だ。どんな愚痴をこぼしても、外に漏れることはない。

腹に据えかねることがあれば、彼女にだけは弱音を吐けた。

嘉恵は相変わらず喉を鳴らしながら勘左衛門の話を聞いていた。

出会った頃はこんなものではなかった。

道場の裏に迷い込んだ三毛猫はげっそりと痩せて、ところどころ禿げて怪我もしていた。姿勢を低くして威嚇する姿はお世辞にも可愛いものではなかった。

その痩せた汚い猫を拾ったのは、勘左衛門の気まぐれだったが、彼は嘉恵を拾って良かったと思っていた。

彼女は元気になると恩返しとばかりに長屋の鼠や虫を捕まえて役に立った。特に彼女の鼠を捕まえる能力はずば抜けていて、日に二、三匹獲ってくることも珍しくなかった。

嘉恵は長屋の人気者で、彼女の働きに感謝した長屋の住人は親切に差し入れをくれるようになった。

人付き合いの苦手な勘左衛門だったが、猫がかすがいになり、少しだけ人付き合いができるようになっていた。

「《神隠し》なんぞ、坊主や陰陽師の仕事だろう?

俺は刀を持って振るうしか脳のない人間だぞ」

そんな愚痴をこぼすと、嘉恵は同意するように「なーん」と鳴いた。

「お前もそう思うか?」などと話をしていると、嘉恵が急に顔を上げた。

彼女の視線が土間の向こうの戸を捉えると、少し間を空けて戸を叩く音が聞こえた。

何事か、と嘉恵を抱えたまま勘左衛門が土間に降りると、扉の向こうから大家のしゃがれた声が聞こえてきた。

「勘さん。いるかい?ちょっと良いかね?」

“家賃なら払ったはずだ”と思いながら、つっかえ棒を外して戸を開けた。建付けの悪い戸がガタガタを音を立てて、大家の爺さんを招き入れた。

「勘さん。喜兵衛さんところの孝太を見とらんか?」

大家は挨拶もそこそこに慌てたように同じ長屋に住む子どもの名前を出した。

時間はすでに夕刻だ。少し前に時間を知らせる寺の鐘が鳴っていたし、日は落ち始め、赤と紫に染まった雲が空を延々と染め上げていた。

勘左衛門の脳裏に《神隠し》という単語がよぎった…

「…おらんのか?」と勘左衛門が返すと、大家の爺さんも同じ事を思ったのか表情を曇らせた。

“こいつは面倒になった…”と勘左衛門は胃の腑が重くなるような不快感を抱えた。

畠山様から調査を命じられたのに、同じ長屋に住む子どもが《神隠し》にあったとなれば非常にまずい。

その焦りが嘉恵に伝わったのか、彼女は慌てて勘左衛門の腕から逃げ出した。

「どこで見失ったんだ?」と詳しく訊ねると、青い顔をした大家は自分の知っている情報を教えてくれた。

寺子屋を終えて帰ってきた近所の子どもたちで集まって川遊びに行ったのだという。

孝太はまだ四つのチビだから周りの子どもたちも気をつけていたらしい。ひとしきり遊んで、帰る時にはみんなが孝太の姿を見ていた。ただ、長屋に帰り着いてからいつの間にか孝太の姿が失くなっていたらしい。

勝手に家に戻ったのかと思いきや、母親も見てないし、井戸端にもいない。

他の部屋にも声を掛け、嘉恵のところに来ているかもしれないと勘左衛門に声を掛けに来たようだ。

「わかった。俺も探す」と答えて、勘左衛門も外に出る用意をした。

刀と脇差しを差し、提灯を持って外に出た。

勘左衛門にあてなど無いが、とりあえず昼間子供らが遊びに行った川に向かうことにした。何かあって川原に戻っている可能性もある。

提灯の明かりで歩く勘左衛門の脇をなにか白いものが追い抜いて行った。

「嘉恵?」

道を塞ぐように現れた白地に黒と茶のぶち模様の猫は、彼の呼びかけに返事をするように「にゃぁ」と鳴いた。どうやら勘左衛門の後を付いてきてしまったようだ。

「付いてきても何も無いぞ」と言ってまた歩き出すと、嘉恵はトテトテと勘左衛門に付いてきた。

相手は気まぐれな猫だ。そのうち飽きて家に帰ると思っていたが、嘉恵の目は暗闇で光りながらずっと勘左衛門のそばを離れなかった。

時間は黄昏を過ぎ、辺りは足元が危なくなるくらい暗くなっていた。提灯の明かりだけが頼りで、本当にこの先に子どもがいるのか疑わしい。

暗くて視界が狭いせいだろうか?どうも、いつもより川に向かう道が遠く感じられる。

不思議がりながら歩く勘左衛門の前の草むらが、不自然にガサガサと音を立てた。

草むらが動いた次の瞬間、勘左衛門の後ろを付いてきていた嘉恵が「かー!」と鳴いて草むらに向かって駆け出した。

「お、おい、嘉恵」

勘左衛門が嘉恵を呼び止めたが、三毛猫は草むらに姿を消した。

草むらを覗き込んだ勘左衛門の耳に、草むらの奥から「ギィギィ」という何かの悲鳴と、「ゔー」という猫の唸る声だけが聞こえてくる。

こんなところで見失って、万が一、嘉恵が帰ってこれなくなったら困る。すぐに連れ戻そうと勘左衛門も脇道の草むらに足を踏み入れた。

「嘉恵!戻って来い!嘉恵!」

愛猫を呼ぶが、嘉恵が戻って来る様子はない。それどころか声は更に遠ざかっていくように感じられた。

争うような声は聞こえるのに、伸びた草のせいで猫の姿は見えない。提灯の明かりを高く掲げて、ガサガサと揺れる草を頼りに嘉恵の後を追った。
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