大賢者様の聖図書館

櫻井綾

文字の大きさ
上 下
123 / 172
第2章 古き魔術と真夏の夜蝶

120.優しい味の朝食を

しおりを挟む

「……ど、どうしよう……」

 あんなことがあった、翌朝。
 いつもと同じ時間にアルトに起こされたまではよかったのだけど、私は鏡台の前から動けずにいた。
 鏡の中から情けない顔でこちらを見返しているのは、紛れもなく自分。
 その目元は、泣き腫らしてぱんぱんになっている。

「これじゃあ、下に行けない……」
「いいじゃねーか、別に。顔なんて誰も気にしないだろ」
「そんなこと、あるわけないでしょ!あああ……、絶対に何かあったって思われるよね……」

 実際、『何か』あった訳ではあるのだが。
 こんな泣き腫らした顔で食堂になんて行ったら、殿下やレグルさんからどうしたのか、と聞かれるに決まってる。
 ……焔さんだって食堂に来るだろうし。
 昨日、勢いであんなことを言ってしまった手前、もうどんな顔して会ったらいいものか、さっぱり分からない。
 あれは……うん、喧嘩したってことに、なる、よね……。
 胸に手を当ててみれば、まだ鈍く、心が痛みを訴える。
 一度だけそっと目を閉じて、深呼吸した。
 ――過ぎてしまったことは、言ってしまったものは、もう仕方ない。
 ひとまずは、と、部屋にあった洗顔用の水でハンカチを濡らして、目元を冷やしてみようとするけれど……。
 盛大に腫れ上がってしまった目元は、そう簡単に元に戻ってはくれない。
 どうしよう、どうしようと右往左往していると、呆れたように溜息をついたアルトが部屋を出て行って、数分ですぐ戻ってきた。

「もう、何処行ってたのよ裏切り者ー……。って」
「……あらあら」

 振り返ると、部屋の扉から顔を出している人物が目に入って、びくりと身体が固まる。
 そんな私に素知らぬふりで、アルトはとことこと部屋に入ってくると、つーんとそっぽを向いた。
 絶句する私とそっぽを向くアルトのちぐはぐな姿に、彼女は優しく笑みを浮かべ、肩を揺らした。

「猫さんが呼びに来たから、何かと思ったら……こういうことだったのね」
「レディ・オリビア……」

 アルトは、今の時間、本当なら食堂で朝食の準備をしているはずのレディ・オリビアを呼んで来てしまったらしい。

「ちょっと待っていてくださる?今、お湯と薬草を持ってくるわね」
「あ!あの……っ」
「いいのいいの。リリーさんは待っていて。ね?」

 止めようとする私をやんわりと制して、彼女はすぐにパタンと扉を閉めてしまった。
 朝は、色々と忙しいはずなのに。
 そんな彼女を自分の都合で呼びつけて、手間を掛けてしまうなんて。

「……アルト」

 低い声で責めるように名を呼ぶと、黒猫はそっぽ向いたまま、器用に肩を竦めてみせた。

「いつまでもそうやってたって、状況は悪くなるだけだろ」
「う……。そ、そうかもしれないけど。だからって、レディ・オリビアを呼ぶなんて……朝食の準備とか、忙しいはずなのに」
「後で騒ぎになったり、来て欲しくない人に部屋に来られるより、誰かに協力してもらったほうが楽だろ」
「それは……そうかも、しれないけどさぁ……」

 アルトの言う通り、もしも焔さんが部屋にまで来たりしたら、もう気まずいことこの上なくなる未来しか見えない。
 来るのが殿下かレグルさんだったとしても、昨夜のことを話すわけにはいかないし……。
 あああ……、と頭を抱えているうちに、扉がコンコンと控えめにノックされて、続いてするりとレディ・オリビアが部屋へ入ってきた。
 その手には、湯気の上がるたらいと、白いタオル。
 同時に、ふんわりと部屋中に、優しく清涼感のある良い香りが広がった。

「ここに置くわね。お湯に、腫れを鎮めてくれる薬草と、血行をよくする薬草を入れたから、これで目を温めて。水で冷やすより早く良くなるわ」

 話しながら、彼女は手ずからタオルを薬湯に浸して固く絞り、私へと差し出してくれた。
 受け取るとそれはじんわりと温かく、いい香りがする。

「あの……」
「さあ、私のことはいいから。ほら」

 立ち上がろうとしたけれど、肩に置かれた手でやんわりと制されて、彼女の手によってテキパキと目元にタオルを当てられた。
 じわ、と温かく、柔らかい感触が目元に染みこんでいく。

「女の子には色々あるもの、ね?泣くのも大切なことだけれど、泣くだけ泣いたら、しっかりと手当してあげないと」
「……すみません、お手数掛けてしまって」
「こういうときは、謝らなくていいのよ。何があったのかも聞かないわ。これは、私がしたくてしていることだから、気にしないで」
「そんな……だって、アルトが呼びに行ってしまいましたし。これから朝食でしょう?レディ・オリビアも大変なのに……」
「あら。元気な男の子たちなら、少しくらい待たせておけばいいのよ。今は貴女のことを大切にしなくちゃ」

 ちょっと大袈裟なくらいお茶目な声の調子に、ほんの少し、口元がほころんだ。

「……ありがとうございます」
「どういたしまして。大丈夫よ、今朝は少し早く目が覚めて、もう朝食もできあがっているから」

 温かい目元のタオルと同じように、彼女の言葉も温かく、心に沁みこんでくる。

「その様子だと、少し休んだほうが良いわよね。朝食は後で持ってくるから、自分の部屋に居て、ゆっくり目を温めているといいわ。あの子たちには、リリーさんは私のお手伝いをしてもらっている、ってことにしておいていいかしら?」
「そんな、ものすごく有り難いです、けど……さすがにそこまでご迷惑かけるわけには……」
「だーめ」

 慌てて立ち上がりタオルを取ると、ずっと目を閉じて温めていた影響で、視界がすごくぼやけている。
 慌てる私の両手が、温かな手にそっと握られたのがわかった。
 はっきりしない視界の中で、辛うじてわかる黒いドレスが正面に映る。
 私の両手を引いて再び椅子に腰掛けさせたレディ・オリビアは、私から優しく取り上げたタオルを再び薬湯に浸して絞って、そっと私の目元を覆った。

「私が迷惑だなんて思っていないから、いいのよ。猫さん、ちゃんとリリーさんを見ていてあげてくださいね」
「任せろ」

 真っ暗に戻った視界の外で、アルトの声がしたかと思うと、膝に温かいもふもふが飛び乗ってきて丸くなった。

「それじゃあリリーさん、また来ますから。ゆっくりしていらしてね」

 そう言葉が聞こえてすぐ、彼女の足音が遠ざかっていって、パタンと扉が閉まる音がした。
 ……取り敢えず、この顔で朝食を食べに行くことは回避できたらしい。

「ふうー……」

 大きく溜息を吐いて、椅子の背もたれに身体を預けて天井を仰いだ。
 膝の上にいるアルトが、ひょんと尾を振ってぺしりと膝を叩いてくる。

「とっても複雑な気持ちだけど。……ありがとう」

 彼女に迷惑を掛けてしまったのは、どうしても心苦しいままだけど……でも、思いつく限り、最良の人選だったとは思う。

「お前はもっと、自分を大切にしたほうがいい」

 どんな表情をしていたのかはわからないけれど、アルトのむすっとしたような声が、優しく胸に響いた。
 伸ばした手で撫でたアルトはもふもふで、そのさわり心地にゆったり癒やされていると、一時間ほどして、再び扉がノックされた。
 先ほどの言葉通りに朝食を持ってきてくれたレディ・オリビアから、今日の午前中はこのまま部屋で休んでいていいと言ってもらい、恐縮しながらも有り難くそうさせてもらうことにした。
 部屋にある簡素な丸テーブルには、今朝もとても美味しそうな朝食が並ぶ。
 朝と言うにはもう遅いから、ブランチ、と言ったところだろうか。
 みずみずしい野菜たっぷりのサンドイッチはふかふかで、温かなポタージュスープは、ほっと緊張を緩めてくれる。

「本当に、毎日美味しいです。ありがとうございます」

 向かいでにこにこと私の食事風景を見ていたレディ・オリビアは、飲みかけのティーカップを上品な仕草でソーサーに戻すと嬉しそうに微笑んだ。

「あらまぁ。こちらこそありがとう、リリーさん。そう言ってもらえて嬉しいわ」

 どうしてか、朝食を持ってきた彼女は紅茶を楽しみながら室内に留まっている。
 何となく聞くタイミングを逃して、そのまま食事を進めていると、何かを察したのか彼女がふふ、と笑い声を漏らした。

「お食事は、ひとりで食べるより誰かと一緒のほうが美味しくなるでしょう?だから、お邪魔じゃなければと思ったの」
「……そう、だったんですね。ありがとうございます」
「お邪魔じゃないかしら?」
「はい、居てもらったほうが嬉しいです。けど……あの、午前中のお仕事は?」
「ああ、いいのよ。今日は特に急ぎのものもないし、王子殿下も何かやることがあるって仰ってたから」
「そうですか……」

 用意された野菜ジュースを一口飲むと、口の中に爽やかな味がふわっと広がる。

「リリーさん」
「はい?」

 呼ばれて顔を上げると、無言のままじっとこちらを見つめたレディ・オリビアが、笑顔でうんうん、と満足そうに頷いた。

「よかった。腫れも綺麗に収まったわね」
「あ……はい、おかげさまで」

 どうやら、目元の腫れを確認されていたらしい。
 彼女の持ってきてくれた薬湯がものすごく良く効いてくれて、私の目元はすっきり元通りに戻っていた。

「そうそう、大賢者様が仰ってたわ。昼食が済んだら出掛ける準備をしておくように、だそうよ。確か、ロランディアのお屋敷に行くんだったわよね?」
「あ……」

 そうだった。
 あんなことがあって、すっかり忘れてしまっていたけれど……。
 今日はあの、ミモレの住む家――ロランディアの領主の屋敷、初代国王ザフィアの生家へ行く日だった。




しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

救世主になりたくないので、男のフリをしています。

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:15

【長編版】婚約破棄と言いますが、あなたとの婚約は解消済みです

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:710pt お気に入り:2,192

千姫物語~大坂の陣篇~

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:18

婚約破棄上等!私を愛さないあなたなんて要りません

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:184pt お気に入り:4,577

破滅した令嬢は時間が戻ったので、破滅しないよう動きます

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:1,486

誰もが人生という名の物語の作者

エッセイ・ノンフィクション / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:2

あなたの隣で初めての恋を知る

BL / 連載中 24h.ポイント:519pt お気に入り:235

処理中です...