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第2章 古き魔術と真夏の夜蝶
76.爽やかスコーンは夏の味
しおりを挟む帰りの馬車の中、リブラリカに到着するまでの間は本当に居心地が悪かった。
向かいに座った焔さんが、ずっとご機嫌でにこにこと嫌がるアルトを撫で回しているから、私はずっと顔を赤くしたまま窓の外を睨み付けていることしかできなかったのだ。
なんだか無性に恥ずかしいのはなんでなんだろう……!
無事に図書館へ戻ってきてからも、にこにこしっぱなしの焔さんの顔をまともに見ることができず。
馬車から降りる時手を借りた以外は、ずんずんと足早に最奥禁書領域へと歩いていくしかなかった。
途中食堂に寄って、軽食と紅茶をもらい焔さんの部屋へと帰ってくると、何となくほっとしたのか肩の力が抜けるのを感じた。
「やっと帰ってきたー。本当にお疲れ様、梨里さん」
部屋に入るや否や、ローブをばさりとそこら辺に脱ぎ捨て長椅子に腰掛ける焔さん。
私はといえば、貰ってきた軽食のスコーンと紅茶をテーブルに並べ、ローブを拾って定位置に片付けながらやれやれと溜息を吐いていた。
「はい、焔さんもお疲れ様です」
綺麗なローブの飾りが絡まないようにしつつ、上着掛けにローブを戻す。
ここで働くようになってから知ったことだけれど、こういうところは未だに子供っぽいんだから……。
ついでに傍らで崩れてしまっていた本の山を軽く直して、優雅に紅茶を飲む焔さんの向かいに腰掛ける。
今日のスコーンには、たっぷりのクリームと透き通るような橙色のジャムが添えてあって、爽やかな香りがしていた。
クリームをつけて一口囓る。
ふわっと甘過ぎないクリームが口の中で溶けて、さくりと崩れたスコーン生地からは酸味のある柑橘系の香りが広がる。
うん、すっごく美味しい。
程よい甘さに身体の疲れが癒やされていく幸せな感覚に、心がほぐれていく。
「さて」
そんな感覚を噛み締めていると、「そのまま聞いてね」と焔さんがティーカップを片手に口火を切った。
「今日の謁見の時の話はね、ロランディア村の図書館に視察に行くって話だったんだ」
「ロランディア村……ですか?」
何処かで聞いたことがあるような名前に、首を傾げる。
「うん、オルフィード国の辺境にある小さな村なんだけど、初代国王ザフィアの生まれ故郷なんだ」
「ああ、それで名前に聞き覚えがあったんですね。でも、なんで急に……?」
「実は、少し前にあの猪王子が、王城でザフィアの書いたらしい未発見の魔術書を見つけたんだけど……。その魔術書を読むために、封印やらなにやら色々あって、一度村まで行かないといけないんだ」
「なるほど……」
「僕にもまぁ、立場みたいなものがあるから、急にちょっと行くっていうのもできなくて。国王を通して、出張って形で先方に訪問の許可を取って貰ったんだ」
「出張、ってことは、何日か向こうにお出掛けなんですか?」
「うん、そうだね。魔術書についての調査で数日かかるかなって思ってる。移動には魔術使うから、リブラリカとの行き来には時間かからないと思うけど、もしかしたら向こうに入り浸ったりするかもしれない」
なるほど、そういう経緯があって、あの呼び出しだったのか。
でも出張……か。
それなら色々と準備をしないと。
「お話はわかりました。ええと、いつから向こうに?私は早めに出発したほうがいいんでしょうか?」
「え?」
「……え?」
突然、きょとんとした焔さんが驚いたように目を見張るから、私も首を傾げてしまう。
何か変なことでも言っただろうか。
「あ、いや……梨里さん、一緒に来てくれるの?」
「へ、私お留守番ですか?」
すっかり一緒に出張に行くつもりでいたのだが、もしかして私だけ置いて行かれるのだろうか。
「ああ、えっと、うーん……一緒に来てくれるっていうなら本当に嬉しいんだけど。残りたいならリブラリカでいつも通り過ごしてくれててもいいんだよ?」
「焔さんの秘書だから、一緒に行くものだと思ってました。……私がついていったら、お邪魔ですか?」
残っていて欲しいって言われたら、それはそれでちょっとショックな気もするけれど……。
ちらり、と焔さんの様子を窺えば、ぶんぶんと勢いよく頭を振っていた。
「邪魔なんてとんでもない!……むしろ、知らない世界で出張に連れていくなんて、申し訳なくて……。でも、僕が一緒に来てほしいからって勝手に決めるのはよくないなと……」
「確かにちょっと不安ではありますが、問題がないなら連れて行ってもらえませんか?魔術書の調査、となると、私じゃ役に立たないかもしれませんけど……」
焔さんは再びぶんぶんと頭を振って、テーブル越しに身を乗り出すと私の手をぎゅっと握った。
その少しだけ低い体温に、どきっとする。
「大丈夫。梨里さんが一緒に来てくれるだけで、僕、頑張れるから」
真剣な表情でそんなことを言うのは、反則だ。
「え、と。……それなら、いいんですけど」
きっと赤くなっているだろう顔を見られたくなくて、そっと反らしながらもごもごと返事をするので精一杯だった。
焔さんは満足したようにあっさり私の手を放すと、椅子に座り直して機嫌よくスコーンを頬張った。
「よかった、梨里さんも来てくれるなら、本当に頑張れそう。……あ、そうそう。梨里さんはいつも通りの時間に出勤してくれれば大丈夫だよ。ロランディア村へ繋げる扉用意するから、移動のことは考えなくていいからね」
「あ、そうなんですね。わかりました」
「そうなると、準備であれが必要で……うん、2、3日ってところかな。猪王子は普通に向かうだろうから、そうするとあっちに着くのは……」
あっという間にスコーンを食べきった焔さんは、ぶつぶつと呟きながら作業机に向かって、何やら書き物を始めてしまう。
どぎまぎしてしまった胸をそっとなで下ろしながら、私はもうひとつスコーンを手に取って、クリームとジャムをたっぷり乗せて囓った。
甘くて爽やかな夏の香りが口いっぱいに広がる。
この夏、仕事とはいえ焔さんと出掛けられるということに、私は内心、呑気に楽しみだなあなんて浮かれた気持ちでいた。
――向かった先でどんな出来事が待ち受けているかなんて、この時はまだ、知るよしもなかったのだ。
その後、1週間ほどかけて、ロランディア村行きの出張の準備がされた。
焔さんはスケジュール調整のために机仕事にかかりきりになり、私は秘書らしく書類を運んだり本を探してきたりと忙しく過ごした。
焔さんと私が留守中の間、リブラリカのことは全面的にシャーロットに任せることになる。
いつもの午後のお茶の時間、焔さんも交えてお願いをした時には、シャーロットもオリバーも、こっちのことは任せてほしい、と頼もしい返事をくれた。
……しばらくの間、ふたりとのお茶の時間がお預けになってしまうことだけが、どうしても寂しいけれど……こればかりは仕方がない。
お土産話を沢山持ってくる、と約束すると、長引くようなら定期的に顔を見せて欲しいとシャーロットに涙目で縋られてしまった。
そんな慌ただしい準備期間が過ぎて、陸路でロランディア村に向かったライオット王子から、明日にも到着すると連絡が来たのを受けたのが本日。
連絡を受けた焔さんの一声で、ついに明日、初めて村へと訪れることが決まったのだった。
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