彼女の優しい理由

諏訪錦

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彼女の優しい嘘の理由 28

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 沙良は二度と振り返ることなく歩き去っていった。 
 最後に見せた満足そうな微笑みを、俺は忘れないだろう。    
 彼女が自首するのか、それともどこかに身を隠すのかはわからないが、俺の前に二度と現れないというのなら、学校も辞めるつもりなのだろう。もはや俺が気にかけることではない。
 いつまでも懐中電灯の灯りを見ているわけにもいかず、自らを叱咤激励するみたいに頬をぱんぱんと叩いて、俺は立ち上がった。
 いまは無性に人の温もりが恋しくて、俺は街を彷徨い歩いた。とは言っても、向かう場所は初めから一箇所しかなかった。
 借り受けた本と写真を片手に、息を飲んでチャイムを鳴らした。借り物を返すという名目で、彩香の優しさに甘えようと考えたのだ。彼女ならきっと、傷付いた俺を受け入れてくれるだろうから。

 玄関が開いて、そこに立つ彩香の姿を見た瞬間、思わず涙が出そうになった。結局、俺には彩香しかいない。彼女もきっと同じ思いに違いない。そう確信を持って、場所も弁えずに彼女を腕の中に包み込んだ。
 俺の行動に初めは戸惑っていた彩香だったが、すぐに腕を背中に回して、あやすように言った。
「どうしたの。更級さんと、なにかあった?」
 その優しい声音に絆され、気が付くと、俺は沙良と決別を果たしたことを伝えていた。流石に事件の話は伏せたが、彩香はなんとなく並々ならない事情だと察したようだった。
「そっか。七季、更級さんと別れたんだ」
 耳元で、彩香がそう呟く声が聞こえた。
 やがて体を離すと、とても近い距離で彩香と目が合った。気恥ずかしくなりお互いに視線を外すと、この寒空の下で、彩香は顔を手で扇ぐ仕草をした。
「そ、それにしても」
 上擦った声で彩香は切り出した。
「私が貸した本、役に立ったみたいね」
 俺は首を傾げてから、そういえば体裁としては写真ではなく、本を借りたことになっているのだと思い出した。
「いまさら誤魔化さなくてもいいだろう。本を貸すふりして、写真を間に挟んでくれたこと、感謝してるよ。役に立った」
 彼女の顔を仰ぎ見ると、その瞳が困惑の色に曇った。
「確かに、貸してほしいってすごい剣幕で言うから、栞の代わりに挟んでおいたけど、あれが更級さんとどう関係するの? 七季は、写真の挟んであるページを見て、更級さんと別れる決心を固めたんじゃないの?」
 俺は思わず彩香の顔を凝視し、
「そんなの知らないぞ」
 と答えた。
 あまりに噛み合わない会話に、一度は返した本を再び彼女の手から奪い取った。読字障害を患ってから、俺は活字の本をめっきり読まなくなった。それを見越して、彩香は読ませたいページに栞代わりの写真を挟んだようだが、あのときの俺には他に考えるべきことが埋積していて、そんな余裕はなかった。
 一心不乱にページをめくってみたが、沙良と会ったときに写真を抜き取り、適当なページに挟み直してしまったため、いまではどこに挟まっていたのか思い出せない。
 見兼ねた様子で、彩香が身を乗り出してページを操った。
「ここよ」
 俺は言われるがまま視線を落した。
 長文だったら理解するのに時間がかかるな、と不安に思ったが、幸いそのページは短い詩のようなものが記載されているだけだ。
 文章を読み込んでいくと、鳥肌が立った。
「なんだよ……これ」
 彩香がなにかを説明していたが、ほとんど耳に入ってこなかった。それよりもいまは、聞かなければならないことがある。
「なあ、彩香。お前、中学時代からずっと惨殺魔を探していたんだよな。そのことで、誰かに相談に乗ってもらったりしなかったか?」
 質問の意図がわからなかったのか、顔を顰めた彩香は、声を低くして言った。
「どうして、そんなこと聞くのよ」
「悪い、いまはとにかく答えてくれ」
 俺の不躾な物言いに、不服そうではあったが彩香は答えた。
「ええ、相談に乗ってもらったわ。同じ高校の笹田先輩と、それから―――」
 彼女の言葉を聞き終える前に、俺は考え始めた。頭の中でくすぶったままになっていたいくつかの疑問に、辻褄が合っていく。
 そして答えを聞くと、急いで携帯電話を取り出した。
「いったい誰に電話するつもり?」
 彩香は不安げに眉根を下げた。けれど、俺は答えなかった。
 無機質な呼び出し音が続き、相手が電話に出るのを待つ。三度目のコールが始まるか否かというところで、相手は電話に出た。

「突然で悪いが、話があるんだ。明日、時間とれるか?」

 相手は、俺の語気の強さからなにかを感じ取ったのか、すぐに了承した。無理やり約束を取り付けると、すぐに通話を切って、それきり俺はなにも話そうとは思えなくなった。
 雨が降ってきて、俺たちは慌てて玄関先まで移動した。空は真っ暗で、しかも雲に隠れている所為か、月の光源もない。
予報ではにわか雨と言っていたが、空を見ていると不安になった。
「明日、晴れるかな?」
 俺は空虚な空を見上げながら、ボソッとそう呟いた。
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