彼女の優しい理由

諏訪錦

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彼女の優しい嘘の理由 27

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「……そういえば、どうして沙良の弟は、自殺したんだ?」
 正確に言葉が発せられたのか、自信がない。それでも、問わずにはいられなかった。
「そもそも、沙良の弟は、本当に自殺したのか?」
 沙良は答えようとしない。無機質な目を俺に向けてくるだけだ。
 確かに彼女は被害者だったかもしれない。
 江藤先生に弟が惨殺魔であることをネタに脅されて、もう殺害するほかに逃げ道がなかったくらい追い詰められていたのかもしれない。そこまでは俺も納得することができる。だがそれだけとは思えなかった。
「沙良、お前まさか弟のことも?」
 吹き抜ける冷気が小屋の中を走り、肌は総毛立った。
「弟は首を吊って死んでいたんだよな。確か、部屋の扉に紐を括りつけて首を吊っていたとか。それは、本当に自殺なのか?」
 すべての事件が一列に並ぶ。
 惨殺魔の正体、江藤先生の死、そして弟の死。
 沙良の存在を介することで、すべてが繋がってしまうのだ。
「答えたくないなら俺が勝手に話す。お前は惨殺魔に、いや、弟に殺人の手伝いをさせたんじゃないのか? そして、その弟すらも手にかけた」
 それは、およそ人間が思いつく中で最も劣悪な所業と言えた。
 俺の瞳には、もう沙良の姿が人間として映らなくなっていた。
 惨殺魔よりも恐ろしい、化け物がそこにはいた。
 平然と他者の命を切り捨てる魔物。
 そう、それは鬼だ。惨殺魔すら食い物にする、殺人鬼。
 沙良はあけすけに、くすくすと笑った。
「仕方なかったんですよ」
 それはあまりにもあっさりとした肯定で、俺は耳を疑った。
「どうしてだよ。実の弟だろう?」
 ようやく絞り出した言葉は、道徳を説くように無力だった。
 沙良は目を細めると、退屈そうに吐息を吐く。
「弟だからなんだって言うんです? 身内なんて言っても結局は他人じゃないですか。自分以外の人間はすべて他人なんですよ」
 そんな悲しい台詞を、俺は否定することができなかった。
 沙良の言っていることはある意味で正しいとも思う。家族は無条件で力になどなってくれない。けれど、沙良は泣いていたではないか。この場所で、弟が亡くなったと言って彼女は涙を流した。それすらも嘘だったというのか? 俺には、どうしてもそうは思えなかった。
「だったら聞き方を変える。どうして弟を殺す必要があった?」
 繰り返しの問答に、沙良は肩を竦めて、やれやれと面倒臭そうに言葉を放った。
「平良に生きていられたら、いろいろと都合が悪かったんです。あの子は頭が良い癖に、行動に整合性がありません。だから、いつボロを出すかわかったものじゃないんですよ。七季君も知ってますよね? 市内で連続して女子学生が足を切断されて亡くなった事件」
 先日、越中刑事から市内で起きた誘拐事件の話を聞いてから簡単に事件のことを調べてみた。誘拐された女子生徒は片足を切断され、そのときの外傷による出血で命を落としたそうだ。そして、それよりも以前に起きた別の事件、バレエコンクールでの女子学生の殺害、死体損壊により持ち去られた足が誘拐現場で見つかったことから、その部屋に暮らす無職の男性が二つの事件の犯人であると考えられている。犯人が断定されず、推測で報じられているのは、犯人と思われる無職の男も命を落としていたからだ。記事によると、無職の男を殺害した犯人は母親であろうと書かれていた。女子学生を誘拐し、殺害した息子の暴走を止めるため母親が息子を殺害し、後に自らも命を絶ったというのが事件の顛末だと世間的には思われている。
「その事件と沙良の弟になんの関係があるんだ?」
「関係ならあります。なぜなら、その事件も弟が起こした事件だからです。運良く証拠を隠すことができて、誘拐犯と殺人犯が同一人物として勘違いさせることができましたけど、それは運が味方しただけです。あのまま弟を野放しにはしておけなかったんですよ」
 沙良が言った言葉の意味を、俺は咀嚼して考えた。
 江藤先生の殺害に協力した弟がこの先また事件を起こし、警察に捕まった場合、捜査の手は更級一家にまで広がる恐れがある。
 惨殺魔は、長年町を騒がせたシリアル・キラーだ。同時期に町の中で殺人事件が起これば、それまで動物の命を奪うだけだった異常者がとうとう人の命にまで手を出したと考えるのが一般的だろう。
 つまり、沙良の弟が惨殺魔として逮捕されれば、殺害された江藤先生との接点も捜査対象になりかねないのだ。
 江藤先生は自宅アパートで亡くなっていたことから、通り魔ではなく、怨恨の線で捜査が進んでいると見てまず間違いない。だからこそ学校にも刑事が来ていたのだろう。
 惨殺魔が逮捕されたとして、捜査が進み江藤先生との間になんらかの接点がないか警察が調べると、そこに浮かび上がってくるのは、江藤先生の勤め先の高校に通う姉、つまり沙良の存在が浮上することになる。それまでずっと隠されていた沙良と江藤先生の接点が、弟、惨殺魔を介して浮き彫りになってしまうのだ。本格的に捜査の手が加われば、すべてが露見するのは時間の問題だろう。
「だから、殺したと言うのか?」
「そうですよ」
 沙良はあけすけに頷いて、
「私は、あの子を自殺に見せかけて殺すことにしました。前にも話しましたよね。部屋の扉に首を括りつけて死んでいたって。あれ、私が考えて実行したんですよ。ドアノブに括りつけた紐を平良の首に巻き付けて、マンガ本を数冊重ねた上に座らせます。あとは、隙間から部屋の外に抜け出して、力を入れて扉を閉めるだけで、体を支えていた本の山が崩れて首が絞まるんです。どうです、完璧な偽装でしょう?」
 確かに、理論としては理解できる。だが、紐を首に巻かれたり、ましてや首が絞まっている状況で、どうして沙良の弟は無抵抗を貫いたのだろう。その疑問だけが残った。もし可能性があるとすれば、
「ーーー睡眠薬、か?」
そう口にすると、沙良は大袈裟な所作で拍手した。
「すごい、どうしてわかったんですか? 弟が睡眠薬を医師から処方されているって」
 そのことか。あれは確か、沙良と奏子の三人で帰った日のことだ。
「奏子から聞いたんだよ。沙良の弟はノイローゼ気味で、夜は睡眠導入剤がないと眠れないって。つまり、日頃から薬を服用していたから、もし検死でもされて薬物反応が出たとしても、言い逃れが利くってわけだ。弟はノイローゼがひどくて睡眠導入剤を服用していましたって言えばいいわけだからな」
 薬の過剰摂取で酩酊状態の弟の首に紐を括るくらい、そう難しいことではない。沙良は、薬を利用して弟が自殺したように見せかけたのだ。
「その通りです。確かに平良はノイローゼと診断されていました。でも、弟の病気はそんなに甘いものではありません。だって、動物や人を殺して喜ぶ行為に確固たる意味も、ましてや悪意すら存在しないんですよ。あるのは、ただの興味本位だけなんです」
 そうして弟を狂っていると言った彼女自身が、俺にはなによりも狂っているように思えてならなかった。
 人を利用し、平気で殺人に手を染める女。そうまでして、沙良はなにを守りたかったのだろう。
「いままでは問題ありませんでした。命を奪うと言っても、被害が動物に限定されていましたから、警察が大掛かりに動くこともなかったですしね。だけど、平良は関係ない女性を二人も殺害し、江藤先生も殺したことで警察は敏感になっています。惨殺魔がとうとう人を殺し始めたと取り上げている雑誌もあったくらいですから、当然、警察もその線を視野に入れて捜査を始めるでしょう。そうなれば、次はきっと無事では済まない。いままでみたいに殺していたら、きっと足が付きます」
 沙良はいきなり渋面をつくったかと思うと、
「まったく。誰のお陰でいままでバレることなく殺せていたと思っているのかしら」
 そう言って舌打ちした。だが、俺と目が合うとすぐに不愉快な笑みを顔に貼り付けた。
「すべてを明らかにした御褒美に、七季君にはこれまでのことを特別に話してあげます。ホントに特別ですよ?」
 茶化す仕草が、いっそう彼女の猟奇さを際立たせて見せた。
「弟が初めて生き物を殺したのは、私が小学六年生で、あの子が五年生のときでした。同年代の子たちよりも抜きん出て頭が良かった弟は、先生たちからもチヤホヤされて、両親からは過度な期待をかけられていました。それでも弟は幸せに見えたんです。だけど、九八点を取って褒められていたことが、次第に、どうしてあと二点取れないのかと叱責されるようになる。行きたくもない塾に通わされるようになり、友達も離れていきました。平良はその頃から、虫を殺すことが生き甲斐になったんです」
 彼女は、まるで感情の機微を隠すように顔を背けた。
 あるいは、過去から目を背けるように顔を背けた。
「初めて虫よりも大きい生き物を殺したのは、皮肉にもこの場所でした。いまから四年くらい前だったと思います。確か、初めて弟が殺したのは、猫、だったかな?」
 俺は驚愕に目を剥いた。脳裏に、小さな手造りの墓標が浮かぶ。猫が殺された年、俺は中学一年生だった。工場の裏手には大きな森林や広場があって、子供たちが遊ぶにはうってつけの場所だ。俺と彩香がここでモモという猫を飼っていたように、大勢の子供たちがこの場所を遊び場にしていたのだ。まさかその中に、後に惨殺魔と呼ばれるようになる悪童が紛れていたとは、夢にも思わなかった。
「どうして、いままで弟が捕まらずに済んだかわかりますか?」
 沙良は自嘲気味に笑うと、「私が、監視からあと処理までしていたからですよ」と告げた。
「初めて弟が動物を殺した瞬間から、いままでずっと、弟が異常者だって知られるのが怖くて仕方なかったんです。だから、せめて平良の犯行だと発覚しないように、私が偽装してきたんです。見張りを買って出たのも、平良が心おきなく動物を殺せるようにするためでした。可能なかぎり発見されないように、死体に手を加えたのも私です。知ってますか? 血の臭いって結構キツイんですよ。だから、臭いを消すのが一苦労なんです」
 臭い、という言葉を聞いて、俺は脳裏にあることが浮かんだ。
 いままで何度か体を寄せたとき、沙良から香水の香りがすることがあった。いま思うと、その強い匂いは死臭を消すためのものだったのかもしれない。
「死んだばかりの屍骸って触ったことありますか? まだ温かいんですよ。だから土に埋めてしまっていいのか、不意にわからなくなるんです。特に、七季君との初めてのデートから戻ったあとは噴水広場のことが頭にありましたから、いつもより頭が混乱してました」
 覚えていますか? と沙良は小首を傾げた。
 やはりそうだ。彼女と初めて肉体を交わらせたとき、強い香水の香りがしていた。まさか、その直前まで動物殺しの片棒を担いでいたとは思いもしなかったが。
 そしてもう一日、香水の香りを漂わせていた夜がある。
 それはクリスマス・イブの夜だ。
 俺が、バイト先でやきもきしながら、到着の遅い彼女を待っていた日だ。そうでなければいいと強く願いながら、俺は聞いた。
「クリスマス・イブの日は、どうして遅れたんだ?」
「ああ、あの日ですか。あの日のことはよく覚えてますよ。部活動を休んで江藤先生の自宅アパートに向かったんです。学校が終わってから弟と落ち合って。もちろん殺害するためですよ。何度か連れ込まれていましたから、部屋の場所は知っていました。あの日、先生は仮病で学校を休んでいましたから、きっと部屋にいると思ってましたけど、案の定ドアが開いて、私の顔を見たときの先生の間抜けな表情ったらなくて、笑ってしまいそうでしたら」
 いつになく饒舌に語る沙良は、これまでの彼女が偽物であるみたいに思えた。
 もう喋らないでくれ。そう願っても、彼女は言葉を止めようとはしなかった。
「そのあとはもっと爽快でした。暴れる先生を弟と二人で抑え付けて、それまで何度もされてきた圧倒的な暴力を、私はようやくし返すことができたんです。死に際のあの顔を、藪坂君にも見せてあげたかったくらい」
 沙良の嗜虐的な笑みを見ていたくなくて、視線を逸らせた。
 あのクリスマス・イブの夜、俺たち二人は手を握って歩いた。
 なによりショックだったのは、その直前まで、沙良の手は江藤先生の首を締めていたということだ。人を殺した手で、俺の手を握ったのだ。
 これで、すべてわかった。この町で起きていた奇妙な事件も、なにもかも説明がつく。惨殺魔と殺人事件を繋ぐ糸は、更級沙良の存在であった。彼女は確かに被害者だった。弟の異常性に恐怖しながも、自らの生活を守るために、惨殺魔の手助けをするしかなかった。そして弟が惨殺魔だと知られてからは、江藤先生の言いなりになるしかなかった。疎ましく思っていたはずの弟を庇って、沙良は体を差し出したのだ。
 この期に及んで、俺はまだ甘いことを考えている。彼女はただ、弟を守りたかっただけなのではないか。
 沙良と過ごした二カ月が、足枷のように俺の心を繋ぎとめようとする。こんな凄惨な事件を起こしたのは、家族を守りたかったからなのだと、沙良を擁護したい気持ちが湧きあがってきた。
 だけど、仮に弟を助けたかったとして、その弟の命まで奪ってしまった時点で、彼女はもはや人間ではなくなってしまった。その虚ろな瞳を見て俺は悟った。もう沙良を救ってやることはできないのだと。
「これで終わりですね」
 沙良は手を打って場の空気を変えた。
「私は、もう取り返しがつきません。江藤先生を殺して、弟をこの手にかけてしまった時点で、被害者ではいられなくなったんです。だけどまあ、それでもこの二カ月はそれなりに楽しかったですよ。あなたとの恋愛ごっこ」
 俺は悔しさからか、涙があふれて止まらなかった。
 そんな俺の姿を見て、沙良は困ったように笑った。
 その表情は見慣れた彼女のもので、不思議と安心できた。
 そして、一歩近付いたかと思うと、俺の頬に手を近付けてから、触れる寸前のところで彼女は動きを止めた。
「ほら、また泣く。七季くんは、本当に泣き虫ですね」
 そう言いながら、眼前まで迫っていた手が、逡巡のすえに下ろされた。沙良の冷たい手の感触が、触れてもいないのに思い出される。
「だけど、そうやって素直に泣けるのって、すごいことだと思います。私みたいに、打算で泣くようになったら人間、終わりですからね。七季くんはそのままでいい―――って、こんなこと私に言われたくないですよね」
 その通りだった。むしろ、俺から沙良に言いたいことが、まだまだたくさんある。それなのに、涙が溢れて言葉にならなかった。口を開けば、惨めな嗚咽が漏れるばかりだ。
 いつまでも泣きやまない俺に、沙良は溜息を吐いて言った。
「私のことは忘れて下さい。もう、あなたの前に現れませんから」
「……沙良」
 その呼び掛けは、しっかりと彼女に届いただろうか。
 俺はそして、ふと考えた。彼女を名前で呼ぶようになって、どれくらい経っただろうと。それはついこの間のようで、ひどく昔にも感じられた。いつだって、その名前を呼ぶだけで胸が熱くなった。
 だけど、きっとこれが最後だ。
 彼女の名前をこうして呼ぶのは、これが最後。
 だからせめて最後は顔を上げて、彼女の姿をこの目に焼き付けた。
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