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彼女の優しい嘘の理由 15
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そして沙良を家に送り届け、自宅の玄関を抜けてリビングへと向かう。そこには、当然のごとく眠りこける鉄郎の姿があった。実にだらしない姿。寒さも厳しくなってきたというのに、相変わらず下着姿のままだ。風邪でもひかれたら迷惑なので、先週から炬燵を出しておいたのだが、この男は礼の一つも言わずに当たり前のように炬燵に入って眠っている。
相変わらず鉄郎を憎いと思う感情は消えないが、それでも俺にとって、恨むことが生きていく上で大きな要因ではなくなっていた。
誰からも必要とされなくなった鉄郎は、惨めな穴熊と同じ。穴倉に籠って一生そうしていればいいと、そう思った。
そして自室に戻ると、携帯電話が震えた。
沙良からの連絡かと思い浮足立って相手を確認すると、【枯井戸彩香】と液晶画面に名前が表示されていた。
加速度的に気持ちが沈み、電話に出るべきか、出ないべきか迷った。それは彼女に対してうしろ暗い思いがあったからだ。沙良と正式に付き合うことになったのは決して彩香に対する裏切り行為には当たらない。俺と彩香の関係は、発展しないまま終わったのだ。そう自分に言い聞かせても、もやもやした気持ちは消えないままだった。戸惑いながらも、通話ボタンに指をかけ、そして力を込めた。
「おかえり、七季」
開口一番、彩香はそう言ってクスクス笑った。
「部屋の灯りが点いたから、電話してみたの」
一瞬なにを言われたのかわからなかった。近所とはいえ、彩香の家からこの部屋の灯りが見えるはずがない。
「お前、いまどこにいるんだ?」
「私のことはいいでしょう? それより、七季の方こそいままでどこでなにしてたの?」
彩香の声音がひどく沈んだのを聞き逃さなかった。悪いことをしたわけでもないのに、口の中がひどく渇いた。
「俺さ、バイト始めたんだよ」
「どうして?」
すげなく返され、言葉に困る。俺に彼女ができたことを彩香は知らない。だから、バイトを始めた本当の理由も言えるはずがなかった。
「どうしてって、そんなの金が欲しいからさ」
「ふーん、そうなんだ。まあ、別にいいけど」
取り敢えず納得してくれたようなので一安心だ。安堵とは裏腹に、彩香はいっそう声を低くして言った。
「ところで、あの女は誰?」
背筋を冷たい汗が伝うのを感じながら、俺は平静を装って言う。
「あの女って誰のことだよ?」
「どうして誤魔化すんだろう。わからないなぁ。だったらこう言えばいいのかな。あの女―――更級沙良っていうんでしょ?」
俺は思わず声を荒げていた。
「ど、どうして沙良のことを知っているんだ?」
「質問してるのは私なんだけど。更級沙良って女、七季のなんなの?」
答えられず押し黙ると、受話器の向こうから歯軋りの音が聞こえてくる。そして、癇癪でも起こしたように、「答えなさいよっ!」と彩香の怒号が飛んだ。
「ど、怒鳴るなよ」
「……じゃあ、答えて」
一応の落ち着きを取り戻した彩香は、俺の答えをジッと待った。
「沙良は―――」
その先を告げるには相当な覚悟がいった。俺自身が、彩香への思いを断ち切れずにいたからだ。だがそれでも沙良を選ぶと決めた。俺には彼女を守る責任がある。そう覚悟を決めると、言葉はすんなり口をついた。
「沙良は、俺の彼女だ」
すると、受話器の向こうで激しい物音が聞こえた。なにかが壊れるような、そんな音。かと思うと、少しして、ボソボソと呟くような声が聞こえてくる。
「ねえ、どうして………どうして、私じゃないの?」
あまりの衝撃に、俺は言葉を失った。
彩香のすすり泣く声が受話器の向こうから聞こえる。
こんな仕打ちはあんまりだと思った。彩香が俺に対して抱いているのは、同情と罪悪感だとばかり思っていた。だから、俺の想いを貫き通してしまっていいものなのか、ずっと悩んでいた。
猫が殺害され、酷く落ち込んでいた彩香を支えたのは俺だ。だから彼女は、大きな恩義を俺に抱いているようだった。そんな彩香に好意を押し付けるのは卑怯な気がして、これまでずっと躊躇っていたのだ。それが間違いだったというのか。
「七季、覚えてる? 私が前にデートに誘ったこと」
忘れられるわけがない。彩香から映画の誘いを受けたとき、俺は天にも昇る気持ちだったのだから。
「私の方から誘ったのに断っちゃったけど、あの日ね、本当は七季に告白しようって考えてたの」
携帯電話を握る手に力が籠った。彩香が口にする言葉の一つ一つが、あまりにも胸を痛めつける。
俺もあの日、同じことを考えていたが、口が裂けても、それだけは言えなかった。
彩香は空々しく笑って、半ば諦観のこもった口調で言った。
「〝あんな約束〟がなければ、この前だってデートに行けたのに」
「約束?」
「まさか、忘れてないよね? モモが死んで、私が塞ぎこんでいたとき、七季は傍にいてくれたじゃない。あのときのこと、忘れちゃったの?」
忘れてなどいない。猫の死によって塞ぎ込む彩香の姿を忘れられるはずがない。だけど、断片的な記憶の部分がある。言われてみれば、なにか約束をした記憶はあった。けれど、その日に交わされた約束の内容までは思い出せない。思い出そうとすればするほど、思考は坩堝に嵌って抜け出せなくなる。
約束とはいったいなんだったのか聞こうとしたが、「こんなのバカみたい……」と彩香は言って、通話を一方的に切ってしまった。
かけ直すことはもちろん可能だが、それをする勇気がどうしてもでなくて、俺は携帯電話を放った。こんなにも彩香を傷付けてしまった直後に、不躾な真似はできない。
そして、気が付くと朝日は昇っていた。結局一睡もできなかったというのに、眠気はまるでない。ほんの少しの頭痛はあるものの、概ねいつもと変わらなかった。
学校に着いても眠気は襲ってこない。それよりも考えなければならないことが山ほどある。昨夜、彩香が電話で言っていた約束とはいったいなんなのか。ヒントが隠れているとすれば、彩香との会話の中に必ずあるはずだ。着目すべきは、俺が約束を忘れているという話になった際、モモの名前があがったことだろう。つまり、猫の世話をしていた中学生の時分に交わされた約束と考えてまず間違いない。そして、そんなにも昔の約束をいまでも話題にするということは、かなり強い拘束力を持つ約束であることが想像できる。可愛がっていた猫が殺害された当時、非常に拘束力の強い約束を交わしたとすると、それはどんな内容が考えられるだろうか。
俺は熟考し、そして結論を得た。
そうか、彩香は惨殺魔を捕まえようとしているんだ。
授業も上の空で考え続け、気が付くと放課後になっていた。
康一郎たちと早々に別れて寒空の下を歩いた。バイトに行く前に済ませておかなければならない用事があったので、携帯電話を取り出し、着信履歴を開く。一番上にある【枯井戸彩香】の名前にカーソルを合わせて、決定ボタンを強く押しこんだ。
数回の呼び出し音が無機質に響く。電話に出てくれる保証などないが、掛けてみないことにはなにも始まらない。
駄目かと諦めかけたそのとき、呼び出し音は止まった。その代わりに息を呑むような呼吸音が聞こえてくる。
「彩香か? 俺だけど」
「わかってるわよ。それで?」
昨日のことを引きずっているのか、返ってくる言葉数が刺々しい。それでも、グッと腹の下に力を込めて、俺は話を切り出した。
「昨日話してた約束のことだけど、思い出したんだよ」
実際は思い出したのではなく想像を働かせただけなのだが、そんな些細な違いを言っている場合ではない。もし本当に彩香が犯人を探しているのだとしたら、これ以上危険な真似をさせるわけにはいかない。勘違いなら、それでいいのだ。
「モモを殺した犯人を、ずっと探しているんだろう?」
彩香は受話器の向こうで再び息を飲んだ。なにかを言おうとしてから、それを無理やりに我慢したときに感じが似ていた。
俺はさらに続ける。
「犯人探しなんて続けちゃ駄目だ。危険過ぎる」
「そんなことを言うためにわざわざ電話したの?だったら余計なお世話よ」
「そんな言い方ないだろう。俺はただ、危ないと思って」
「それが余計なお世話だって言ってるのよっ!」
彩香は、俺の言葉を遮るようにして言った。
「もう関係ないじゃない。放っておいてよ!」
携帯電話を握る手に力が籠る。彩香の言葉が心に刺さった。
「関係なくなんてない。彩香の身になにかあったら、俺は」
「心配する振りなんてしないで。私のこと、どうでもいいくせに」
「そんなことはない。俺は、彩香に傷ついてほしくないんだ!」
俺の心からの叫びを聞いて、電話の向こうで彼女がなにかを呟いた。それは徐々に大きくなり、慟哭のように俺の耳にも伝わった。
「いまさら、そんなの狡い。そんなこと言われたら諦めたくても諦められないよ!」
彼女の悲痛な声を、黙って聞き続けることしかできなかった。
「私は必ず犯人を見つける。すでに惨殺魔が動物を殺害する現場を写真に収めることができたの。あとは映っている人物が誰なのかを特定するだけよ」
「それ本当なのか? だったら早く警察に知らせた方がいい。そこから先は彩香が手を出すべきじゃない」
「警察なんかに任せていられないわ。だって警察は惨殺魔の事件に本気で取り組むつもりがないんだもの。人が殺されたわけじゃないからって本腰を入れる気がないのよ」
「だからって、町中を闇雲に探し回ったって犯人が見付かるわけじゃないだろう」
「犯人の身元を調べているのは私だけじゃないわ。信用できる人にもかなり前から協力してもらっているのよ」
「信用できる人?」
ええ、と彩香は答えた。
「誰だよ、それ?」
「七季に話す必要なんてない」
「心配なんだよ。写真の主を探すなら、俺も協力するから」
「どうして七季がそこまでするのよ。私の彼氏でもないくせに」
彩香は棘のある言い方をして、
「それとも、彼女よりも私が大切だとでも言うの?」
俺は言葉に窮した。だが、はっきりと言うべきだとも思う。こんなに一途に思ってくれている相手に、なあなあな態度を取り続けるのは、それこそ失礼に値する。決意を込めて言った。
「俺は彼女が、沙良がなによりも大切だ」
受話器の向こうで、歯がみするような声が聞こえた。
「どうして、私じゃ駄目なの。そんなに私には魅力がない?」
「それは違うよ」
本当は言うべきではないとわかっていた。けれど、彩香の言葉があまりにも悲痛で、言わずにはいられなかった。
「俺は、彩香のことが本当に好きだった。いや、いまだって好意を抱いている。それでも俺は、沙良を裏切るわけにはいかない。彼女のことが大切っていうのももちろんある。だけど、それだけじゃなくて、俺には彼女を守る責任があるんだ」
話している内に目頭が熱くなってくる。これは過去との決別だ。長年想いを寄せていた相手に対し、完全な離別を込めて言った。
「沙良は、俺の子供を妊娠しているんだよ」
電話の向こうで、彩香が絶句したのがわかった。
俺は一方的に、「言いたかったのは、それだけだから」と早口で伝え、通話を切った。逃げ出したいという想いが、言動に現れてしまったのかもしれない。
彩香への電話が意味を成したのかはわからないが、取り敢えず惨殺魔探しを控えるように提言できたので、いまはよしとしよう。
相変わらず鉄郎を憎いと思う感情は消えないが、それでも俺にとって、恨むことが生きていく上で大きな要因ではなくなっていた。
誰からも必要とされなくなった鉄郎は、惨めな穴熊と同じ。穴倉に籠って一生そうしていればいいと、そう思った。
そして自室に戻ると、携帯電話が震えた。
沙良からの連絡かと思い浮足立って相手を確認すると、【枯井戸彩香】と液晶画面に名前が表示されていた。
加速度的に気持ちが沈み、電話に出るべきか、出ないべきか迷った。それは彼女に対してうしろ暗い思いがあったからだ。沙良と正式に付き合うことになったのは決して彩香に対する裏切り行為には当たらない。俺と彩香の関係は、発展しないまま終わったのだ。そう自分に言い聞かせても、もやもやした気持ちは消えないままだった。戸惑いながらも、通話ボタンに指をかけ、そして力を込めた。
「おかえり、七季」
開口一番、彩香はそう言ってクスクス笑った。
「部屋の灯りが点いたから、電話してみたの」
一瞬なにを言われたのかわからなかった。近所とはいえ、彩香の家からこの部屋の灯りが見えるはずがない。
「お前、いまどこにいるんだ?」
「私のことはいいでしょう? それより、七季の方こそいままでどこでなにしてたの?」
彩香の声音がひどく沈んだのを聞き逃さなかった。悪いことをしたわけでもないのに、口の中がひどく渇いた。
「俺さ、バイト始めたんだよ」
「どうして?」
すげなく返され、言葉に困る。俺に彼女ができたことを彩香は知らない。だから、バイトを始めた本当の理由も言えるはずがなかった。
「どうしてって、そんなの金が欲しいからさ」
「ふーん、そうなんだ。まあ、別にいいけど」
取り敢えず納得してくれたようなので一安心だ。安堵とは裏腹に、彩香はいっそう声を低くして言った。
「ところで、あの女は誰?」
背筋を冷たい汗が伝うのを感じながら、俺は平静を装って言う。
「あの女って誰のことだよ?」
「どうして誤魔化すんだろう。わからないなぁ。だったらこう言えばいいのかな。あの女―――更級沙良っていうんでしょ?」
俺は思わず声を荒げていた。
「ど、どうして沙良のことを知っているんだ?」
「質問してるのは私なんだけど。更級沙良って女、七季のなんなの?」
答えられず押し黙ると、受話器の向こうから歯軋りの音が聞こえてくる。そして、癇癪でも起こしたように、「答えなさいよっ!」と彩香の怒号が飛んだ。
「ど、怒鳴るなよ」
「……じゃあ、答えて」
一応の落ち着きを取り戻した彩香は、俺の答えをジッと待った。
「沙良は―――」
その先を告げるには相当な覚悟がいった。俺自身が、彩香への思いを断ち切れずにいたからだ。だがそれでも沙良を選ぶと決めた。俺には彼女を守る責任がある。そう覚悟を決めると、言葉はすんなり口をついた。
「沙良は、俺の彼女だ」
すると、受話器の向こうで激しい物音が聞こえた。なにかが壊れるような、そんな音。かと思うと、少しして、ボソボソと呟くような声が聞こえてくる。
「ねえ、どうして………どうして、私じゃないの?」
あまりの衝撃に、俺は言葉を失った。
彩香のすすり泣く声が受話器の向こうから聞こえる。
こんな仕打ちはあんまりだと思った。彩香が俺に対して抱いているのは、同情と罪悪感だとばかり思っていた。だから、俺の想いを貫き通してしまっていいものなのか、ずっと悩んでいた。
猫が殺害され、酷く落ち込んでいた彩香を支えたのは俺だ。だから彼女は、大きな恩義を俺に抱いているようだった。そんな彩香に好意を押し付けるのは卑怯な気がして、これまでずっと躊躇っていたのだ。それが間違いだったというのか。
「七季、覚えてる? 私が前にデートに誘ったこと」
忘れられるわけがない。彩香から映画の誘いを受けたとき、俺は天にも昇る気持ちだったのだから。
「私の方から誘ったのに断っちゃったけど、あの日ね、本当は七季に告白しようって考えてたの」
携帯電話を握る手に力が籠った。彩香が口にする言葉の一つ一つが、あまりにも胸を痛めつける。
俺もあの日、同じことを考えていたが、口が裂けても、それだけは言えなかった。
彩香は空々しく笑って、半ば諦観のこもった口調で言った。
「〝あんな約束〟がなければ、この前だってデートに行けたのに」
「約束?」
「まさか、忘れてないよね? モモが死んで、私が塞ぎこんでいたとき、七季は傍にいてくれたじゃない。あのときのこと、忘れちゃったの?」
忘れてなどいない。猫の死によって塞ぎ込む彩香の姿を忘れられるはずがない。だけど、断片的な記憶の部分がある。言われてみれば、なにか約束をした記憶はあった。けれど、その日に交わされた約束の内容までは思い出せない。思い出そうとすればするほど、思考は坩堝に嵌って抜け出せなくなる。
約束とはいったいなんだったのか聞こうとしたが、「こんなのバカみたい……」と彩香は言って、通話を一方的に切ってしまった。
かけ直すことはもちろん可能だが、それをする勇気がどうしてもでなくて、俺は携帯電話を放った。こんなにも彩香を傷付けてしまった直後に、不躾な真似はできない。
そして、気が付くと朝日は昇っていた。結局一睡もできなかったというのに、眠気はまるでない。ほんの少しの頭痛はあるものの、概ねいつもと変わらなかった。
学校に着いても眠気は襲ってこない。それよりも考えなければならないことが山ほどある。昨夜、彩香が電話で言っていた約束とはいったいなんなのか。ヒントが隠れているとすれば、彩香との会話の中に必ずあるはずだ。着目すべきは、俺が約束を忘れているという話になった際、モモの名前があがったことだろう。つまり、猫の世話をしていた中学生の時分に交わされた約束と考えてまず間違いない。そして、そんなにも昔の約束をいまでも話題にするということは、かなり強い拘束力を持つ約束であることが想像できる。可愛がっていた猫が殺害された当時、非常に拘束力の強い約束を交わしたとすると、それはどんな内容が考えられるだろうか。
俺は熟考し、そして結論を得た。
そうか、彩香は惨殺魔を捕まえようとしているんだ。
授業も上の空で考え続け、気が付くと放課後になっていた。
康一郎たちと早々に別れて寒空の下を歩いた。バイトに行く前に済ませておかなければならない用事があったので、携帯電話を取り出し、着信履歴を開く。一番上にある【枯井戸彩香】の名前にカーソルを合わせて、決定ボタンを強く押しこんだ。
数回の呼び出し音が無機質に響く。電話に出てくれる保証などないが、掛けてみないことにはなにも始まらない。
駄目かと諦めかけたそのとき、呼び出し音は止まった。その代わりに息を呑むような呼吸音が聞こえてくる。
「彩香か? 俺だけど」
「わかってるわよ。それで?」
昨日のことを引きずっているのか、返ってくる言葉数が刺々しい。それでも、グッと腹の下に力を込めて、俺は話を切り出した。
「昨日話してた約束のことだけど、思い出したんだよ」
実際は思い出したのではなく想像を働かせただけなのだが、そんな些細な違いを言っている場合ではない。もし本当に彩香が犯人を探しているのだとしたら、これ以上危険な真似をさせるわけにはいかない。勘違いなら、それでいいのだ。
「モモを殺した犯人を、ずっと探しているんだろう?」
彩香は受話器の向こうで再び息を飲んだ。なにかを言おうとしてから、それを無理やりに我慢したときに感じが似ていた。
俺はさらに続ける。
「犯人探しなんて続けちゃ駄目だ。危険過ぎる」
「そんなことを言うためにわざわざ電話したの?だったら余計なお世話よ」
「そんな言い方ないだろう。俺はただ、危ないと思って」
「それが余計なお世話だって言ってるのよっ!」
彩香は、俺の言葉を遮るようにして言った。
「もう関係ないじゃない。放っておいてよ!」
携帯電話を握る手に力が籠る。彩香の言葉が心に刺さった。
「関係なくなんてない。彩香の身になにかあったら、俺は」
「心配する振りなんてしないで。私のこと、どうでもいいくせに」
「そんなことはない。俺は、彩香に傷ついてほしくないんだ!」
俺の心からの叫びを聞いて、電話の向こうで彼女がなにかを呟いた。それは徐々に大きくなり、慟哭のように俺の耳にも伝わった。
「いまさら、そんなの狡い。そんなこと言われたら諦めたくても諦められないよ!」
彼女の悲痛な声を、黙って聞き続けることしかできなかった。
「私は必ず犯人を見つける。すでに惨殺魔が動物を殺害する現場を写真に収めることができたの。あとは映っている人物が誰なのかを特定するだけよ」
「それ本当なのか? だったら早く警察に知らせた方がいい。そこから先は彩香が手を出すべきじゃない」
「警察なんかに任せていられないわ。だって警察は惨殺魔の事件に本気で取り組むつもりがないんだもの。人が殺されたわけじゃないからって本腰を入れる気がないのよ」
「だからって、町中を闇雲に探し回ったって犯人が見付かるわけじゃないだろう」
「犯人の身元を調べているのは私だけじゃないわ。信用できる人にもかなり前から協力してもらっているのよ」
「信用できる人?」
ええ、と彩香は答えた。
「誰だよ、それ?」
「七季に話す必要なんてない」
「心配なんだよ。写真の主を探すなら、俺も協力するから」
「どうして七季がそこまでするのよ。私の彼氏でもないくせに」
彩香は棘のある言い方をして、
「それとも、彼女よりも私が大切だとでも言うの?」
俺は言葉に窮した。だが、はっきりと言うべきだとも思う。こんなに一途に思ってくれている相手に、なあなあな態度を取り続けるのは、それこそ失礼に値する。決意を込めて言った。
「俺は彼女が、沙良がなによりも大切だ」
受話器の向こうで、歯がみするような声が聞こえた。
「どうして、私じゃ駄目なの。そんなに私には魅力がない?」
「それは違うよ」
本当は言うべきではないとわかっていた。けれど、彩香の言葉があまりにも悲痛で、言わずにはいられなかった。
「俺は、彩香のことが本当に好きだった。いや、いまだって好意を抱いている。それでも俺は、沙良を裏切るわけにはいかない。彼女のことが大切っていうのももちろんある。だけど、それだけじゃなくて、俺には彼女を守る責任があるんだ」
話している内に目頭が熱くなってくる。これは過去との決別だ。長年想いを寄せていた相手に対し、完全な離別を込めて言った。
「沙良は、俺の子供を妊娠しているんだよ」
電話の向こうで、彩香が絶句したのがわかった。
俺は一方的に、「言いたかったのは、それだけだから」と早口で伝え、通話を切った。逃げ出したいという想いが、言動に現れてしまったのかもしれない。
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