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15 国王ジェロイの策
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虫も寝静まった夜だというのに、王都のとある賭場は未だ人々の声が途絶えなかった。
カードを切る音、コインが移動する音、歓声、落胆、噂話。昼では憚られる話題も、ここでは酒の肴になる。流行のドレスや燕尾服、高価な装飾品でこの身を着飾り、ただし顔だけは仮面で隠して。ありあまる財産を持つ上流階級の客たちは、存分に夜の享楽に耽っていた。
そんな状態の彼らだが、超えてはならぬ線を見極め、禁域に踏み入れない程度の理性は残っている。
その証拠に、奥のテーブル、中年の男三人と、若い見目の良い女一人が拙いゲームをしているというのに、周囲はその卓に参加するどころか、近づくことすらしなかった。
「あら、また最下位でございますわ! もう、皆さま少しは手加減してくださいまし。私だけ三連敗でございますのよ?」
「ははは。チェルシーが弱いだけよ。なに、その程度の小銭、また小遣いとしてお前にくれてやろう。そう機嫌を損ねるな。今回は私も負けてしまったがな」
「先程は陛下に――おっと、失礼。ジェロイ様に大勝ちされてしまいましたからねえ。多少は取り戻していきませんと」
「次負けたら、私は素寒貧になりそうですねえ。私もお小遣い期待しておきますよ、ジェロイ様」
貴族にとっても決して少なくはない額で買った負けたを楽しむ男女四人。蝶の仮面をつけた丸顔の男が、正面に座っている男に向かって手を揉んだ。
何を隠そう、その男こそが、この国の王、ジェロイである。
彼はシンプルな黒の仮面を身に着け、身分を隠して賭博に興じていた。上流階級の間で御用達なこの賭場は、国王が遊びに来ることでも有名だったのだ。
奥のテーブルは、ジェロイとその取り巻き専用の卓。常連も新規も関係なく、国王の周辺には近寄ってはいけない。どんないちゃもんを付けられるか知ったことではないからだ。関わり合いたくないなら遊び場を変えるか、彼らの存在を見て見ぬふりするかの二択。今日この場にいる客達は、後者を選択し、叶うのなら国王に取り入れようとしている者達である。
皆が神経質に機会を伺っている中、無遠慮に国王に近づくものが。その人物の正体に周囲がざわつくが、ジェロイは異変に気づかず、懇願してきた取り巻きの一人を鼻で笑った。
「たわけ。男に金をやる趣味はない。欲しかったら私好みの女でも連れてこんか」
「うふふ、私がいるのに浮気? 嫉妬しちゃいますわ」
「くははは、良い男というのは美女を何人も侍らせるものよ。その一人であることを光栄に思え、チェルシー」
ジェロイはそう言って、隣のチェルシーの腰を抱き寄せた。彼女はそのままジェロイの腕に抱き着き、露出している胸元をわざと身体に密着させる。
「仰る通りでございますわ。ジェロイ様に選ばれただけで、女として幸せですわ」
「では、彼の妻である私は、この世で一番幸福ということになるのかしら?」
突然の乱入者に、取り巻きの三人はぎくりと身を強張らせた。
即座にチェルシーが顔を上げれば、声の主はジェロイと同年代ほどの女性であった。
仮面を付けても隠せぬ威厳と上品な立ち振る舞いに、髭を生やした男が恐々と彼女の名を呼ぶ。
「サ、サンドレア王妃……」
「『サンドレア』で十分よ。ここはそういった場でございましょう、バゲット伯爵?」
にこりと微笑む王妃に、伯爵は苦笑いして返答を濁す。席が足りないわね、と零す彼女に、丸顔の男が「こちらへどうぞ」と席を譲り、チェルシーは王の腕が緩んだ隙に逃げ出した。
「夜も更けたことですし、私達はこれで……」
「ええ。夫婦水入らず、引き続き楽しんでください。それでは」
取り巻き三人はそそくさとテーブルから去っていく。気を遣わせてしまったわね、とサンドレアがジェロイの対面に座った。国王は、王妃の登場に眉間に皺をよせ、拳を強く握った。
「こんなところまで何の用だ、サンドレア。得意の悲劇のヒロイン面をしにきたのか?」
「そんなことを仰らないで、ジェロイ様。私はただ、あなたに寄り添いたくて……」
「貴様に名を呼ぶ許可は与えていない。馴れ馴れしい、身を弁えろ」
ジェロイの声は存外賭場に響いた。聞き耳を立てている貴族達を気にして、サンドレアが夫を咎める。
「おやめください。私を嫌うのは構いませんが、横暴な言動は周囲に反感を与えます。レクティタの件もまだ揉めていらっしゃるのですから、ここはどうか、お気を確かに」
「――貴様。まさか、私に説教するために、ここへ来たというのか」
ジェロイはぎろりとサンドレアを睨んだ。そのような恐れ多いこと、とサンドレアは委縮して首を横に振るが、ジェロイは信じない。テーブルを強く叩き、怒声を浴びせる。
「もとはといえば、あの出来損ないを生かしたのは貴様の一存であろう! さっさと母子共々死なせておけばいいものを、余計な手を出しおって。敵対する議員共に餌を与えてどうするつもりだ」
第七特殊部隊への褒美にレクティタ――国王の隠し子で、まだ五歳の王女――を隊長として就任させた件は、政治に関与している貴族で知らぬ者はいない。
当然、レクティタを砦へ派遣させることは、議会で反対の声が上がった。倫理的にも人道的にも問題しかないため、普段は国王を支持している議員も難色を示したほどだ。
が、それでも国王の提案を通したのは、彼が所持している王国魔法の利権を享受しているため強く逆らえずにいるのと、第七部隊の活躍が大半の議員にとっても邪魔であり、利害が一致していたからである。
貴族達が特権を振るえるのは、ひとえに国王ジェロイが王国魔法を特別視しているおかげなのだ。
グラスター王国には、王国魔法以外の営利目的の使用、つまり平民の魔法の発明と商売を制限する法律が設けられている。魔法を使った商売は貴族達で独占しているのが現状だ。
先王はこの法を廃止しようとしたが、大半の議員から猛反発を受け、諦めざるを得なかった。正攻法で変更できないならば、と段階を踏み、医療と軍事目的のみ平民でも魔法で商売ができるようにした。その活動の一環で、魔法軍に平民や異国の魔法使いが入隊できるようになったというわけである。
医薬品と武器の製造の独占を禁止されたのは、それを商いとしていた貴族達にとっては手痛かった。実際、政策が施行されてまだ十年も経っていないというのに、すでに医療分野では有名な商会がいくつも台頭し、他国の武器を改良し販売して財を築き上げた商人も何人か輩出している。
成り上がりの商人と競合し、結果没落した貴族は決して他人事ではない。既存の商売への焦りに加え、背後の魔法軍からも平民の台頭である。これで武力や政権まで平民の手に握られてしまっては敵わない、と大半の議員はかの部隊を快く思っていなかった。
ゆえに、彼らも何とか部隊を解体、もしくは弱体化できないかと心の中では考えていた。
それでも、まだ五歳の娘を差し出すなどと、夢にも思わなかったのは、彼らだけではなく、王の妻、サンドレア王妃も同じである。
「陛下、声が大きいです。そのようなこと仰っては」
サンドレアが困ったようにジェロイを咎めれば、王は苛立ちを露わにした。
「まだ私に指図するか。ああ、頭が痛い。あの出来損ないのことも、邪道なあの連中も! さっさとあれが死ねば事が進むというのに」
「ジェロイ陛下! 自身の娘になんてことを仰るのですか!」
今度はサンドレアが大声を出した。慈悲深いと評判の王妃は、噂通りらしい。血の繋がっていない娘を案じて、仮面越しに涙を流しているではないか。
「可哀想に。母親を亡くして間もなく、軍人として砦へ出向させられるなんて。もうあの子がオルクスへ到着して半月。野蛮な部隊に供一人つけず放り投げられ、幼子一人で無事でいられるわけありません……ああ、どうしてこのような惨いことを……」
サンドレアは口元を手で覆い、ジェロイから顔を逸らし、俯いた。仮面の奥から見え隠れしている目は、彼を非難している。
ジェロイは彼女の態度にカッと顔を紅潮させ、テーブルに置いてあったワイングラスを手に取り――妻に向かって、中身を投げた。
パシャリ、と。
サンドレアの頭に飲みかけのワインが掛かった。
一部の客が短い悲鳴を上げる。王妃に対してとんでもない侮辱行為に、周囲の客が息を飲んだ。加害者である王は、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
「これで、貴様のその厚化粧も落ちるであろうよ」
サンドレアはゆっくりと王に向き直ると、仮面を取り、テーブルに置いた。
四十を過ぎてもなお美しいブロンドの髪はワインで汚れ、垂れる液体が彼女の首元を伝い、ドレスに赤紫のシミがじわじわと広げていく。
とても国王からとは思えない仕打ちに、サンドレアは目を細め、
「私は、常に素顔でございます」
と、微笑みを浮かべた。
「陛下のお気に障ったのなら謝罪します。ですが、ほんの少しだけでよいので、今日のことをどうか心に気に留めておいてください」
サンドレアは目を伏せ、胸の前で手を組んだ。
「私は、あの子に不幸が訪れないよう、ただただ神に祈るばかりです」
その光景はまるで祈りを告げる聖母の姿で、周囲の客はここが賭場ということを忘れ、教会にいるかのような錯覚を受けた。
王妃に対して同情的な視線が多く集まる中、ジェロイは舌打ちをし、席を立つ。
「興覚めだ。おい、馬車を用意しろ」
影で控えていた従者に声をかければ、もう既に帰りの準備ができていると返ってくる。
ジェロイはそのまま従者を引き連れて大股で賭場を去った。
馬車に乗るや否や、仮面を床に投げ捨て、従者を怒鳴りつけた。
「なぜあいつがここに来た! 知られるなとあれほど言ったであろう!!」
「申し訳ありません。今情報の出所を探っている最中です。明朝には報告を」
「いらん! 過ぎたことだ! それよりも、出来損ないの件だ。あいつはまだ死んでいないのか!?」
「……はい。そういった報告は、まだ上がっておりません」
「しぶとい奴め。おかげで、サンドレアが調子に乗っているではないか」
忌々しげにジェロイが言う。平民の魔法使いが目の上のたんこぶなのはもちろん、王妃サンドレアもまた、彼にとって面倒この上ない存在であった。
ジェロイの評判とは対照的に、サンドレアは世間から高評価な王妃であった。やれ慈悲深いやら聖母やらと崇められ、愚王と後ろ指を差されているジェロイとは正反対である。あいつは口だけで何もしていないというのに! とジェロイはサンドレアに対して嫉妬に近い感情を抱いていたのだ。
「神に祈ったところで何が変わるというのか。白々しい、腹黒女め」
と、一通りサンドレアの愚痴を零したところで、ジェロイは思い出した。
――あの子に、不幸が訪れないように。という、サンドレアの言葉を。
「ふん、たまには役に立つではないか。あの女も」
なんだ。単純な話ではないか。これで頭痛の原因の一つが、解消される。
先程とは打って変わって上機嫌になった主に、従者は怪訝な顔をした。
「いかがなさいましたか、ジェロイ陛下」
ジェロイは脚を組み、ニヤリと笑った。
「宮廷に戻ったら、影を呼べ。例の出来損ないについては、あいつらに処理させる」
勝手に死なないのなら、こちらから殺してしまえばいいのだ、と。
ジェロイは鼻歌を口ずさみながら、レクティタの暗殺計画を従者へ命じたのであった。
カードを切る音、コインが移動する音、歓声、落胆、噂話。昼では憚られる話題も、ここでは酒の肴になる。流行のドレスや燕尾服、高価な装飾品でこの身を着飾り、ただし顔だけは仮面で隠して。ありあまる財産を持つ上流階級の客たちは、存分に夜の享楽に耽っていた。
そんな状態の彼らだが、超えてはならぬ線を見極め、禁域に踏み入れない程度の理性は残っている。
その証拠に、奥のテーブル、中年の男三人と、若い見目の良い女一人が拙いゲームをしているというのに、周囲はその卓に参加するどころか、近づくことすらしなかった。
「あら、また最下位でございますわ! もう、皆さま少しは手加減してくださいまし。私だけ三連敗でございますのよ?」
「ははは。チェルシーが弱いだけよ。なに、その程度の小銭、また小遣いとしてお前にくれてやろう。そう機嫌を損ねるな。今回は私も負けてしまったがな」
「先程は陛下に――おっと、失礼。ジェロイ様に大勝ちされてしまいましたからねえ。多少は取り戻していきませんと」
「次負けたら、私は素寒貧になりそうですねえ。私もお小遣い期待しておきますよ、ジェロイ様」
貴族にとっても決して少なくはない額で買った負けたを楽しむ男女四人。蝶の仮面をつけた丸顔の男が、正面に座っている男に向かって手を揉んだ。
何を隠そう、その男こそが、この国の王、ジェロイである。
彼はシンプルな黒の仮面を身に着け、身分を隠して賭博に興じていた。上流階級の間で御用達なこの賭場は、国王が遊びに来ることでも有名だったのだ。
奥のテーブルは、ジェロイとその取り巻き専用の卓。常連も新規も関係なく、国王の周辺には近寄ってはいけない。どんないちゃもんを付けられるか知ったことではないからだ。関わり合いたくないなら遊び場を変えるか、彼らの存在を見て見ぬふりするかの二択。今日この場にいる客達は、後者を選択し、叶うのなら国王に取り入れようとしている者達である。
皆が神経質に機会を伺っている中、無遠慮に国王に近づくものが。その人物の正体に周囲がざわつくが、ジェロイは異変に気づかず、懇願してきた取り巻きの一人を鼻で笑った。
「たわけ。男に金をやる趣味はない。欲しかったら私好みの女でも連れてこんか」
「うふふ、私がいるのに浮気? 嫉妬しちゃいますわ」
「くははは、良い男というのは美女を何人も侍らせるものよ。その一人であることを光栄に思え、チェルシー」
ジェロイはそう言って、隣のチェルシーの腰を抱き寄せた。彼女はそのままジェロイの腕に抱き着き、露出している胸元をわざと身体に密着させる。
「仰る通りでございますわ。ジェロイ様に選ばれただけで、女として幸せですわ」
「では、彼の妻である私は、この世で一番幸福ということになるのかしら?」
突然の乱入者に、取り巻きの三人はぎくりと身を強張らせた。
即座にチェルシーが顔を上げれば、声の主はジェロイと同年代ほどの女性であった。
仮面を付けても隠せぬ威厳と上品な立ち振る舞いに、髭を生やした男が恐々と彼女の名を呼ぶ。
「サ、サンドレア王妃……」
「『サンドレア』で十分よ。ここはそういった場でございましょう、バゲット伯爵?」
にこりと微笑む王妃に、伯爵は苦笑いして返答を濁す。席が足りないわね、と零す彼女に、丸顔の男が「こちらへどうぞ」と席を譲り、チェルシーは王の腕が緩んだ隙に逃げ出した。
「夜も更けたことですし、私達はこれで……」
「ええ。夫婦水入らず、引き続き楽しんでください。それでは」
取り巻き三人はそそくさとテーブルから去っていく。気を遣わせてしまったわね、とサンドレアがジェロイの対面に座った。国王は、王妃の登場に眉間に皺をよせ、拳を強く握った。
「こんなところまで何の用だ、サンドレア。得意の悲劇のヒロイン面をしにきたのか?」
「そんなことを仰らないで、ジェロイ様。私はただ、あなたに寄り添いたくて……」
「貴様に名を呼ぶ許可は与えていない。馴れ馴れしい、身を弁えろ」
ジェロイの声は存外賭場に響いた。聞き耳を立てている貴族達を気にして、サンドレアが夫を咎める。
「おやめください。私を嫌うのは構いませんが、横暴な言動は周囲に反感を与えます。レクティタの件もまだ揉めていらっしゃるのですから、ここはどうか、お気を確かに」
「――貴様。まさか、私に説教するために、ここへ来たというのか」
ジェロイはぎろりとサンドレアを睨んだ。そのような恐れ多いこと、とサンドレアは委縮して首を横に振るが、ジェロイは信じない。テーブルを強く叩き、怒声を浴びせる。
「もとはといえば、あの出来損ないを生かしたのは貴様の一存であろう! さっさと母子共々死なせておけばいいものを、余計な手を出しおって。敵対する議員共に餌を与えてどうするつもりだ」
第七特殊部隊への褒美にレクティタ――国王の隠し子で、まだ五歳の王女――を隊長として就任させた件は、政治に関与している貴族で知らぬ者はいない。
当然、レクティタを砦へ派遣させることは、議会で反対の声が上がった。倫理的にも人道的にも問題しかないため、普段は国王を支持している議員も難色を示したほどだ。
が、それでも国王の提案を通したのは、彼が所持している王国魔法の利権を享受しているため強く逆らえずにいるのと、第七部隊の活躍が大半の議員にとっても邪魔であり、利害が一致していたからである。
貴族達が特権を振るえるのは、ひとえに国王ジェロイが王国魔法を特別視しているおかげなのだ。
グラスター王国には、王国魔法以外の営利目的の使用、つまり平民の魔法の発明と商売を制限する法律が設けられている。魔法を使った商売は貴族達で独占しているのが現状だ。
先王はこの法を廃止しようとしたが、大半の議員から猛反発を受け、諦めざるを得なかった。正攻法で変更できないならば、と段階を踏み、医療と軍事目的のみ平民でも魔法で商売ができるようにした。その活動の一環で、魔法軍に平民や異国の魔法使いが入隊できるようになったというわけである。
医薬品と武器の製造の独占を禁止されたのは、それを商いとしていた貴族達にとっては手痛かった。実際、政策が施行されてまだ十年も経っていないというのに、すでに医療分野では有名な商会がいくつも台頭し、他国の武器を改良し販売して財を築き上げた商人も何人か輩出している。
成り上がりの商人と競合し、結果没落した貴族は決して他人事ではない。既存の商売への焦りに加え、背後の魔法軍からも平民の台頭である。これで武力や政権まで平民の手に握られてしまっては敵わない、と大半の議員はかの部隊を快く思っていなかった。
ゆえに、彼らも何とか部隊を解体、もしくは弱体化できないかと心の中では考えていた。
それでも、まだ五歳の娘を差し出すなどと、夢にも思わなかったのは、彼らだけではなく、王の妻、サンドレア王妃も同じである。
「陛下、声が大きいです。そのようなこと仰っては」
サンドレアが困ったようにジェロイを咎めれば、王は苛立ちを露わにした。
「まだ私に指図するか。ああ、頭が痛い。あの出来損ないのことも、邪道なあの連中も! さっさとあれが死ねば事が進むというのに」
「ジェロイ陛下! 自身の娘になんてことを仰るのですか!」
今度はサンドレアが大声を出した。慈悲深いと評判の王妃は、噂通りらしい。血の繋がっていない娘を案じて、仮面越しに涙を流しているではないか。
「可哀想に。母親を亡くして間もなく、軍人として砦へ出向させられるなんて。もうあの子がオルクスへ到着して半月。野蛮な部隊に供一人つけず放り投げられ、幼子一人で無事でいられるわけありません……ああ、どうしてこのような惨いことを……」
サンドレアは口元を手で覆い、ジェロイから顔を逸らし、俯いた。仮面の奥から見え隠れしている目は、彼を非難している。
ジェロイは彼女の態度にカッと顔を紅潮させ、テーブルに置いてあったワイングラスを手に取り――妻に向かって、中身を投げた。
パシャリ、と。
サンドレアの頭に飲みかけのワインが掛かった。
一部の客が短い悲鳴を上げる。王妃に対してとんでもない侮辱行為に、周囲の客が息を飲んだ。加害者である王は、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
「これで、貴様のその厚化粧も落ちるであろうよ」
サンドレアはゆっくりと王に向き直ると、仮面を取り、テーブルに置いた。
四十を過ぎてもなお美しいブロンドの髪はワインで汚れ、垂れる液体が彼女の首元を伝い、ドレスに赤紫のシミがじわじわと広げていく。
とても国王からとは思えない仕打ちに、サンドレアは目を細め、
「私は、常に素顔でございます」
と、微笑みを浮かべた。
「陛下のお気に障ったのなら謝罪します。ですが、ほんの少しだけでよいので、今日のことをどうか心に気に留めておいてください」
サンドレアは目を伏せ、胸の前で手を組んだ。
「私は、あの子に不幸が訪れないよう、ただただ神に祈るばかりです」
その光景はまるで祈りを告げる聖母の姿で、周囲の客はここが賭場ということを忘れ、教会にいるかのような錯覚を受けた。
王妃に対して同情的な視線が多く集まる中、ジェロイは舌打ちをし、席を立つ。
「興覚めだ。おい、馬車を用意しろ」
影で控えていた従者に声をかければ、もう既に帰りの準備ができていると返ってくる。
ジェロイはそのまま従者を引き連れて大股で賭場を去った。
馬車に乗るや否や、仮面を床に投げ捨て、従者を怒鳴りつけた。
「なぜあいつがここに来た! 知られるなとあれほど言ったであろう!!」
「申し訳ありません。今情報の出所を探っている最中です。明朝には報告を」
「いらん! 過ぎたことだ! それよりも、出来損ないの件だ。あいつはまだ死んでいないのか!?」
「……はい。そういった報告は、まだ上がっておりません」
「しぶとい奴め。おかげで、サンドレアが調子に乗っているではないか」
忌々しげにジェロイが言う。平民の魔法使いが目の上のたんこぶなのはもちろん、王妃サンドレアもまた、彼にとって面倒この上ない存在であった。
ジェロイの評判とは対照的に、サンドレアは世間から高評価な王妃であった。やれ慈悲深いやら聖母やらと崇められ、愚王と後ろ指を差されているジェロイとは正反対である。あいつは口だけで何もしていないというのに! とジェロイはサンドレアに対して嫉妬に近い感情を抱いていたのだ。
「神に祈ったところで何が変わるというのか。白々しい、腹黒女め」
と、一通りサンドレアの愚痴を零したところで、ジェロイは思い出した。
――あの子に、不幸が訪れないように。という、サンドレアの言葉を。
「ふん、たまには役に立つではないか。あの女も」
なんだ。単純な話ではないか。これで頭痛の原因の一つが、解消される。
先程とは打って変わって上機嫌になった主に、従者は怪訝な顔をした。
「いかがなさいましたか、ジェロイ陛下」
ジェロイは脚を組み、ニヤリと笑った。
「宮廷に戻ったら、影を呼べ。例の出来損ないについては、あいつらに処理させる」
勝手に死なないのなら、こちらから殺してしまえばいいのだ、と。
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