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視線編
視線編 その3
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「あれは純な女でね。僕と結婚するまで恋すらロクにしたことがなかったらしいんだ。絵に描いたような箱入り娘さ。それこそ、嫌気が差すくらいに」
彼は奥方の話をする時、実に複雑な表情をした。忌々しいような、それでいて憐んでいるような。
「奥方はなんて名前だったかな?」
「ええと、たしか……なんだったかな」
「きぬえさんかえ?」
「そうだ!そうだ!きぬえだよ」
「おいおい。奥方の名前を忘れてたのか?流石にいい加減が過ぎるじゃないか」
「ふん。しばらく抱いていない女の名前は忘れてしまうのだよ」
小林某は悪態をついてみせたが、先生の目は鋭く、依然として彼を見据えていた。なにか、探っている時の目である。彼の奥底にある感情の絹糸を、指でくるくると絡め取りながら、慎重に手繰り寄せているのだ。
「ではその、名前もなかなか思い出せなかった女房どのに。キミは命を狙われているというのだな?」
「そうだ。間違いない」
「しかしおかしいじゃないか。キミ。いくら女房どのがお暇だとは言え、四六時中キミのそばに張り付いて殺気のこもった視線を注いでいるわけはなかろうよ。いささか説得力に欠けるな」
「そうか?」
「そうだとも。それが証拠に、何故いつもキミの居場所が分かる?何故いつ何時でもキミの行動が読めるんだ?そして何故姿を見せない?不可思議なことだらけだ」
「それは不思議でもなんでもないさ」
そういうと某はへらへらとうす気味の悪い笑顔を浮かべ始めた。邪悪で、奥底の知れぬ嫌な笑顔だった。
「どういうことだい?」
先生が訊ねると彼は先生の持っていた酒瓶を寄越せという手ぶりを見せた。酒瓶が彼の手に渡ると、それを一気に煽った。
「女房は死んだよ。少し前にね」
「なんと、それはお気の毒に」
「なに、気の毒なことないさ。せいせいしてるからね」
迷いのない、嘘のない口ぶりだった。その言葉が本気であることが伺える。
「ただ哀れというだけさ。アイツは哀れな女だった」
「病気かい?」
「いや。自殺だ。家で首をくくっていたんだ。僕の出かけている間に」
それが彼がこんな安アパートに身を寄せている理由だったのだ。
彼は妻のことを語る時もとくべつ瞳を潤ませるような素振りもなく、ただただ敷島をふかしては酒瓶を煽るだけであった。
悲しみなどを一寸もないという様子である。
「待てよキミ。女房どのは亡くなったのだろう。では、キミが感じている女房どのからの殺気というのは」
「怨霊さ。亡者の怨念だ。間違いない」
立派とは言いがたいものの、成熟した大人の口から大真面目に「怨霊」などという迷信じみた言葉が飛び出したので、なんだか普通よりも一層背筋が寒くなるような気がした。
「穏やかなじゃないな。怨霊とは」
「そうかな?だってその為にキミを呼んだんだぜ?何しろ、キミはそっちの方面に明るい探偵なんだろ?」
「まあ……ね」
怨霊という言葉が出た瞬間、先生が不適切な笑みを携えている気がしてならなかった。実際は笑っていない。しかし、この人ならあながち有り得ないこともない。先生は何しろこういうことが大そうお好きなのだ。
「じゃあ早速調べておくれよ。これじゃおちおち寝てもいられない。一人なら視線を感じないが、僕ぁどうにも。女の柔肌がないと眠れないんだ。そうなると途端に鋭く刺さってくるんだよ」
「ふむ。そうか。そういうことなら。おいお天」
「はい!?」
突然名を呼ばれたのであわを食ってしまった。先生が僕に名前を呼ぶ時はロクなことがない。
「ちょいと戻って調べものをしてくる。二日ほどかかるが、それまでここで友人の世話をしてやれ」
「はあ!?何故僕が!?」
「うってつけじゃないか。お前以外に適任はいない」
「どうして!」
僕の勘は残念ながら当たっていた。こんな不気味でおまけに不潔な部屋に見ず知らずの人と二日過ごせだなんて。正気じゃ言わない。
「おいおい待て待て」
見兼ねた某が割って入る。そりゃそうだろう。理解しかねる話だ。
「キミ、何も自分の愛人を当てがうことないだろ。それに、女の柔肌でないととは言ったがいささか幼過ぎるぜ」
そういうことじゃない。この男も大概だ。僕は大きなため息を吐いた。
「心配するな。お天なら大丈夫だ。コイツはこんな見てくれだが、中身は立派な男子だよ」
「嘘だろ……」
嘘であって欲しい。こんなひらひらの服を着させられて立派な男子とは。どうせなら女子扱いしてもらった方がいくらかマシだ。
某は品定めするような目で僕の顔を見ている。
「なるほど。もし仮にキミの連れがまこと男子なら、あるいは大丈夫かもしれない。男子なら怨霊の視線も及ばないだろうし、僕はこの、乙女に勝るとも劣らない柔肌で熟睡できる」
「言っただろう。お天以上の適任はいない」
「そんな」
身の毛もよだつ決定が僕の意思と無関係に下された。嘆くべきはこの霧ヶ峰煙十朗というとんでもない男についてきてしまった自分の愚かさである。
というわけで僕は先生が調べものをする間、この先ほど会ったばかりでかつ怨霊に狙われていると思い込んだおかしな男と二日間を共にすることになった。この薄汚れた不気味な六畳間で、である。
永い夜がはじまろうとしていた。
続く
彼は奥方の話をする時、実に複雑な表情をした。忌々しいような、それでいて憐んでいるような。
「奥方はなんて名前だったかな?」
「ええと、たしか……なんだったかな」
「きぬえさんかえ?」
「そうだ!そうだ!きぬえだよ」
「おいおい。奥方の名前を忘れてたのか?流石にいい加減が過ぎるじゃないか」
「ふん。しばらく抱いていない女の名前は忘れてしまうのだよ」
小林某は悪態をついてみせたが、先生の目は鋭く、依然として彼を見据えていた。なにか、探っている時の目である。彼の奥底にある感情の絹糸を、指でくるくると絡め取りながら、慎重に手繰り寄せているのだ。
「ではその、名前もなかなか思い出せなかった女房どのに。キミは命を狙われているというのだな?」
「そうだ。間違いない」
「しかしおかしいじゃないか。キミ。いくら女房どのがお暇だとは言え、四六時中キミのそばに張り付いて殺気のこもった視線を注いでいるわけはなかろうよ。いささか説得力に欠けるな」
「そうか?」
「そうだとも。それが証拠に、何故いつもキミの居場所が分かる?何故いつ何時でもキミの行動が読めるんだ?そして何故姿を見せない?不可思議なことだらけだ」
「それは不思議でもなんでもないさ」
そういうと某はへらへらとうす気味の悪い笑顔を浮かべ始めた。邪悪で、奥底の知れぬ嫌な笑顔だった。
「どういうことだい?」
先生が訊ねると彼は先生の持っていた酒瓶を寄越せという手ぶりを見せた。酒瓶が彼の手に渡ると、それを一気に煽った。
「女房は死んだよ。少し前にね」
「なんと、それはお気の毒に」
「なに、気の毒なことないさ。せいせいしてるからね」
迷いのない、嘘のない口ぶりだった。その言葉が本気であることが伺える。
「ただ哀れというだけさ。アイツは哀れな女だった」
「病気かい?」
「いや。自殺だ。家で首をくくっていたんだ。僕の出かけている間に」
それが彼がこんな安アパートに身を寄せている理由だったのだ。
彼は妻のことを語る時もとくべつ瞳を潤ませるような素振りもなく、ただただ敷島をふかしては酒瓶を煽るだけであった。
悲しみなどを一寸もないという様子である。
「待てよキミ。女房どのは亡くなったのだろう。では、キミが感じている女房どのからの殺気というのは」
「怨霊さ。亡者の怨念だ。間違いない」
立派とは言いがたいものの、成熟した大人の口から大真面目に「怨霊」などという迷信じみた言葉が飛び出したので、なんだか普通よりも一層背筋が寒くなるような気がした。
「穏やかなじゃないな。怨霊とは」
「そうかな?だってその為にキミを呼んだんだぜ?何しろ、キミはそっちの方面に明るい探偵なんだろ?」
「まあ……ね」
怨霊という言葉が出た瞬間、先生が不適切な笑みを携えている気がしてならなかった。実際は笑っていない。しかし、この人ならあながち有り得ないこともない。先生は何しろこういうことが大そうお好きなのだ。
「じゃあ早速調べておくれよ。これじゃおちおち寝てもいられない。一人なら視線を感じないが、僕ぁどうにも。女の柔肌がないと眠れないんだ。そうなると途端に鋭く刺さってくるんだよ」
「ふむ。そうか。そういうことなら。おいお天」
「はい!?」
突然名を呼ばれたのであわを食ってしまった。先生が僕に名前を呼ぶ時はロクなことがない。
「ちょいと戻って調べものをしてくる。二日ほどかかるが、それまでここで友人の世話をしてやれ」
「はあ!?何故僕が!?」
「うってつけじゃないか。お前以外に適任はいない」
「どうして!」
僕の勘は残念ながら当たっていた。こんな不気味でおまけに不潔な部屋に見ず知らずの人と二日過ごせだなんて。正気じゃ言わない。
「おいおい待て待て」
見兼ねた某が割って入る。そりゃそうだろう。理解しかねる話だ。
「キミ、何も自分の愛人を当てがうことないだろ。それに、女の柔肌でないととは言ったがいささか幼過ぎるぜ」
そういうことじゃない。この男も大概だ。僕は大きなため息を吐いた。
「心配するな。お天なら大丈夫だ。コイツはこんな見てくれだが、中身は立派な男子だよ」
「嘘だろ……」
嘘であって欲しい。こんなひらひらの服を着させられて立派な男子とは。どうせなら女子扱いしてもらった方がいくらかマシだ。
某は品定めするような目で僕の顔を見ている。
「なるほど。もし仮にキミの連れがまこと男子なら、あるいは大丈夫かもしれない。男子なら怨霊の視線も及ばないだろうし、僕はこの、乙女に勝るとも劣らない柔肌で熟睡できる」
「言っただろう。お天以上の適任はいない」
「そんな」
身の毛もよだつ決定が僕の意思と無関係に下された。嘆くべきはこの霧ヶ峰煙十朗というとんでもない男についてきてしまった自分の愚かさである。
というわけで僕は先生が調べものをする間、この先ほど会ったばかりでかつ怨霊に狙われていると思い込んだおかしな男と二日間を共にすることになった。この薄汚れた不気味な六畳間で、である。
永い夜がはじまろうとしていた。
続く
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