7 / 23
視線編
視線編 その2
しおりを挟む
キミらもあるだろう。風呂場で石鹸を使って髪を洗っている時さ。視線を感じたような気がした。そんな経験、あるだろう?
もしくはふと真夜中に目が覚めて、なんとなく眠れず暗闇を見つめていたら、別の方向から誰かが見てる気がした。でも怖くてそっちを向けない。なんてことさ。
おぼえがあるだろう?
たいていは気のせいなんだがね。僕の場合そうじゃないのさ。いや恐らくだがね。もちろん根拠なんぞないよ。
先ほど言った風呂場や寝床はもちろんだが、それ以外でも随時感じていたんだ。強い、殺気のこもった恐ろしい視線さ。まるで包丁の先を突きつけられているような感じさ。ひりひりと冷たく嫌な感じだよ。実際に包丁を突きつけられたことがないって?失敬、そうだったね。たいていの人間はそんなもんか。
はじめにアレを感じたのは、馴染みの酒場でだった。キミも何度か行ったよな?銀座の。そう、あの酒場さ。電気ブラン紛いの酒ばかり飲ませる悪徳酒場だよ。あははは。
あそこでニ杯目の電気ブランを飲み干した時だ。いや、母校に誓って言うがその時はまだ酔っちゃいなかったよ。あんな粗悪な安酒で酔えるものかね。しかし実のところ、最初は悪酔いでもしたのかと思ったんだよ。何しろあんな感覚ははじめてだったからね。
先にも言ったがまるで刃物をうなじのあたりに突きつけられているような気がしたんだ。ゾクリっと、鋭い。それが視線だとすぐに気がついた。
何しろ、キミも承知の通りほら、僕はどこへ行ってもご婦人連中から熱い歓迎を受けるだろ?
おいおい。そんな顔するな。そりゃキミほどじゃないけど僕だってそれなりにモテるんだぜ?
とにかく。最初はまたいつぞやの夜の過ちで恨まれてるのかなと思ったのさ。それで振り向いた。
だが誰もいない。よくよく見回してもみた。おや、おかしいなと思ったよ。ご存知の通りあすこはそんな大きい酒場じゃないしね。勘違いできるほどの余裕はないんだ。分かるだろ?
後ろを振り向いたことで一旦はその鋭い気配もなくなったんだが、それからはふと気が抜けた時にそれはやってくるようになった。
飯を食っている時。酒を飲んでいる時。女と寝床にいる時もさ。ああ、そう。あの酒場の女だ。悦子っていう、色白で少し肉付けのいい女でね。ええ?いやあ、家内は知らないよ。知ってても言わないだろうな。アレはそういう女だから。
まあとにかく、四六時中、その殺気だった視線を感じるようになったんだよ。
そこで小林某は話を一旦区切り、先生から敷島を一本拝借して火を付けた。先生と彼の紫煙が黄ばんだ天井へと昇り、緋鯉のように宙で漂っている。
「もう慣れてしまった……と言いたいところだがどうにも慣れない。こればっかりは気味が悪くて仕方ない」
小林某は沈黙をしながら自分で吐いた煙を虚な眼で眺めていた。
「それにね。不可思議なことがあるのだよ。この一年ほどはずっとその視線に脅かされているのにだ。僕はまだ、一度もその視線の主を見たことがないのさ。ただの一度もね」
「ほう……」
先生は手に持っていたウヰスキーの瓶を傾け飲み下し、そののち彼の方へと静かに手渡した。彼はそれを受け取ると視線を合わせず、ただ闇雲にあおった。
「しかしなあ。キミ。それは恐らく勘違いだろう。一種の強迫観念というやつじゃないか?自分を恨んでる誰かが常に自分を監視している、という妄想ではないのか?」
「そんなことは断じてないさ。妄想ならどんなにいいか。酒を飲もうが女を抱こうが、あの感覚はいつも突然やってきて、突然去っていく。ただジッと、僕に殺気を向け続ける。全身に冷や水を浴びせられた気分だ」
「ふむ。気のせいではないのか。じゃあ身に覚えはあるのかい?誰かに恨まれるのか?」
「あるね」
「ほう……」
この時から先生の目は懐かしい旧友を見る目から、依頼人を精査する探偵の目に変わった。鋭く、相手の表情の些細な変化も見逃さない目だ。
僕はあれが、恐ろしくてならない。
「誰だい?」
「僕の家内さ。間違いない」
小林某はさほど気にかけていないような口ぶりでそう言った。異常だ、彼は奥方に命を狙われてると平然と言い切った。昨今の夫婦というのはそこまで殺伐としてるのか。
「なるほど。キミの奥方か。さぞや恨まれているんだろうね。結婚してどのくらいだ?」
「お、さっそく尋問かい?頼もしいねえ。そうだな、いつからかな。もう五年か、もしくは三年になるか」
「覚えていないのか?」
「覚えているかって?おいおい。世の男どもで自分の結婚した年を正確に覚えている奴がいるもんか。おおかたキミは未だに独り身だから、そんな悠長な考えなんだろうね。酒場にでも行ってごらん。恨み節を浴びることになるぜ」
「ならなぜ結婚なんかしたんだい?」
「そこが自分でも不思議なのさ。世の不思議。まこと不思議さ」
小林某は遠い目しながら再度、酒の瓶を傾けた。
とぷん。と遠慮がちに瓶が鳴った。
続く
もしくはふと真夜中に目が覚めて、なんとなく眠れず暗闇を見つめていたら、別の方向から誰かが見てる気がした。でも怖くてそっちを向けない。なんてことさ。
おぼえがあるだろう?
たいていは気のせいなんだがね。僕の場合そうじゃないのさ。いや恐らくだがね。もちろん根拠なんぞないよ。
先ほど言った風呂場や寝床はもちろんだが、それ以外でも随時感じていたんだ。強い、殺気のこもった恐ろしい視線さ。まるで包丁の先を突きつけられているような感じさ。ひりひりと冷たく嫌な感じだよ。実際に包丁を突きつけられたことがないって?失敬、そうだったね。たいていの人間はそんなもんか。
はじめにアレを感じたのは、馴染みの酒場でだった。キミも何度か行ったよな?銀座の。そう、あの酒場さ。電気ブラン紛いの酒ばかり飲ませる悪徳酒場だよ。あははは。
あそこでニ杯目の電気ブランを飲み干した時だ。いや、母校に誓って言うがその時はまだ酔っちゃいなかったよ。あんな粗悪な安酒で酔えるものかね。しかし実のところ、最初は悪酔いでもしたのかと思ったんだよ。何しろあんな感覚ははじめてだったからね。
先にも言ったがまるで刃物をうなじのあたりに突きつけられているような気がしたんだ。ゾクリっと、鋭い。それが視線だとすぐに気がついた。
何しろ、キミも承知の通りほら、僕はどこへ行ってもご婦人連中から熱い歓迎を受けるだろ?
おいおい。そんな顔するな。そりゃキミほどじゃないけど僕だってそれなりにモテるんだぜ?
とにかく。最初はまたいつぞやの夜の過ちで恨まれてるのかなと思ったのさ。それで振り向いた。
だが誰もいない。よくよく見回してもみた。おや、おかしいなと思ったよ。ご存知の通りあすこはそんな大きい酒場じゃないしね。勘違いできるほどの余裕はないんだ。分かるだろ?
後ろを振り向いたことで一旦はその鋭い気配もなくなったんだが、それからはふと気が抜けた時にそれはやってくるようになった。
飯を食っている時。酒を飲んでいる時。女と寝床にいる時もさ。ああ、そう。あの酒場の女だ。悦子っていう、色白で少し肉付けのいい女でね。ええ?いやあ、家内は知らないよ。知ってても言わないだろうな。アレはそういう女だから。
まあとにかく、四六時中、その殺気だった視線を感じるようになったんだよ。
そこで小林某は話を一旦区切り、先生から敷島を一本拝借して火を付けた。先生と彼の紫煙が黄ばんだ天井へと昇り、緋鯉のように宙で漂っている。
「もう慣れてしまった……と言いたいところだがどうにも慣れない。こればっかりは気味が悪くて仕方ない」
小林某は沈黙をしながら自分で吐いた煙を虚な眼で眺めていた。
「それにね。不可思議なことがあるのだよ。この一年ほどはずっとその視線に脅かされているのにだ。僕はまだ、一度もその視線の主を見たことがないのさ。ただの一度もね」
「ほう……」
先生は手に持っていたウヰスキーの瓶を傾け飲み下し、そののち彼の方へと静かに手渡した。彼はそれを受け取ると視線を合わせず、ただ闇雲にあおった。
「しかしなあ。キミ。それは恐らく勘違いだろう。一種の強迫観念というやつじゃないか?自分を恨んでる誰かが常に自分を監視している、という妄想ではないのか?」
「そんなことは断じてないさ。妄想ならどんなにいいか。酒を飲もうが女を抱こうが、あの感覚はいつも突然やってきて、突然去っていく。ただジッと、僕に殺気を向け続ける。全身に冷や水を浴びせられた気分だ」
「ふむ。気のせいではないのか。じゃあ身に覚えはあるのかい?誰かに恨まれるのか?」
「あるね」
「ほう……」
この時から先生の目は懐かしい旧友を見る目から、依頼人を精査する探偵の目に変わった。鋭く、相手の表情の些細な変化も見逃さない目だ。
僕はあれが、恐ろしくてならない。
「誰だい?」
「僕の家内さ。間違いない」
小林某はさほど気にかけていないような口ぶりでそう言った。異常だ、彼は奥方に命を狙われてると平然と言い切った。昨今の夫婦というのはそこまで殺伐としてるのか。
「なるほど。キミの奥方か。さぞや恨まれているんだろうね。結婚してどのくらいだ?」
「お、さっそく尋問かい?頼もしいねえ。そうだな、いつからかな。もう五年か、もしくは三年になるか」
「覚えていないのか?」
「覚えているかって?おいおい。世の男どもで自分の結婚した年を正確に覚えている奴がいるもんか。おおかたキミは未だに独り身だから、そんな悠長な考えなんだろうね。酒場にでも行ってごらん。恨み節を浴びることになるぜ」
「ならなぜ結婚なんかしたんだい?」
「そこが自分でも不思議なのさ。世の不思議。まこと不思議さ」
小林某は遠い目しながら再度、酒の瓶を傾けた。
とぷん。と遠慮がちに瓶が鳴った。
続く
1
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる