煙十朗奇譚

三文士

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視線編

視線編 その2

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 キミらもあるだろう。風呂場で石鹸シャボンを使って髪を洗っている時さ。視線を感じたような気がした。そんな経験、あるだろう?

 もしくはふと真夜中に目が覚めて、なんとなく眠れず暗闇を見つめていたら、別の方向から誰かが見てる気がした。でも怖くてそっちを向けない。なんてことさ。

 おぼえがあるだろう?

 たいていは気のせいなんだがね。僕の場合そうじゃないのさ。いや恐らくだがね。もちろん根拠なんぞないよ。

 先ほど言った風呂場や寝床はもちろんだが、それ以外でも随時感じていたんだ。強い、殺気のこもった恐ろしい視線さ。まるで包丁の先を突きつけられているような感じさ。ひりひりと冷たく嫌な感じだよ。実際に包丁を突きつけられたことがないって?失敬、そうだったね。たいていの人間はそんなもんか。


 はじめにアレを感じたのは、馴染みの酒場でだった。キミも何度か行ったよな?銀座の。そう、あの酒場さ。電気ブラン紛いの酒ばかり飲ませる悪徳酒場だよ。あははは。

 あそこでニ杯目の電気ブランを飲み干した時だ。いや、母校に誓って言うがその時はまだ酔っちゃいなかったよ。あんな粗悪な安酒で酔えるものかね。しかし実のところ、最初は悪酔いでもしたのかと思ったんだよ。何しろあんな感覚ははじめてだったからね。

 先にも言ったがまるで刃物をうなじのあたりに突きつけられているような気がしたんだ。ゾクリっと、鋭い。それが視線だとすぐに気がついた。

 何しろ、キミも承知の通りほら、僕はどこへ行ってもご婦人連中から熱い歓迎を受けるだろ?

 おいおい。そんな顔するな。そりゃキミほどじゃないけど僕だってそれなりにモテるんだぜ?

 とにかく。最初はまたいつぞやの夜の過ちで恨まれてるのかなと思ったのさ。それで振り向いた。

 だが誰もいない。よくよく見回してもみた。おや、おかしいなと思ったよ。ご存知の通りあすこはそんな大きい酒場じゃないしね。勘違いできるほどの余裕はないんだ。分かるだろ?

 後ろを振り向いたことで一旦はその鋭い気配もなくなったんだが、それからはふと気が抜けた時にはやってくるようになった。

 飯を食っている時。酒を飲んでいる時。女と寝床にいる時もさ。ああ、そう。あの酒場の女だ。悦子っていう、色白で少し肉付けのいい女でね。ええ?いやあ、家内は知らないよ。知ってても言わないだろうな。アレはそういう女だから。

 まあとにかく、四六時中、その殺気だった視線を感じるようになったんだよ。

 

 そこで小林某は話を一旦区切り、先生から敷島しきしまを一本拝借して火を付けた。先生と彼の紫煙が黄ばんだ天井へと昇り、緋鯉のように宙で漂っている。

「もう慣れてしまった……と言いたいところだがどうにも慣れない。こればっかりは気味が悪くて仕方ない」

 小林某は沈黙をしながら自分で吐いた煙をうつろな眼で眺めていた。
 
「それにね。不可思議なことがあるのだよ。この一年ほどはずっとその視線に脅かされているのにだ。僕はまだ、一度もその視線の主を見たことがないのさ。ただの一度もね」

「ほう……」

 先生は手に持っていたウヰスキーの瓶を傾け飲み下し、そののち彼の方へと静かに手渡した。彼はそれを受け取ると視線を合わせず、ただ闇雲にあおった。

「しかしなあ。キミ。それは恐らく勘違いだろう。一種の強迫観念というやつじゃないか?自分を恨んでる誰かが常に自分を監視している、という妄想ではないのか?」

「そんなことは断じてないさ。妄想ならどんなにいいか。酒を飲もうが女を抱こうが、あの感覚はいつも突然やってきて、突然去っていく。ただジッと、僕に殺気を向け続ける。全身に冷や水を浴びせられた気分だ」

「ふむ。気のせいではないのか。じゃあ身に覚えはあるのかい?誰かに恨まれるのか?」

「あるね」

「ほう……」

 この時から先生の目は懐かしい旧友を見る目から、依頼人を精査する探偵の目に変わった。鋭く、相手の表情の些細な変化も見逃さない目だ。

 僕はあれが、恐ろしくてならない。

「誰だい?」

「僕の家内さ。間違いない」

 小林某はさほど気にかけていないような口ぶりでそう言った。異常だ、彼は奥方に命を狙われてると平然と言い切った。昨今の夫婦というのはそこまで殺伐としてるのか。

「なるほど。キミの奥方か。さぞや恨まれているんだろうね。結婚してどのくらいだ?」

「お、さっそく尋問かい?頼もしいねえ。そうだな、いつからかな。もう五年か、もしくは三年になるか」

「覚えていないのか?」

「覚えているかって?おいおい。世の男どもで自分の結婚した年を正確に覚えている奴がいるもんか。おおかたキミは未だに独り身だから、そんな悠長な考えなんだろうね。酒場にでも行ってごらん。恨み節を浴びることになるぜ」

「ならなぜ結婚なんかしたんだい?」

「そこが自分でも不思議なのさ。世の不思議。まこと不思議さ」

 小林某は遠い目しながら再度、酒の瓶を傾けた。

 とぷん。と遠慮がちに瓶が鳴った。


続く
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