捨松──鹿鳴館に至る道──

渡波みずき

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 ささいな意趣返し。そう思いこんでいた捨松だったが、届いた本を読みこむうちに、それが大いに間違いであったことに気がついた。
 捨松は、『ヴェニスの商人』のことを、たちの悪いユダヤ人の高利貸しシャイロックがついには回心し、キリスト教に改宗する話だと記憶していた。だが、いま読み返してみれば、この話は恋の話でもあるのだった。
 青年バサーニオが引く手あまたのうつくしい貴婦人ポーシャに恋をし、彼女に求婚する。ポーシャは、父の遺言で「三つの箱のなかから正しい箱を開けた者と結婚するように」と決められている。無事に正しい箱を選びとり、念願かなって婚約者となったバサーニオだが、求婚のために友人の商人に金を借りていた。友人はバサーニオに金を貸さないシャイロックから、代わりに金を借りたのだ。支払いの期限が迫ったが、友人は財産を失い、返済ができなくなる。証文を盾に友人にからだの肉をよこせと迫るシャイロックへ、法学博士に化けたポーシャが、愛する婚約者とその友人とを守るために立ち向かう……
「あなたがバサーニオで、私がポーシャ?」
 神田は、『引く手あまた』の捨松に選ばれるはずだとでも言うのだろうか。しかし、捨松は引く手あまたなどではない。優秀な神田はバサーニオになれようが、捨松はポーシャにはなれない。
 困惑する捨松のもとに知らせが届いたのは、それから四日あまりのち、一月十五日のことだ。その内容は、あまりに思いがけぬものだった。
 シェークスピア劇の話を耳にした繁子の実兄から、上演依頼が舞いこんだのである。それも、繁子の結婚披露宴の席で余興として演じてほしいというのだ。
 捨松は、英語の啓蒙の機会とともに、学校設立のための人脈づくりができる機会を与えられたことに歓喜し、同時に青くなった。繁子たちの披露宴は、一月二十五日。十日後に迫っていたのである。



 瓜生家にはせ参じた捨松は、すでに集まっていた面々から演目を告げられ、額に手を当てた。神田が言い訳のように声をかける。
「時間がないから、梅子嬢とあなたと僕とで指導できるものをと思ったら、これしか考えつかなくて」
「それで、『ヴェニスの商人』……?」
「衣装は伝手があるわ。友人が持っているから、貸してくださるように手紙を書いたの。じきに、よいお返事がもらえるでしょう」
 メンバーのひとりの夫人が言う。外堀から埋められていくような心地で、捨松は神田を見上げた。
「それで、配役はどうなさいますの?」
「女性は決まりだ。ポーシャ、ネリッサ、ジェシカしかいないから、台詞の多いポーシャを梅子嬢に……」
「イヤよ」
 梅子がはねつけて、一同は静まりかえった。
「その論法なら、バサーニオは瓜生様か神田様でしょ? 瓜生様ならシゲがやればいいし、神田様ならスティマツがやればいいわ」
「だ、だめよ、ウメ。繁は他の準備できっと忙しいわ。芝居の稽古に何度も呼ぶわけにはいかないことくらい、わかるでしょう?」
「それなら、スティマツで決まりね」
「ウメ……」
 弱って、こちらが説得しようとしたところを、梅子は冷静な物言いで制した。
「わたしが目立つポーシャ役をやってみなよ。みんな、『外国でも日本と同じで、年下の幼い娘と結婚するんだな』なんて思うのよ」
「これはお芝居よ。観客だって、まさかそんなことを考えるはずは」
「その『お芝居』が道徳や英語の教育になると言ったのはどなた? ポーシャはスティマツ、バサーニオは神田様。それ以外ないわ」
 揚げ足をとられたかたちだった。捨松は発足したばかりの演劇クラブのみなを見回し、助けを求めようとしたが、だれもが反論を口にはしなかった。
 いや、本音を言えば、捨松にしたところで、梅子の言いぶんに分があることはわかっていた。たとえ、日本の価値観では梅子がすでに適齢期を迎えていたとしても、英語圏ではまだ年若くみられるだろう。少なくとも、捨松の知るアメリカの一地域では、そうだった。
「……全五幕、すべてを演じては長すぎますわ。披露宴の余興ですもの」
 役を受け入れたことを態度で示すと、神田は見るからにほっとして、うれしそうにした。
「僕もそう思う。だが、四幕の裁判のシーンを外すことはできない」
「五幕の回心のシーンも、必要です」
「回心? ポーシャがバサーニオの愛を確かめるシーンだと言ってほしいな」
 得意の軽口とおどけたしぐさで、神田は周囲の笑いを引きだす。場を和ませることにかけては、仲間うちで神田の右に出る者はいない。
「他の配役も早いところ決めようよ。練習の時間は、十日っきゃないんだから」
 梅子のことばに、捨松は神田から借りた本を手に、おのおのの台詞の量や役柄を勘案する。配役はまたたくまに決まり、無事に練習ははじまった。



「ああ、ポーシャ。たとえお日様は出ていなくても、こうしてポーシャという太陽さえ出ていてくれれば、今は真昼。今、地球の反対側にいるのと同じことだ」
 ポーシャとして愛を語るたび、バサーニオに扮した神田に熱のこもった視線をむけられるたび、捨松のこころは揺れた。
 同じ舞台には、ポーシャの侍女ネリッサと、グラシアーノという夫婦も出ているが、彼らはどちらかといえば、喜劇をもりたてる役柄だ。切ない恋ごころを語るのは、ほとんど自分たちふたりだった。
 自宅で暇をもてあますとき、くちびるからぽろりとポーシャのことばが漏れる。いや、捨松にはもはや、それがほんとうにポーシャのものかどうかもよくわからなかった。
 ──あなたの前に、見つめられて、今立ちつくしている、この私。お目に映っているとおり、ただそれだけの、一人の女。私自身のためだけならば、これ以上の私でありたいなどと、大それた望みを抱きはしない。
 劇では演じない幕の、けれど、劇のあいまのポーシャも、口には出さずとも胸に抱き続ける気持ち。それがどんなものか、捨松にもわかっている。
 いまの捨松にとって、『ヴェニスの商人』という戯曲はもはや、啓蒙やキリスト教の道徳を伝えるためのものではなく、ただ、若いふたりの恋物語でしかなかった。
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