6 / 15
六
しおりを挟む
瓜生家の結婚披露宴は、繁子の実兄、益田孝の屋敷で執り行われた。
英語劇の首尾は上々。列席者からは絶賛を浴び、捨松は上機嫌で舞台を下りた。
舞台のうえでも緊張はあったが、あくまでも心地よい程度であって、台詞を忘れるほどのものではなかった。
招待客に取り囲まれ、次々に挨拶を交わす。顔を繋ぐのが何より大事だ。今後、学校設立のための寄付や助力を請う相手かもしれないと思うと、いっときも気が抜けなかった。
笑顔を貼りつけて、慣れない日本語を操っていると、幾度となく自分の言いまわしに不安を覚える。助けがほしくなって、目をさまよわせるも、いつのまにか捨松は演劇クラブの仲間から切り離され、ひとりになっていた。
そのことに気づいたとたんに、限界は訪れた。笑顔が強ばった。それでも、なんとか適当な言い訳をひねりだす。
「失礼。外の空気を、少し吸います」
そう言うなり、人目を避けるようにバルコニーへ滑り出た。ぴたりとガラス戸をたてると、いささかめまいがした。
捨松はまだ、衣装の白いドレスのままだった。汚さぬようにと裾を気にして、前へ進みでてみてはじめて、先客がいたことを知った。
恰幅のよい紳士だ。肩幅も広くがっしりとしていて、立派な体格だ。陸軍の正装がよく似合う後ろ姿だった。彼のほうも、衣擦れの音で捨松に気づいたらしい。ふりかえったその顔を見て、どちらともなく、声を漏らしていた。
先日、瓜生家からの帰りに出会ったあの三姉妹の父親だった。
「いつぞやの」
薩摩弁ではなく仏語で切り出したのは、紳士のほうが先だった。
「見事な劇でしたな」
「恐れ入ります」
膝を折って礼を見せると、紳士はまぶしそうにこちらを見つめた。
「なぜシェークスピア劇を選ばれましたか」
「……欧米文化の啓蒙と、道徳教育のためですわ。もちろん、華やかな英語劇で瓜生様をお祝いしたい気持ちがいちばんではありますけれど」
後半はともかく、前半の理由を口にするとき、捨松は少し、うしろめたく思った。そのような高尚なこころは、とうの昔に胸から過ぎ去っていた。
「さすが、留学してきたかたは違う」
紳士は感心しきりのようすでうなった。それがまた、いたたまれない。
「今日、いっしょに劇をされたかたがたも、噂によると、留学経験者ばかりとか」
「ええ、そうです。とても博識なかたばかりで、いつも学ばせていただいております」
紳士は深く首をうなずかせるも、表情は晴れやかとは言いがたかった。
「……ご気分が優れませんの?」
率直に問いかけると、紳士はごまかすように呵々と笑い、口ひげをなでた。
「すぐに顔に出るたちで申し訳ない。いや、自分も国費で欧州をめぐりましたが、どうしても帰朝後は立場の同じ者のほうが話が通じやすくなるものだなと考えていたのです。留学した者同士にしかわからぬことは多いです。だが、だからといって、仲間うちで群れて遊んでいては、なんのための留学かと、陰口も叩かれましょう」
顔つきは柔和だが、ことばは辛辣だった。紳士の発言に捨松は血の気が引く思いがしたが、ここで黙っていてはいけないと感じた。
「私たちの会合や演劇を、お遊びだとおっしゃるのですか」
思いのほか、きつい詰問口調になったが、紳士はおっとりと笑うばかりだった。
「ひとは、立場の似通った者の話がいちばん耳に心地よいものなのです。あなたは留学し、学位をとり、立派に学を修めています。けれど、いまの日本で、二十歳を超えて独り身の女性は、男と同じ土俵にはあがれません。『女だてらに立派な学者様』だと認められることすらないでしょう。声高に正義を並べ立てたところで、所詮、半端者の言うことであると、ろくろく聞き届けてももらえません」
仏語のやさしくていねいな口調が、余計に胸に刺さる。捨松は今度こそ、ことばを失った。
「あなたは、たったいま演じてきたばかりではありませんか。ポーシャはなぜ男の法学博士に化けたのですか。ネリッサはなぜ男の書記になりすましたのですか。諸外国ですら、地位のない女性は軽んじられるからです」
捨松がよほどひどい顔をしていたのだろう。紳士はさすがに言い過ぎたと感じたらしく、ふたたび、顔を曇らせた。捨松は顔を覆いたいのを我慢しながら、紳士をじっと見据えた。
「私は、アメリカで学んだことを広く伝えたいのですわ。だから、まずは英語や文化を学んでもらわなければと思ったのです。そのために学校を作りたくて。こうして、人目に触れて、多くのひとと繋がりを持てる機会は、学校設立に向けた準備として、非常に有用だと考えておりました」
懸命にしぼりだしたのは、アメリカに留学していたころの素直な気持ちだった。それを聞いて、紳士は微笑んだ。
「──自分とことばの違う人間をこころから受け入れるほどには、日本人の精神は成熟していません。耳を傾けてもらうには、相手とことばを同じくして、相手の立場に近づいて語りかけるほかありません」
紳士はそれだけ言うと、名残惜しげにしながらも、バルコニーを出て、宴会場へと戻っていった。残された捨松はだれに気兼ねすることなく顔を覆った。広間から見えない陰へ隠れて、うつむいた。
英語劇の首尾は上々。列席者からは絶賛を浴び、捨松は上機嫌で舞台を下りた。
舞台のうえでも緊張はあったが、あくまでも心地よい程度であって、台詞を忘れるほどのものではなかった。
招待客に取り囲まれ、次々に挨拶を交わす。顔を繋ぐのが何より大事だ。今後、学校設立のための寄付や助力を請う相手かもしれないと思うと、いっときも気が抜けなかった。
笑顔を貼りつけて、慣れない日本語を操っていると、幾度となく自分の言いまわしに不安を覚える。助けがほしくなって、目をさまよわせるも、いつのまにか捨松は演劇クラブの仲間から切り離され、ひとりになっていた。
そのことに気づいたとたんに、限界は訪れた。笑顔が強ばった。それでも、なんとか適当な言い訳をひねりだす。
「失礼。外の空気を、少し吸います」
そう言うなり、人目を避けるようにバルコニーへ滑り出た。ぴたりとガラス戸をたてると、いささかめまいがした。
捨松はまだ、衣装の白いドレスのままだった。汚さぬようにと裾を気にして、前へ進みでてみてはじめて、先客がいたことを知った。
恰幅のよい紳士だ。肩幅も広くがっしりとしていて、立派な体格だ。陸軍の正装がよく似合う後ろ姿だった。彼のほうも、衣擦れの音で捨松に気づいたらしい。ふりかえったその顔を見て、どちらともなく、声を漏らしていた。
先日、瓜生家からの帰りに出会ったあの三姉妹の父親だった。
「いつぞやの」
薩摩弁ではなく仏語で切り出したのは、紳士のほうが先だった。
「見事な劇でしたな」
「恐れ入ります」
膝を折って礼を見せると、紳士はまぶしそうにこちらを見つめた。
「なぜシェークスピア劇を選ばれましたか」
「……欧米文化の啓蒙と、道徳教育のためですわ。もちろん、華やかな英語劇で瓜生様をお祝いしたい気持ちがいちばんではありますけれど」
後半はともかく、前半の理由を口にするとき、捨松は少し、うしろめたく思った。そのような高尚なこころは、とうの昔に胸から過ぎ去っていた。
「さすが、留学してきたかたは違う」
紳士は感心しきりのようすでうなった。それがまた、いたたまれない。
「今日、いっしょに劇をされたかたがたも、噂によると、留学経験者ばかりとか」
「ええ、そうです。とても博識なかたばかりで、いつも学ばせていただいております」
紳士は深く首をうなずかせるも、表情は晴れやかとは言いがたかった。
「……ご気分が優れませんの?」
率直に問いかけると、紳士はごまかすように呵々と笑い、口ひげをなでた。
「すぐに顔に出るたちで申し訳ない。いや、自分も国費で欧州をめぐりましたが、どうしても帰朝後は立場の同じ者のほうが話が通じやすくなるものだなと考えていたのです。留学した者同士にしかわからぬことは多いです。だが、だからといって、仲間うちで群れて遊んでいては、なんのための留学かと、陰口も叩かれましょう」
顔つきは柔和だが、ことばは辛辣だった。紳士の発言に捨松は血の気が引く思いがしたが、ここで黙っていてはいけないと感じた。
「私たちの会合や演劇を、お遊びだとおっしゃるのですか」
思いのほか、きつい詰問口調になったが、紳士はおっとりと笑うばかりだった。
「ひとは、立場の似通った者の話がいちばん耳に心地よいものなのです。あなたは留学し、学位をとり、立派に学を修めています。けれど、いまの日本で、二十歳を超えて独り身の女性は、男と同じ土俵にはあがれません。『女だてらに立派な学者様』だと認められることすらないでしょう。声高に正義を並べ立てたところで、所詮、半端者の言うことであると、ろくろく聞き届けてももらえません」
仏語のやさしくていねいな口調が、余計に胸に刺さる。捨松は今度こそ、ことばを失った。
「あなたは、たったいま演じてきたばかりではありませんか。ポーシャはなぜ男の法学博士に化けたのですか。ネリッサはなぜ男の書記になりすましたのですか。諸外国ですら、地位のない女性は軽んじられるからです」
捨松がよほどひどい顔をしていたのだろう。紳士はさすがに言い過ぎたと感じたらしく、ふたたび、顔を曇らせた。捨松は顔を覆いたいのを我慢しながら、紳士をじっと見据えた。
「私は、アメリカで学んだことを広く伝えたいのですわ。だから、まずは英語や文化を学んでもらわなければと思ったのです。そのために学校を作りたくて。こうして、人目に触れて、多くのひとと繋がりを持てる機会は、学校設立に向けた準備として、非常に有用だと考えておりました」
懸命にしぼりだしたのは、アメリカに留学していたころの素直な気持ちだった。それを聞いて、紳士は微笑んだ。
「──自分とことばの違う人間をこころから受け入れるほどには、日本人の精神は成熟していません。耳を傾けてもらうには、相手とことばを同じくして、相手の立場に近づいて語りかけるほかありません」
紳士はそれだけ言うと、名残惜しげにしながらも、バルコニーを出て、宴会場へと戻っていった。残された捨松はだれに気兼ねすることなく顔を覆った。広間から見えない陰へ隠れて、うつむいた。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
桔梗一凛
幸田 蒼之助
歴史・時代
「でも、わたくしが心に決めた殿方はひとりだけ……」
華族女学校に勤務する舎監さん。実は幕末、六十余州にその武名を轟かせた名門武家の、お嬢様だった。
とある男の許嫁となるも、男はすぐに風雲の只中で壮絶な死を遂げる。しかしひたすら彼を愛し、慕い続け、そして自らの生の意義を問い続けつつ明治の世を生きた。
悦子はそんな舎監さんの生き様や苦悩に感銘を受け、涙する。
「あの女性」の哀しき後半生を描く、ガチ歴史小説。極力、縦書きでお読み下さい。
カクヨムとなろうにも同文を連載中です。
豊家軽業夜話
黒坂 わかな
歴史・時代
猿楽小屋や市で賑わう京の寺院にて、軽業師の竹早は日の本一の技を見せる。そこに、参詣に訪れていた豊臣秀吉の側室・松の丸殿が通りがかり、竹早は伏見城へ行くことに。やがて竹早は秀頼と出会い…。
浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル
初音
歴史・時代
新選組内外の諜報活動を行う諸士調役兼監察。その頭をつとめるのは、隊内唯一の女隊士だった。
義弟の近藤勇らと上洛して早2年。主人公・さくらの活躍はまだまだ続く……!
『浅葱色の桜』https://www.alphapolis.co.jp/novel/32482980/787215527
の続編となりますが、前作を読んでいなくても大丈夫な作りにはしています。前作未読の方もぜひ。
※時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦組みを推奨しています。行間を詰めてありますので横組みだと読みづらいかもしれませんが、ご了承ください。
※あくまでフィクションです。実際の人物、事件には関係ありません。
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
ライヒシュタット公の手紙
せりもも
歴史・時代
ナポレオンの息子、ライヒシュタット公フランツを巡る物語。
ハプスブルク家のプリンスでもある彼が、1歳年上の踊り子に手紙を? 付き人や親戚の少女、大公妃、果てはウィーンの町娘にいたるまで激震が走る。
カクヨムで完結済みの「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」を元にしています
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129
なんか、あれですよね。ライヒシュタット公の恋人といったら、ゾフィー大公妃だけみたいで。
そんなことないです。ハンサム・デューク(英語ですけど)と呼ばれた彼は、あらゆる階層の人から人気がありました。
悔しいんで、そこんとこ、よろしくお願い致します。
なお、登場人物は記載のない限り実在の人物です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる