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第十五章 ― もう充分…そんな風に苦しんでくれただけで…。もう…終りにしよう…―
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しおりを挟む誰かの大きな声が聞こえる…。
桂はフッと寝室のドアを見つめた。このマンションは防音が施されているため、各部屋の音が響かないようになっている。
「でも…今…確かに…」
ぼやっと物思いに耽っていた桂の耳にも、誰かの声が聞こえたような気がしたのだ。ここまで聞こえてくるって事は、かなり大きい声だったに違いない。
亮が…?
なんだか胸騒ぎがして、桂はベッドから起きあがった。脱ぎ散らかした洋服を掻き集めて着ると、桂はそっと足音を忍ばせてドアに近づいた。
なぜ、こんな事をしてしまうのか自分でも分からないまま、桂は音を立てないようにそっとドアを少し開ける。
気付かれないような隙間を開けると、そっと亮がいる筈のリビングを覗きこんだ。
リビングに走らせた桂の視線に、亮の横顔が入ってくる。なぜか、床に根が生えたように身じろぎもせず立ち尽くす亮。
「どうしたんだろう?」
立ち尽くした亮の姿を訝しんで、桂はドアを開けて亮の背中に呼びかけようとした。
「お遊びは…終りにしないとね」
…え…?
ドアを押し開こうとした桂の手が、その言葉にギクッとして止まった。
…まさか…?
がくがくするような震えが身体を襲うのを押さえながら、桂はリビングの亮の視線を先に、眼を走らせた。
「…健志さん…!」
昨夜と同じように、艶然とした笑みを唇の端に浮かべて亮を見つめる…本当の恋人。
呆然と桂は、二人の姿を見つめつづける。動く事が出来なかった…。
亮と健志の間の張り詰めたような空気、誰も入る事を許さない雰囲気に桂は息を呑んだ。一体何が起こっているというのか…。
亮が微かに身じろぎをすると、健志を真っ直ぐに見詰めて口を開いた。
「言っている意味が分からない」
亮の言葉に健志がまた歪んだ微笑を浮かべた。
「分かっているはずだろ、亮?お前の恋人は…俺だろ…」
甘い声音で亮に呼びかける健志の姿。亮はなにも答えず、ただ頭を振るだけ。
「亮…。俺が悪かったのは謝るよ…。寂しがりやのお前をずっとほったらかしにして…」
淡々と話す健志の声に、桂の胸がぎゅっと引き絞られるように痛んだ。
「健志さんが…山本を取り返しに来たんだ…」
当然の健志の行動。昨夜だって…自分の所為で亮が健志を放ってしまったんだ…。
「それなのに…俺は…」
桂は昨夜の自分の行動を思いだして、唇を噛み締めた。
本当の恋人が待っていたのに…俺はあいつに抱いて欲しい…と願ってしまった…。俺の所為で山本が責められている。
早く、二人の間に入って弁解しなきゃ…俺が悪いんだって…。山本は悪くないって…。
自分勝手に願ってしまって…自分一人が幸せな時間を過ごしてしまって…その所為で山本が責められる…。
そんな事…耐えられるはずが無い…。自分の所為で…二人の中をおかしくさせちゃいけない…。
…それが俺に出来る…精一杯の山本への誠意…。
桂は、すべての覚悟を決めてリビングに出ようとする。不思議に気持は穏やかに凪いでいた。部屋に踏み出そうとした桂の足が亮の声で止まった。
「…健志…俺は…何度も言ったはずだ…」
苦しげに言葉を絞り出す亮。何度も聞いたよ、と返す余裕な態度の健志。クスクスと笑い声を立てながら、健志は続ける。
「亮、俺はお前の恋人だよ。ずっと…ね。来月、日本の本社へ戻る事が正式に決まった。もう亮を寂しくさせたりしない。前みたいに二人で楽しく過ごせる」
健志の言葉に亮の肩がピクッと揺れた。
「健志…。俺は……」
いつも自信に満ちた態度で物を言う亮に、似合わない歯切れ悪い口調。亮のそんな姿を楽しげに眺める健志。
桂は亮の横顔をじっと見つめた。ずっと好きだった顔だった。その顔が苦しげに歪んでいる。
…俺のせいで…山本は苦しいんだろうか…? 少しは俺の事が気の毒だと…思ってくれている?
「亮、もう恋人ごっこを他の男とする必要はないだろ?俺がいるんだから。恋人は一人で充分。身代わりなんて必要無いだろ」
容赦なく自分の権利を主張する健志を、亮は相変わらず苦しげに見つめるだけ。その唇からはなんの言葉も出てこない。
「…健志…俺は…何度も頼んだ…」
…なんで…そんな風に躊躇う?言えよ…山本、そうだな…恋人ごっこは終りにするか、って。
「ふふっ。何度も聞いたよ。亮の願いは。でも…俺は嫌だ。絶対にね。気の迷いだよ。亮らしくないね。」
冷たく亮を見据えて、健志は言葉を連ねていく。
…何を迷っている…?どうして…セックス・フレンドはお払い箱にするって…言わない…?
俺の存在なんて、山本にとっては…軽いはずだろ…。
桂はドアノブを指先が色を失い白くなるのも構わずきつく握り締めながら、亮と健志を見つめつづけた。
胸の中に、混乱するような考えばかりが渦を巻いている。
健志がじっと亮を擬視したまま、亮を追い詰めるように続ける。
「情が移っただけだ。同情と愛情を間違えるな。お前はあの男を憐れんでいるだけさ。気の毒だから、切り捨てられないだけなんだよ」
…そうか…。山本…俺の事…可哀相だって思ってくれているんだ…。だから俺の事切れないのか…?
「亮、軽いお遊びを楽しんだろ?一時の浮気さ。今俺の所に戻ればなにも言わない。許すから。だから、また以前のように楽しく一緒に過ごそうぜ」
健志は媚びるような笑みを浮かべて亮の腕を掴んだ。
ぐっと亮を引き寄せて、抱きしめようとする。亮は慌てたように健志の腕を振り払うと、迷うような哀しげな瞳で健志を見つめた。
…どうして…そんなに迷ってくれるの…?俺の事なんか…あっさり切り捨てろよ。そして…健志さんの所に戻れよ…。
……そして……俺の事なんか…忘れて…健志さんと……。
ドアノブを掴んだまま桂は扉に額を押し当てた。俯いて閉じた瞳から涙が一筋伝い落ちる。
「…もう充分だ…」
桂は思って、呟いた。
…山本が、俺の事を可哀相だと思ってくれた…。
…切り捨てるのが、気の毒だと…思ってくれた…。
…そんな風に…少し…苦しんでくれている…俺の事を思ってくれて…。
…もう充分だ…ありがとう…山本…。
「夢は叶ったな…」
桂は呟いた。
亮の心の中に少しでも自分が居たら…嬉しい…ずっとそう思ってきた。
亮が自分を切り捨てる事に苦しんでくれて…それで充分夢は叶ったと…思う。
…俺が終りにしよう…。山本が、俺を少しは思ってくれたから…。
…少しは…多分…愛してくれたから…。
…幸せすぎて…嬉しくて…胸が喜びで震えてる…。
…こんな風に俺を大事にしてくれるなんて…すごく嬉しくて…ちょっとだけ切ないよ…。
桂はゆっくりドアを押し開いた。ドアの開く音に、亮と健志二人が音の方向に振り返った。
凪いだ気持そのままに、桂はリビングに微笑みを浮かべて入った。
…終りにしよう。山本が始めたお遊び…。
今度はお遊びの相手の俺が終らせる。そうすればお前は、なにも苦しまずに、以前のように恋人の腕の中で安らげるんだ…。
桂は、昨夜と同じように敵意を含んで自分を睨む健志の視線を無視すると、驚いたように自分を一心に見つめる亮の視線と向き合った。
亮が自分の笑顔を覚えていてくれたらと…願い、精一杯の微笑を浮かべると、桂はゆっくりとその言葉を亮に告げた。
「契約終了だ…。山本」
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