堕ちる犬

四ノ瀬 了

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お前が、理よりも己の欲望を優先する下等な獣、淫乱で下劣な犬畜生だからだ。

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川名の足の指が、靴下の中で縁側の床を掘り掴むように何度か蠢いていた。霧野は指を見据えながら、川名の方へ近づきしゃがんで衣服に手をかけた。下半身を露出させ、尻がむき出しになった、外気がすぅすぅと双玉と双丘の肉とを優しく撫で、双丘の狭間に薄桃色の火口がぬちぬちと音を立てながら、鉄棒を奥まで咥え込んで見え隠れしていた。外気が異様に冷たく感じるのは熱を帯びた身体のせいだった。熱源は主に、淫棒、熟れた噴火口から立ち登り、全身を温める。尿意、ペニスの付け根に渦巻いていたはずの尿意は別の物にとってかわりつつあった。しゃがみ込み霧野を川名が上から叱責する。

「全然見えないな。俺はよく見せてみろと言ったんだぞ。」
「……。」

足元でまるまったズボンを取り去って横に置き、彼の前で股を開いて見せた。身体が隠すように自然と前屈みがちになる。川名は縁側に腰掛けたかと思うと、右足を霧野の開いた太ももに上に置いて、強く押し付けた。

「こうだろう。」

バランスが取れなくなって、手を後ろに、土の上についた。その拍子に力が抜け、自然と股を大きく開いて、股関節の筋が張る。それでもさらに強く押し付けられて、限界まで開いた。

「はぁ……はぁ……」

首筋の後ろを汗が伝った。太陽がまぶしい。はっはっと口から息が出て、半開きになる。霧野は自身の開かされた股を見ながら、柔軟性が高くなったと思った。ジムで鍛えた後、柔軟体操も行うのだが、股関節だけは固く痛かった。川名達に捕まって、股を開く、無理やりにいつまでも開かされることを繰り返すうちに、股関節がほぐれたのだ。あれだけ頻繁に柔軟をして開かなかった股が。

「これは何だ?排泄をしたいんじゃなかったのか?」

大きく180度近く開いた股の間で、霧野の勃起肉がむくむくと立ち上がりかけて地面ではなく川名の方にその銃身を向けて、ぴくぴくと身を震わせていた。尿意と興奮が下半身に渦巻く、今尿をしようにも興奮に筋肉が強張り尿道が締り、できない。抑えなければと頭の中で唱えてみるが余計に大きくなった。どうしよう、と、川名を上目づかう。川名の足の指が太ももを引っ掻いた。

「おい、黙ってるなよな。俺が、何だって聞いてるんだよ。……。二条、俺の靴と鞄を持ってこい。」

二条が立ち上がる音に、口を開きかけた霧野のか細い声がかき消されて、霧野は唾を飲み込んでから、もう一度、「勃起した、ペニス、です、」と震える声で言いなおした。言っている内にゾクゾクと身体が、内から感じていた。川名は軽く首を傾げて霧野を見下ろした。

「なぜ?一体どうしてこんなことになるんだ?」
「……なぜ、と言われても、」

生唾が溢れる。言葉にできないで、喉を詰まらせ、生唾を飲み込む霧野の代わりに、むくむくと勃起肉は勝手に大きく、硬くなった。開かれた股の間で、肉の楔は挿れる場所など何処にもないというのに、大きな赤百合の花の蕾のように赤く大きくなって、霧野の身体が揺れるのに合わせてボロンボロンと揺れる。霧野は大きくなる自分の雄を見下げて、己の息がさらに上がっているのを感じて、顔を伏せた。頭が下を向くと、目の奥の方がじわじわと熱くなってきている。

「ああ……」
ぽつ、と一つ涙が落ちるのが見えた。なんでこうなってるんだろう。
「お前の、犬の小さな小さな脳回路では、答えられないか。仕方がないから、俺が代わりに回答してやろうな。」

川名の足が外れたかと思うと、淫棒の先端に飾られた輝くピアスと吊り下がった錘を足指の先端で弄った。腫れた亀頭の先端に痛みの刺激が加えられて、どっと透明な汁が溢れ、濡れた。太陽の光の下でぬるぬるになった亀頭が輝いて、露がしたたった。川名の靴下の先端に霧野の淫汁が染みて、くち、と擦れるたびに小さく音を立てる。霧野は、揺れて濡れた視線を自身の雄、川名のいじくっている箇所に向けた。ちょうど、器用に川名の靴下の中の親指が、ピアスのリングに指をひっかけて、軽く上に引っ張るところであった。

「ぃ……、ひっ、」
身体を支える腕から力が抜けて姿勢が崩れかけると、すぐさま足が元の位置、太ももの上に乗って押さえつけ、背後に蹴り倒す程の強さで踏みしめられた。
「姿勢。」
「ん……」

もぞもぞと元のように姿勢を正す、いや、もとよりももっと、ねだるように川名に半身を見せつけるように霧野は己を開いているようだった。ふるふると太ももを中心に身体が震えていた。しなやかに良く伸びた筋を撫であげるように川名の足がゆっくり太ももの上を動いていた。霧野は川名の足の動きを目で追った。むちむちとした霧野自身の太ももの上に食い込むように足が、押し付けられたりゆるめられたり、鼠径部をくすぐったりしていた。

「……、……」

「今のことからもよーくわかるように、お前が、理よりも己の欲望を優先する下等な獣、下半身で物事を考える淫乱で下劣な犬畜生だからだ。わかったか?お前は、ここに来てからというもの、せっかく人の格好をさせて、人語を忘れぬように、他の人間とも交流させてやったというのに、己の淫乱の本質を人様の前に恥ずかしげもなく晒し、男どもに囲まれてはしゃぎ、犬性器を悦んで膨らませて勃起、さらには息をあらげて発情し腰をヘコつかせて。一体ここをどこだと思ってるんだよ、ウチじゃないんだぞ。獣の匂いをムンムンとさせて、目を血走らせて、隣に座っていても濃い臭いが漂ってきて臭くて臭くてたまらなかった……。やはり従畜のお前を人間扱いするのは無理がある。その馬鹿性器をあの場で公開去勢させてやりたいと思ったくらいだ。恥ずかしい。」

「……、……、」

霧野は視線をあげて川名を煽ぎ見た。半分蔭った彼の顔は、いつもと変わらない。冷たい水のような印象を受けた。彼の表情が変わらないのに、自分一人身体を発汗させていると思うと、苦しい。

「何か言いたげだな、いいぞ言ってみろ。」
「こんなのを、付けられては、」

太ももに乗っていた川名の足が一層強く押し付けられ、また、バランスが崩れかけた。足が離れたかと思うと、太ももを踏みつけられるように強く踏み蹴られ、思い切り尻もちをついてしまう、その拍子に戒めが霧野の熱源に深く突きささり、縄も熟れた肉によく食い込んで、身体が火が付いたようになって、地面の上で唸り悶えた。

「こんなの?なんだ?見えないな。すべて、よく見えるようにしてから子細に説明をしてみろ。いつだったかお前は自分の下の人間に抽象的な表現を使うなと叱責していたよな。」

結局、下を脱ぐだけでなく、上まで裸、全裸になって川名にすっかり湯だった身体を見せることになった。
「……」

さっきまで形だけでも以前のように勇ましく振舞っていたのに、また、ひとり、日差し、太陽の下で一糸まとわぬ姿で畜生のように人様の前に裸体を晒し、外気が全身を舐めるように撫でまわしていた。誰に触れられたわけでもないのに、実際に誰かに触られているよりも身体は敏感に興奮した。小さく風が吹き、遠くで家の軋む音が聞こえると一層興奮してしまう。川名を横目に、もし本当に犬なれば、裸になっても毛に覆われ、風が吹くだけで感じること恥ずかしくなることもなくなるだろう、と思った。

一見すると家の軒先という状況、川名の管理下にある事務所でも貸し切りレストランでもない、他人の家ということが余計に、身体をぞわぞわとさせる。大きな声で吠えたり抵抗したりしようものならば、何も知らない人間がここに駆けつけてくるかもしれない。そして、状況によっては、自分だけでなく川名も、リスクを負うことになるかもしれないのだった。霧野は再び川名を仰ぎ見て、裸のまま、さっきまでと同じ姿勢をとることにしたが、身体の震えも熱もさっきより大きくなり、頭が、なんとか早く終わらせなければ、だけでいっぱいになり、淫乱さながら、さっきよりも大きく身体を開いて息を荒げて、見せつけるように川名の前に身体を晒しているのだった。

「こ……これで……、よろしいでしょうか……」

霧野の身体は中庭で運動させられたおかげもあり、軽くパンプアップしてほんのり赤く上気して濡れ、淫らな姿勢をとって時間経過と共に、亀頭の先端はさらに赤く濡れ硬くなり、胸の二つの蕾も可愛らしい色に濡れたまま勃ちあがりはじめ、自然と淫靡に揺れる身体が錘を引っ張って適度な刺激をくわえ続けた。川名の氷のような視線。

高まる興奮と共に、時間の経過で理性が戻り、だんだんとまた、一抹の不安と共に、腹が立ち始めた。黙って見られ続けると、息が上がってきて、ついに視界が滲み、曇った。川名が、はぁー……、と呆れたようにため息をついたところで、二条が靴と鞄を片手に戻ってきた。彼は川名の姿、霧野の姿を一瞬ニヤついた眼で眺めてから、「どうぞ。」と、川名の傍らに鞄を置き、靴を庭先に優しく置いた。それから自分は部屋の中に下がり、先ほどと同じ位置に座って二人を見守るに徹するのだった。霧野は川名から視線を外して二条を見据えるが、彼は川名の背後の暗がりで、霧野の視線に気が付いて笑顔のまま首を横にふるのだった。

「……。ハル。尻をこちらに向けてそこに這え。」
「あ……」

あ、と何か言いかけた霧野だが、川名の立ち上がったのを見て口をつぐんで、緩慢な仕草で、川名の言う通り、屋敷の方に下半身を向けてその場に四つん這いになった。背後に川名の気配が行ったり来たりしており、どきどきと心拍数が高まるのだった。豊満な双丘を晒し、丘の間を激しく濡らして、誘うように尻が軽く揺れていた。身体が揺れると、蜜壺の奥を、すっかり自分の体温が乗り移って熱く熱せられた滑らかな鉄棒の先端がコリコリとひっかくのだった。緩やかな屈辱の刺激、川名がソコをじっと見据えているのがわかる。ピン!ピン!とどこに挿すわけでもない陰棒の勃起は極まって、ただ己が淫であることを主張した。尻にまで汗をかき始める。

霧野の表情は伏せた頭の下で険しくなったり、何かを期待するように和らいだりを繰り返していた。気配が背後に来てとまり、数秒の間があった。ひゅ!と空を切る音と共に、尻に横一文字にパン!と骨にまで響く衝撃が走った。

「ぐ……」
二三、前につんのめりかけたが、土を握って大きな声も漏らさず耐えた。しかし、そのままピッタリ同じ位置に二撃め三撃目が倍の力で飛んできた。
「い゛…ひ…っ、………く……ぅ」
この痛みの感じはケインではないだろうか。打たれた箇所が熱くじんじんとして、股間の奥まで振動させる。
「ほあ……はぁ……」
「何故打擲を受けているか、わかるか?」
「あ゛……?」

また、ビ!と尻を打たれ、ビリビリと痛みが尻、それから咥え込んだ鉄棒を伝って中まで音叉のようにズーンと刺激し、霧野の身体が猫のようにしなやかにのけ反って、大きくビクンビクンと震えた。汗ばんだ背筋の溝に汗が溜まっては垂れ、川名の前でゆさゆさと尻を揺らしていた。裸のまま庭先で尻を躾けられ、身体がゆさゆさ揺れるたびに陰部と乳首のピアスがまた引っ張られた。気が付くと、はぁぁぁ……と熱いため気が漏れ出ていた。霧野は意識していなかったが息を吐くときに、一緒に涎が垂れて、地面を湿らせていた。

「俺に向かって、あ?とは何だ。俺にそんな口を利くのはお前だけだ。相変わらずの口だな。お前が何か答えるまで打ち続ける。」

打たれながら、「淫乱だからッ、犬だからッ、」など、川名が手を緩めそうな言葉を吐くが、「本気か?全然違うな。俺の知っているお前だったら難なく回答できるはずだが。ハルは本当にダメ犬だな。このうすら馬鹿が。」と罵倒をされ、打つ手を止めてもらえず、悶えた。人間の言葉よりも、悶え声や啼きが多くなって、ようやく川名の手が止まる。しかし、今度は川名の靴底が霧野の打たれて真っ赤になった箇所と鉄棒の食い込まされた肛門の上をぐりぐりと強く嬲るように勢いよく踏むのだった。

「んお゛……っ!や゛………」

もはや呂律が回らず、身体が反射的に前へ逃げそうになったところで、靴がどき、今度は頭を掴まれ地面に押し付けられていた。

「ぁ゛……う……」
「どこに行く気だ。」

低い視界の中、ひらっきぱなしになった口の中に川名の靴の先端が侵入してきた。

「う゛ぇ゛っ…………」
「ほら、悪い口を躾けてやる。」

庭に立つ川名の革靴と足元だけが見える。霧野の頭を掴んではいるものの、彼は頭を近づける程霧野に近づいて屈んだりはせず、上の方にいるはずなのに、すぐ耳元でささやかれたかのように声が耳に入り込んで、霧野の痛みで馬鹿になってきている頭を強く支配した。

「お……、う…ふ…ぅ」

溢れた涎が、川名の靴を濡らし、舌がぐちゅぐちゅと音を立てながら彼の靴の表面をなぞった。自然と歯をたてないようにしていた。しばらくそうしていると、ようやく口の中から抜かれた。軽くせき込んで深く息を吸うが、口の中が川名の革靴の味と土の味でいっぱいで、呼吸をするほどに、涎が溢れ、吐く息と共に出ていっているはずなのに、何故か革の臭いが濃くなるのだった。かひゅぅ……と情けなくか細い声が出ていった。川名を目だけで見上げようとするが、頭を押さえつけられたままで、よく見えない。眩しい。

「どうした?申し訳ないと思っているのか?そういう時は素直に謝ればいいんだよ。俺の名前を呼びながら。簡単だろう、言ってごらん。」
「……も、もうしわけ、ありません、……川名様、」
「何が申し訳ない?」
「……川名様の、打擲から逃げてしまい……」

頭を掴む手の強さが強まり、地面にさらに頬が押し付けられ揺さぶられた。ひゅぅ、と息が漏れ、息を強く吸い込んだ拍子に土と苔の香りと革の匂いが頭の中を犯した。自分が地面に這いつくばっていることを五感で感じると、下半身の脈拍が強くなる。たら、たら、と、今度は震える下半身から涎が垂れていた。

「そうだな。お前は、俺に、自分の身体の状態について細かく説明しろと言われたのに、説明もせずに自慢げに身体を見せびらかしてきたと思えば、また、許可なく股間をデカくして俺に見せつけ発情を開始して、最悪だ。それを罰せられているというのに理解も感謝もせず、その上逃げようとして。何か弁明するか。」
「……もうしわけございません……」
「それだけか?」
「……つづき、つづきをよろこんでおうけします……」
「……。」
川名の霧野の頭を雑に掴んでいた手の、指の先端が、ほんの微かにだが、霧野の頭皮を擽ったように感じた。霧野のノイズがかった頭の中に小さな火が灯って感じたことのない感覚が脳の奥から全身に広がりかけた。
「わたしを、ばっしていただき、ありがとうございます、川名、様……、……ぁ」

手が、指が、離れていく。目の前、霧野の頭と川名の靴の間に何か落ちてきた。黒い首輪だった。

「お前が逃げないようにするための配慮だ。……自分で嵌めるか?それとも、俺に嵌めて欲しいか?」

はめてほしい、とでかかかって、下唇を噛んで口をつぐんだ。身体を起こし、黒い首輪に触れた。



報告書を電子メールでまとめて送り、霧野は大きく伸びあがりながら立ち上がった。
「……、……。」
カレンダーを眺め、その横の壁掛け時計は深夜3時を指している。
パソコンの画面を見下ろした。送信完了。
「誰なんだよ!てめぇらはよ!!」
吐き捨てるように言ってみたところで、返ってくるものはない。
「クソ……」

顔の見えない男達のために神経とリスクとプレッシャーと付き合いながら見返りを求めず淡々と調書を送り続けることに疲れていた。時に彼らの求める物とこちらの提供物が異なり、他人を通して叱責される。勝手をしては叱責される。そちらの世界に帰るために、自分が必死に報告書を送るという構図にも腹が立った。いっそ全部ぶち壊して、嘘を書いて送ってやろうかと思わないこともなかったが、木崎や神崎のことを考えれば冷静になれた。そして本来の目的、悪い奴らを捕まえ、ぶち込むための奔走と考えれば良かった。誰かのためにというならば、民のためである。これまた抽象的だ。そして、彼らから見返りは求めない。

では、自分のためと言いたいところだが、今の任務に就くために、今まで頑張ってきたわけでもない。見返してやろうという気力はある。しかし、これからのことも、本当に帰った後に地位が確約されるのかも生きて戻れるのかも不安であった。そう言った靄、憂さを、澤野として川名の下で晴らすように仕事をしていると気持ちがイイこと、これも認めたくない事実であった。反社会的な傾向を上の人間に見破られての左遷なのである。こうして霧野がキャリアの袋小路のようなイカれた任務に就いている間にも、同じ大学出の同期が順調に出世道を歩んでいるかと思うと、気が遠くなったし、嫉妬や苛立ちを覚えないわけはない。いくらか顔を知っているものもいる。例えば同じ学科であったひとり、彼よりも自分の方が明らかに有能である自負があるのに、人当たりのよい彼がずっと先を行く。霧野には永遠にゴマを擦って出世の道を歩む才能は無かった。もし、順調に出世コースに乗れば、最早現場に出ずっぱりにはならない。それは霧野の暴力性を鎮めるためにどうかというところもあるが、出世は出世で今度は政治的な闘争が始まると思っていた。そうした闘争の中で裁量権と権力を得ていくのだ。しかし、今やそのスタート地点にさえ立っていない。

「会わせてくれないんですか。」
「全部終わればきっと呼ばれるよ。流石に今会うわけにはいかないだろう。」

木崎は苦々しげに言った。指示をしてくる人間、報告を受け取っている人間を知りたいと相談したところで、どうにもならないのは木崎も同じのようであった。木崎に時々任務としてではなく、仕事が、気持ちがイイことがあることを相談しようかと思ってもできない。失望されるだろうと思うからだったし、信頼しているとはいえ、結局彼女も警察組織の一員で、もっと言えば霧野の監督官のようなものなのである。どこで何を言われているかわからなかった。それで帰還できなくなったら最悪である。全部終わる、終わりはどこなのだろうか。この旅の終わりは。

「……。そうだな、特定の誰かのために頑張りたいというなら、私のためにも頑張ってくれよ。もっと尽くしてくれ。こんないい女に尽くせるんだから冥利につきるんじゃないかな?ふふふ。」

木崎は冗談半分に慰めを言った。木崎のために頑張る。心の中で唱えてみた。上司であることを除けば、可愛い顔をした、ただの小柄な女だった。彼女のような人間が、身体を張っていることを自分を含めたごく少人数しか知らない。自分のすべては打ち明けられぬとしても、せめて、いつまでも彼女に敬意を抱いていたいと思った。

「まぁ、私よりもっといい女のために尽くしたいというなら、お前の彼女さん、まあ、もう違うんだろうしお前も執着していないだろうけど、その人のために、と考えるのもアリなんじゃ……あ、ごめん、まずかったかな。」

木崎が焦ったように言葉を撤回し、視線を逸らした。いえ、と言う自分の声が予想外にか細かった。そのまま、何か言わなければと思う、別れた女の顔がはっきりと頭に浮かんできたのを掻き消すように「もう忘れましたから、顔も。声も。」と木崎の顔を見た。彼女の丸い瞳を。

川名には、毎日会えるわけでもない。とはいえ、並みの構成員に比べれば会う頻度は遥に多い方だろう。いつまでたっても彼と会う時には、澤野の気分に入り込んでいたとしても身構えなければいけなかった。心臓を握られているような気分になるのだった。しかし、重圧の中で、彼に直接指示を受けること、指示通り、指示以上の成果を見せること、褒められること、それから、嘘をつくこと、これは彼からの重圧が大きければ大きいほどに、何か胸の奥を擽るものがあった。川名の部屋にふたりになった時、時々、彼の冷たい態度にほんの若干だが揺らぎが出る。美里や二条にも同じような表情を見せるのかもしれない。信頼されていると思った。

その日、霧野は川名に自分が如何に工夫して頑張ったのかを謙遜しつつもしっかり含めて、報告を続けていた。

「素晴らしいな。……しかし、どうだ、愉しいか?」
川名は仕事の報告を聞いた後、口元はそのまま目元だけを軽く微笑ませた。
「はい、今回のは」
「別に今回に限った話じゃないよ。」
「それは……、全部が全部愉しいなどと言ったらあまりにも嘘っぽいじゃないですか。」
「ふーん、じゃあ言い方を替えようか。俺に尽くすことができて、愉しいか?」
「……。」

霧野が答えに窮して黙ってしまうと、今度は川名の口元までもが軽く微笑むのだった。

「へぇ、答えられない?まあそうだろうな、お前風に言えば、即答したら嘘っぽいもんな。お前の働きの全ては、俺のためのもの。お前達が失敗すれば正当な罰を与えるし、お前達が成功すれば、正当な報酬を与える。とても分かりやすい、子どもでも獣でもわかる簡単な仕組みだ。それ以外の規制も決まりも求めることも、無い。わかるよな。」
「はい。」
「お前はよくやっている。お前は俺の一部なのだから、今までのように俺のために尽くしてくれよ。これからも。」
「尽くしてくれだなど、もったいないお言葉……、」
「尽くせ、の方が、お前には良いかな。」
「……はい、その方が心に良いです。」
「そうだろうと思った。」
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