堕ちる犬

四ノ瀬 了

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仕方がないだろう、犬なんだからな。それをいちいち叱ったらかわいそうじゃないか。

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大きな蛇を囲っているようだと白井は男を見て思った。ソファからだらりと模様のびっしり刻まれた太い腕が垂れているのに、よく見ればあどけない顔で眠っていた。時折眠りながら微笑んで寝言を言って、長い指が何かをまさぐるようにエロティックに動いていた。何と言っているのか、耳を近づけて聞き取ろうとするが難しかった。遠くで電話が鳴った。白井は部屋を出て、電話での用事を済ませて再び彼のいる部屋に戻る。男は起きていて、まさに部屋を出ようとしていた。

「まだ居たら?」

男は垂れ目がちの目をゆっくり瞬かせて、いやに優し気に微笑んで大丈夫だからと白井をどかそうとする。白井がどかずにソファの方に誘導するとやれやれといった調子でどさりと座り込んだ。白井はローテーブルを挟んで反対側のソファに腰掛けた。彼はまだ半ば眠りの世界に居るのか、空を見たり天井を仰いだりしていたが、身を乗り出して、白井を見、優しげな、どこかまだ半ば夢心地のようなとろんとした顔のまま言った。

「死にたいのか?」

身体が固まった。聴き間違いかと思った。彼は白井に聴き間違いではないことを証明するようにもう一度、少しゆっくりした調子で「死にたいのか?」と言って微笑んだ。

「なに、どういう意味?」

冗談か寝ぼけているかと思って白井は笑い飛ばしたが、男は表情を変えないまま白井の手首を掴んだ。妙に熱い。熱があるのではないか。

「放っておいてくれないと、近すぎる。」

「そんなに、私と関わるのが嫌か?」

男が首を横に振りかけ、やめ、真顔と笑顔の間当たりの曖昧な顔つきになった。しかし、だんだんと、炎のついた蝋燭が解けていくように、目の奥がとろんとして目の中が、彼の背後に迫る闇と同じような色になっていくのだった。

「俺じゃない……」
「はぁ?」

白井は、寝起きで普段以上に男がトんでしまっているのかと心配した。白井は彼のトんでいるところもなかなか気に入ってはいたが、今日はあまりにもトびすぎている。男は白井の心配などよそに続けた。

「駄目なんだよぉ、あまり俺と一緒に居ると、君が死ぬから。」

一緒に居ると死ぬ、性病かなにかだろうか。それとも深刻な病か。しかし今までそのような素振りも見せなかった。

「どういうこと?病気なの?感染症とか?」

ビョーキ、ビョーキねぇ、と、彼は小さく呟いて、くくくと笑って、そうかもなぁ~と、まるで他人事か、自分に言い聞かせるように言って俯いて空いている手で、頭を抱え、くしゃくしゃと引っ掻きまわした。俯いた拍子に彼の指と指の間に掴まれた頭髪の根元が見えた。暗闇の中でそこだけが、異様に白かった。彼は白井の手を引っ張りながら、おもむろに顔を上げ、また白井を見た。上目遣いがちのその瞳の中に、白井ではない別の何者かが宿っているように見えた。瞳は上弦の月のように細まって彼の白目の部分が少なくなった。

「俺の愛する人が、君を、殺しに来るということだ。」



平日のスーパーマーケットは空いている。それも、成城石井のような高価なスーパーはもっと空いている。そろそろ犬が退院する頃、また食材を買いそろえる必要がある。
美里は重い足を引きずるようにしながら家を出た。朝陽が眩しいとはいえ、もう正午も近かった。今日は夕刻から働けばいいはずなのに、何故犬などのために自分が、と徐々に腹が立って帰ろうかと何度も思ったがスーパーについてしまうと重い足取りはいつの間にか軽くなり、色とりどりの食材の間を往復していた。もともと自分が多くを食うことは好まないが、料理自体は好きなのである。一人で集中できる作業であり、無駄も無く、趣味として悪くない。それに、手っ取り早く弁当や総菜などを買おうとすると、どれも味が濃すぎたり脂が多すぎたりで、舌と臓器が不愉快であり、誰かさんと違ってとても嬉々として完食などできないのだった。結果として自分の手で調理する頻度が多くなっていった。

餌、基礎になるオートミールは元々美里が定期便で購入していた物だ。味覚が鈍いのか、鋭すぎるのか、強いていれば、淡白でキメの細かい食事が好きだが、毎日手間暇かけて食事をするほど食に興味はなく、他は必要な栄養さえ取れれれば十分だった。犬には、自分の物を分け与えればよく楽だと思っていたが、栄養が偏るようだった。犬の肉体の創りは美里とは異なっているのだ。いやらしい獣だから、たくさんのエネルギーを消費する。そして外の、特に二条なんかが苛烈な使い方をするからよくない。傷の回復には栄養と休眠が必須。大体病院行になったのだって、元はと言えば二条が悪いではないか。
しかし、所詮、犬の餌、美味しくてやる必要はない。ご褒美でもない限りは。寧ろできるだけ人間的でない物を与えてやらないと、自分が最悪の罪を犯した人間以下の存在という自覚が育たず、意味はない。栄養価がどうこうだとか、こうやって、わざわざ自らの脚でスーパーマーケットを歩き回ってやっていることを悟られたくなかった。

ささ身はなるべく新鮮なものを、赤卵やホウレン草、よく煮込んで柔らかくしたひよこ豆やタケノコ、カボチャなど、不足分のビタミン剤などと一緒にミキサーにかけて粉砕し、原型のわからぬ生臭く泡立ったそれこそ女の経血にも似た気持ちの悪いゲル。味見してみると、うまくはないが食えないわけでもなく、それ相応の、下等な獣に、よくお似合いの餌、生ゴミでもない、犬のくせに美里と同じものを食べられると考えれば、十分すぎる位のものだ。早朝にミキサーなどを回しているだけで、グロテスクな液体が攪拌されながら、ゴリリゴリリと良い音がして、見ても聞いても、その後のことを想像して、良い気分になって珍しく鼻歌のひとつでも歌うというものだ。

与えている内に、気色の悪い人間離れした餌と精液以外受け付けない哀れな畜生舌にしてやろうかと何度か思わないでもなかったが、それで味がわからなくなっても、あまり面白くなかった。澤野は美里に比べてると、欲望に忠実に随分食を愉しんでいたし、舌も、下等で貧相な警官時代より随分と肥えただろう。食事の度にいちいち密かに悦んで、意地汚いのだった。だからこそ、ただでさえ非人間的な見た目をした餌に、本人の目の前でぶっかけてやるのが一番屈辱的で良いのだ。

犬は、最初こそ、美里の体液の部分、それは唾液であったり、精液であったり、排泄物であったりした、を、避けて食べていた。しかし、途中から必ずしもそうとも言えなくなっていたし、残す場合にも理由ができていた。つまり、それらの体液は、体液として認識でき、味も大きくは変わらない。それから、食欲以外の部分の快楽と密接に結びつく。食の不快感を、性の快楽に置換できるのである。マゾとは、実に便利で愉快な仕組みをしていると思った。

はぁはぁと足元で大きなむっちりした裸の雄犬が餌皿に頭を突っ込みながら、情けなく伏せた身体の股の下で勃起している。情けないから勃起しているのか、どちらでも同じことだ。指摘すればもっと大きくする。さらに突っ込んでいる頭を踏んでやればもっともっと大きくする。癖なのか居心地が悪いのか、食べながら、たまに身体をもぞもぞと動かす。そういう時、地下が気候の関係で普段以上に蒸れていると、浮いた汗が珠になって溢れて背中や尻を滴り落ち、彼の姿を薄暗い地下の明かりの中で熟れた果実のように瑞瑞しい物にした。

最初に体液をすする時は、早く欲しいから、最後に体液をすする時は、名残惜しいから。どうしようもない堕落した淫乱だった。最初、体液の部分を噛まずに飲みこんで処理しようとするたびに打っていたので、今では25回以上噛んでいる。情けなく噛んでいる様子を見たく、顔をあげさせてみるとたまらなく身体が熱くなった。ずっと見て痛いと思うと彼は噛むのをやめていぶかしげに美里を見上げるのだった。

「どうした、止めていいと言ったかよ。」

目の前でまた頬を膨らませてくちゃくちゃやり始めるが、視線を逸らそうとするたびに頭を掴んで引き戻した。泣きはしないが、潤んだ目を細めた。何か文句を言いたいようだが、許していない上、どちらにせよ口に物が入っている状態では、いや、とも、わん、とも、自己主張できまい。

「まだ飲むなよ。」

唾液と体液と栄養とでいっぱいになった半開きの口の前に指を持っていくと、唇が緊張しながら軽く開き、指を入れると生温かく、ん、ん、とこらえ切れない声を吐息と共に出して、興奮したのか、床まで、涎でべちょべちょに汚し、自分の涎を餌皿の上に振り撒いていた。ぁぁと指をくわえながら勝手に絶望して高い声を出したので、顔面を平手打った。その際に唾液が手の平にべったりと付着した。

「きったねぇなぁ……」

犬の薄汚い身体で唾液を拭いとって、ついでに、すっかり膨らんでいた乳首を思い切りつねってやると、きゃっ!と鳴いていた。

「なんだなんだ?その情けねぇ鳴き声は、媚びてるつもりか~?ダセェな。それとも感じたんか?ん?」

犬は、わん、とも、くぅ、とも発さず、もちろんヒト語などはなさなかった。それから、一瞬さっきまでの己を醜態を忘れたかのように苛立たし気に美里を見て顔を伏せたのだったが、目の錯覚かもしれないが、どうも口の動きが「しね」と言っているように見えたのだった。さっきまでの欲望に忠実な淫乱の口は一体どこへ行ったのだろう。

「……何故貴様は……」

美里は本来1時間で切り上げようとしていた地下での作業を結局2時間半ほどに延長する羽目になり、川名を15分ほど待たせ、追々注意を受けることになったのだった。苛立ちは川名や自分というよりもちろん霧野に沸いた。いたぶる理由ばかり増えていく。

「食わせるだけなら、適当に喰わせて適当に褒めたらいいだろう。褒めてやれば丸く収まったんだ。それなのにお前が余計なことをするから、そうなる。単に躾をしたいなら後から時間を作ってやれよ。」

川名は一連の話を聞き終えて面倒くさげに言った。

「……なに、褒める?一体今の話のどこを誉めるって言うのです。」

川名は書き物をしていた手帳から目をあげてようやく美里を見た。

「犬がご飯をちゃんと食べたら褒めてやればいいんだ。唾液が出るのは当たり前だ、仕方がないだろう、犬なんだからな。それをいちいち叱ったらかわいそうじゃないか。ノアだってたまには空腹や興奮で、たらたらと、涎くらい垂らす。コミュニケーションのひとつ、可愛い物だ。先に躾をある程度終えているノアでさえそうなのだから、もっと駄目で仕方がないだろ。そりゃあところかまわず排泄するようなことだったら、赤子でもあるまいし、厳しく叱って一から躾け直して当たり前かと思うけどな。」

川名は同情するような顔をわざと作っていた。川名に口答えしようかと思いやめ、霧野の話は止めにした。口答えなどせずとも、己の中だけでわかっていればいいのだ。川名は美里に霧野の身の回りの世話をまかせたが、だからこそ、美里にしかわからないことがあるのだと思った。川名に対して秘密が増えていく。

そういえば、川名の皆を呼んだ店で、衆人環視の中、奴が生ごみを喰わされているのを見下ろしている時、こいつは一体今何を考えているだろうと思った。自分がそばに立ってやる必要があるだろうと思った。それが手助けになるのだ。口の神経は過激、まして奴の口は性器に仕立て上げたのだから仕方がない。そばに立ってやれば、犬はきっと、二人での普段の食事のことを思い出す。そうすれば、過酷な状況も、犬の快楽に置き換えて耐えられる。犬を事務所の外で飼ってみたら、犬は喜ぶだろうか。嫌々と言いながら、股間を大きくするさまが目に浮かんだ。

与える餌の、体液以外の、その他の可食部は、わけのわからない、味気ないか不味い泥のようなものなのである。必死に命を繋ごうと床の上で食事している姿をを思い出すと、気分が良くなって、もっと”良い物”を作ってやらなければと密かに思うのだ。食事を与えていると命を握っている感覚を思い出す。美里はスーパーに併設されたケーキ屋のシュークリームをとりかけて止めた。

こうしている今、犬が今何をしている、いや、誰に、何をさせられているのか、いちいち頭の片隅で気になったが、忘れようとした。美里は自分が何故スーパーに居るのかも考えないようにしながら、機械的に栄養価の高そうな旬の食材を集め続けた。気が付けば使えきれぬほどの量になっているというのに、気が付けない。あまりに考えすぎていると思った。しかし今、他に考えることも思いつかない。仕事のことも人間関係も将来も考えるのがおっくうだ。次々にマイナスな考えが浮かんで消える。大体、犬というのは普通、帰ったらそこに居るものではないのか。そうやって疲れている人間を癒すのが犬の最低限の仕事なのだ。何も考えたくなくなってくる。

丁度その時、美里の気を散らすように、レジに見覚えのある男が見えた。服装から最初判らなかったが、真っ黒い無地Tシャツにクリーム色のチノパン、紺のエアマックスを履いた久瀬であった。猫背気味になって買い物かごを掴む細身の手、その指の間にメモ用紙が挟まっており、奥さんのお使いだということが一目でわかった。他に空いているレジを無視して美里は彼の背後についた。微かに珈琲の香りがした。

会計をしながら、久瀬は一瞬横目で美里の方を見たが目を逸らして無言のまま白々しく虚空を見ていたのであった。美里が会計を済ませる頃、カウンターで久瀬が食材を半分ほど袋に入れたところだった。買い物袋はパンパンだ。美里は彼の隣に籠を置いた。久瀬はちらと籠の中身を見た。

「なんだ?犬の餌か?」

久瀬は分厚い牛肉の入ったパックを薄いビニール袋の中でいれながら、気力の一切感じられない低い声で言った。美里が黙っていると、久瀬はようやく探るようにして美里の方を向いた。相変わらず青白い顔を歪めた。

「普段奴に何を与えているか知らないが、また、食事の場に直接呼ぶよう計らって欲しいな。俺が旨いもの食べさせてやるのにな。お前がいちいち作ってやるのも面倒だろう。別に事務所の俺達の部屋にでも侍らせといてくれたっていいんだぜ、余った残りかすでもくれてやる。ゴミも減るし、エコだな、エコ。大体そっちのが奴も悦ぶんじゃないのか?」
「旨い物なら十分与えてる。十分すぎるほど……」

犬は久瀬達などに与えられる人間の食べ物などより、もっと別の物を好むようにしなければいけない。

久瀬はいぶかしげな顔をして、やれやれと言った風に再び自分の作業に戻った。美里が長財布を閉じると同時に、するりと一枚紙片が飛び出て、久瀬の籠の方に滑り込んだ。久瀬は何気なく手に取った紙片を手の中で丸めようとしてから、おや、という様子で開いて、じっとりと見入り始めた。美里はそれが何だったか、久瀬の手の中を覗き込んでようやく思い出した。矢吹から貰った公演のチケットだった。

「興味があるならやるよ。公演があるかどうかしらねぇけどな。」

美里は半笑いでそう言ったが、チケットを眺める久瀬は美里の半笑いには気が付かないようだった。

矢吹を、彼の自室に上がり込んで手酷くレイプしたこと以外の彼との関係を久瀬に伝えながら、食材を袋詰めしていった。久瀬は、以前たまたま矢吹の出演作、それはアングラ映画の端役であったらしいが、を、見てから矢吹に関心を抱いており、忍ぶように舞台を観に行ったこともあったという。無関心な美里に対して、もったいないだとか十年に一度の天才だとかどうでもいい話を気楽に続けた。頭の奥の方がキリキリし始め、平日の昼間から気楽な服装で一般人さながら暢気に買い物をし家に帰れば、妻や子供が居るのかと思うと苛々した。それで犬に餌付けまでしようとして、何様のつもりなのだろうか。

美里はよほど久瀬に、矢吹が如何に美里にとっては最悪な人間であり、めちゃくちゃにしてやったので、そもそも今、舞台に上がってこれるかもわからない状態というようなことを言おうか迷った。目の前の男がどういった反応をするのか見てみたい気もしたが、意外と俺も混ざりたいなどというのだろうか、しかし、今じゃないな、と思って心のうちに欲望をひそめた。

「何だよ……その無関心な顔は。まあ、いつものことか。」

久瀬はひとしきり話し終わった後、言った。久瀬は美里の苛立ちに気が付いているのかいないのかあいまいな笑み方をして食材のつめられた袋を手に持った。

「だって、ひとっつも興味ねぇからな。興味ねぇって顔しちゃいけねぇの~?」

ただ一つ、興味があることとすれば、久瀬が、矢吹を輪姦すような機会があったらのってくるかどうか位。美里自身は矢吹に、霧野の代用品の穴とする以外には一切の性的欲望も魅力も感じていなかった。それでも敢えて輪姦というのは、美里が矢吹を使った時に、久瀬がどう思うのか、それから、久瀬がどういう風にして自分の愛着のある人間を犯すのか、犯すことができるのか、見てみたかったからだ。

「お前は接客に向いていないな。」
「……」
「他意はないよ。」

久瀬は対一般人用の微笑み方をして美里を見た。一見好印象だが長い間見ているとうすら寒くなってくる。こうして見るとヤクザ者には見えないのであった。傍から見れば、久瀬が美里に絡まれているように見えるのかもしれなかった。



公衆の場、しかもヤクザの幹部会の中で隠れてとはいえ、ギンギンに勃起した欲情棒を露出させられたことで、霧野は頭の中を真っ白にさせられながら、会を過ごした。バレたらどうしようで頭がいっぱいになりながら、何を言ったかもよくわからないオートマチックな澤野の発言の後、場でまた二三あり、ペニスを手放されて、少しずつ隆起が収まっていったが、卑しい淫棒はいつまでも、居心地悪そうにどくどくと股の間でいやらしく存在を主張し続けた。収まれ収まれと霧野が思うほどに、次を期待して考えるより先に身体が疼いた。どうでもいい、出したかった。もし、今ここで、発射してしまったら一体どんなことになるだろう。霧野の視線は、何もないテーブルの上を不自然に何往復もして彷徨っていた。さぞ、気持ちいいに違いないと自然と顔が緩みかけて、ハッとして、自分で自分の太ももの辺りに強く爪をたてていた。

会がお開きになり、川名だけが個人的に呼び出され、奥の間へ消えていった。以前会に同行した時も同じように彼だけが呼ばれて、三十分近く彼の帰りを待ったのだ。それを他の組の人間の特に頭に近い人間ほど、忌々し気な目で見たり、いぶかし気な目で見て、噂するのだった。自分達を差し置いて一番最初に抜け駆けとは何事かということだろう。どこもかしこも、幼稚で陰湿な社会だった。

霧野は、川名一人だけが、他の者を差し置いて進もうとする姿勢を捜査官としても、彼の配下の人間としても、好感を持って観ていた。彼が邁進して権力を大きくするほどに、霧野の捜査範囲や影響範囲も大きくなることになる。帰還した時の成果が大きければ大きいほどに、連中を見返してやることになり、いやでも霧野に、良いポジションを与えざるを得ないに違いないのだ。彼の配下の一員として、見ていて清々しい気持ちになるのは、興味や利益が無いと見定めた人間にたとえポジション的に上であろうと全く取り合わず、飛び越えていく様子などだ。陰でどれほど陰残に手回しをして手を赤く染めていたとしても、結果としてはクリーンに物事は進む。そう、クリーンに進み、彼の配下の人間として凄いと思うと同時に、裏を返せば、捜査官としてあら捜しをしなければいけないのに、川名本人は簡単に尻尾は出さないので歯がゆさを覚えた。

二条と待合の和室の一室で彼を待つことになる。ここにも大きな楡の木で作られた分厚い座卓と、四つの座椅子がしつらえられていた。座卓の上に、翡翠でできた小さな灰皿が一つ置かれている。三方は、襖と障子で囲まれ閉め切られていた。光の差し込む方の障子を開ければ、縁側があるだろう。しかし、二人で使用するには少し広すぎる部屋であり、居心地が悪い。

手を出されるかと思ったが、彼は何も言わず大儀そうに座椅子に身体を預け、懐から古びたカバーのついた文庫本を出して読み始めた。霧野は畳の上に立ち尽くしながら、なぜ、と口まで出かかって、拳を握りなおした。おかしいではないか、何故公衆の面前で人様の身体を無遠慮にまさぐり、今誰もいない、二条と霧野しかいない床の間で、ひとり自分の世界にこもるのか。霧野は二条と差し向い座椅子に静かに腰掛けた。二条と違って手持ち無沙汰でポケットをまさぐると渡しそびれた煙草の箱に指が当たった。こいつは会話のよい理由ができた、と、煙草を取り出し座卓の上に置き、彼の方に差し出した。

二条は本から一瞬目をあげて「ああ」と言って手を出しもせず、視線を戻してしまう。霧野がやきもきしていると二条は本を読みながら、懐を探りジッポライターを出し、こと、と、座卓の上に縦にしておいた。

「ほとんどお前の金で買ったようなもんなんだから、遠慮せず、吸えばいい。」

霧野はしばらく分厚いライターを見下ろしていたが、黙って煙草を拝借し火をつけた。薄く煙が立ち上る。煙を吐きながら、まだ灰の一つも落ちていない水面のような深緑色の灰皿を見下ろし、それから二条を見て、こいつで、頭をかち割って殴り殺してやろうかと思った。視界が紫煙で濁っている。しかし、一撃でヤるには重量が足りないだろうし、それくらいのこと、二条ならばこの部屋に入った瞬間から考えている。久しぶりのヤニで頭の奥にくらくらとした感覚、それから脈拍の上昇を感じた。

「何を読まれているのです。」
自分で、何を言うかと思えば、そんなことが白々しく口を突いて出て笑えた。もっと他に言うことがある。鏡を見なくても、勝手に卑屈に顔が笑っているのがわかる。二条は顔をあげない。
「谷崎の短編だ。」
「昔からお好きなんですか。」
「いや、学友に勧められてから今もたまに読んでる。ああ、まあ、昔と言えば昔かな。」
霧野はそれ以上普通の会話を進めるのが嫌になり、また煙草を口に持っていった。霧野が黙ると、二条も何も言わなくなる。白々しい空気の中、火が煙草の根元まで届き、霧野は目の前の灰皿に煙草を擦りつけた。深緑の灰皿の底がが灰に塗れて汚れた。

「用を足しにいってきていいでしょうか。」

嘘ではなく、本当に会の途中から微かに尿意がきていて、耐え切れなくなったのだった。二条に許可をとろうとするが平然と「駄目だね」と返される。逃げる考えも無く、心配ならば付き添ってくれて構わないと続けたが、しけた目をして本を読んでおり、全く取り合ってくれない。

「組長が戻るまで待てよ。もうすぐだろう。」
「……」

五体を動かせ、自由であり、戒めはあれど、先の戦いのように生き生きと身体を動かすこともできるのに、トイレの一つも己の意志では自由にできず、尿意とは別にじーんと下腹部が温かく痛むのだった。ひくんひくんと尿道の先端が収縮し、不自然な姿勢で座り込んでもじもじと耐えていた。気を紛らわせるためにもう一本吸って頭をぼんやりとさせていた。二条のワイシャツの釦がいつもより一つ多く外れているのに気が付いた。深い鎖骨の窪みの下の彼の筋肉質で艶やかな肉体の一部が見えていた。紫煙の香りと井草の香り、微かな雨の匂いがしていた。
もう少しで吸い終わるなというところで、徐に襖が開き、川名が顔をのぞかせ二人を見下ろした。

「帰るぞ。」

霧野が慌てて煙草をもみ消す間に、二条が本を閉じて立ち上がり、「遥が、トイレに行きたいらしいのですが。」と言った。川名は二条から、立ち上がりかける霧野に視線を動かした。そして、和室に足を踏み入れ後ろ手に襖をぴたりと閉めてしまった。ようやく立ち上がった霧野の前に川名が立ちはだかった。

「どっちだ。」
「え」

霧野は、急に自分から人権がまた剥奪されかけているような感覚に陥った。見られているだけと言うのに。それから、川名の言葉の意味を遅れて理解して「小さい方です」と素早く小さな声で言った。

川名は霧野を通り越して和室を横ぎり、縁側の障子を開いた。光が飛び込んで、屋敷を囲む塀が見えたが塀の手前、縁側の先に、15平米ほどの和調の庭がしつらえられていた。縁側は隣の部屋の方まで続いて折れ曲がっていて廊下のようになっている。誰か来る気配はなく、しん、としている。

「ほら、そこでしておいで。」

川名は、さっきまで霧野が座っていた座椅子の隣の座椅子に腰掛けた。それから何も言わず、庭の方を眺めている。人の家ですよとか、何故とか、様々なことを思った霧野だが、ここで歯向かって永遠トイレに行かせてもらえなくなる、漏らすよりはさっさと出してしまおう、と中庭に降りようとするが、サンダルやつっかけというものがない。仕方がないから、汚れては気持ちが悪いであろう靴下を脱ぎ、裸足になって降りた。足の裏で土の感触を感じていると、野外での淫な出来事が頭に思い浮かんだ。二人の視線を感じながら、部屋に背を向け、最も大きな庭石に向かって立小便をしようとした。

「違うだろう。」

背後から静かに声が降ってきた。振り返る。いつの間にか川名が立ち上がって、部屋と縁側の境まで出てきていた。庭は、縁側から一段大きく下がっており、立っていても、いやでも彼を高く見上げる形になるのだった。

「黙って見ていれば、人様の家の庭石に上からひっかけようとは何事だ、痴れ者が。やるなら、そこにしゃがんで、お前の尿の出る様子がこちらにしっかり見えるよう、よくよく股を開いてやれ。さもなければ、お前は今のように、ところかまわずひっかけようとするのだからな。なるべく飛沫を飛ばさんように静かにやれよ。ちゃんとできるか見ていてやる。」
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