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第四幕〈クラウド〉
宿主と龍の御徴 10
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ナーガ黎明期の終わり。
龍の皇女が東の国境河川を整備すべく赴いたのち、終生をこの地で過ごしたことからカムリ家は誕生した。
当時は皇女からの公爵。代を経た現在は辺境伯爵だが、そもそもは金の眸を生まれ持った双子の片割れが始祖だ。
金の眸に双子。
はっきりと因縁めいているような。単なる偶然の一致のような。
どちらにせよ、そんな大層な昔話も拍車を掛けてか、カムリ辺境伯は現在の皇族方においても少々特殊な――あるいは特異な、存在だと言えた。
「それ故か、其方の妃候補の筆頭はノマド宮のシュリだそうだな。…政略とは得てしてそういうものではあるが」
「あんたとしては推奨しかねるって口振りだな」
「…しかねるどころか」
不満そうな帝に対して、当のクラウドは他人事のように返した。
「まあ、血統だけなら良くも悪くも文句のつけようがないよな。だからこそ普通にそこらへんの貴族に降嫁させるのは宜しくない。とはいえ皇族の傍流でもそれは同じ。…正直なとこ、ノマドにしてみりゃ政略を超えた渡りに船だったんじゃねえの。シュリの嫁ぎ先が皇族以外の、次代の龍王、なんてのは」
「…あくまでも事の顛末として、そこだけを切り取ればそうだがな」
ノマド宮家の姫君シュリは、その出生と血統に看過できない瑕疵がある。
永い歴史の支配階級ではさほど珍しくもないが、問題であることに変わりはない。そういうたぐいの瑕疵だ。
関係者相手では憚られるそれを、しかしクラウドはあっさりとくちにした。
「同じ父方の血をひく歳の近い叔父と姪、いうまでもなく婚外子、不義密通。――秘密裏に処分されなかっただけマシだと思うけど?」
「存えたのは幸いだった。しかし嫁ぎ先の男が如何ともしがたいとは思わんか?」
「さあ?」
当の本人がどの面下げて「さあ?」だ。
シュリはライエン帝にとって、可愛い孫姫だが、同時に曾孫姫でもある。
しかし他の姫君と同じように遇するには、出生の瑕疵ゆえに厄介な存在だった。
そのため一度は城下の寺院に預けられ、ごくあたりまえに市井と接する日々の中で過ごしていたという。
それが急転したのはシュリが八つになった頃、正確に言えばクラウドが九つの誕生日を迎えた日のことだ。ライエン帝の勅言をもって、カムリ・クラウドが正式な龍王候補と定められたときだった。
正しく龍の皇女の末裔とはいえ、すでに皇族ではないカムリ・クラウドが次代の候補になったとなれば。
濃すぎる血脈ゆえに貴族への降嫁は憚られる、というシュリの事情が、棚上げに出来るどころが最大の強みになる。
何しろ龍王の妃はすべからく皇族の姫であり、その血脈が正統であればあるほどに後宮での地位は高い。仮に金眼の世継ぎに恵まれなくとも、龍王の子宝に恵まれるだけでも立場はまったく違ってくる。
そこからシュリの日常は劇的に変わった。
城下の寺院に預けられていたとはいえ、シュリは姫君としての教育もきちんと施されてはいた。けれどそれはあくまでも、ごく一般的な貴族令嬢の教養や作法程度だ。
それが突然、今日から皇宮で暮らしますよと言われても、である。
治安も生活水準も高い城下の寺院ではあるが、だからこそ日常生活は程よく市井にも近く、八つのシュリはごくごく普通に育っていた。
実父にあたるノマド宮家に引き取られ、皇族籍を賜わり、身辺がめまぐるしく変わっても。三つ子の魂百までというか、はたまた氏より育ちというか。
十七の可愛らしい姫君に成長した現在も、見目麗しい貴公子にきゃーと舞いあがることもあれば、うっかり姫君業を忘れて町娘のノリになってしまうこともある。そういうふつうの少女だった。
なのでクラウドと初めて会ったときも、やはり彼女はああいう反応だったそうだ。
特にはしゃいだりはしないが、内心では黄色い歓声をあげていて、それがひしひしと伝わってくる。
良くも悪くも腹芸には向かない、というのがシュリの人となりと言えそうだった。
ここまでがクラウドから聞いたシュリ姫の話だ。
レスタはふうんと頷いた。
「…――で、妹みたいに可愛がってたわけだ? クラウドお兄さま?」
白々しいレスタの笑みにクラウドはふんと鼻で返した。
「まあ妬くな」
「いや妬いてはいないけどな?」
お兄さまが謎のツボだっただけだ。
衝撃というか、笑撃というか、予想の斜め上すぎてうっかり笑い損ねたというか。
まあ聞いたところ、シュリの歳はクラウドのひとつ下らしいので、年齢だけを考えればたしかに「お兄さま」ではある。
しかしまさかのクラウドお兄さま。――やっぱり笑っとこうかな。
何しろ今も笑いに似た衝動でレスタの腹と頬はひくひくしている。
シュリの「お兄さま」発言のあと、迷路庭園まで迎えにきたクラウドはそのまま三人で散策路を歩いた。
至るところに水路を配した景観は気温調節にも効果を発揮しているようで、暑さにうだることなく茶会の広間に戻ってきたところだ。
そのあとはセイラのいる席にシュリを届け、代わりにリヒトを返してもらった。
クラウドが適当なテーブル(程よく目立つのに程よく距離のある、皇族に準ずる上座の席だ)を選んで腰を落ち着けるなり、周囲の貴族たちからのご機嫌伺い的表敬訪問を受けることになったが、それらを順に捌いたのは最初から最後までリヒトだった。
当のクラウドはもっぱら首肯ひとつで受け流すという、それはもう何というか、横柄と言うにはあまりに堂に入った風格を放っていた。
殊更そういう意図で演じているのでも、装っているのでもなく、クラウドはもともとこれが素だ。そこが少しレスタとは違う。
そんなクラウドの圧倒的な威風を誰もが畏れ、あるいは憧れているようだった。
龍神の宿主という文字どおりの神懸かりに、知る者はもちろん、知らぬ者こそ自然と身を竦ませる。
レスタとしては、この威風をこそ心地よく感じているのだが、――さて。
くだんの姫君は兄のようにクラウドを慕っているという。
リヒトではなくクラウドを。兄のように。
「…お兄さま、」
限界だった。レスタは顔を伏せて、必死に笑いの衝動と戦う羽目になった。
「…おまえな、」
「まあ、笑えるのは分かる」
静かにむせび笑うレスタにクラウドは呆れ、リヒトはうんうん頷いている。
いつもなら窘める役どころのリヒトがこうなので、クラウドもちょっと遠い目だ。
「あれはあれで処世術だと思えよ」
「先々の後宮…というか女の戦いを見据えてか?」
代わりにリヒトが問うた。レスタはまだ笑っている。
「それもあるだろうし、俺に対してもそうだろ。性格的に色恋の駆け引きがそもそも向かないのもあるんだろうが」
「…ああ、なるほど。たしかに媚びや秋波とはまだまだ縁遠そうだよな」
「それについてはレスタも言えるけどな」
「ん?」
レスタはきょとんと小首を傾げてみせた。
「俺がなに」
「さて何でしょう。…あ、そういやおまえに会わせときたいのが何人かいたんだよな」
クラウドはしれっと話題を変えたが、レスタはリヒトに向き直って声をひそめた。
「…ド直球で押してきたクラウドが何か言ってますが」
「ド直球…、そういえばそんな感じだったよな、二年まえ」
「うん。リヒトが知ってる範囲をはるかーに超えてド直球だった」
「いや、馴れ初め聞いたから何となくは想像つくけど…」
「あ。馴れ初めと言えば、絵」
「え?」
「絵を――」
「レスタちょっと黙ってろ」
途端にレスタはぴたりと黙った。
低く平坦なクラウドのひと声に、リヒトも続いて居ずまいを正した。
そもそも会話の内容からして周囲に聞こえるような声では話していない。
ということは、黙っていろというのは文字どおり、発言するな、という意味だ。
リヒトはさり気なくレスタを見やった。
親しげな空気を沈黙で消し去ったレスタは、かれを知るリヒトが見ても人形のように優美で典雅で、華麗そのものだ。
感情らしい感情はおもてに出さず、強いていうなら穏和な無表情。おかげで容姿の美しさがよりいっそう際立って見える。
「………」
なるほど上手いよな、とリヒトは密かに感心した。
今日のレスタは牡丹のような大輪の花だ。豪奢なのに華美じゃなく、目映いのにどぎつくない。
穏和な無表情を貼りつけて、貴公子然と振る舞うお行儀のよいレスタは、果たして周囲の目にどう映っているのやら。
先ほどリヒトが表敬訪問を捌いていたときも、レスタはクラウドの傍らでこんな感じだった。何というか、絶妙に曖昧な距離感というか、親密度というか。
クラウドもレスタも、どちらも目立ちすぎるほどに目立つからこそ、見る者の考え方次第で的外れな関係にも映るかもしれない。
まあ何にしても、ぶ厚い猫かぶりのレスタというのは面白い。
「…さて、古狸のお出ましだ」
彼らの視線の先、控えめな靴音を鳴らして近づく人物はふたり。
ひとりは背の高い若い男で、華やかな場に相応しく優美な貴婦人を伴っている。
そしてもうひとりの男は、広間に踏み入るなり迷わずこちらに視線を定めてきた。
「これは美しい方をお連れですね、龍の太子殿」
若い男、――ではなく、先手を打つように声を掛けてきたのは、老成した大人の男のそれだった。
「宰相閣下…」
すべてをこちら側から眺めていたレスタたちとは違い、その声にびくっと肩を揺らしたのは若い男のほうだった。
声の主を振り向いた男は、声に少しだけ恨みがましい響きを滲ませた。
横からいきなり挨拶の第一声を邪魔されたのだから、当然といえば当然である。
「おや、これは失礼いたしました。――アトール殿にも、太子殿とお連れの方にも」
「…いえ、こちらこそ」
謝罪されては無碍にも出来ず、男は丁寧な会釈でそれに応えた。
「宰相殿とこちらの茶会でお会いするのはめずらしいですね」
「中座ですよ。太子殿がお出ましとお聞きしたので」
「ああ…、なるほど」
つまり先を譲れということだろう。若い男、イズナ・アトールはひとつ頷いてその場を譲った。
「ありがとう」
鷹揚な笑みを浮かべた宰相は、流れるような動作でクラウドに深い一礼を奉じた。
慇懃といえば慇懃で、丁寧といえば丁寧な、仮に宰相の胸のうちがどうだとしても、唯一の次代龍王に対する崇敬はきちんと表われていた。――と、観察していたレスタは思った。
もちろんそれも含めて、ここまではレスタもクラウドも想定内だ。
「龍の太子殿にはご機嫌うるわしく存じます。ご挨拶をと思い、お役の場を中座して参りましたこと、何卒ご寛恕いただきますよう…」
「議会はともかく、懇談会なら咎める声もないだろう」
宰相が懇談会を中座してくるだろうことは予想していた。
それが早ければレスタにもクラウドにも会えるだろうし、遅ければ余韻だけの肩すかしで終わる。
クラウドとしてはキラッキラの余韻だけを残して早々に去るのもいいかと思っていたが、ここまで完全武装のレスタを相応の場で見るのはクラウドも稀だったので、まあこの際どっちでもいいか、と考え直したところだった。
実際、今日の目的は直接間接にかかわらず、宰相にレスタの「余韻」を印象づけることにある。
それは日をあらためて周囲の話を聞くのでもいいし、直に対面するのでもいい。
宰相が自ら後者を選んだのなら、思惑はどうあれ興味はあったということだろう。
くだんの、カムリ家の「客人」に。
なら、あえてここでは席は勧めないな、とレスタが考えたところで、クラウドが続けて言葉を発した。
「今日はこのあと友人に割く時間を設けている。ここで貴殿に席を勧めることはしないが、かまわないな?」
疑問系を用いた念押しは嫌も応もない。
中座にも横入りの挨拶にも寛容に応じたクラウドに対して、ここでさらに宰相から同席を願い出るとなると、さすがに少々厚かましい。そんな構図のできあがりだ。
そして宰相もそこまでの不躾は当然しない。
「――勿論ですとも。この場はご挨拶のみにて失礼いたします。…リヒト殿も、先日はご足労ありがとうございました」
「こちらこそ。慌ただしい対応で失礼いたしました」
水を向けられたリヒトも丁寧に応じた。
先日どころか昨日の今日の話だけどな、なんてことは誰もおくびにも出さないのがお約束だ。
そしてその呼び出しの目的が、今まさに宰相の目のまえで燦然と佇んでいる人物だとしても、誰も何も言わなかった。
そもそも、紹介もされていない貴人の連れを正面から見るのは、同じく高位の立場であっても当然無礼だ。
しかし宰相側から問うわけにはいかない。紹介を受けるにしろ宰相が自ら名告るにしろ、この場ではクラウドの許しがいるからだ。
そして当のクラウドにそんな気は微塵もなかった。
たとえこの場に居合わせた誰もが興味津々でも、思いきった誰かが紹介を請うてきても、クラウドに応じる義理があるとしたらそれは帝ぐらいだろう。
だからレスタも、優雅で穏和な無表情を貼りつけて、広間じゅうの注目を丁寧に無視していた。
いつもの高飛車ドヤ顔が鳴りを潜めているだけで、完全武装のレスタは陶器のお人形ばりに綺麗だ。
性別など軽く凌駕して、なるほどこの方が龍太子殿のお気に入りか。と問答無用で納得させられる程度には。
かといって、ここですんなり引き下がる宰相殿でもないようだったが。
「…ご紹介には及びませんか?」
やんわりと、だが率直に、宰相はクラウドに問うてきた。
レスタを指し示す言葉はないのに、婉曲どころか端的かつ直球だった。
だからクラウドもまっすぐに宰相を見据え、長い脚を組み替えながら物騒な笑みで答えた。
「そうだな。必要ない」
面白がっているように見えて、その実クラウドも不愉快だったのかもしれない。
ここでようやくリヒトはそれを悟った。
だからレスタは完全武装を決め込んで、この状況を面白がってみせたわけだ。
ちゃんと付き合うけど、どうせやるなら面白がれよ、とでも言うように。
そう。そういう奴らだった。リヒトの知るレスタもクラウドも。
龍の皇女が東の国境河川を整備すべく赴いたのち、終生をこの地で過ごしたことからカムリ家は誕生した。
当時は皇女からの公爵。代を経た現在は辺境伯爵だが、そもそもは金の眸を生まれ持った双子の片割れが始祖だ。
金の眸に双子。
はっきりと因縁めいているような。単なる偶然の一致のような。
どちらにせよ、そんな大層な昔話も拍車を掛けてか、カムリ辺境伯は現在の皇族方においても少々特殊な――あるいは特異な、存在だと言えた。
「それ故か、其方の妃候補の筆頭はノマド宮のシュリだそうだな。…政略とは得てしてそういうものではあるが」
「あんたとしては推奨しかねるって口振りだな」
「…しかねるどころか」
不満そうな帝に対して、当のクラウドは他人事のように返した。
「まあ、血統だけなら良くも悪くも文句のつけようがないよな。だからこそ普通にそこらへんの貴族に降嫁させるのは宜しくない。とはいえ皇族の傍流でもそれは同じ。…正直なとこ、ノマドにしてみりゃ政略を超えた渡りに船だったんじゃねえの。シュリの嫁ぎ先が皇族以外の、次代の龍王、なんてのは」
「…あくまでも事の顛末として、そこだけを切り取ればそうだがな」
ノマド宮家の姫君シュリは、その出生と血統に看過できない瑕疵がある。
永い歴史の支配階級ではさほど珍しくもないが、問題であることに変わりはない。そういうたぐいの瑕疵だ。
関係者相手では憚られるそれを、しかしクラウドはあっさりとくちにした。
「同じ父方の血をひく歳の近い叔父と姪、いうまでもなく婚外子、不義密通。――秘密裏に処分されなかっただけマシだと思うけど?」
「存えたのは幸いだった。しかし嫁ぎ先の男が如何ともしがたいとは思わんか?」
「さあ?」
当の本人がどの面下げて「さあ?」だ。
シュリはライエン帝にとって、可愛い孫姫だが、同時に曾孫姫でもある。
しかし他の姫君と同じように遇するには、出生の瑕疵ゆえに厄介な存在だった。
そのため一度は城下の寺院に預けられ、ごくあたりまえに市井と接する日々の中で過ごしていたという。
それが急転したのはシュリが八つになった頃、正確に言えばクラウドが九つの誕生日を迎えた日のことだ。ライエン帝の勅言をもって、カムリ・クラウドが正式な龍王候補と定められたときだった。
正しく龍の皇女の末裔とはいえ、すでに皇族ではないカムリ・クラウドが次代の候補になったとなれば。
濃すぎる血脈ゆえに貴族への降嫁は憚られる、というシュリの事情が、棚上げに出来るどころが最大の強みになる。
何しろ龍王の妃はすべからく皇族の姫であり、その血脈が正統であればあるほどに後宮での地位は高い。仮に金眼の世継ぎに恵まれなくとも、龍王の子宝に恵まれるだけでも立場はまったく違ってくる。
そこからシュリの日常は劇的に変わった。
城下の寺院に預けられていたとはいえ、シュリは姫君としての教育もきちんと施されてはいた。けれどそれはあくまでも、ごく一般的な貴族令嬢の教養や作法程度だ。
それが突然、今日から皇宮で暮らしますよと言われても、である。
治安も生活水準も高い城下の寺院ではあるが、だからこそ日常生活は程よく市井にも近く、八つのシュリはごくごく普通に育っていた。
実父にあたるノマド宮家に引き取られ、皇族籍を賜わり、身辺がめまぐるしく変わっても。三つ子の魂百までというか、はたまた氏より育ちというか。
十七の可愛らしい姫君に成長した現在も、見目麗しい貴公子にきゃーと舞いあがることもあれば、うっかり姫君業を忘れて町娘のノリになってしまうこともある。そういうふつうの少女だった。
なのでクラウドと初めて会ったときも、やはり彼女はああいう反応だったそうだ。
特にはしゃいだりはしないが、内心では黄色い歓声をあげていて、それがひしひしと伝わってくる。
良くも悪くも腹芸には向かない、というのがシュリの人となりと言えそうだった。
ここまでがクラウドから聞いたシュリ姫の話だ。
レスタはふうんと頷いた。
「…――で、妹みたいに可愛がってたわけだ? クラウドお兄さま?」
白々しいレスタの笑みにクラウドはふんと鼻で返した。
「まあ妬くな」
「いや妬いてはいないけどな?」
お兄さまが謎のツボだっただけだ。
衝撃というか、笑撃というか、予想の斜め上すぎてうっかり笑い損ねたというか。
まあ聞いたところ、シュリの歳はクラウドのひとつ下らしいので、年齢だけを考えればたしかに「お兄さま」ではある。
しかしまさかのクラウドお兄さま。――やっぱり笑っとこうかな。
何しろ今も笑いに似た衝動でレスタの腹と頬はひくひくしている。
シュリの「お兄さま」発言のあと、迷路庭園まで迎えにきたクラウドはそのまま三人で散策路を歩いた。
至るところに水路を配した景観は気温調節にも効果を発揮しているようで、暑さにうだることなく茶会の広間に戻ってきたところだ。
そのあとはセイラのいる席にシュリを届け、代わりにリヒトを返してもらった。
クラウドが適当なテーブル(程よく目立つのに程よく距離のある、皇族に準ずる上座の席だ)を選んで腰を落ち着けるなり、周囲の貴族たちからのご機嫌伺い的表敬訪問を受けることになったが、それらを順に捌いたのは最初から最後までリヒトだった。
当のクラウドはもっぱら首肯ひとつで受け流すという、それはもう何というか、横柄と言うにはあまりに堂に入った風格を放っていた。
殊更そういう意図で演じているのでも、装っているのでもなく、クラウドはもともとこれが素だ。そこが少しレスタとは違う。
そんなクラウドの圧倒的な威風を誰もが畏れ、あるいは憧れているようだった。
龍神の宿主という文字どおりの神懸かりに、知る者はもちろん、知らぬ者こそ自然と身を竦ませる。
レスタとしては、この威風をこそ心地よく感じているのだが、――さて。
くだんの姫君は兄のようにクラウドを慕っているという。
リヒトではなくクラウドを。兄のように。
「…お兄さま、」
限界だった。レスタは顔を伏せて、必死に笑いの衝動と戦う羽目になった。
「…おまえな、」
「まあ、笑えるのは分かる」
静かにむせび笑うレスタにクラウドは呆れ、リヒトはうんうん頷いている。
いつもなら窘める役どころのリヒトがこうなので、クラウドもちょっと遠い目だ。
「あれはあれで処世術だと思えよ」
「先々の後宮…というか女の戦いを見据えてか?」
代わりにリヒトが問うた。レスタはまだ笑っている。
「それもあるだろうし、俺に対してもそうだろ。性格的に色恋の駆け引きがそもそも向かないのもあるんだろうが」
「…ああ、なるほど。たしかに媚びや秋波とはまだまだ縁遠そうだよな」
「それについてはレスタも言えるけどな」
「ん?」
レスタはきょとんと小首を傾げてみせた。
「俺がなに」
「さて何でしょう。…あ、そういやおまえに会わせときたいのが何人かいたんだよな」
クラウドはしれっと話題を変えたが、レスタはリヒトに向き直って声をひそめた。
「…ド直球で押してきたクラウドが何か言ってますが」
「ド直球…、そういえばそんな感じだったよな、二年まえ」
「うん。リヒトが知ってる範囲をはるかーに超えてド直球だった」
「いや、馴れ初め聞いたから何となくは想像つくけど…」
「あ。馴れ初めと言えば、絵」
「え?」
「絵を――」
「レスタちょっと黙ってろ」
途端にレスタはぴたりと黙った。
低く平坦なクラウドのひと声に、リヒトも続いて居ずまいを正した。
そもそも会話の内容からして周囲に聞こえるような声では話していない。
ということは、黙っていろというのは文字どおり、発言するな、という意味だ。
リヒトはさり気なくレスタを見やった。
親しげな空気を沈黙で消し去ったレスタは、かれを知るリヒトが見ても人形のように優美で典雅で、華麗そのものだ。
感情らしい感情はおもてに出さず、強いていうなら穏和な無表情。おかげで容姿の美しさがよりいっそう際立って見える。
「………」
なるほど上手いよな、とリヒトは密かに感心した。
今日のレスタは牡丹のような大輪の花だ。豪奢なのに華美じゃなく、目映いのにどぎつくない。
穏和な無表情を貼りつけて、貴公子然と振る舞うお行儀のよいレスタは、果たして周囲の目にどう映っているのやら。
先ほどリヒトが表敬訪問を捌いていたときも、レスタはクラウドの傍らでこんな感じだった。何というか、絶妙に曖昧な距離感というか、親密度というか。
クラウドもレスタも、どちらも目立ちすぎるほどに目立つからこそ、見る者の考え方次第で的外れな関係にも映るかもしれない。
まあ何にしても、ぶ厚い猫かぶりのレスタというのは面白い。
「…さて、古狸のお出ましだ」
彼らの視線の先、控えめな靴音を鳴らして近づく人物はふたり。
ひとりは背の高い若い男で、華やかな場に相応しく優美な貴婦人を伴っている。
そしてもうひとりの男は、広間に踏み入るなり迷わずこちらに視線を定めてきた。
「これは美しい方をお連れですね、龍の太子殿」
若い男、――ではなく、先手を打つように声を掛けてきたのは、老成した大人の男のそれだった。
「宰相閣下…」
すべてをこちら側から眺めていたレスタたちとは違い、その声にびくっと肩を揺らしたのは若い男のほうだった。
声の主を振り向いた男は、声に少しだけ恨みがましい響きを滲ませた。
横からいきなり挨拶の第一声を邪魔されたのだから、当然といえば当然である。
「おや、これは失礼いたしました。――アトール殿にも、太子殿とお連れの方にも」
「…いえ、こちらこそ」
謝罪されては無碍にも出来ず、男は丁寧な会釈でそれに応えた。
「宰相殿とこちらの茶会でお会いするのはめずらしいですね」
「中座ですよ。太子殿がお出ましとお聞きしたので」
「ああ…、なるほど」
つまり先を譲れということだろう。若い男、イズナ・アトールはひとつ頷いてその場を譲った。
「ありがとう」
鷹揚な笑みを浮かべた宰相は、流れるような動作でクラウドに深い一礼を奉じた。
慇懃といえば慇懃で、丁寧といえば丁寧な、仮に宰相の胸のうちがどうだとしても、唯一の次代龍王に対する崇敬はきちんと表われていた。――と、観察していたレスタは思った。
もちろんそれも含めて、ここまではレスタもクラウドも想定内だ。
「龍の太子殿にはご機嫌うるわしく存じます。ご挨拶をと思い、お役の場を中座して参りましたこと、何卒ご寛恕いただきますよう…」
「議会はともかく、懇談会なら咎める声もないだろう」
宰相が懇談会を中座してくるだろうことは予想していた。
それが早ければレスタにもクラウドにも会えるだろうし、遅ければ余韻だけの肩すかしで終わる。
クラウドとしてはキラッキラの余韻だけを残して早々に去るのもいいかと思っていたが、ここまで完全武装のレスタを相応の場で見るのはクラウドも稀だったので、まあこの際どっちでもいいか、と考え直したところだった。
実際、今日の目的は直接間接にかかわらず、宰相にレスタの「余韻」を印象づけることにある。
それは日をあらためて周囲の話を聞くのでもいいし、直に対面するのでもいい。
宰相が自ら後者を選んだのなら、思惑はどうあれ興味はあったということだろう。
くだんの、カムリ家の「客人」に。
なら、あえてここでは席は勧めないな、とレスタが考えたところで、クラウドが続けて言葉を発した。
「今日はこのあと友人に割く時間を設けている。ここで貴殿に席を勧めることはしないが、かまわないな?」
疑問系を用いた念押しは嫌も応もない。
中座にも横入りの挨拶にも寛容に応じたクラウドに対して、ここでさらに宰相から同席を願い出るとなると、さすがに少々厚かましい。そんな構図のできあがりだ。
そして宰相もそこまでの不躾は当然しない。
「――勿論ですとも。この場はご挨拶のみにて失礼いたします。…リヒト殿も、先日はご足労ありがとうございました」
「こちらこそ。慌ただしい対応で失礼いたしました」
水を向けられたリヒトも丁寧に応じた。
先日どころか昨日の今日の話だけどな、なんてことは誰もおくびにも出さないのがお約束だ。
そしてその呼び出しの目的が、今まさに宰相の目のまえで燦然と佇んでいる人物だとしても、誰も何も言わなかった。
そもそも、紹介もされていない貴人の連れを正面から見るのは、同じく高位の立場であっても当然無礼だ。
しかし宰相側から問うわけにはいかない。紹介を受けるにしろ宰相が自ら名告るにしろ、この場ではクラウドの許しがいるからだ。
そして当のクラウドにそんな気は微塵もなかった。
たとえこの場に居合わせた誰もが興味津々でも、思いきった誰かが紹介を請うてきても、クラウドに応じる義理があるとしたらそれは帝ぐらいだろう。
だからレスタも、優雅で穏和な無表情を貼りつけて、広間じゅうの注目を丁寧に無視していた。
いつもの高飛車ドヤ顔が鳴りを潜めているだけで、完全武装のレスタは陶器のお人形ばりに綺麗だ。
性別など軽く凌駕して、なるほどこの方が龍太子殿のお気に入りか。と問答無用で納得させられる程度には。
かといって、ここですんなり引き下がる宰相殿でもないようだったが。
「…ご紹介には及びませんか?」
やんわりと、だが率直に、宰相はクラウドに問うてきた。
レスタを指し示す言葉はないのに、婉曲どころか端的かつ直球だった。
だからクラウドもまっすぐに宰相を見据え、長い脚を組み替えながら物騒な笑みで答えた。
「そうだな。必要ない」
面白がっているように見えて、その実クラウドも不愉快だったのかもしれない。
ここでようやくリヒトはそれを悟った。
だからレスタは完全武装を決め込んで、この状況を面白がってみせたわけだ。
ちゃんと付き合うけど、どうせやるなら面白がれよ、とでも言うように。
そう。そういう奴らだった。リヒトの知るレスタもクラウドも。
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憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
幽閉王子は最強皇子に包まれる
皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。
完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
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