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第一章 都市伝説と呼ばれて
32 エステルとユーリ(1)
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「お兄様!」
春の市が終わりしばらくした頃だ。
領主邸内で、トゥーレを兄様と呼び止める声がした。
声の主が分かっているトゥーレは、うんざりした表情を隠そうともせずに黙って振り返ると、案の定そこには十歳くらいの少女が、腕を組んでキッと彼を睨んでいた。
濃い赤紫色の膝丈のスカートを履き、ブラウスの上には濃緑色のボディスを着け、肩にクリーム色のショールを羽織っている。スカートとボディスはともにシルクのような光沢が映えていた。
濃い赤味のかかった茶色い髪をツインテールに結び、トゥーレの右目と同じ緋色の瞳を大きく見開いて彼を睨んでいた。怒っているというアピールなのだろうが、少女の可愛らしさが勝つためどうしても迫力に欠けている。
トゥーレは少女を見ながら露骨に溜息を吐く。
「何だエステルか」
「何だ、じゃないです! それにもう少し感情を込めてくださいませ」
抑揚のない言葉を吐いたのが気に入らなかった少女は、腰に手を当てて『むぅ』と頬を膨らませる。
「フォレスから帰ってきたら遊んでくれるって言ったのに、いつまで経っても遊んでくれないじゃないですか!」
普段から忙しく飛び回っているため、エステルの相手はできていない。だが十五歳を過ぎたトゥーレは既に成人と見做されため妹と遊ぶのも照れ臭かった。まだ十一歳のエステルとは立場も大きく違うのだ。
とはいっても先日のフォレス行きの準備中、バタバタしていたどさくさでエステルと遊ぶ約束をしてしまったことも事実だ。
「それにお兄様は、わたくしと結婚するって約束していましたのに、リーディア姫様と婚約するなんて話が違います!」
「もちろんお前との婚約は破棄だ」
「ひ、酷いですわ! 可憐な乙女心を弄ぶなんてぶふぅ!」
「誰が可憐だって?」
『ぶふぅ・・・・』
エステルの膨らんだ頬を右手で摘むと、彼女の口からは盛大に空気が漏れる。
この国では兄妹での結婚は禁じられている訳ではないが、基本的には異母の場合に限られる。もちろんトゥーレとエステルが約束したのは幼児期の良くある約束だ。エステルも流石に本気で言ってる訳ではない。
・・・・多分。
「お兄様の意地悪! 鬼! 悪魔! おたんこなす!」
涙目になりながら精一杯の悪口を言い残すと、エステルはパタパタと走り去っていった。
「ったく、あんな言葉何処で覚えたんだ?」
エステルは、六歳離れた実の妹だ。
生まれた時から存在を徹底して隠され、やがて都市伝説となったトゥーレと違い、歩き回れるようになった頃にギルドの脅威が取り除かれたエステルは、トゥーレよりも早い時期に街中を母親のテオドーラと二人で散策する姿が目撃されていた。
トゥーレが自由に出歩けなかった頃は、訓練や勉強時間以外はほとんどの時間を一緒に過ごしていたが、外出が解禁されてからは歳が離れていることもあり二人で過ごす時間も減っていた。
「いつも思うんですが、エステル姫様の扱いが酷くないですか?」
ベソを掻きながら去って行くエステルの姿を、見かねたユーリが思わず口を挟んだ。
ユーリにもかつては下に三人の弟妹がいたが、ジャハの騒乱によって両親共々命を落としていた。弟妹たちのことは坑道に入るようになるまでは、ユーリが面倒を見ることが多く兄妹の仲も良かった。もし生きていれば一番下の妹は丁度エステルと同じくらいの歳だった。
平民と領主家の違いかどうかも分からないが、エステルに対するトゥーレの扱いが酷く思えたのだ。
「貴様はエステルを甘く見すぎだ」
ユーリの指摘にトゥーレは、やれやれと首を振りながら答える。
「あれは甘えるのが上手い。ちょっとでも気を許せば懐に入られるぞ」
トゥーレらしい言い回しでエステルをそう表現する。
年齢の割には幼い雰囲気が残るエステルへの評価に、ユーリは思わず目を見開いた。
「あれが演技ですか!?」
トゥーレに釣られて思わず『あれ』と言ってしまった。
ユーリには、目に涙を溜めて顔を真っ赤にしていたのが演技だとは到底思えなかったからだ。
「あいつの場合、演技というより天然だな。気を付けろよ、貴様など気付けば掌の上で転がされてるかも知れんぞ」
そう言うとトゥーレは悪戯を思いついたように、左の口角だけを上げて黒い笑みを浮かべるのだった。
サザンの中央広場には、普段から常設の市が立っていた。
扱われる商品は食料品や日用品が多く、数は少ないが装飾品を扱う店もあった。年三回開かれる定期市とは比べるべくもないが、朝夕にはそれなりの賑わいがある。
「ユーリ!」
「エ、エステル姫様!? いかがされました?」
ある日苦手な座学が終わり安堵の吐息を吐いているユーリに、突然エステルから声が掛けられた。ユーリたち新しく入ったトゥーレの側近は、知識不足を補うため午前中シルベストル指導の下、集中的に座学の時間となっていた。
それが終わったタイミングに、珍しくエステルから声を掛けてきたのだ。
「そのように警戒しなくても結構ですわ。別に取って食べたりはしませんから」
怪訝な思いが表情に出ていたのだろう、エステルがクスクスと笑う。
トゥーレの近くに仕えるユーリは、エステルとはもちろん面識がある。しかし今まで挨拶程度しかしたことがなく、エステルから直接声を掛けられるようなこともなかった。
跪くユーリの前にエステルが立つ。長身のユーリが跪いていてもエステルは彼を少し見上げる格好だ。
エステルは顎をツンと突き出すようにして、何故か勝ち誇った表情を浮かべていた。トゥーレ同様に童顔のため年齢よりも幼さが残るが、こうして見ると同母の兄妹だけあってトゥーレによく似ている。
「トゥーレ様ならザオラル様の執務室におられると思いますが」
彼等が座学を叩き込まれている間、護衛がほとんどいなくなるトゥーレは、ザオラルの執務室で執務の手伝いをおこなっていた。
「これから出掛けます。付いて来なさい」
「はい!?」
何を言われたのか理解できず、思わず聞き返してしまう。
「市に行きます。ユーリにはわたくしの護衛を命じます」
エステルはそう言うと返事を待たずに歩き始める。
顔立ちだけでなく、こちらの都合をお構いなしに行動するところまでトゥーレそっくりだ。
「お待ちください、姫様! 私はトゥーレ様の元に行かねばなりません」
「心配いりません。お兄様からは許可をいただいております」
いくらエステルとはいえ、トゥーレの側近であるユーリを彼に断りなく連れて行くことはできない。彼女は事前にトゥーレから許可をとっていたようであった。あるいはエステルの相手を面倒くさがったトゥーレから、人身御供としてエステルに捧げられた可能性の方が高いかも知れない。
「何をしているのですか。行きますよ」
ユーリはがっくりと肩を落とし首を左右に軽く振ると、エステルに手を引かれるように市へと連行されていった。
その市場では、ちょっとした騒ぎが起こっていた。
もちろん混乱の中心は、ユーリを連れたエステルだ。
上機嫌で市場を闊歩するエステルと、戸惑った表情を貼り付けたまま彼女についていくユーリ。
春の市が終わったとはいえ今日は肌寒く、白いファーが付いた桃色のコートと同色の手袋でしっかりと防寒したエステルが可愛らしくとてとてと歩いていき、その後ろを濃紺の外套のフードを頭から被ったユーリが従っていく。
いつもなら気さくにエステルに声を掛ける住人も、ユーリがいるためにどう声を掛けてよいか分からない様子だ。
「あ、あのう姫様?」
鼻歌を歌いながら少し前を歩くエステルに、ユーリが探るように声を掛ける。
「何故今日は私が護衛なのですか?」
普段ならば母親のテオドーラや、自身の護衛を連れて散策している筈だ。
今日はユーリとともに戸惑った表情を浮かべている彼女の侍女であるフォリンが一人同行しているのみだった。
トゥーレでさえ十名近くの側近を引き連れて出歩くのだ。僅か三名での外出が非常に拙い気がして気を遣うが、エステルは気にせずに市場を闊歩していく。
「あら、ユーリはわたくしと一緒じゃ嫌なのかしら?」
「こ、光栄にございます」
「ならいいじゃない」
ユーリは反射的にそう答える。
今までそこまで接点がなく、性格を把握しているとは言い難いため、流石にトゥーレと同じように直言するのは憚れる。
彼は借り物の猫のように大人しく付いていくしかなかった。
春の市が終わりしばらくした頃だ。
領主邸内で、トゥーレを兄様と呼び止める声がした。
声の主が分かっているトゥーレは、うんざりした表情を隠そうともせずに黙って振り返ると、案の定そこには十歳くらいの少女が、腕を組んでキッと彼を睨んでいた。
濃い赤紫色の膝丈のスカートを履き、ブラウスの上には濃緑色のボディスを着け、肩にクリーム色のショールを羽織っている。スカートとボディスはともにシルクのような光沢が映えていた。
濃い赤味のかかった茶色い髪をツインテールに結び、トゥーレの右目と同じ緋色の瞳を大きく見開いて彼を睨んでいた。怒っているというアピールなのだろうが、少女の可愛らしさが勝つためどうしても迫力に欠けている。
トゥーレは少女を見ながら露骨に溜息を吐く。
「何だエステルか」
「何だ、じゃないです! それにもう少し感情を込めてくださいませ」
抑揚のない言葉を吐いたのが気に入らなかった少女は、腰に手を当てて『むぅ』と頬を膨らませる。
「フォレスから帰ってきたら遊んでくれるって言ったのに、いつまで経っても遊んでくれないじゃないですか!」
普段から忙しく飛び回っているため、エステルの相手はできていない。だが十五歳を過ぎたトゥーレは既に成人と見做されため妹と遊ぶのも照れ臭かった。まだ十一歳のエステルとは立場も大きく違うのだ。
とはいっても先日のフォレス行きの準備中、バタバタしていたどさくさでエステルと遊ぶ約束をしてしまったことも事実だ。
「それにお兄様は、わたくしと結婚するって約束していましたのに、リーディア姫様と婚約するなんて話が違います!」
「もちろんお前との婚約は破棄だ」
「ひ、酷いですわ! 可憐な乙女心を弄ぶなんてぶふぅ!」
「誰が可憐だって?」
『ぶふぅ・・・・』
エステルの膨らんだ頬を右手で摘むと、彼女の口からは盛大に空気が漏れる。
この国では兄妹での結婚は禁じられている訳ではないが、基本的には異母の場合に限られる。もちろんトゥーレとエステルが約束したのは幼児期の良くある約束だ。エステルも流石に本気で言ってる訳ではない。
・・・・多分。
「お兄様の意地悪! 鬼! 悪魔! おたんこなす!」
涙目になりながら精一杯の悪口を言い残すと、エステルはパタパタと走り去っていった。
「ったく、あんな言葉何処で覚えたんだ?」
エステルは、六歳離れた実の妹だ。
生まれた時から存在を徹底して隠され、やがて都市伝説となったトゥーレと違い、歩き回れるようになった頃にギルドの脅威が取り除かれたエステルは、トゥーレよりも早い時期に街中を母親のテオドーラと二人で散策する姿が目撃されていた。
トゥーレが自由に出歩けなかった頃は、訓練や勉強時間以外はほとんどの時間を一緒に過ごしていたが、外出が解禁されてからは歳が離れていることもあり二人で過ごす時間も減っていた。
「いつも思うんですが、エステル姫様の扱いが酷くないですか?」
ベソを掻きながら去って行くエステルの姿を、見かねたユーリが思わず口を挟んだ。
ユーリにもかつては下に三人の弟妹がいたが、ジャハの騒乱によって両親共々命を落としていた。弟妹たちのことは坑道に入るようになるまでは、ユーリが面倒を見ることが多く兄妹の仲も良かった。もし生きていれば一番下の妹は丁度エステルと同じくらいの歳だった。
平民と領主家の違いかどうかも分からないが、エステルに対するトゥーレの扱いが酷く思えたのだ。
「貴様はエステルを甘く見すぎだ」
ユーリの指摘にトゥーレは、やれやれと首を振りながら答える。
「あれは甘えるのが上手い。ちょっとでも気を許せば懐に入られるぞ」
トゥーレらしい言い回しでエステルをそう表現する。
年齢の割には幼い雰囲気が残るエステルへの評価に、ユーリは思わず目を見開いた。
「あれが演技ですか!?」
トゥーレに釣られて思わず『あれ』と言ってしまった。
ユーリには、目に涙を溜めて顔を真っ赤にしていたのが演技だとは到底思えなかったからだ。
「あいつの場合、演技というより天然だな。気を付けろよ、貴様など気付けば掌の上で転がされてるかも知れんぞ」
そう言うとトゥーレは悪戯を思いついたように、左の口角だけを上げて黒い笑みを浮かべるのだった。
サザンの中央広場には、普段から常設の市が立っていた。
扱われる商品は食料品や日用品が多く、数は少ないが装飾品を扱う店もあった。年三回開かれる定期市とは比べるべくもないが、朝夕にはそれなりの賑わいがある。
「ユーリ!」
「エ、エステル姫様!? いかがされました?」
ある日苦手な座学が終わり安堵の吐息を吐いているユーリに、突然エステルから声が掛けられた。ユーリたち新しく入ったトゥーレの側近は、知識不足を補うため午前中シルベストル指導の下、集中的に座学の時間となっていた。
それが終わったタイミングに、珍しくエステルから声を掛けてきたのだ。
「そのように警戒しなくても結構ですわ。別に取って食べたりはしませんから」
怪訝な思いが表情に出ていたのだろう、エステルがクスクスと笑う。
トゥーレの近くに仕えるユーリは、エステルとはもちろん面識がある。しかし今まで挨拶程度しかしたことがなく、エステルから直接声を掛けられるようなこともなかった。
跪くユーリの前にエステルが立つ。長身のユーリが跪いていてもエステルは彼を少し見上げる格好だ。
エステルは顎をツンと突き出すようにして、何故か勝ち誇った表情を浮かべていた。トゥーレ同様に童顔のため年齢よりも幼さが残るが、こうして見ると同母の兄妹だけあってトゥーレによく似ている。
「トゥーレ様ならザオラル様の執務室におられると思いますが」
彼等が座学を叩き込まれている間、護衛がほとんどいなくなるトゥーレは、ザオラルの執務室で執務の手伝いをおこなっていた。
「これから出掛けます。付いて来なさい」
「はい!?」
何を言われたのか理解できず、思わず聞き返してしまう。
「市に行きます。ユーリにはわたくしの護衛を命じます」
エステルはそう言うと返事を待たずに歩き始める。
顔立ちだけでなく、こちらの都合をお構いなしに行動するところまでトゥーレそっくりだ。
「お待ちください、姫様! 私はトゥーレ様の元に行かねばなりません」
「心配いりません。お兄様からは許可をいただいております」
いくらエステルとはいえ、トゥーレの側近であるユーリを彼に断りなく連れて行くことはできない。彼女は事前にトゥーレから許可をとっていたようであった。あるいはエステルの相手を面倒くさがったトゥーレから、人身御供としてエステルに捧げられた可能性の方が高いかも知れない。
「何をしているのですか。行きますよ」
ユーリはがっくりと肩を落とし首を左右に軽く振ると、エステルに手を引かれるように市へと連行されていった。
その市場では、ちょっとした騒ぎが起こっていた。
もちろん混乱の中心は、ユーリを連れたエステルだ。
上機嫌で市場を闊歩するエステルと、戸惑った表情を貼り付けたまま彼女についていくユーリ。
春の市が終わったとはいえ今日は肌寒く、白いファーが付いた桃色のコートと同色の手袋でしっかりと防寒したエステルが可愛らしくとてとてと歩いていき、その後ろを濃紺の外套のフードを頭から被ったユーリが従っていく。
いつもなら気さくにエステルに声を掛ける住人も、ユーリがいるためにどう声を掛けてよいか分からない様子だ。
「あ、あのう姫様?」
鼻歌を歌いながら少し前を歩くエステルに、ユーリが探るように声を掛ける。
「何故今日は私が護衛なのですか?」
普段ならば母親のテオドーラや、自身の護衛を連れて散策している筈だ。
今日はユーリとともに戸惑った表情を浮かべている彼女の侍女であるフォリンが一人同行しているのみだった。
トゥーレでさえ十名近くの側近を引き連れて出歩くのだ。僅か三名での外出が非常に拙い気がして気を遣うが、エステルは気にせずに市場を闊歩していく。
「あら、ユーリはわたくしと一緒じゃ嫌なのかしら?」
「こ、光栄にございます」
「ならいいじゃない」
ユーリは反射的にそう答える。
今までそこまで接点がなく、性格を把握しているとは言い難いため、流石にトゥーレと同じように直言するのは憚れる。
彼は借り物の猫のように大人しく付いていくしかなかった。
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