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第一章
第十一夜 【泡沫夢幻】
しおりを挟む午前2時。最後の座敷から下がり、ようやく初日の仕事が終了した。結局、篁を含む全員の裏を返すと答えた朱理は、揚屋の関係者用玄関口で思い切り伸びをしている。
「うあー……つっかれたぁ……」
「初日にしちゃ、よくやったじゃねぇか」
「まぁ、後半ほぼ寝てたけどね」
「そんなドヤ顔で言います?」
「朱理さんが徳利倒したお客様、凄く焦ってましたよ……。ご機嫌を損ねたと思われたんでしょうね……」
「まじか。全然覚えてないわ」
「お前、そんなんで全員の裏返したの? 正気か?」
「そうは言うけど、みんな似たり寄ったりじゃん。よっぽどじゃなけりゃ、取り敢えず受けとけば良いかなーと」
「朱理さん、いつか刺されそうだな……」
苦笑する吉良と妹尾を横目に、黒蔓は煙草を咥えながら笑う。
「まぁ、この仕事にはお前みたいなのが一番だがな。良く言えば選り好みしない、悪く言えば無頓着」
「ねぇそれ、悪く言う必要あった?」
そんな遣り取りで笑い合っているうちに迎車が到着し、四人で乗り込んだ。最後列に座った朱理と黒蔓は、当然のように座席の下で手を繋ぐ。その温みだけで、朱理は愁眉を開くことが出来た。
窓の外を見ると、置屋も揚屋も次々と灯りが消えていく。夜見世の終了時刻である。見送りの娼妓と客が、道端で別れを惜しんでいる姿がちらほら目に入る。
数々の見世先を通り抜け、車は静かに万華郷の敷地内へ滑り込んだ。大玄関を潜ると、番頭台で帳簿をつけていた東雲が顔を上げて慰労の声を掛けてきた。
「お帰りなさい。道中、お疲れ様でした」
「ああ。見世は問題なかったか?」
「はい。皆、寝屋へ下がりました。槐さんが見回り中です」
「そうか。新造はもう休んで良いぞ」
「はい、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした。お休みなさい」
「二人ともありがとね。お疲れー」
妹尾達は一礼して階段を上っていく。東雲は改めて朱理へ畏敬のこもった眼差しを向け、微笑んだ。
「それにしても、本当に1日で20人もこなすとは流石です。道中も盛況だったようですし」
「まぁ、転ばなかったことは確かかな」
「成功だよ、座敷の居眠りに目を瞑る程度にはな」
「おお、そりゃ大成功だ」
「明日の予定も、ほぼ今日と変わりません。道中はございませんので、多少はゆっくりできますよ」
「ええ!? 明日も20人!? 初回ばっかりぃ!?」
東雲の言葉に、朱理は頓狂な声を上げた。
「しばらくは辛抱しろ。そうでなくてもお前は裏ばかりなんだ。向こう1ヶ月は似たような予定になる」
「まじかよ、最悪かよ……。やっぱ太夫なんてなるんじゃなかったぜ……」
頭を抱える朱理を横目に、黒蔓は嘆息混じりの紫煙を吐く。
「多少は融通してやるから、ごちゃごちゃ言わずに風呂でも入って早く休め」
風呂と言う単語に、朱理は突っ伏していた階段の手摺りから頭を起こした。
「そっか! 俺、上の風呂入って良いんだっけ!」
「ええ。今夜も太夫達は皆、朝までお客様と寝屋で過ごす予定ですから、貸し切り状態で気持ちが良いですよ」
「やったぁ! じゃあ行ってくる! お疲れ様でしたー」
「お疲れ様でした。お休みなさい」
「ったく、本当に現金な奴だな」
上機嫌に階段を駆け上がる朱理を見送り、苦笑する東雲と黒蔓であった。すっかりその姿が見えなくなると、東雲は声を落として書類を差し出した。
「明日の予約表です。例の……篁様から、既に指名が入ったようですが……大丈夫でしょうか」
「……早いな」
ざっと目を通しながら黒蔓は舌打ちする。
いくら富裕層を顧客に抱えているとは言え、2日も続けて登楼する客は多くない。馴染みになるまでの登楼間隔が短いのはよくあることだが、あまりにも早過ぎるのだ。
「今まで接触を避けてきた晋和会が、突然どうして……。やはり、何か裏がありそうですか?」
「未だ分からん。個人的な登楼だとは言っていたが、どうだかな」
「言っていたって……まさか、直接お話しなさったのですか?」
「少しな。本当に組織と関係無いのなら、念書でも出してみろと伝えただけだ」
「そう、ですか……」
書類を捲りながら、黒蔓はちらりと東雲を見遣った。
「心配か?」
「ええ……。彼なら上手くあしらうとは思うのですが、相手が相手なだけに……。目的も定かではありませんし……関わりたくはありませんね」
「そうだな。ともかく、話は念書を寄越して来てからだ。出してこなけりゃ、何とでも言って撥ね付けられる。他は問題ないな」
黒蔓は紫煙を吐きながら予約名簿に確認済みの署名をする。
「座敷には必ず俺が同行する。心配するな」
「……はい。終日の付き添いでお疲れでしょう。もうお休みになられては如何ですか?」
「そうだな。お前はもう終わるのか」
「はい、あと少しです」
「あまり根を詰めるなよ。じゃ、先に休む。明日も朱理は俺が起こすから、部屋には誰も入れるなよ」
「承知致しました。お疲れ様です」
片手を上げて黒蔓も階段を上って行った。
いつものように見回りがてら二階をぐるりと巡り、三階へ向かう。寝屋の様子は普段と変わらず、途中で槐に出くわし、軽く挨拶をして別れた。
三階への階段を上りながら、思わず深い溜め息が出ていた。自分も存外、気疲れしたようだ。当然のように朱理の自室へ向かうと、未だ風呂に入っているらしく無人だった。
『まぁ良いか』と黒蔓は珈琲をたて始める。仕事終わりには珈琲という習慣が付いてしまっているのだ。何故か朱理にも同じ癖があり、どうせ彼も飲むだろうと2人分を用意する。
抽出が終わるまで文机の前に座り、煙草に火を点けた。ひとつ紫煙を吐くと、どっと疲労感に襲われる。
このひと月で、目まぐるしく状況が変わった。東雲の年季明けと番頭新造への就任。朱理の格上げに伴う宴や花魁道中。更には晋和会の接触、と正に嵐のごとき毎日だ。
東雲は立派に番新を務め、朱理は予想を遥かに上回る実力を発揮している。何の支障も無い。ただ、いつもより少し多忙なだけだ。朱理に馴染みが定着すれば、少しは落ち着けるはずだ。見世も、朱理も。そこまで思考して、黒蔓の意識は落ちた。
(──……何か、温かい感触に包まれている。優しい手つきで頭を撫でられている。そんなことをされたのは、何十年振りだろうか。昔、誰かにそうして貰った気がするが、あまりにも遠い記憶で思い出せない。嗚呼……これは、確か……──)
うとうと、と黒蔓が目を瞬かせると、穏やかな笑みを浮かべた朱理が覗き込んできた。
「起きた?」
「ん……寝てたか……」
「そうだよ。風呂から戻ったら、煙草点けたままで机に突っ伏してるんだもん。びっくりしたよ」
「……そうか。悪い」
「まぁ、そりゃ疲れてるよね、仕方ないさ。でも、寝煙草は危ないから駄目だよ。引っ越した早々、焼き出されるなんて御免だからね」
煙草を吹かしながら茶化す朱理に、黒蔓はうっすら笑って答える。温かいと感じたのは、朱理の膝だったらしい。頭を支えるように抱かれ、華奢な指が髪を梳いている。黒蔓は起き上がらず、そのまま仰向けになった。
「膝枕なんてされるのは、どれくらい振りだか。褒美をやると言ったのは俺なのに、ざまぁねぇな」
「良いじゃん、たまには黒蔓さんがご褒美貰ったって。それに、俺もちゃんと貰ったよ」
「何を?」
「こうして貴方を抱いていられる。鬼の黒蔓を膝枕した男なんて、俺以外に何人居るかなぁ」
「……そうだな」
小さく答えて身体を起こした黒蔓は、無造作に髪を掻き上げながら腕時計を見た。丁度、午前4時である。足が自由になった朱理は立ち上がり、湯気の立つマグをふたつ持って戻って来た。
「不思議だよね、これ飲まないと仕事終わったって気がしないの。はい、ブラック微糖」
「ああ。至れり尽くせりだな」
「これくらい、なんてことないよ。お礼にしては足らないし」
「礼って、何のだ」
「今日ずっと付いててくれたことも、今こうして側に居てくれることも。俺を大事にしてくれてる全部にさ」
「そんなもん……俺が勝手にやってるだけだ。ただのエゴだろ」
「あれまぁ。今夜の黒蔓さんは随分、ペシミストなんだね」
「ぺし……なに?」
「悲観的ってこと」
「そりゃお前だろ」
ふうふう、と湯気を冷ましながらマグへ口をつける朱理は、言い返すことなく静かに笑っている。穏やかなその顔を見ていると、段々、気が落ち着いてくるようで、自然と肩の力が抜けた。
珈琲を飲み終わると黒蔓は立ち上がった。
「ご馳走さん。風呂入って休むわ。お前も疲れてるだろ。早く寝とけ」
「んー。あ、マグは流しに置いといて良いから。浴槽で寝ないでよ?」
「お前のお陰で気力も戻った。大丈夫だ」
「今度は一緒に入ろうね」
「ああ、そうだな」
お休み、と言って黒蔓は出て行った。
朱理は飲み干したマグを持って流しへ立ち、2人分の食器を洗って歯磨きを始める。今夜は共に寝られないのかと思うと少し残念だったが、貴重な膝枕と無防備な寝顔が見られたから良しとしよう、と思った。
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