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第一章
第十夜 【薄氷】
しおりを挟む 18時。揚屋に到着し、朱理の花魁道中は終了した。昼のことがあったため、黒蔓と吉良が駆け寄ろうとしたが、朱理は悠然と上り框へ降り立った。
「大丈夫か?」
「うん。気合い入れてたから平気」
「本当に凄かったです! 雰囲気も迫力も、昼とは桁違いでした!」
念の為、と黒蔓に渡された鎮痛剤を服用し、朱理は大きく息を吐いた。
玖珂と交代した渡会以外、付き従った皆が昼間からの豹変ぶりに感嘆の声をあげている。何より道中が終わった途端、がらりと雰囲気を戻して破顔する姿に驚かされる者も多かった。渡会もその一人で、目を輝かせながら声を上げる。
「圧倒されっぱなしで、ついて行くのに必死でしたよ。可愛らしい印象が強かったんですけど、今夜の朱理さんは凄く格好良かったです!」
「ったく、もっと早く本領発揮してくれてりゃあ、俺も楽できたんだがな。こいつは追い込まないと本気にならないからタチが悪ぃ」
「ちょっと黒蔓さん、仕事前に俺の士気急降下させるの辞めて?」
いつもの調子に皆、一気に和やかな雰囲気になって笑い合う。朱理は大きく伸びをしながら吉良たちを振り返り、片目を瞑ってみせた。
「さて、ベルトコンベア作業開始だ」
「言い得て妙ですねぇ」
「頑張りましょう!」
「途中で寝るなよ、朱理」
そして昼間と同様、座敷から座敷へ移る単調作業が始まった。やはりどこも似たり寄ったりで、21時を過ぎた辺りから時折、船を漕ぐ朱理を突くのが黒蔓らの仕事になっていた。新造は渡会と途中交代して、今は妹尾が付いている。
半分こなして次の座敷への移動中、黒蔓は端末の予約表の名に顔をしかめた。それを見た朱理は首を傾げて問い掛ける。
「どうしたの、厭そうな顔して」
「ああ……次の客だが、この界隈ではある意味、有名な奴だ。予約の時点で断るか迷ったが、一応、形だけと思って通した」
「ある意味ってなに。金払いが悪いとか?」
「いや、そうじゃないが……。癖が強いとしか、今は言えん。みょうな先入観を持たせたくないからな」
「ふうん……。ま、何とかなるでしょ、多分」
「よく観察しろよ。無理だと思ったら断って良いからな」
とは言え、真面に見ることもせずにそんな判断が出来るものか、と喉まで出かかった言葉を呑み込む朱理であった。
そして件の座敷へ到着し、上座へ着席してぐるりと視線を巡らせる。
まず驚いたのは客の風貌だった。勝手に白髪の年配と決めつけていたが、まだ四十に届くか届かないかだ。クラシコイタリアのダークスーツを品良く着こなしているが、カフスやタイピン、長い指に嵌められた指輪を見るに、どうやら堅気ではないらしい。それも下っ端ではなく、相当の地位に就いているだろうことは、男の後ろに控えている黒服の姿で予想がついた。
芸妓らもあまり見かけない顔ぶれで、落ち着いた中年の女性が揃っている。そして朱理が最も驚いたのは披露された芸事だった。三味線や琴を奏で、それに合わせて若い舞い手が踊る物が一般的である。しかし、始まったのは民俗音楽のような不思議な唄だった。見たことも無い楽器の音色に合わせ、独特の節と声音で唄い上げる芸妓達に、朱理はすっかり魅了されてしまった。
目を輝かせて聞き入っている朱理に、黒蔓は内心、やれやれと嘆息しつつ客を見た。この男の素性は、吉原で見世をやっている者なら誰でも知っている。
日本最大の指定暴力団、出茂会の傘下、晋和会会長、篁 恭丞だ。晋和会の縄張りは正にここ、吉原である。
見世としては最も関わりたくない人物であり、今日まで互いに接触はなかった。万華郷は吉原では珍しく、裏社会との繋がりを持たない中立店だ。
ただの客として登楼するには問題無いが、果たして本当にそれだけが目的なのかを見定める必要があるのだ。政界や大手企業にパイプを持ちたいと考える者は、職種に関わらず少なくない。政治家、資産家を多く顧客に抱える万華郷は、利権争いや犯罪に利用されぬよう、管理と防衛を徹底せねばならないのである。
噂によると篁は相当な切れ者で統率力も申し分無く、無駄の無い仕事ぶりで利ざやを上げているらしい。いわゆるインテリヤクザだ。
身なりや所作にも気を遣っている辺り、そこまで癖は悪く無さそうだが、腹中がまったく読めないぶんタチが悪い。篁は薄く笑みを浮かべて盃を傾け、じっと朱理を見つめている。悪意は感じないものの、やはり安心は出来ない。おそらく篁の裏も返すのだろう、と黒蔓は宴席を終える前から頭を痛めるのであった。
「で、どうす──」
「裏で!」
座敷を出てすぐ、食い気味で答えた朱理に改めて溜め息が出る。
「お前……ちゃんと見てたのか?」
「もちろん! 初めてだよ、あんな芸事! ニューエイジっつーの? 俺、ああいう神秘的なの大好きなんだよねー。生で聴けるなんて感動だよ!」
「落ち着け。客の話だ」
「あー……見た、よ? 意外と若かったね。ヤクザ?」
「そうだ。本当に裏で良いのか?」
きょとんとする朱理の横で、妹尾がおずおずと口を開いた。
「……俺、あの人怖いです。ずっと朱理さんのこと見てて、その目がなんだか……普通じゃなかったと言うか……」
「妹尾は本当に可愛いなぁ。客が見てくるのは当たり前だよ」
「で、でも……宴席の間ずっとですよ? あの目つきは見蕩れていると言うより、獲物を狙っているような……」
「やっぱり裏社会に生きてるとそうなるのかもね。渡る世間は鬼ばかりみたいな?」
不安そうに眉をひそめる妹尾に反し、呑気に笑う朱理を見て、吉良は苦笑と冷や汗を浮かべる。
「いやいや、笑いごとじゃないでしょう。結構、大物そうだったし……そんな簡単に決めちゃって良いんですか?」
「だって民俗音楽だよ? 超センス良いじゃん」
「あの、だから、そうじゃなくてですね……」
至極まっとうな吉良の指摘にも明後日の方向から答えている朱理に、いよいよ黒蔓は頭を抱えた。
すると不意に座敷の襖が開き、篁が廊下へ姿を現した。黒蔓と吉良が素早く朱理の前に回り、妹尾も慌ててそれに続く。
「驚かせてすみません。遣手の方にお話があるのですが、少々、お時間頂けますか?」
「どのような話でしょう」
「ここでは何ですので、どうぞ中へ。すぐに済みますから」
少しの間の後、座敷の中へ誘う篁に続こうとした黒蔓の袖を、朱理が無言で引く。何が言いたいのか承知の黒蔓は、薄く笑って優しくその手に触れた。
「心配ない。すぐ戻るから待ってろ」
「せめて吉良を連れて行って」
「任せて下さい。妹尾、朱理さんを頼むぞ」
「分かった。さぁ朱理さん、こちらへ」
何度も振り返りながら連れて行かれる朱理を見届け、黒蔓は吉良と共に座敷へ入った。篁と対峙すると厳しい口調で問う。
「何の御用でしょう。次がありますので手短に願います」
「不躾は承知の上です。ただ、どうしても誤解を解いておきたかったものでね」
「誤解とは」
「彼は随分、優しい心根をお持ちですね。私も長く吉原を見てきましたが、太夫が遣手の心配をする姿など、想像したこともありませんでした。貴方も相当、可愛がっておられるご様子だ」
「前置きは結構。手短にと申し上げたはずです」
篁は鋭い黒蔓の声音にも動じず、ひとつ紫煙を吐いてから答えた。
「私は純粋に、客として彼を買いたい。それだけです」
黒蔓は数秒、推し量るように篁を見据えた。相手も微動だにせず、余裕の笑みを浮かべて見返してくる。
「……それは太夫の決めること。私からはお答えしかねますな」
「勿論、分かっています。口添えを請うつもりはありません。ただ、これは私個人の行動であり、組織とは何の関係も無いことだけは心に留め置いて頂きたい」
篁の言うことが嘘か真かなど定かではない。裏社会の者に限らず、人は平気で掌を返す生き物だ。
黒蔓はふっと笑って立ち上がり、すかさず吉良もそれに続く。
「本当にそれほどの気概をお持ちなら、念書でもお出し願いたい。口では何とでも言えるもの。この世界に生きる者同士、ご理解頂けるかと」
「確かに仰る通りだ。分かりました。もし次回があった際には、必ず念書をお渡しすると約束しましょう」
「……それでは、失礼」
黒蔓はさっと踵を返し、振り返ること無く座敷を後にした。朱理の元へと足早に廊下を進みながら、吉良が深い溜め息をつく。
「流石は遣手……。あんなの相手にまったく動じないとは……」
「やくざ者なんぞ、この街には腐るほどいる。いちいち狼狽えてちゃキリがねぇだろうが」
「しかし、礼儀正しいヤクザほど薄気味悪いものは無いでしょう」
「まぁな。ああいう手合いが一番、厄介なのは確かだ」
「向こうはあんなこと言ってましたけど、本当ですかね」
「朱理を買いたいってのは本音だろう。その他は……どうだかな」
いよいよ面倒な者に目を付けられたものだと嘆息する。
廊下の先にしゃがみ込んでいた朱理は、黒蔓に気付くと途端に駆け寄ってきた。黒蔓は険しい顔をおさめ、取りすがる朱理の肩を抱く。
「心配した……。良かった、何も無くて……」
「大丈夫だと言っただろ」
「だって相手は極道だよ? 難癖付けられてたらと思うと……」
今にも泣き出しそうな朱理を、慌てて宥める。
「落ち着け、まだ仕事中だぞ。腫らした目で座敷に上がるつもりか」
「心配ありませんよ、朱理さん。遣手の気迫ときたら、極道顔負けでしたし」
「おい吉良、それ褒めてんの? 貶してんの?」
「や、やだなぁ! 褒め言葉に決まってるじゃないですかぁ!」
じろりと隻眼に睨まれ、竦み上がる吉良の横から妹尾が遠慮がちに声を掛けた。
「あの……そろそろ移動しないと、次のお客様がお待ちですよ」
「あ、そうだった」
「行くぞ。あと二回で今夜は終いだ」
「お腹空いたなぁ。座敷って飯テロだと思わねぇ?」
「お、思います……! 美味しそうなお膳が目の前にあるのに、見てるだけなんて勿体ない……」
「初回の飲食禁止って、結構きついですよねぇ。吉原ってよく分かんないルール多くないですか?」
「それな」
和気あいあいと廊下を進む一行を見ていた篁は、口元を緩めながら煙草を咥えた。すかさず隣に居た黒服が火を差し出す。
「面白い太夫様だな。お前もそう思わないか、柏原」
「はい。噂では太夫格を固辞し続けていたとか。本来なら、数年前に格上げされていたほどの人気だそうです」
「ほう……ますます興味深い。戻ったら念書の用意をしておけ」
眩い座敷へ入って行く朱理達とは対照的に、篁は紫煙と共に夜の闇へ溶けていった。
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