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5巻
5-1
しおりを挟む第一章 終わりと始まり
第一話 世界
俺、日比野有仁は会社帰りの道で突然地面の中へ落ち、日本から世界を越えてこの異世界、アーレンティアへとやって来た。『落ち人』として。
二十八歳だった俺は、十三歳くらいの姿になっていて、髪や目の色までもが変化していた。
『落ち人』のこと、自分以外にこの世界へと落ちてきた人の足跡を求めて、保護してくれたオースト爺さんのもとを旅立ち、旅をする中で様々な出会いを経験した。
そしてずっと一緒に暮らしていきたいと思える少女ティンファと俺の従魔たちと一緒に手掛かりを追って、とうとう俺以外の日本人、倉持匠さんの家に辿り着く。
そこで白竜のリューラと出会い、大陸の北の果ての海で、この世界の真理の一端を知ったのだった。
「海が世界の端ってことは、そこがこの世界の終わりってことか?」
アディーこと従魔のアディーロの背の上で、俺はぽつりと呟いた。
空から見た地平線や水平線の形状から、この世界は惑星ではないらしいと予想していたが、こうして目の前に世界の果てがあると思うと、とても感慨深い。
地図を頭の中で思い描くと、中央南寄りに『死の森』、東に霊山、北と西が辺境地、そして南は海を渡った先にもう一つの大陸がある。
俺の予想通り、この世界が平面であるとしたら。
リューラが、『死の森』は特別で本当の意味での魔境だと言った、その意味は。
「魔素は世界の端から中央に向かって薄くなっている、のか?」
南の大陸がどれほど離れているかはわからないけど、この大陸よりも南の大陸は小さく、実際に行き来している人がいて交流もあるという。
ロックバードやワイバーン並みの力がなければ、魔獣を撃退しながら空を長距離飛行し続けるのは無理そうだが、それらを従魔にできる人はごく少数だ。
だとすると、南の大陸には他の従魔でも渡れる可能性が高く、距離はそこまで遠くないのだと思う。
大陸の端となる場所の大半が、魔力濃度が高すぎる辺境地となっているのは、世界の端である海に近いからだと推測できる。
それを踏まえて頭の中の地図で世界の端を結んでいくと――
「『死の森』は、ほぼ世界の中心、になるのか?」
『死の森』はこの大陸の中央部にあるが、正確には中央のやや南寄りから南部へ向けて広がっている。だから火竜がいる山脈などは、位置的には大陸のかなり南だ。
ああ、でもそう考えると霊山はどのような位置付けになるのかな。大陸の端の辺境地の中でも、東の霊山は恐らく特別な地だ。
そうなると霊山と『死の森』の二箇所が、この世界で特殊な場所ということになる。
「……なあ、ティンファ。ここは、森の中よりも息苦しいと感じていたりするか?」
今思えば、以前、ハイ・エルフのキーリエフさんと一緒に空から霊山を見に行った時に圧迫感を覚えたのは、霊山から漂う峻厳さだけでなく、空気中の魔素濃度が高かったからではないか。
「そうですね。確かに、呼吸がしづらいような気はします。アディーさんが崖沿いに降下してきた時から、そう感じていました」
やはり、今までの仮説はほぼ合っている気がするな。
「アディー、ありがとう。リューラも。これから海を北に向かって飛んでくれるんだよな?」
俺が聞くと、リューラは念話で返す。
『ああ、そうだ。では、そろそろ行こうか。無理はせず、ダメな時はすぐに引き返すことにしよう。我も陸地に戻るまでは一緒に飛ぶからな』
『俺より、お前たちの方が先に限界になる。アリト、きちんとティンファやレラルたちのことを注意しているのだぞ』
アディーに言われ、俺は皆に向き直る。
ティンファと、妖精族ケットシーと魔獣チェンダの血を引くレラル、リスに似た姿の魔獣リアンとイリン、フェンリルのスノーことスノーティア、そしてリューラの子供タクーが一斉にこちらを見た。
「ティンファ。これから北へ向かって海の上を飛ぶから、呼吸がもっとつらくなると思う。我慢できないようだったら、無理せずすぐに言ってくれ。レラルも、リアンとイリンもな。スノーは大丈夫だろうから、皆の様子を見てやってくれ。タクーのことも頼むな」
この先は、魔力濃度が高すぎて倒れる危険性がある場所だ。俺も気をつけないと。
『わかったの! 私はおねえちゃんだから、ちゃんと皆のことを見ているの!』
えへんと胸を張ったスノーの頭を撫で、スノーの足の間にいるリアンとイリン、タクーもそっと撫でる。
「わかりました。今はそれほどつらくありませんが、無理をすると迷惑をかけてしまいそうですから、早めに言いますね」
『では、行くぞ』
アディーはそう言うと同時に方向転換すると、ギュンッと一気に加速して、遮るものが何もない水平線を目指して飛んだ。
キラキラと陽の光を映して輝く海面に、皆からわあっと歓声が上がる。
『速度を上げ過ぎると、アリトたちに負担がかかっていても気づくのが遅れるから、もう少しゆっくりとな。お、海中にガーブがいるな。高度を上げるぞ』
白銀に光るリューラが斜め前に躍り出ると、輝く海面とリューラの鱗の美しさに目を奪われる。そうしている間に、ぐんっと上昇して視界がさらに高くなった。
高度を上げないといけない魔物か! と慌てて身構えた直後、大きな水音がした。
そちらに目を向けると、海面に飛び込んだ巨大な魚のような影があった。
「うわあっ! 大きなお魚だよ!」
上から見ても、今俺たちを乗せて飛んでいるアディーより明らかに大きい。
……お魚、なんていう可愛いサイズじゃなかったぞ。あれが海の魔物か魔獣か……。
「あっ! あそこにもいるよ!」
レラルが顔を向けている方に視線を移すと、まさに海面から飛び出した姿があった。
鋭く尖った角のような吻が頭部から突き出し、背にはヒレではなく突起物が何本もそびえ立っている。開いた口からは、ギザギザの歯が覗いていた。どう見ても、魚というより怪獣だ。
『あれはアグラーだな。今落ちたら、お前なんてひと呑みだぞ』
うっ、怖いこと言わないでくれ、アディー。その様子がありありと思い浮かんでしまったじゃないか……。
「あれは……魚、ですか? なら食べられるのでしょうか。凄い歯ですが」
『肉に毒はないはずだから食べられないことはないだろうが、俺でも食べたことはないぞ。そもそも、陸地に棲む魔物は、わざわざ海に棲む大型の魔物なぞ狙わんからな』
「食べられるだろうけど、アディーでも食べたことはないってさ」
アディーからの念話をティンファに伝えると、傍にいたレラルが魚の影をちらりと見た。
「レラル、あとでまたどこかの湖に寄って魚を獲るから、我慢してな」
大量に作った干し魚は、この間の宴で食べ切ってしまった。魚が好物のレラルのためにも、帰りに大きな湖を見つけたら、アディーに頼んで寄ってもらおう。
「う、うん。大きな口だったよ。歯も凄かった……」
あ、食べたいわけではなくて、あの歯を見て怯えちゃったのか。
「なあ、アディー。空を飛べる魔物は、海には来ないのか?」
『来ないな。考えてもみろ。あの崖をわざわざ降りてきて、獲れるかもわからない海の魔物を狙うのは労力に見合わんだろう?』
まあ、そうか。海に潜れるなら別だが、この世界にはそういう進化をした種はいなそうだしな。
アディーだったら空からでもアグラー相手に勝てるだろうけど、その辺の魔獣や魔物では逆に食べられるだけだ。なら、わざわざ海で狩りをする必要はない。陸地には苦戦せずに狩れる獲物がたくさんいるのだから。
「じゃあ、海の魔物たちはお互いが獲物なんだな」
まんま弱肉強食な海の中を想像して、げんなりしてしまった。
「あっ! アリトさん、海の中に、とっても大きな影がありますよ!」
ティンファの指さす方を眺めてみると、海中をたゆたう、とても長い影があった。
……これだけの高さから見てあの大きさってことは、リューラほどではなくても、かなり大きいんじゃないか?
ざっくり見て、体長二十メートル以上はありそうだ。
世界最大のクジラの体長って、どのくらいだったかな。シロナガスクジラだったっけ? 重量は軽く百トン以上だったか。あのサイズがごろごろいるなんて、絶対海の中には入れないな。
この世界での海水浴は、それこそ命がけの行事になりそうだ。
先を行くリューラと海中の影を見比べていると、それに気づいたリューラが言う。
『あれは竜ではなく、ただの魚だな。海に棲む竜の最下級はシーサーペントだ。ワイバーンと同じ階位で……お、あれだ。ほれ、あそこにいる』
「えっ! シーサーペントだって! どこに……」
慌ててアディーの背から身を乗り出すと、ティンファやスノーも一緒になって下を見た。
「うわぁ。あれですか? とても大きいです。でも、リューラさんの方が大きいですね!」
海面に上がってきた長い影を見ていると、シーサーペントはリューラの気配を察知したのか、水音を立てて顔を出した。
大きな顎に鋭い牙、そして頭上には二本の尖った角。うすい水色に輝く鱗を持った巨大な姿に、俺は息を呑んだ。
「ガアアアアアッ!!」
大きなヒレで海面を叩いて上体を海上へと持ち上げたシーサーペントは、大きく口を開け、俺たちへ威嚇の声を放つ。
『グワァアアアアアアアッ!! こわっぱが、粋がるなっ!!』
それに対して、リューラが今まで一度も聞いたこともない声音で海面へ向けて吠えた。それに伴って周囲の風が渦巻き、一気に雲が厚くなって雷鳴を響かせる。
「ヒッ」
その威容に、自分に向けられた敵意でなくても無意識に体が強張り、引きつった声が出た。
体の震えと同調するかのごとく、灰色の分厚い雲からはゴロゴロと雷鳴が響き渡る。
顔が真っ青になり、体が小刻みに震えている隣のティンファを、萎縮する手を動かしてなんとか引き寄せた。
『リューラ、かっこいいの! スノーも吠えてもいい?』
『いやいやいや。スノーはダメだ。今のリューラのは、階級を思い知らせるための威嚇だからな。お願いだから、スノーはここで大人しくしていてくれ』
無邪気なスノーの言葉で、一気にガクッと力が抜けてため息が出た。それと同時に体の感覚が戻り、震えが止まる。
「ふう。ティンファ、大丈夫だ。ほら、リューラのはただの威嚇だよ。本気じゃないから、雷も落ちてないだろう?」
黒雲が立ち込め、ゴロゴロと鳴りながら稲光は走っていても、それ以上は変化しない空を示す。
『おお、すまんな。海の若造は礼儀を知らなくて困る。外の世界を知らないからな。フン。粋がって吠えたくせに、尻尾を巻いて逃げおったわ。かかってくるなら、風で海を割ってやったものを。……さて、ではさっさと行くとするか。そなたたちには、そろそろつらくなってくる頃合いだろう?』
リューラに言われて下を見ると、いつの間にかシーサーペントの姿は海面から消えていた。それどころか他の魔物も海の奥深くへ潜ったようで、海面は静まり返っている。
まあ、リューラに威嚇されれば、さっさと逃げ帰るのは当然か。
でも、俺たちにはつらくなるって……?
そこで周囲を見回し、今さらながら、肩を抱いたティンファの顔色が元に戻っていないことに気づく。
「ティンファ? どうしたんだ、大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫、です。もう震えは治まったはずなのに、なぜだか今度は息をするのも苦しくなってきてしまって……」
「息をするのも? ……あっ! そうか、魔素の濃度の影響かっ!」
シーサーペントが出てくるくらい、陸から遠く離れている。
これがリューラの言っていた頃合いってことか!
『やっと気がついたか。お前は鈍いにもほどがあるぞ』
アディーに言われて意識してみると、周囲の空気が濃くなったような感じで、呼吸しづらい気がする。これが大気中の魔素の濃度が上がった影響なのだろう。
『俺はきちんと見ておけと言っただろうが。スノーは平気だが、レラルたちはそろそろつらいと思うぞ』
「えっ! レラル、リアン、それにイリン、大丈夫か?」
慌てて振り返ると、スノーの足の間でレラルとリアンとイリンが丸まって震えていた。
「……なんか、息が吸いづらくて、だんだんだるくなってきた、よ。頭がぐるぐるする」
『ひう……魔素が、多くて、動けな……い』
「うわっ!? リューラ、アディー! レラルたちが限界だ、今すぐ、急いで戻ってくれっ!!」
さすがに白竜の子のタクーは、首を傾げて不思議そうに蹲る三人を見ているだけだったが。
『慌てるな。まだ大丈夫だ。スノー、その三人の周囲に魔素を遮る障壁を張れ。障壁に魔素を吸収させるイメージだ。戻るのはまだ早い。もう少しだけ先へ行く』
『わかったの! 私、おねえちゃんだから、できるの!』
スノーが足の間の三人を守るように、周囲に新たな障壁を張った。今までの風と圧力除けの障壁の内側に張られたそれは、みるみる周囲の魔素を吸収して分厚くなっていく。
触れてみると、大気が通過する時、魔素を通さずに障壁に蓄積させているようだ。
しばらくしたら、震えてぐったりとしていたレラルたちが、ほっとしたように大きく息をついた。
「良かった。さあ、ティンファ。ティンファもスノーの隣に来て、三人と一緒にいた方がいい。スノー、ティンファも入れてくれないか」
『わかったの! もうちょっと大きくするの』
荒く呼吸をするティンファを支えて立ち上がり、俺と位置を交換してスノーと俺の間にティンファを横たわらせ、カバンから毛布を取り出して掛けた。するとスノーの障壁が拡大され、ティンファを包み込む。
様子を窺っていると、ティンファの青白くなっていた顔に少し赤みが戻り、安堵の息をつく。
これが、魔素の濃度が上がるということか。
世界の真理に近づくということがどういうことか、やっとわかってきた気がした。
『スノーはそのまま、ティンファと皆のことを頼むな』
『わかったの。私の毛皮で包んであげるの!』
そっとスノーがティンファの傍に横たわり、尻尾で包んだのを見届けると、俺は一人立ち上がり、音を立てないようにアディーの頭の方へ移動する。
『なあ、アディー。もういいんじゃないか? ティンファたちが限界だ』
『フン。リューラが戻ると言ってからだ。……お前の体調はどうなんだ?』
もう一度意識してみると、さっきよりもさらに吸い込む空気が重く感じられた。
ゆっくりと細く息を吸って吐き出す。すると呼吸とともに吸い込まれた魔素が、体の中で暴れ回っているかのようで落ち着かない。
これほど魔素が濃いと、呼吸からもそれを取り込んでいることを実感するな。
この世界の人は、呼吸と食事で空気中や食物に含まれる魔素を体内に取り込み、自分の魔力に変換している。その変換する効率や体内に留める量の差が、人が持つ魔力量の差なのだ。
ただあまりにも濃い魔素は、体内に入れるだけで負担になるのだと初めて実感した。
『体内で魔素が暴れているよ。息が苦しくなってきたかな』
呼吸をしているのに、空気を吸い込めている気がしないのだ。二酸化炭素中毒ってこんな状態なのだろうかと、場違いにも考えてしまった。
『なら、きちんと見ろ。お前が見たいと言った、世界の真理の一端を』
そう促され、前を見やすいようにさらにアディーの頭部を進んで身を乗り出す。
そして見た。
真っすぐな水平線を描く、青と蒼が混ざり合う海と果てのない空を。
海に波はなく、ただ静かに海水が流れ、そして空は、先ほどリューラが呼び寄せた暗雲は散り、雲の間から覗く太陽の光が海面を照らして輝いている。
あらゆる生命はここから生まれた、原初を司る全ての始まりの景色。
地球と同じように、アーレンティアも、この果てから始まったのだとストンと腑に落ちた。
ここから生命が生まれ、そして生を育み死ぬと世界に還る。それが自然の理で真理なのだ。
今、呼吸がままならないほどの魔素が満ちていても、視界には何も変わらずただ空と海が広がっていた。
『魔素が濃くても、見た目は変わらないんだな』
『……もっと先へ行けば、目に見えるほどに魔素が濃くなる。そうなると、全ては白く塗りつぶされていくのだ』
リューラの言葉には、憧憬の響きがあった。
リューラでも、辿り着くことのない世界の果て、か……。
『では、まだここは序の口ってことですね。……世界は広いな』
魔素が密集し、見渡す限り白く染まっている世界の果て。
そこでは全てが魔素に変換され、何者も存在することができない場所なのだろう。
俺はアーレンティアで生まれたわけではなく、魔素が存在するこの世界の未知を解き明かさないと、自分の存在が安定しないという強迫観念があったのかもしれない。だから俺と同じ立場の『落ち人』の手掛かりを求め、少しでも自分を納得させようと世界の真理にまで手を伸ばした。
でも、世界の真理なんて、当然俺の手には余ることなのだ。それを求めるのにも、覚悟と決意と探究心、そして懸命な努力が必要になる。
俺にはそのどれもない。赤子が駄々をこねて親の力で全てを手に入れようとするように、スノーやアディーの力で手が届くのだと錯覚していただけだった。
そのことを、リューラとアディーは体感として理解させてくれたのだ。
『なあ、アディー。アディーはもっと果ての近くまで行けるのか?』
『いいや。俺は霊山の頂を見ることを望んだが、果たせたことはない』
『ふふふ。我でも辿り着けんよ。全てが白く染まる果てで、世界と同化することをいつかは我も望む時が来るだろうが、今ではない。さあ、戻ろうか。いいか、アリトよ。この景色を、覚えておくのだ』
魔素の塊である竜は、果てにある魔素に意思が宿って生まれた存在なのだろうか。
ああ。地球が丸くても、この世界が平面でも、日常の生活には何の関係もない。
地球が惑星だと自分の目で見て確認したわけではなく、ただ知識としてあるだけだった。
その地球でも、宇宙の果てを夢見て宇宙船を作って飛び立っても、終わりの見えない銀河が広がっていたのだ。俺は宇宙に出たいと夢見たことなどなく、ただ毎日、それなりに暮らしていただけだった。
俺の望みは、大切な家族と一緒にのんびり暮らしていくこと。一旗揚げようなんて気もなく、田舎で自分の好きなことをして過ごしたい。
そんな俺には、世界の真理を知る必要などない。もう大切に想う家族ができたのだから。
――それでいいんですよね、倉持匠さん。俺は、この世界がどうであれ、ここで生きていきます。
アーレンティアで生まれたわけでもないし、こちらの世界へ渡ることを望んだわけでもない。
でも、今、そしてこれからはこの世界の一員として生きていくのだ。
じっと地平線を見つめ、ゆっくりと立ち上がって周囲を見回す。
すぐ近くには白銀に輝くリューラが、そしてアディーとその背には大切な家族たちがいる。
それ以外は、全て空と海に囲まれて。
『この景色を覚えておきます。絶対に忘れない。そして、俺は俺として生きていきます』
『ふふふ。それでよい。主とそなたは違う。目指すところが異なって当たり前なのだ。さあ、戻ろう。そなたの仲間たちがつらいだろう』
『はい。ありがとうございます、リューラ。……また、倉持匠さんの書いた本、読みに来ます』
『ああ、待っている。いつでも来てくれ。アディー、来た道を戻るのではなく、東寄りに陸地へ戻ろう』
『わかった。では、戻るぞ』
忘れない。陽を浴びて白銀に輝くリューラの美しさも。
アディーの背を歩き、スノーの隣へ戻って座ると、ぐっと圧がかかって反転したことがわかった。
そっと寄り添うスノーの背を撫で、ゆっくりと呼吸をしながら遠くに見える緑を見る。
俺はアーレンティアに落ちてきた時、この世界に適合するように姿が変わった。生まれ変わって魔力を得たのだ。だったら、この世界の理の中で暮らせばいい。
そのことを納得するために、皆の親切に甘えてこんな遠くまで来てしまった。
ああ、でもやっぱり波が寄せてこない海は不思議だよな。太陽だって二つもあるし。惑星でないのなら、太陽の道筋が変わるのはなぜなのだろう。
そういえば、海に来たけど海水がしょっぱいかどうかもわからなかった。気にはなるが、あんな魔物や魔獣が棲む海へわざわざ近づいて海水の味を確かめるのもな……。
この世界を知るたびに、地球との相違点が次々と浮かぶ。
俺の中の常識は、今でも地球のままだ。でもそれは仕方がない。地球の日本は、俺の故郷なのだから。
この旅に出て、倉持匠さんが遺してくれたものに辿り着くことができて、ゆっくりでも俺の身体は成長していくことがわかった。いつかは俺もここで年老いて死ぬ。それがわかっただけでもう充分な成果だ。
この旅で仲間も増えて、皆が家族になった。あとは、自分の思うまま生きていこう。
オースト爺さんにはオースト爺さんの目標があるように、俺はゆっくり楽しんで生きていきたい。
『……なあ、アディー。この後はエリダナの街へ寄ろう。ティンファのおばあさんが心配しているだろうから。俺もキーリエフさんに、集落でマジックバッグを渡したこととか話さないとな』
『ああ、わかった。リューラと別れたら、そのままエリダナの街へ向かう。……俺は元々そのつもりだったがな』
おお! アディーがデレた! ふふふ。
『そうか。アディーは優しいな。ありがとう。いつも感謝しているよ』
『フン!』
エリダナの街へ行って……そうだ、その後はミランの森に住むリアーナさんにも会いに行こう。
冒険者パーティ『深緑の剣』の一員であるリナさんにはエリダナの街で会えたらいいけど、どうだろうな。手紙が来ているか確認してみないと。
ああ、同じパーティのガリードさんたちにも会いたいな。なんだか凄く懐かしいや。
でも、その前に。
『なあ、アディー。エリダナの街に戻ったら、俺と二人で霊山へ行ってくれないか? 遠くからでもいい。もう一度、あの姿を見たいんだ』
キーリエフさんに連れていってもらった時は、その峻厳な姿を見て、ただ漠然と畏敬の念を抱いただけだった。
でも、今では。
『死の森』は世界の中心の地。霊山も、この世界にとって恐らく特殊な地だ。
『……いいだろう。付き合ってやる。なんなら霊山から海へ飛んでやってもいいぞ』
『いや、もう海はいいよ。……俺には真理を探究するなんて無理だ。ここまで連れてきてもらって、身の程を思い知ったさ。でも、こうして実感することができて良かったよ。本当にありがとう、アディー』
霊山を越えた東の海にも、もしかしたら特殊な意味があるのかもしれない。けれど、俺はもう真理を追うことはしない。
世界の真理に触れて、その深さをしみじみと実感できたから、今の心境で霊山の姿を見たいのだ。
『見えるか。右手のずっと彼方にあるのが霊山だ』
リューラが示した先を、思わず身を乗り出して目を凝らすと、ずっと広がる緑の森の奥、遥か彼方に雲の上へと続く霊山の姿が微かに見えた。
「ああ……。俺たち、本当に遠くまで来たもんだな」
キーリエフさんの屋敷を出たのが、もうかなり前のことのように感じる。
『いい経験になったのではないか。さあ、ティンファたちの様子を見てやれ。もうここまで来れば魔素は大丈夫だろう』
そう、いい旅だった。一歩一歩、ここまで自分なりに進んできたのだ。
気づけば、先ほど見た海岸となる崖が迫ってきていた。陸地はもうすぐだ。
応援ありがとうございます!
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