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Part.6 Human Beings -1
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あなたが持つものを使って
あなたのいるところからはじめましょう
──ジョージ・ワシントン・カーヴァー
生存とは何か。生物とは何か。
この地上、この時間軸に、果たして何れだけの疑問が混沌に潜むというのだろう。
楽園の知恵の実にも、ひとりの悟りにも答えは無い。
個体が存在したその時から、自己は突然変異にして多様性の一部となる。
自己は選択する。生きるも死ぬも、選ぶも避けるも、向き合うも見捨てるも、自由の名の下に赦されて、人間は選択により人となる。
あらゆる人間を人たらしめる至高の手段は哲学と呼ばれ、人間は永遠の課題を手に入れる。
始まりと終わり。これは誰も証明し得ない永遠の、混沌。
挽いた豆の香りが漂っていた。
ミルを綺麗に整える瑤子の隣で、ケトルのお湯が和やかな音を立て珈琲色の渦を作る。三つ並べた小皿にはクッキーが一枚ずつ添えられ、ややあって、白いカップに香ばしい色の珈琲が注がれた。
灰色の棚と白い長卓はいかにも大学備品らしく安っぽく、パイプ椅子の穏やかな浅葱色がやけに高貴に見える。
「信じられない」
カップに均等に注いでから、高槻光太郎はやっと──隠すことなく──呆れた顔を瑤子に向けた。
「君、実は疲れてる? 休んだ方がいいんじゃない?」
「……疲れてないですー」
「じゃあ馬鹿なんだな」
年上の二人に口々に言われるものだから、不貞腐れ、尖らせた唇を熱い珈琲で隠す。ぐうの音も出ないほど美味しいそれに、ますます機嫌を悪くして、瑤子は椅子に座ることなくクッキーに手を伸ばした。
「というか、なんで福永くんのお兄さんがここにいるんですか。帰って下さいよ」
「教授の話を聞いただろ? あんたには俺の繋がりが必要で、俺はあんたの側にいる限り安全で居られる。帰るわけがない」
「こーやって税金を無駄遣いするから、嫌われるんですよ。ニチマル」
普段は高槻と瑤子二人で寛ぐ場所だ。余所者、それも部外者がいることに落ち着かず、話が話なだけあって心の奥で眠っていた自尊心のようなものがちくちく反応する。
すっかり空になった小皿の前にクッキー箱を差し出し、高槻が話に混ざる。
「香椎先生には敵わないこと、よく分かっただろう?」
ず、と両手でカップを支えて珈琲を飲む姿に、春の陽気じみた曖昧な感情が沸き起こる。ごほん、と咳払いで誤魔化して、瑤子も大人しく珈琲を飲んだ。
瑤子には強気の宙も、高槻の指摘には罰の悪そうな顔をしてクッキーを食べ始める。
「……時間はある。よく考えて、出来ることなら、より安全に確実な道を選ぶのが良いよ」
「それは、そうですけども」
クッキーに甘やかされながら、言葉を舌の上で転がし、最後には飲み込む。
願ってもないチャンスだと、瑤子自身もよく分かっていた。
学費の心配が要らない。夜一人で家に帰る時に用心しなくていいし、研究室までの道のりに待機している取材陣を気にする必要もなくなる。この盆地を知らない研究者達との出会いは刺激になる。自分の強みも分かるし、弱みが分かれば鍛えることも簡単になる。
「他に、断る理由でもあるのか」
弟と違って察しの良いらしい宙が、まさに言葉に出来ず悩む部分にメスを入れた。
分かっているのだ、本当は。研究者としてのリターンとは関係ないところで、引っ掛かりがあるのだと。
「……はあ」
高槻には中身を、宙には存在自体を隠している、日依の発症進行ノート。瑤子を思い留まらせたそのノートには、健康診断の結果や実際の睡眠時間の変化、眠気や目眩などの症状がいつ、どのような時に生じたかが記録されていた。他の発症者は皆、医療や研究とは程遠い分野の人間であったから、彼女が辿った経過は、残した記録は、間違いなく花眠病研究において重要なものと見なせる。
けれど、選択を迫った香椎は、ノートに関して何も言わなかった。もしかしたら、それはもう、ノートの価値が無くなったのかもしれないし、その存在の扱いも含めて、瑤子の選択を望んだのかもしれない。邪推の一つもしたくなるところだが、素直に相談をしても良かったのでは、と今なら思う。
このノートは、瑤子が独占していて良いのだろうか。
罪悪感に似た気味の悪さが、瑤子の足から這い上がる。
日依が預けてくれたから、進もうと決めた道だ。覚悟を決めたから、研究に取り組み始めたのだと、自分でも思っていた。
でも、もしかすると瑤子は、今のような小さなコミュニティの中で、花眠病を研究したかっただけなのかもしれない。日依のノートは揺らぎない瑤子の存在証明で、これさえあれば、瑤子は他の研究者と一線を画することができる。
有能感に踊らされていたのかも、と組んだ両腕の内側に顔を埋める。惨めだ。優柔不断な自分と、誰かがいなければ無関心になりそうな自分と、ついでに何一つチャンスを掴みきらない自分が、嫌になる。
「そうだ、電気泳動していたやつ、撮っておいたよ」
「……ありがとうございます……」
この時ばかりは高槻も優しく、直ぐ側にそっと写真を置いていく。
彼の押し付けない優しさは有難く、白衣を翻し細胞の様子を見に行くといって出て行く背中を、手を振って見送った。
肩で大きく息を吸い、振り返ったところに宙と視線が重なる。
黙っているのも忍びなくて、話題を探す。念を押すと、断じてこれは彼を持て成したいからではない。専門外の人間が何を考えているのか、気になっただけだ。
「……福永くんのお兄さんは、どうして花眠病を題材にしたんですか?」
「話題性があったから」
しれっと返された答えに、はいそーですか、と眉を潜めた。打てば響くような瑤子の反応に、声を上げて宙が笑う。
「それだけじゃないさ、勿論。流行り廃れってものが、番組にもある。ここ数十年はずっと、為になるネタかヲタクだのなんだの文化を扱うことが視聴率に繋がるとされてきた。
花眠病を選んだのは、そういった流れを狙いつつ、新しい分野を掘り起こせると思ったからだ」
「新しい分野?」
「そそ。空飛ぶ自動車だのなんだの、新聞で話題になるのは目立つジャンルばかりだけどな、昆虫や恐竜といった生物系の話題も根強い人気があるし、健康番組なんてのはここ五十年ずっと安定してる。
花眠病は、植物由来とされていながら、生物学的にも医学的にも解明の真っ只中だから、打ってつけだったわけ」
弟もいたしな、と最後に付け足して、珈琲に手を伸ばす。カップに指を引っ掛けるまでに、僅かな間があった。
湯気も出なくなった珈琲を、宙は飲むでもなく傍に避け、ずいと身を乗り出す。きっと彼のキメ顔なのだろう。やや俯き加減の顔下半分を、組んだ両手で隠して宙は言う。
「……啓太がどんな状態で搬送されたか、教えてやろうか」
「……いいんですか、タダで」
突然の話題に、思わず相手のノリに乗ってしまう。頬杖をつくと、絵に描くようなスマイルを浮かべて宙が応じる。
「いいんですよ。未来ある研究者よ」
(あ、これ、聞いたら行く羽目になるやつでは……?)
胡散臭さを感じて身を引いたが、時既に遅く。
耳が大きくなった気がした。
──宙の弟にして瑤子の友人・福永啓太は、宅配で受け取った荷物に紛れていた植物によって、花眠病を発症したとされていた。日依や他の患者と違うこととして、立った状態から倒れたこと、顔に砂のようなものが曝露され、乾燥した皮膚が剥がれ落ちていたことが挙げられた。
第一発見者が宙で、だからこそこうして記事に載らない詳細を伺えるわけだが、一方で、このために香椎は瑤子と彼を引き合わせたのではないか、と瑤子は勘繰っていた。初対面にしては、あまりに親切すぎるのだ。
「触ってないけど、顔にかかっていたのは、塩化系か炭酸カルシウムあたりの、白い砂みたいなものだった。呼吸は安定、鼻から吸ったらしくて口の中は何も入ってなかった」
「な、なるほど」
ほんの少し前まで、普通に会話をしていた相手を、よくそこまで調べられる。僅かな不信感とともに迫り上がる吐き気を堪えた。日依が倒れた後のことを思い出したのだ。
その時ほどではないにしろ、発見者に衝撃があるのは言うまでもないし、ましてや彼は肉親である。もう二度と目覚めないかもしれないのに、淡白なものだ。
瑤子と違って。
(そうか。この人は、私と同じなのか)
宙を前にして、はたと思い至った。
日本中の何処を探しても、瑤子と同じ気持ちを分かち合える人間はそう居ない。目の前で、親しい人が倒れて眠りに落ちた。数年前なら毛布でも掛けて放っておくことが、生死を分かつなどと誰が想像できよう。
瑤子が変わることへ抵抗を感じるのは、自分だけは他と違うという、自分勝手な思い込みがあるからでは? 過ぎる疑問は図星に似た鋭さで瑤子の罪悪感を刺す。
毛羽立った心が、凪いでいく。
しおらしくなっている間に、取り出した端末をいじって宙が差し出した。
「写メもあるぞ」
「記者魂……根性? 逞しいですね、おにーさん……」
「記者志望だったからな」
サイズの大きい、日本の会社が作った端末を受け取り、画面を見遣る。フラッシュが焚かれたのか、薄ぼんやりと倒れた身体が浮かび上がり、それ以外は暗くなっている。足下と顔の近くに散らばった花弁や砂のような何かが気になって、二本指で拡大した。
白い粉のようにも見えるそれは粒の形が不均一で、雪のように啓太の周辺に散らばっていた。
「……これ、砂じゃなくないか……?」
先に言い訳をしておくと、脳と口が直結している研究者は多い。独り言が多いともいうし、口が思考回路に追い付いていないから起こるともいう。
要するに、これは瑤子のせいではなく、人体の神秘なのだ。
「何て?」
「な、なんでもない」
聞き返されて、我に返る。訝しんだ宙が、反対側から端末を掴み上げ、画面を隠す。
「将来ノーベル賞取りそうな水野さん?」
「何でもない、何でもないから。あー、そうだ、私記録取らないといけないんだったあ、あはは」
宙の舌打ちを合図に、脱兎の如く部屋を出た。
廊下はしんと静まり返り、瑤子がいつも使う実験室の対面のドアは閉まっている。高槻の実験室は、真菌類を使う関連で、瑤子の使う細胞とのコンタミネーションを避けて別にしていた。
閉ざされた扉をノックして、ドアノブを回したところで鍵がかかっていると気付く。扉の小窓は黒いカーテンで塞がれていて、中は伺えない。GFPを使うにしても鍵はないでしょ、と呆れ半分仕方なさ半分にもう一度、今度は扉の外から呼び掛けた。
「高槻先生、先生」
「はい、居ます。今手が離せないから、一分待って」
「あ、はーい」
くぐもって聞こえた声に応答して、扉から距離を取る。数秒の暇を惜しみ、突き当たりの窓へ視線を向けながら、熟考する。
啓太が浴びた物質と、吸いこんだ物質は同じものだろうか。触れるだけで皮膚を溶かす植物は現存するが、そういった植物は亜熱帯地域に生息し、日本に運ぶことはおろか、粉状にすることすら難しい。
仮に、炭酸カルシウムなら人体に被害はないと聞くし、塩化カリウムなら病院の血液検査で異常と分かる。病院側から公表や発表がないのは、植物の気配がないからなのか。あるいは、啓太に散布された物質が、判明していないからなのか。
机上の空論にしかならない疑問は、やがて一つの納得を連れてくる。
「……そっか。だから香椎先生は、サンプルを求めた」
実際に使われた、変化のあった実態を調べる。これを除いて未知は解明されず、似たもの探しも意味はない。誰かが見聞きした情報はその誰かのバイアスがかかり、事実に辿り着くまでに時間が掛かる。
最新の設備も環境も、研究者自身が没頭し、試行錯誤をしやすいようにと考えられている。本物を目の前に、同レベル、あるいは専門の異なる研究者達が意見交換をするのは、書いた論文を読ませてディスカッションするより効率が良い。
下顎を写真で押さえたまま、捲った袖を直す高槻が出てくるまで、考える。
「お待たせしたね」
「いえ。……先生」
「あ、それ見た? その遺伝子、何使ったのか聞こうと思ってたんだ」
「え?」
様々話題がある中で、高槻は瑤子の手元にある一つを指す。
汐梨から電話を受ける前に行った、電気泳動の結果。予定よりも十分長く流したせいで、各遺伝子の差が開いている。左端に細かく陰影が写っているのが基準となるバッファ、一つ枠を空けた隣から、日依の肺胞と花眠病に侵された肺胞の遺伝子を並べている。
「……花眠病の方が、軽いんだ」
「え、肺胞の遺伝子を流したの?」
「はい。気になっ……まずかったですか?」
渋い顔をされて、ひやりと慌てる。スライスして染色液を浸すのは良いのに、電気泳動で比重を調べてはダメなんて変な話だと思ったが、瑤子の心配は杞憂に終わった。
「いいんじゃない? その分だとiPSの方も結果が出そうだね」
「……はは、そんな簡単には、行かないですよ」
初対面時は取っ付きにくく、何でもないような顔をして図星を突いてくるから苦手だった。だが、それはある意味素直なだけで、香椎ほど警戒心を煽らない高槻の工夫かもしれない。
彼は背景も曖昧な瑤子に、真剣に語ってくれる。ディスカッションの相手として尊重し、何より彼が欲しいであろうチャンスも奪うでなく、瑤子に向き合うよう勧めてくれる。
「……先生。私、研究所に行った方が、良いのでしょうか?」
口から零れ落ちたのは、弱音だった。
彼は写真から顔を上げて、瑤子の顔色から察したようだった。苦笑を浮かべる。
「君の持てるものを持って、向こうを見てから考えなさい。香椎先生も分かってくれる」
この場所で、たった一人研究を続けている彼らしいアドバイスだった。
あなたのいるところからはじめましょう
──ジョージ・ワシントン・カーヴァー
生存とは何か。生物とは何か。
この地上、この時間軸に、果たして何れだけの疑問が混沌に潜むというのだろう。
楽園の知恵の実にも、ひとりの悟りにも答えは無い。
個体が存在したその時から、自己は突然変異にして多様性の一部となる。
自己は選択する。生きるも死ぬも、選ぶも避けるも、向き合うも見捨てるも、自由の名の下に赦されて、人間は選択により人となる。
あらゆる人間を人たらしめる至高の手段は哲学と呼ばれ、人間は永遠の課題を手に入れる。
始まりと終わり。これは誰も証明し得ない永遠の、混沌。
挽いた豆の香りが漂っていた。
ミルを綺麗に整える瑤子の隣で、ケトルのお湯が和やかな音を立て珈琲色の渦を作る。三つ並べた小皿にはクッキーが一枚ずつ添えられ、ややあって、白いカップに香ばしい色の珈琲が注がれた。
灰色の棚と白い長卓はいかにも大学備品らしく安っぽく、パイプ椅子の穏やかな浅葱色がやけに高貴に見える。
「信じられない」
カップに均等に注いでから、高槻光太郎はやっと──隠すことなく──呆れた顔を瑤子に向けた。
「君、実は疲れてる? 休んだ方がいいんじゃない?」
「……疲れてないですー」
「じゃあ馬鹿なんだな」
年上の二人に口々に言われるものだから、不貞腐れ、尖らせた唇を熱い珈琲で隠す。ぐうの音も出ないほど美味しいそれに、ますます機嫌を悪くして、瑤子は椅子に座ることなくクッキーに手を伸ばした。
「というか、なんで福永くんのお兄さんがここにいるんですか。帰って下さいよ」
「教授の話を聞いただろ? あんたには俺の繋がりが必要で、俺はあんたの側にいる限り安全で居られる。帰るわけがない」
「こーやって税金を無駄遣いするから、嫌われるんですよ。ニチマル」
普段は高槻と瑤子二人で寛ぐ場所だ。余所者、それも部外者がいることに落ち着かず、話が話なだけあって心の奥で眠っていた自尊心のようなものがちくちく反応する。
すっかり空になった小皿の前にクッキー箱を差し出し、高槻が話に混ざる。
「香椎先生には敵わないこと、よく分かっただろう?」
ず、と両手でカップを支えて珈琲を飲む姿に、春の陽気じみた曖昧な感情が沸き起こる。ごほん、と咳払いで誤魔化して、瑤子も大人しく珈琲を飲んだ。
瑤子には強気の宙も、高槻の指摘には罰の悪そうな顔をしてクッキーを食べ始める。
「……時間はある。よく考えて、出来ることなら、より安全に確実な道を選ぶのが良いよ」
「それは、そうですけども」
クッキーに甘やかされながら、言葉を舌の上で転がし、最後には飲み込む。
願ってもないチャンスだと、瑤子自身もよく分かっていた。
学費の心配が要らない。夜一人で家に帰る時に用心しなくていいし、研究室までの道のりに待機している取材陣を気にする必要もなくなる。この盆地を知らない研究者達との出会いは刺激になる。自分の強みも分かるし、弱みが分かれば鍛えることも簡単になる。
「他に、断る理由でもあるのか」
弟と違って察しの良いらしい宙が、まさに言葉に出来ず悩む部分にメスを入れた。
分かっているのだ、本当は。研究者としてのリターンとは関係ないところで、引っ掛かりがあるのだと。
「……はあ」
高槻には中身を、宙には存在自体を隠している、日依の発症進行ノート。瑤子を思い留まらせたそのノートには、健康診断の結果や実際の睡眠時間の変化、眠気や目眩などの症状がいつ、どのような時に生じたかが記録されていた。他の発症者は皆、医療や研究とは程遠い分野の人間であったから、彼女が辿った経過は、残した記録は、間違いなく花眠病研究において重要なものと見なせる。
けれど、選択を迫った香椎は、ノートに関して何も言わなかった。もしかしたら、それはもう、ノートの価値が無くなったのかもしれないし、その存在の扱いも含めて、瑤子の選択を望んだのかもしれない。邪推の一つもしたくなるところだが、素直に相談をしても良かったのでは、と今なら思う。
このノートは、瑤子が独占していて良いのだろうか。
罪悪感に似た気味の悪さが、瑤子の足から這い上がる。
日依が預けてくれたから、進もうと決めた道だ。覚悟を決めたから、研究に取り組み始めたのだと、自分でも思っていた。
でも、もしかすると瑤子は、今のような小さなコミュニティの中で、花眠病を研究したかっただけなのかもしれない。日依のノートは揺らぎない瑤子の存在証明で、これさえあれば、瑤子は他の研究者と一線を画することができる。
有能感に踊らされていたのかも、と組んだ両腕の内側に顔を埋める。惨めだ。優柔不断な自分と、誰かがいなければ無関心になりそうな自分と、ついでに何一つチャンスを掴みきらない自分が、嫌になる。
「そうだ、電気泳動していたやつ、撮っておいたよ」
「……ありがとうございます……」
この時ばかりは高槻も優しく、直ぐ側にそっと写真を置いていく。
彼の押し付けない優しさは有難く、白衣を翻し細胞の様子を見に行くといって出て行く背中を、手を振って見送った。
肩で大きく息を吸い、振り返ったところに宙と視線が重なる。
黙っているのも忍びなくて、話題を探す。念を押すと、断じてこれは彼を持て成したいからではない。専門外の人間が何を考えているのか、気になっただけだ。
「……福永くんのお兄さんは、どうして花眠病を題材にしたんですか?」
「話題性があったから」
しれっと返された答えに、はいそーですか、と眉を潜めた。打てば響くような瑤子の反応に、声を上げて宙が笑う。
「それだけじゃないさ、勿論。流行り廃れってものが、番組にもある。ここ数十年はずっと、為になるネタかヲタクだのなんだの文化を扱うことが視聴率に繋がるとされてきた。
花眠病を選んだのは、そういった流れを狙いつつ、新しい分野を掘り起こせると思ったからだ」
「新しい分野?」
「そそ。空飛ぶ自動車だのなんだの、新聞で話題になるのは目立つジャンルばかりだけどな、昆虫や恐竜といった生物系の話題も根強い人気があるし、健康番組なんてのはここ五十年ずっと安定してる。
花眠病は、植物由来とされていながら、生物学的にも医学的にも解明の真っ只中だから、打ってつけだったわけ」
弟もいたしな、と最後に付け足して、珈琲に手を伸ばす。カップに指を引っ掛けるまでに、僅かな間があった。
湯気も出なくなった珈琲を、宙は飲むでもなく傍に避け、ずいと身を乗り出す。きっと彼のキメ顔なのだろう。やや俯き加減の顔下半分を、組んだ両手で隠して宙は言う。
「……啓太がどんな状態で搬送されたか、教えてやろうか」
「……いいんですか、タダで」
突然の話題に、思わず相手のノリに乗ってしまう。頬杖をつくと、絵に描くようなスマイルを浮かべて宙が応じる。
「いいんですよ。未来ある研究者よ」
(あ、これ、聞いたら行く羽目になるやつでは……?)
胡散臭さを感じて身を引いたが、時既に遅く。
耳が大きくなった気がした。
──宙の弟にして瑤子の友人・福永啓太は、宅配で受け取った荷物に紛れていた植物によって、花眠病を発症したとされていた。日依や他の患者と違うこととして、立った状態から倒れたこと、顔に砂のようなものが曝露され、乾燥した皮膚が剥がれ落ちていたことが挙げられた。
第一発見者が宙で、だからこそこうして記事に載らない詳細を伺えるわけだが、一方で、このために香椎は瑤子と彼を引き合わせたのではないか、と瑤子は勘繰っていた。初対面にしては、あまりに親切すぎるのだ。
「触ってないけど、顔にかかっていたのは、塩化系か炭酸カルシウムあたりの、白い砂みたいなものだった。呼吸は安定、鼻から吸ったらしくて口の中は何も入ってなかった」
「な、なるほど」
ほんの少し前まで、普通に会話をしていた相手を、よくそこまで調べられる。僅かな不信感とともに迫り上がる吐き気を堪えた。日依が倒れた後のことを思い出したのだ。
その時ほどではないにしろ、発見者に衝撃があるのは言うまでもないし、ましてや彼は肉親である。もう二度と目覚めないかもしれないのに、淡白なものだ。
瑤子と違って。
(そうか。この人は、私と同じなのか)
宙を前にして、はたと思い至った。
日本中の何処を探しても、瑤子と同じ気持ちを分かち合える人間はそう居ない。目の前で、親しい人が倒れて眠りに落ちた。数年前なら毛布でも掛けて放っておくことが、生死を分かつなどと誰が想像できよう。
瑤子が変わることへ抵抗を感じるのは、自分だけは他と違うという、自分勝手な思い込みがあるからでは? 過ぎる疑問は図星に似た鋭さで瑤子の罪悪感を刺す。
毛羽立った心が、凪いでいく。
しおらしくなっている間に、取り出した端末をいじって宙が差し出した。
「写メもあるぞ」
「記者魂……根性? 逞しいですね、おにーさん……」
「記者志望だったからな」
サイズの大きい、日本の会社が作った端末を受け取り、画面を見遣る。フラッシュが焚かれたのか、薄ぼんやりと倒れた身体が浮かび上がり、それ以外は暗くなっている。足下と顔の近くに散らばった花弁や砂のような何かが気になって、二本指で拡大した。
白い粉のようにも見えるそれは粒の形が不均一で、雪のように啓太の周辺に散らばっていた。
「……これ、砂じゃなくないか……?」
先に言い訳をしておくと、脳と口が直結している研究者は多い。独り言が多いともいうし、口が思考回路に追い付いていないから起こるともいう。
要するに、これは瑤子のせいではなく、人体の神秘なのだ。
「何て?」
「な、なんでもない」
聞き返されて、我に返る。訝しんだ宙が、反対側から端末を掴み上げ、画面を隠す。
「将来ノーベル賞取りそうな水野さん?」
「何でもない、何でもないから。あー、そうだ、私記録取らないといけないんだったあ、あはは」
宙の舌打ちを合図に、脱兎の如く部屋を出た。
廊下はしんと静まり返り、瑤子がいつも使う実験室の対面のドアは閉まっている。高槻の実験室は、真菌類を使う関連で、瑤子の使う細胞とのコンタミネーションを避けて別にしていた。
閉ざされた扉をノックして、ドアノブを回したところで鍵がかかっていると気付く。扉の小窓は黒いカーテンで塞がれていて、中は伺えない。GFPを使うにしても鍵はないでしょ、と呆れ半分仕方なさ半分にもう一度、今度は扉の外から呼び掛けた。
「高槻先生、先生」
「はい、居ます。今手が離せないから、一分待って」
「あ、はーい」
くぐもって聞こえた声に応答して、扉から距離を取る。数秒の暇を惜しみ、突き当たりの窓へ視線を向けながら、熟考する。
啓太が浴びた物質と、吸いこんだ物質は同じものだろうか。触れるだけで皮膚を溶かす植物は現存するが、そういった植物は亜熱帯地域に生息し、日本に運ぶことはおろか、粉状にすることすら難しい。
仮に、炭酸カルシウムなら人体に被害はないと聞くし、塩化カリウムなら病院の血液検査で異常と分かる。病院側から公表や発表がないのは、植物の気配がないからなのか。あるいは、啓太に散布された物質が、判明していないからなのか。
机上の空論にしかならない疑問は、やがて一つの納得を連れてくる。
「……そっか。だから香椎先生は、サンプルを求めた」
実際に使われた、変化のあった実態を調べる。これを除いて未知は解明されず、似たもの探しも意味はない。誰かが見聞きした情報はその誰かのバイアスがかかり、事実に辿り着くまでに時間が掛かる。
最新の設備も環境も、研究者自身が没頭し、試行錯誤をしやすいようにと考えられている。本物を目の前に、同レベル、あるいは専門の異なる研究者達が意見交換をするのは、書いた論文を読ませてディスカッションするより効率が良い。
下顎を写真で押さえたまま、捲った袖を直す高槻が出てくるまで、考える。
「お待たせしたね」
「いえ。……先生」
「あ、それ見た? その遺伝子、何使ったのか聞こうと思ってたんだ」
「え?」
様々話題がある中で、高槻は瑤子の手元にある一つを指す。
汐梨から電話を受ける前に行った、電気泳動の結果。予定よりも十分長く流したせいで、各遺伝子の差が開いている。左端に細かく陰影が写っているのが基準となるバッファ、一つ枠を空けた隣から、日依の肺胞と花眠病に侵された肺胞の遺伝子を並べている。
「……花眠病の方が、軽いんだ」
「え、肺胞の遺伝子を流したの?」
「はい。気になっ……まずかったですか?」
渋い顔をされて、ひやりと慌てる。スライスして染色液を浸すのは良いのに、電気泳動で比重を調べてはダメなんて変な話だと思ったが、瑤子の心配は杞憂に終わった。
「いいんじゃない? その分だとiPSの方も結果が出そうだね」
「……はは、そんな簡単には、行かないですよ」
初対面時は取っ付きにくく、何でもないような顔をして図星を突いてくるから苦手だった。だが、それはある意味素直なだけで、香椎ほど警戒心を煽らない高槻の工夫かもしれない。
彼は背景も曖昧な瑤子に、真剣に語ってくれる。ディスカッションの相手として尊重し、何より彼が欲しいであろうチャンスも奪うでなく、瑤子に向き合うよう勧めてくれる。
「……先生。私、研究所に行った方が、良いのでしょうか?」
口から零れ落ちたのは、弱音だった。
彼は写真から顔を上げて、瑤子の顔色から察したようだった。苦笑を浮かべる。
「君の持てるものを持って、向こうを見てから考えなさい。香椎先生も分かってくれる」
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蔵屋
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