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第五章 社畜と本当に大切なもの
9.社畜と特別な後輩
しおりを挟むうちの会社では、営業畑で入社した社員は、基本的に退職するまでずっと営業畑を歩む。大企業なので数年に一回、人事異動があるのは普通だが、今回の篠田のように、営業から工場への異動はごく稀だ。よほど営業職が嫌だったか、精神を病んで多忙ではない部署に回されたか、あるいは同じ部署の人間とトラブルを起こしたか……考えられるのは、それくらいだ。
だから、篠田の異動先が告げられたとき、集まった社員たちは一瞬驚いて、そのあとすぐに落ち着いた。どう考えても、俺との恋愛関係のトラブルが原因なのだ。実際、俺の顔色をちらちらと伺う奴もいた。俺は何も考えられず、ただぼうっとしていただけなので、さぞ間抜けな顔を見せてしまっただろう。
定期異動の時期ではないので、篠田の異動について何も準備がなかったのだが、発令の後すぐに課全員での飲み会が企画され、俺もそれに従った。
飲み会では、篠田は女子グループに囲まれていた。もしかしたら、俺をこのタイミングで寄せつけないための作戦かもしれない。俺は不思議と落ち着いていて、こんなところで話さなくてもあとで二人で話せばいいのだから、とその姿を遠巻きに見ていた。
解散後、女子だけで二次会をするという篠田たちに、俺たち男性陣は見送った。その後男だけでの二次会で、どういうことだ、と散々詰め寄られた。俺は本当に何も知らなかったので、あいつの都合だろう、と言っておいた。
二次会も終わり、豊洲のタワーマンションへ向かっている時、別の店から篠田が飛び出てきた。走って俺に近づいてきたのだ。女子たちは「がんばれ!」という声を篠田に向かって叫んでいる。どういう状況なのだろうか。
「宮本さん……」
「ああ……理瀬の家でいいか?」
「いいですけど、今ここから直行したら絶対怪しい噂立つので、別の店へ向かうふりしましょうね」
「お、おう」
言われた通り、俺は豊洲の数少ない飲み屋街を一周したあと、裏路地から抜けてタワーマンションへ向かった。
「まだここにいるんですね。もう引っ越しするって言ってたのに」
「ああ。この土日に引っ越すよ。つっても管理会社に鍵渡して、俺はスーツケースで荷物持って帰るだけだが」
「あの時が最後だと思ってたのに、また来ちゃったなあ」
篠田は途中のコンビニで買った缶チューハイを開け、ぐいっと一気に飲んでいる。
「どういう理由で、女性心に押されて俺のところへ来たんだ?」
「あー、それ、言わなくちゃだめですか」
「お前がいなくなっても、俺はあの女たちと一緒の課にいるからな。俺がどう思われてるのか把握しないと」
「はーあ? そこはもっと、急に異動になった私をいたわるような発言するべきなんじゃないですか? そんなんだから理瀬ちゃんに未読スルーされるんですよ?」
たしかに失言だった。篠田にとって異動は初めてのことだ。今日くらいは自分のことを考えてくれ、と思っていてもおかしくはない。
「異動ってするもんじゃないですね。女友達のテンションがみんなおかしくて、『最後だから宮本さんの○○○○どれくらいの大きさだったか教えて?』とか聞かれました」
「……なんて答えたの?」
「私、他の人の見たことないからわかりません、って」
「お、おう」
「異動の話しにきたはずなのに、結局ほとんど宮本さんの話でしたよ。なんか、私にまだ未練があるんじゃないかって言われて、今酔ってるからチャンスだよって話になって……否定するのも面倒だったので、来ちゃいました。迷惑でしたか」
「いや。お前と話したかったところだよ」
「えっ」
「異動、自分で希望したのか?」
「自分でというか、最初は館山課長から提案されたんですよね。工場に空きがあって、実家も近いからそっちへ移らないかって。どう考えても宮本さんとのいざこざで配慮されてるんですけど」
「まあ、そうだろうな。でも最後は自分で決めたんだろ?」
「はい。営業、正直向いてないなって思ってたので」
篠田は営業職としてうまくやっているが、一方でどこか、ぎこちなさを感じる部分が多々あった。俺だって営業職は嫌だが、今更部署を変えると営業にいた何年かは無駄になって、出世に響くので、ずっと営業のつもりでいる。だが篠田は、キャリアを捨ててでも部署を変えることを選んだらしい。
「頑張ってたけどな」
「だって、宮本さんみたいにうまくやれませんよ、営業なんて。お客さんのこと、こいつぶち殺してやろうかと思いながら笑顔で接するなんて、私には無理です。そのうち病んじゃいますよ」
確かに、いつも笑顔で仕事をしながら、突然糸が切れたかのように病んで休職する奴もいる。人間のストレスの貯め方は様々だ。そういう意味では、さっさと手が打てて良かったのかもしれない。
だが、どう考えても、それだけが理由ではない。
「俺と一緒にいるの、やっぱり嫌だったか」
俺が言うと、篠田は缶チューハイをどん、と机に置いた。俺とは目を合わせようとしなかった。
「宮本さんのことが嫌いな訳じゃないんです。でも……理瀬ちゃんのことが好きな宮本さんを見るのは、やっぱり辛くて。このままだったら、理瀬ちゃんのことまで嫌いになりそうな気がして……一度、どこかでやり直したい、っていう気持ちはありました」
「やっぱり俺のせいだな。すまん。謝ってすむことじゃないのはわかってるが」
「いえ。私のせいです。宮本さんは別れても平気な顔して仕事できてたでしょ。できなかったのは私なんですから」
今の状況を考えると、俺と篠田は離れるべきだ。篠田はそう判断したのだろう。
俺は破局した後も仲良くしていた照子との例があるから、篠田と別れた後も、顔を合わせること自体は苦痛だと思わなかった。しかし、付き合って、別れるという行為の重みが、俺と篠田で決定的に違っていた。この差は、埋めようがない。
「……まあ、東京と栃木だから、会おうと思えば会える距離なんだし、そんなに悲しむことないか」
そうは言ったが、篠田は何も答えなかった。もう二度と篠田とは会わないかもしれない、と俺は思った。
「……理瀬ちゃんのこと、最後まで付き合いきれなくて、ごめんなさい。異動することは、私からちゃんと理瀬ちゃんに連絡しておきます」
「おう。これは俺と理瀬の問題だから、気にするな」
「理瀬ちゃんのことはお友達として好きなんですよ、今でも。しっかり者で、もし私が高校生だったら一生ついていきたくなってました、多分」
「その気持ちはわかる」
「でも……」
「もういい。もういいから」
篠田はおそらく、理瀬の家庭の問題について、俺ほど真剣に介入できないことを謝っているのだ。社畜と女子高生で恋をする、という普通じゃない判断をした俺のせいなのだから、そこで篠田が引け目を感じる必要はない。ただ、俺はそのことを篠田にうまく伝えられなかった。それは、とてもまずい対応だったと思う。ちゃんと説明すべきだった。しかし、篠田は元恋人であること以前に俺の後輩であり、その頃の思い出もいろいろあって……いざ面と向かってみると、うまく言葉を作れなかった。
篠田が近くにいないのは、寂しい。
正直にそう言うべきかもしれなかった。しかし、そんなことを言ったら、また誤解されてしまう。あるいは理瀬がいるのにそんなことを言うのは浮気者だと、罵られるかもしれない。とにかく俺は、巣立ってゆく後輩に対して、うまく言葉をかけられなかった。
「私、帰りますね。女子寮に戻らないと、またヘンな噂になるので」
「ああ……そうだな。気をつけてな」
篠田を家まで送る権利は、今の俺にはない。何事にも優先して理瀬を守る、と決断したからだ。
気をつけてな、としか言えなかった。
篠田が去った後、俺は照子が残したスピリタスを開けて飲んだ。焼けるような感触が喉に走り、不甲斐ない気持ちがさらに増した。どういうわけかスピリタスでも上手く酔えず、結局この日は夜明けまで、飲むのと、吐くのと、寝るのを繰り返した。
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