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第三章 社畜と昔の彼女と素直になるということ
16.社畜昔ばなし ⑮モラトリアムの終わり
しおりを挟むあの一件で、俺はバンド活動から遠ざかった。
俺は大学三年になり、照子は二年制の専門学校を卒業した。
理系の学部なので進級するほどレポートやテスト勉強が忙しく、音楽活動どころではなくなった。高校の授業と違い、電気電子工学科の勉強は将来の仕事に直結する知識なので、モチベーションは高かった。
一方、照子は専門学校を卒業したあと、都内で音響スタッフの仕事を始めた。だが作曲からは遠ざかっていた。赤坂さんの件を知って、しばらく曲が書けなくなったのだ。
あの事件のあと、赤坂さんが運ばれた病院へ照子と二人で行ったが、親族でもない俺達は面会できなかった。そのあと照子と二人で食事をとり、別れた。それ以降数ヶ月間照子と会わなかった。
あまり寂しいとは思わなかった。赤坂さんについての問題を先送りにしてきたことに対する因果応報だと、俺は思っていた。
別れる、という形は取らなかった。お互いに、そう言い出す気持ちもなかった。しかし二人の仲は進みそうになかった。
思えば、この頃から心が離れ始めていたのだ。
その後、照子が就職してから、俺達はなんとなく会うことになった。新宿で待ち合わせ、近くにあったマクドナルドに入った。
「社会人になったんだからおごってくれよ」
「ええよ、べつに」
「えっ、いいの」
「剛は甲斐性なしやもんなー」
ふざけて笑う照子。生活するのにほぼギリギリの収入しかないのを、俺は知っていた。だが照子は冗談半分だった俺の提案を受け入れた。今更、俺にそこまでするのか? と思ったが、俺は口に出さなかった。
「作曲のお仕事もらって臨時収入あるけん、マックくらいなんともないじょ」
「書けるようになったのか?」
「んー、前ほど上手くはないけどな。インディーズ時代にうちの曲好きだった人、意外と多いみたいやな」
この頃照子が作曲した若いバンド向けの曲は、大ヒットしてそのバンドをメジャーデビューに導く。
照子はもう天才の域に達していた。作曲家ならどんな曲を書いても、最低限のレベルは維持する。照子は自分で思っている最低限レベルでも十分いい曲を書けるのだ。
「剛が昔みたいに歌ってくれたらなあ」
それが目的か、と俺は思った。
赤坂さんのことは辛かったが、何ヶ月もの時を経て気持ちを整理した。作曲家になりたいという夢を実現するために、昔のようなバンドの刺激が必要になった。
だから、わざわざ俺に会いにきた。
「……歌ってやろうか?」
「えっ?」
「メカなら、二人でもどうにかなるだろ? 俺も久しぶりにお前の曲、歌ってみたいしなあ」
照子の曲は、社畜になった今でも好きだ。
必ず作曲家として成功するはずだから、成長する姿を見ていたい、という気持ちもあった。
「ほんま!? ほな今からスタジオいこ!」
「今からかよ?」
「うん、剛に歌ってほしかった曲、ようけあるけん!」
こうして俺はスタジオに連行され、何曲も歌った。
社畜になってからも続く、俺と照子の作曲活動だ。
俺は照子が何を考えているのかよくわからなかったが、試しに歌ってみることで照子は大満足していた。
「やっぱり剛が歌うとイメージがわかりやすいわ。楽器の音はメカで何とかなるけど、人間の声はなかなか再現できんけんな」
「こんなことでいいなら、いくらでも付き合うよ」
「うん!」
照子は明るく答えた。それから急によそよそしい顔になって、俺の隣に来た。
「ご褒美、ほしいだろ?」
照子はしゃがみ、俺のズボンのチャックを下げようとした。
「……こんなところじゃだめだ」
正直、久々に会ったことで俺の体は強く照子を求めていた。でもその時、スタジオで大学生とセックスしていた赤坂さんのことが思い出され、何とか理性を働かせて止めた。
その後二人でホテルへ行き、今まで会っていなかった時間をすべて精算するように、照子を何度も抱いた。
** *
照子の作曲を手伝いつつ、ついでに遊ぶという関係はしばらく続いた。
付き合いはじめた高校生の頃ほど、ずっと二人でいる時間を求めなかった俺達には、これが適度な距離だった。
変化があったのは大学三年終わり頃、俺が就活を始めた時だ。
俺は重電系といわれる電機メーカーを重点的に受けていた。電気がなくなることは絶対ないし、多少給料が悪くても生きてはいける。大学の先輩や教授が言ったことを鵜呑みにしていた。
「ふーん」
それを照子に話したら、寂しそうな顔になった。
この時、俺は「合同説明会で疲れて千葉まで帰る気力がない」という理由で、当時世田谷に住んでいた照子のアパートにリクルートスーツのままなだれ込んでいた。
「徳島に帰らんの?」
「帰ったって仕方ないよ。お前だって東京にいるんだろ?」
徳島にも電気系の企業はあったが、ごく限られる上に給料が安かった。それに都会の楽しい生活に慣れてしまったら、もう田舎には戻れない。実家に帰るという選択肢はなかった。
「うちは、剛と二人でのんびり暮らせるんやったら、徳島でもええけど」
「作曲の仕事はどうするんだよ?」
「今はネットでなんぼでもできるでえ。うちの仕事、メカで打ったやつ送ったらその後の調整とか全部任せとるし、わざわざ東京におる必要もないんよ」
「けど、徳島と東京じゃ情報量が――」
と言いかけて、俺はやめた。
社畜につま先を突っ込んだ俺は、優秀な人材が集まる東京でいるほうが、何もない徳島でいるよりずっと成長できる、と思っていた。
だが照子は違う。照子の才能は天才的だ。誰かの影響を受けなくても、一人でやっていく自信がある。だから徳島に戻ってもいい、と言ったのだ。
俺はそういう特別な存在になれなかった。わかってはいたが、言葉にしようがない劣等感はあった。照子が成功しているところを見ると、体の奥底がぶるっと震えるのだ。醜い嫉妬だな、と思い、その気持ちを極力出さないよう意識していたが、何度もそういう瞬間はあった。
「うちら、これからどうするんかな?」
照子がつぶやいた。俺が大学を卒業した後の予定は、全く決まっていなかった。
就職したら二、三年働いて、そのうち結婚する。俺はそんなイメージを抱いていた。俺がそうしたいというより、社会全体で見て中の上くらいの人生プランがそれだから、合わせようと思っていた。照子とはこの先もずっと一緒にいるつもりだった。
だが照子は、そんな俺の考えに疑問を抱き始めていた。
「二人でバンドやることは、もうないんかな?」
「……作曲家として成功してるお前が、無名の俺なんかと一緒に活動したら、名前が落ちるだろ」
「ほんなことない。インディーズ時代から評判あったし、剛の歌唱力だったら絶対いける」
「まあ、今は就活に集中するよ。とりあえず働き口がないと、どうしようもない」
「ほな、就活が終わったらうちとライブしてくれる?」
照子を見ると、すごく真剣な眼になっていた。
何かを訴えていることは明らかだった。でも俺は、その何かを読み取れなかった。
大学生活の最後に、記念のステージをしたいのか。
普通の社会人をやめて、音楽家の道を歩めと言っているのか。
わからない。だが、照子が俺に変化を促している。それだけは、わかった。
返答に困った俺は、近くにあった照子の顔を押さえ、強めのキスをした。
「なあに、いきなり」
「いいだろ?」
「疲れとるんとちゃうん?」
「疲れたらしたくなるのさ。死ぬ前に子孫を残さないとな」
こうして俺は照子との会話をうやむやにし、「疲れとるんだろー」とぶーぶー文句を言う照子を無理やり抱いた。
それ以上、将来を具体的に話すことが怖かった。
就活もロクにできない俺が、天才作曲家の照子と対等に話せるとは、思わなかった。
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