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第四章『領主代行』

111話 続•神の見えざる手

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「塩が半値になっているだと? 何が起きているんだ!」

 屋敷の執務室で、スカラ侯爵はイライラを隠そうともせず、思いきり机を叩いた。

「それが、和平条約の調印にあわせ、ナログの使節団が塩を無料で配ったようでして」

 報告に来ていた男は、修道士の服を着ているが、だらしなく肥えている。顔色もかなり悪い。

「そんなもの、国王もやっていただろう! すぐに買い占めろ!」

 侯爵は机を2回叩く。修道士はビクリと震えて、一歩下がった。
 
「それが、手元に現金がなく、これ以上買えないのです」

 スカラ侯爵家の資産は、買い占めた塩が際限なく値上がりしたことで、ほとんどが塩の現物になっている。値上がりに夢中になり、塩を際限なく買い進めた末に、現金が払底してしまったのだ。

「ならば聖水を値上げしろ!」

 スカラ侯爵家には、名目として教会に寄進した聖堂や領地が多くある。多くは税から逃れる隠れ蓑となっており、領民や巡礼者から多額の寄進を集めていた。

「それが、聖堂派の連中も聖水の提供を開始したようでして……」

 ログラム王国には、二人の大司教がいる。本来、一国一大司教が原則なのだが、先王の領地が公国として認められ、そこに新たな大司教が派遣されたことで、新大司教を支持する公国派と古くからいる大司教を支持する聖堂派の貴族の間には、深刻な対立が発生していた。
 その原因は、公国派が聖水の製法を秘匿しているから、と、公国派は思っている。

「どうせまた粗悪な偽物だろう?」

 以前、聖水の偽物が出回った。きつい臭いがあり、アンデットを退ける効能を持ってはいたが、明らかに聖水とは違うものだったはずだ。

「ところが、今回のものは匂いも我らのものに近く、実際にもアンデッドに効果があるようでして、すでに本物と認識されてしまっています」

 侯爵は荒々しく立ち上がる。

「なぜだ! 製法が盗まれたのか?」

 公国派貴族が管理する荘園で作られた葡萄は、すべてワインに加工された上で、大司教が管理している施設に送られる。聖水の原料がワインだという以外、スカラ侯爵でさえ細かい内容は知らない。

「わかりません」

 あれはワインが火に清められて、何もない空中から現れる神の恵みだ。そして、罪などの穢れに触れると穢れを中和して消える。

「くそっ。それで、聖堂派の寄進額はいくらだ?」

 罪を浄化する聖水は希少なものだ。罪の薄い平民には水で薄めて使っているが、その価値は計り知れない。

「それが、祈りに来た者たちに、特に寄進を求めず清めの儀を行っているようでして」

「な……奴らは、馬鹿なのか?」

 寄進もなく聖水を与えるなどあり得ないだろう。少なくともスカラ侯爵の価値観では。

「ともかく、ここからさらに値上げするのはどうかと……」

 修道士の言葉は歯切れが悪いが、値上げしたところで、寄進する者が居なければ仕方がない。

「くっ。値上げは良い! 他家はどうなっている!?」

 そうなってくると、気になるのは他家の動向だ。ノウハウは共有されていたので、弱点は共通している。

「やはり、どこも同じような状況のようでして」

「おのれ! いまいましい!」

 予想通りだが、ここからスカラ侯爵が自力で逆転するのは厳しいだろう。

「それで、どうしましょう?」

 修道士は困り果てた顔で、指示を仰ぐ。

「公王陛下に金を借りに行ってくる。今なら教皇へ寄進するために蓄えたものがあるはずだ! すぐに買い占めを再開できるよう準備しておけ!」

 部屋を出ていくスカラ男爵の足音は荒々しく、盛者必衰の響きがあった。


◇◆◇◆


「いっぱい穫れたなぁ」

 男はカゴいっぱいのラディッシュを見ながら悩んでいた。今収穫しないと、トウ立ちして食べられなくなってしまう。しかし、食材が豊富で飢える心配のない今の季節、これだけの量を食べきるのは難しい。

 そもそも、今年は塩が不足して保存食が用意できず、冬の備蓄が進んでいない。今は好きなだけ食べられるが、このまま行けば今年の冬は大量に死人がでるだろう。

 自分を守ろうと思えば、家族を口減らししなければならず、家族を守ろうと思えば、男が魔物狩りでもするしかない。

 豊作となっているラディッシュを眺め、ため息をついた。

「お父さん、どうしたの? そんな深刻な顔して」

「いや、こんなに食えないな、と思って」

「え? 塩漬けにしたら良いんじゃないの? ほら」

 娘は、手にした重そうな麻袋を掲げて、とびきりの笑顔を見せた。

「え? 今回の配給、そんなにあったの?」

「いや、配給はもう終わりなんだって。さっき市場をのぞいたらさ、塩がめちゃめちゃ安くなってんの。私のお小遣いで、こんなにも買えたんだよ!」

 娘の持つ塩の量は、一週間前ならこの娘を売っても手に入らなかったであろう量だ。信じられない気持ちで、袋の中の塩を舐めてみる。

「よくわからないが、神に感謝しないとな」

 舌の上の微量の塩は、しょっぱいながらも、わずかに甘い感覚を伝えてきていた。


◆◇◆◇◆


 振り返ると、そこは見渡す限りの都市だった。

 ログラム王国の王都は盆地にある。そのため、峠の関所からは、王都の街並みが遠くまで良く見えた。

「いやぁ、儲かって良かったっすね」

「ああ、帰りの仕入れもうまく行ったし、この冬は安泰だな」

 馬車に満載されているのは、珍しい魔物肉の塩漬けや高級な毛皮などが主だ。それ以外にも、最近商業都市ビットの女性たちの間で噂になっている石鹸や化粧水、あとは聖水を溶錬水晶の瓶に詰めたものを、わずかだが手に入れることができた。

 これをビットで売れば、一財産になるだろう。

「しかし、最後は崩れるように値下がりしたっすね、早めに全部売り払って、ホント良かったっす」

 彼らは到着初日に、塩をすべて売り払うことができた。同じ重さの金、というのは少し大げさだったが、同じ重さの銀よりは遥かに高く売れたのは、普段ならありえない奇跡である。

「まぁ、予想より遅かったがな」

 塩はビットからの隊商が到着した翌日以降、少しずつ下落していき、2週間後に一気に崩れた。

 聞くところによると、ながらく関係が冷え込んでいたナログ共和国との関係が正常化して、あちらからも塩が大量に持ち込まれたことが一因らしい。

「トドメになったのは、最後まで塩の自由化に反対していた貴族の一派が、備蓄を売り払ったこと、でしたっけ? 今や、塩は砂より安くなってるそうっす」

 公国派と言ったか。先代の王が定めた法律を、今代の王が廃止したことに反発していたらしい。

「まぁ、しょせんは塩だしな」

 ガタンッ と馬車の車輪が石で跳ね上がり、積荷が跳ねる。

「あ、すんませんっす」

 馬車の手綱を握る男は、軽く謝罪して喋るのをやめた。今回の積み荷は、溶錬水晶の容器に入っているものがかなり多い。振動で割れたら、大損だ---


◆◇◆◇◆◇◆


「ペーパ兄さん、今回の稼ぎは何に使おうか?」

 隣に座るショーンが、御者台で足をバタつかせながら、隣で手綱を握る私に声をかけてくる。私は一瞬だけショーンを一瞥して、すぐに前を向く。

「さぁ? 会頭はショーンだろ。それを考えるのも仕事のうちだよ」

 コンストラクタ家は面白い家だ。ただの砂を溶連水晶に加工するという、普通ならありえない使い道をあっさり教えてくれた。実際、あの工房に砂を届けてから、溶錬水晶の瓶が大量に出回ったことから考えて、嘘ではないのだろう。

 アノーテ姉さんが経営する孤児院には、仕事にあぶれた孤児たちがまだまだたくさん存在するし、孤児院出身冒険者の引退後の生活も安定させなければならない。新しい仕事の創出は急務である。

「羅針盤って確か船乗りの必需品なんだっけ?」

 羅針盤は必ず南北を示すので、陸が見えない海でも間違えず航海できるようになるらしい。だから陸沿いの航路を選んだ場合と比べて、大幅に日数を短縮できるそうだ。

「そうそう。港町で売ったら、金貨10枚ぐらいにはなるんじゃないかな」

 そんな羅針盤を、千個以上仕入れることに成功した。

 コンストラクタ家の屋敷にショーンと一緒に商談に行った際、たまたまでくわしたヴォイド先生が、在庫をありったけ売ることをイント君に指示したからだ。

 これを全部売れば、先日の養育費を超える利益になるだろう。

「じゃあ、羅針盤が売れたら、次は溶錬水晶の工房でも作ろうか。幸い、お手本になる瓶はたくさん手に入ったし」

 こちらに来る途中、冗談で砂を大きな水晶にすると言っていたが、まさか本当にそうするとは思っても見なかった。

 なかなかの漢気で、あのアノーテ姉さんが惚れてしまったのもわからないではない。

 だが、それでも私は譲れない。帰ったら、仕事をしばらく休んで、もう一度一から修行をやり直そう。


◆◇◆◇◆◇◆◇


「坊ちゃん、一体何やったんですか。怖いですよ」

 親父の指示で僕の護衛についていたパッケは、胡散臭いものでも見るかのような視線を、僕の方に向けてきた。

「いや、確かに怖いけど、やったのは宰相閣下だよ」

 王都の市場では、そこかしこで塩が売られるようになっていた。見回すと銅貨1枚で一掴み分ぐらいの塩が買えるようになっていた。塩不足の始まる前の約半額だ。

 塩が値下がりしなかった原因は、公国派貴族にあった。彼らは罪が洗い流せると聖水を売り、その資金で塩を買っていた。そうやって塩を値上がりさせた上で、信者に塩をさらなる高値で売る。

 あとはそのサイクルを回し続けて、塩を高騰させていたのだ。

 宰相閣下は、謎の情報網でそういった事実を丹念に調べ上げていた。

 僕がやったのは、高濃度のアルコールを生成できる蒸留器を作って聖堂派貴族に販売しただけである。青銅製だったので、出来上がるのはあっという間だった。

「市場原理だっけ。使いこなせるとすさまじいのね」

 そう言うマイナ先生はいつ見てもかわいい。メガネ最高。

「そうだね。聖水を生成する組織が複数あって互いに競争したら、独占時と比べて値段なんか簡単に下がるようになる。そうなれば、公国派が買い占めを続けるための資金なんて準備できなくなるっていうのが、今回の真相だろうね」

 公国派貴族は公王である公爵に、今年の教会への寄進の中止と返還を願い出たが却下され、逆に公国への税の未払いを指摘されてしまったらしい。

 税が払えなければ、貴族家は取り潰されかねない。税を納めるため、公国派貴族がいっせいに塩の売却に走り、供給が増大しすぎて大暴落が起きた。

 教科書では学べない、ダイナミックな値動きだ。

「公国派は財産をほとんど失ったみたいね。宰相閣下は聖典の印刷を催促してきてるみたいだから、一気に叩き潰すつもりなのかも」

 おそらく、マイナ先生の言うとおりだろう。派閥内の信頼関係を壊し、経済力を奪い、信者まで失わせようとするとは。

「ホント、大人は怖いよ」

 そうつぶやく僕を、マイナ先生とパッケは呆れたような顔で見ていた。
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