黒い記憶の綻びたち

古鐘 蟲子

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11.父を連れていった

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 この話は、父が亡くなるちょうど三日ほど前の出来事である。

 父は絵に描いたような昭和の頑固親父で、私は父のことが当時とても嫌いだった。母のことも同じくらい嫌いではあったけれど。

 そんな嫌いな父が、余命宣告され、いよいよ危篤というところまできてその日、母だけが何故か呼び出された。

 父が危篤だというのに娘の私はほったらかしで、母だけ呼び出されるこの状況にも少し腹立たしかったのを覚えている。
 なんで私だけ除け者扱い?と、そんな感じで少し不貞腐れていたのだ。

 しかし、母が病院に向かって少し経った頃、同じアパートに住むTさんのところに母から電話がかかってきた。
 Tさんというのは、あのHさんの孤独死にも出てきた人である。

 我が家は固定電話なんて引けるほど安定した収入のある家ではなかったから、母だけが当時携帯を持っていたのだけれど、前々から連絡先は聞いていたのだろう。Tさんのところに病院にいる母から連絡が来たのだ。

 と言っても時刻は夜十一時を過ぎた辺りだろうか。

 母からは、父危篤につき早めに来いとのこと。最初から同行させりゃ良かったじゃん。


「お金出してやるからタクシーで行くかい?」

 電話が終わるとTさんが心配そうにそう提案してくれた。しかし、私はTさんのことが苦手だった。

 前にTさんのお部屋に母と一緒におしゃべりしに上がらせてもらったとき、大人向けのビデオが山積みになっていたのが印象的で、なんというか「この年齢になってもこういうものを観るんだ、怖い」という恐怖心のようなものを覚えている。

 しかし普通に外で会えば挨拶もするし気さくに話しかけてくれるTさん。苦手とはいえ、善意で申し出てくれているわけだから、無碍にも出来ず、丁寧にその時は謝って、

「お気持ちは嬉しいです。ありがとうございます。でも自転車で行きます」
 とお断りしたのだ。

「そうか。気をつけて行けよ。もしタクシー必要だったらまた言ってくれな」

 そう言ってTさんは自分の部屋へと戻っていった。



 さて、中学生の私の足で、全力で人気のない道を数キロ自転車で走ることになった。

 Tさんと話していた時には気づかなかったのだが、外の空気が何やらいつもと違うことにふと気づく。

 自転車を出し、アパートを出たところでその空気の異様さに気づいたのだ。

 視界が真っ白なのだ。

 いつもの知っている道のはずなのに、数メートル先が真っ白で見えない。

 このときはどうしても頭の中でこの光景を言語化出来なかったのだが、これは霧なのである。

 真っ白な濃霧が、まるで私を行かせないとでも言うかのようにどこまでも続いている。


 いつもは快調に動く自転車なのだが、家の裏手の道に来たところ(家から数百メートルくらいのところ)でガシャンという変な音がして、進めなくなった。

 何だろうと自転車の様子を見れば、どうやらチェーンが外れたらしい。中学生の私には直す力はない。

 大人しく自転車は家に置いていくことに決め、また家へ戻る。

 しかしTさんにタクシーのお金を出してもらうことにも抵抗を感じる。そう思った私は、走っていくことにした。

 数キロである。中学の体育では7キロ走らされるし、部活では美術部なのに校外〇周というノルマを出され、筋トレもさせられるような生活だ。
 病院まで走るくらい、ちょっとした真夜中のドキドキ肝試しマラソンくらいにしか思っていなかった。

 巡回するパトカーに見つかればラッキーである。未成年がこんな時間にこんなところでと問われれば、安全のため乗せていってくれるかもしれない。
 そんな淡い期待もあった。


 そして私は、この異様な濃霧の中を、体感で1時間半くらいかけて走っていく。

 車がまったく通らないわけではないけれど、通るのは基本大型トラックやダンプカーばかり。私のことなど何一つ気にもとめず、あるいは見えていても「こんなところに中学生がいるはずがない。今のは幽霊だ」とでも思われていたに違いない。

 四月だというのに汗びしょびしょになりながら、病院までの道をひたすらに走った。

 走りながら、考えた。

 どうしてこのタイミングで濃霧なのか。

 どうしてこのタイミングで自転車が壊れるのか。

 何者かが来るなと言っているような、そんな気がした。

 そしてこの何者かは、父をこの真っ白な濃霧と一緒に連れて行ってしまいそうな、そんな予感もした。

 普段この土地に霧なんてほぼ発生しない。
 たまにあっても、ここまで酷い霧はなかった。

 現在に至って考えてみても、あそこまで酷い濃霧はあれきりである。

 父の死が近いことが、濃霧から感じ取れた。


 走って、走って、ようやく病院についた。

 父は集中治療室にいた。
 一瞬亡くなる気配があったようだが、私が来た頃には少し持ち直したらしかった。

 死ぬ前の父には、私は会わせてもらえなかった。

 しかし、

「コーヒーが、のみてぇ」

 と、母だか看護師だかに訴えていたその声だけは聞き取れた。


 父が亡くなったのは、その濃霧の夜から三日後だった。

 夜、危篤の知らせが母の電話に来た。
 急いで母と病院へ向かい、病室に辿り着いた。
 到着して間もなく、

「ご臨終です」

 と医師に告げられた。

 あぁ、あの霧が父を連れて行ったのだ。そう直感的に思った。

 いわゆる死神。
 魂を移動させられたのだ。


 しかしのちに、私は少し疑問が残る。

 果たして、魂を移動させられたのは父だけだったのだろうか?

 もしかしてあの夜、本当に移動してしまったのは私だったのではないか──?

 その理由を次のエピソードで語ろうと思う。
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