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Story 07
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仁寿のマンションに着いた時、雨はすっかりあがっていた。
車を降りた仁寿が大きなリュックサックを背負って、彩の荷物とウイスキーなんかが入ったビニール袋を両手に持つ。
彩は、仁寿のリュックサックに医学書や資料がぎゅうぎゅうに詰め込まれているのを知っている。以前、医局のテーブルに置かれていたそれを動かそうとして、その重さに驚いたからだ。
「自分の荷物は自分で持ちます」
「いいよ、気にしないで。彩さんはそのバッグだけ持ってよ」
「でも」
「いいから」
バックシートからハンドバッグを取って、彩は「すみません」と小さく謝る。
「彩さん」
「どうしました?」
「僕のポケットから鍵を出してくれないかな。両手が塞がっちゃって」
こっちの、と仁寿が上着の右ポケットを顎でさす。
――だから荷物は自分で持つって言ったのに……。
心の中で思いながら、しかし相手の善意を無下にするような言葉は言いたくなくて、彩は素直に仁寿のポケットに手を入れた。深いポケットの奥で、指先に硬い金属が触れる。体温で温まった鍵。寄り添うような仁寿との近い距離に緊張してしまう。
「あった?」
「はい。ご、ごめんなさい」
なんで謝ってるんだろう、わたし。
慌てて鍵をつかむ。そんな彩を見て、仁寿が嬉しそうな笑みを浮かべながら「行こう」と言った。
エントランスの一つ目の自動ドアを通って、両手が塞がった仁寿の代わりに彩がオートロックを解除する。その先にある、ソファーとイス、それからテーブルと観葉植物が置かれた広いホール。暖色の照明が照らす空間は上品で、まるで都会のホテルのよう。
二人が中に入ると、集合ポストの前にスーツ姿の女性が立っていた。両腕に買い物袋と大きなバッグ、そして二歳くらいの子供を抱きかかえた若い女性だ。
ちょっと待ってね。ごめんごめん、はいはい。
泣いて暴れる子供をあやしながら、女性がポストの中を必死にまさぐる。
「大丈夫ですか?」
彩の声に、女性は一瞬だけ驚いて、困り果てた表情でポストに視線を移した。どうやら、大きな茶封筒がポストの角に引っかかって取り出せずにいるらしい。彩はそれをポストから抜き取ると、了承を得て彼女の腕にさがっている大きなバッグに入れた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ、大変ですね。エレベーター、押しましょうか?」
「一階なので……」
「あっ、そうですね。ごめんなさい」
ポストに書かれた部屋番号を見て彩が気恥ずかしそうに笑うと、女性は「いいえ、いいえ」と笑顔で眉尻をさげた。
涙目の子供が「ばあばい」と彩に向かって笑顔で小さな手を振る。女性は何度か彩に会釈して、廊下の角を曲がっていった。
かわいいい男の子だった。だけど、ただかわいいと思えるのは他人だからで、ママは大変なんだろうな。
もう八時を過ぎている。これから食事を作るのだろうか。仕事をして、子供の世話をして、家事をして。見ず知らずの人だけれど、頭のさがる思いがする。
「彩さん」
仁寿に呼ばれて、はっと我に返る。彩は、慌てて仁寿に駆け寄った。
「悪いけど、僕のポストも開けてくれる?」
「分かりました」
「番号はね、七四八だよ」
ダイヤルを回してポストを開けると、中には封書とはがきが数枚入っていた。職業柄、個人情報に触れるのはよくない気がして、住所や差出人を見ないようにそれらを手に取る。
「ありがとう」
「いいえ」
「エレベーターも押してもらっていい?」
「はい。えっと、何階ですか?」
「八階」
エレベーターで八階にあがった二人は、足音とビニール袋が擦れる音がこだまする廊下を無言で歩く。仁寿の部屋は南の角部屋だった。ここでも仁寿に代わって彩が鍵を開ける。
「先生、どうぞ」
自分の家ではないのに、どうぞって変。しかし、他に言いようがない。
仁寿が先に靴を脱いで、鍵をかけてと彩に言った。彩は、施錠して脱いだパンプス玄関の端にそろえる。
二度目だけど、まるで初めて来た場所のような感じがした。記憶はしっかりあるのに、景色とか時間とか、そういったものが曖昧でよく思い出せない。
「彩さんの荷物は寝室に置くね。他にも部屋はあるんだけど、掃除してないから今日は我慢してよ」
寝室という単語に、思わず左胸がどきっと反応する。
「家の中、遠慮しないで好きに使っていいから」
「……は、はい」
「彩さん、そこのスイッチ押して。浴槽って書いてあるやつ」
彩の着替えなんかが入ったバッグを寝室に置いて、仁寿が向かいの壁を指差す。彩は、つい条件反射で「これですか?」とボタンを押して、しまったと内心で焦った。
不眠で限界の時は思考回路がまともではないが、今はそうじゃない。ハイボールをジョッキ二杯飲んだけれど、それくらいじゃ酔わない。
「十分くらいでお湯がたまるから、先にお風呂入ってね。それまで、リビングでゆっくりしていてよ」
「あの、先生。部屋に来ておいて今さらですけど」
「なに?」
「あの日のことは、忘れていただけませんか?」
「……彩さん」
気落ちした様子で仁寿が肩を落とす。ちくりと胸が痛んで、彩は深く反省した。
わたしの優柔不断な態度が、先生を傷つけてしまった。最初から間違っていたのよ。先生とセックスなんてしちゃいけなかったし、今日だってちゃんと断るべきだった。今ならまだ間に合う。ちゃんとここで、はっきり言わなくちゃ。
ごくっと喉を鳴らして、彩が「先生」と呼ぶ。すると、仁寿がみぞおちをおさえながら顔をあげた。
「僕ね、すっごくお腹が空いてるんだ」
「あ……」
そうか。わたしは由香とおいしいご飯をお腹いっぱい食べたけれど、先生はまだなんだ。自分の都合ばかりで、先生のことに全然気が回っていなかった。申し訳ない気持ちになって、しかし彩はすぐに思い改める。
いや、違う。ちょっと待って、そうじゃない!
「先生、わたし帰り」
「もう、無理。低血糖で倒れちゃいそう。知ってる? 血糖値が高いのはそうでもないけど、低血糖って死ぬ時があるんだよ。ああ、もう限界だ。めまいがしてきた。ほら、彩さんも早くこっちに来て」
車を降りた仁寿が大きなリュックサックを背負って、彩の荷物とウイスキーなんかが入ったビニール袋を両手に持つ。
彩は、仁寿のリュックサックに医学書や資料がぎゅうぎゅうに詰め込まれているのを知っている。以前、医局のテーブルに置かれていたそれを動かそうとして、その重さに驚いたからだ。
「自分の荷物は自分で持ちます」
「いいよ、気にしないで。彩さんはそのバッグだけ持ってよ」
「でも」
「いいから」
バックシートからハンドバッグを取って、彩は「すみません」と小さく謝る。
「彩さん」
「どうしました?」
「僕のポケットから鍵を出してくれないかな。両手が塞がっちゃって」
こっちの、と仁寿が上着の右ポケットを顎でさす。
――だから荷物は自分で持つって言ったのに……。
心の中で思いながら、しかし相手の善意を無下にするような言葉は言いたくなくて、彩は素直に仁寿のポケットに手を入れた。深いポケットの奥で、指先に硬い金属が触れる。体温で温まった鍵。寄り添うような仁寿との近い距離に緊張してしまう。
「あった?」
「はい。ご、ごめんなさい」
なんで謝ってるんだろう、わたし。
慌てて鍵をつかむ。そんな彩を見て、仁寿が嬉しそうな笑みを浮かべながら「行こう」と言った。
エントランスの一つ目の自動ドアを通って、両手が塞がった仁寿の代わりに彩がオートロックを解除する。その先にある、ソファーとイス、それからテーブルと観葉植物が置かれた広いホール。暖色の照明が照らす空間は上品で、まるで都会のホテルのよう。
二人が中に入ると、集合ポストの前にスーツ姿の女性が立っていた。両腕に買い物袋と大きなバッグ、そして二歳くらいの子供を抱きかかえた若い女性だ。
ちょっと待ってね。ごめんごめん、はいはい。
泣いて暴れる子供をあやしながら、女性がポストの中を必死にまさぐる。
「大丈夫ですか?」
彩の声に、女性は一瞬だけ驚いて、困り果てた表情でポストに視線を移した。どうやら、大きな茶封筒がポストの角に引っかかって取り出せずにいるらしい。彩はそれをポストから抜き取ると、了承を得て彼女の腕にさがっている大きなバッグに入れた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ、大変ですね。エレベーター、押しましょうか?」
「一階なので……」
「あっ、そうですね。ごめんなさい」
ポストに書かれた部屋番号を見て彩が気恥ずかしそうに笑うと、女性は「いいえ、いいえ」と笑顔で眉尻をさげた。
涙目の子供が「ばあばい」と彩に向かって笑顔で小さな手を振る。女性は何度か彩に会釈して、廊下の角を曲がっていった。
かわいいい男の子だった。だけど、ただかわいいと思えるのは他人だからで、ママは大変なんだろうな。
もう八時を過ぎている。これから食事を作るのだろうか。仕事をして、子供の世話をして、家事をして。見ず知らずの人だけれど、頭のさがる思いがする。
「彩さん」
仁寿に呼ばれて、はっと我に返る。彩は、慌てて仁寿に駆け寄った。
「悪いけど、僕のポストも開けてくれる?」
「分かりました」
「番号はね、七四八だよ」
ダイヤルを回してポストを開けると、中には封書とはがきが数枚入っていた。職業柄、個人情報に触れるのはよくない気がして、住所や差出人を見ないようにそれらを手に取る。
「ありがとう」
「いいえ」
「エレベーターも押してもらっていい?」
「はい。えっと、何階ですか?」
「八階」
エレベーターで八階にあがった二人は、足音とビニール袋が擦れる音がこだまする廊下を無言で歩く。仁寿の部屋は南の角部屋だった。ここでも仁寿に代わって彩が鍵を開ける。
「先生、どうぞ」
自分の家ではないのに、どうぞって変。しかし、他に言いようがない。
仁寿が先に靴を脱いで、鍵をかけてと彩に言った。彩は、施錠して脱いだパンプス玄関の端にそろえる。
二度目だけど、まるで初めて来た場所のような感じがした。記憶はしっかりあるのに、景色とか時間とか、そういったものが曖昧でよく思い出せない。
「彩さんの荷物は寝室に置くね。他にも部屋はあるんだけど、掃除してないから今日は我慢してよ」
寝室という単語に、思わず左胸がどきっと反応する。
「家の中、遠慮しないで好きに使っていいから」
「……は、はい」
「彩さん、そこのスイッチ押して。浴槽って書いてあるやつ」
彩の着替えなんかが入ったバッグを寝室に置いて、仁寿が向かいの壁を指差す。彩は、つい条件反射で「これですか?」とボタンを押して、しまったと内心で焦った。
不眠で限界の時は思考回路がまともではないが、今はそうじゃない。ハイボールをジョッキ二杯飲んだけれど、それくらいじゃ酔わない。
「十分くらいでお湯がたまるから、先にお風呂入ってね。それまで、リビングでゆっくりしていてよ」
「あの、先生。部屋に来ておいて今さらですけど」
「なに?」
「あの日のことは、忘れていただけませんか?」
「……彩さん」
気落ちした様子で仁寿が肩を落とす。ちくりと胸が痛んで、彩は深く反省した。
わたしの優柔不断な態度が、先生を傷つけてしまった。最初から間違っていたのよ。先生とセックスなんてしちゃいけなかったし、今日だってちゃんと断るべきだった。今ならまだ間に合う。ちゃんとここで、はっきり言わなくちゃ。
ごくっと喉を鳴らして、彩が「先生」と呼ぶ。すると、仁寿がみぞおちをおさえながら顔をあげた。
「僕ね、すっごくお腹が空いてるんだ」
「あ……」
そうか。わたしは由香とおいしいご飯をお腹いっぱい食べたけれど、先生はまだなんだ。自分の都合ばかりで、先生のことに全然気が回っていなかった。申し訳ない気持ちになって、しかし彩はすぐに思い改める。
いや、違う。ちょっと待って、そうじゃない!
「先生、わたし帰り」
「もう、無理。低血糖で倒れちゃいそう。知ってる? 血糖値が高いのはそうでもないけど、低血糖って死ぬ時があるんだよ。ああ、もう限界だ。めまいがしてきた。ほら、彩さんも早くこっちに来て」
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