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Story 06
しおりを挟む一線をこえたら一瀉千里。
由香の言葉が頭の中でリフレインする。
はっきりと言われなくなって、仁寿の家に泊まる流れだということくらい分かる。
――もしかして、今日もするつもりなのかな……。
小さなため息をついた瞬間、彩の脳裏に忌々しい過去が浮かんだ。記憶から消してしまいたいのに、いつまでもべったりと張りついて忘れられない先輩の笑顔。心臓がどくどくして、心に残る古傷がズキズキと痛みだす。
セックスは愛の行為なんかじゃない。膝の上で、ぎゅっと手を握る。あれは、不眠を解消してもらうだけの手段で、心身が限界になった時以外は必要ない。
――なんて皮肉なんだろう。
セックスがよくないって嘲笑されて不眠になったのに、セックスをしなきゃ眠れないなんて。ほんと、笑っちゃう。
恋愛だってそう。あんな風に傷ついて、無様に泣いて、惨めな思いをするのはもうこりごり――。
先生、今日は……と彩が言おうとすると同時に、仁寿が口を開いた。
「医局に戻ったら彩さんがいなくて、すごく焦った」
「どうしてですか?」
「いつも八時過ぎまでいるのに、どうしたんだろう。もしかして、まだ眠れてないのかなって。よかった、北川先生と一緒だったなら」
交差点の信号が黄色から赤に変わって、車がゆっくりと停車する。仁寿が助手席を向いて、彩の顔を覗き込んだ。
「ちゃんと眠れてる?」
「……は、はい。すみません、心配をかけてしまって」
信号が青に変わる。仁寿は、ただにこやかな顔をするだけでなにも言わなかった。
ハンドルを握る横顔を眺めながら、彩はしみじみ思う。
初めて会った時、先生は十九歳の医学生だった。あれか五年がたったけれど、顔つきが大人びただけで中身はまったく変わらない。
柔らかな物腰と表情、見た目の雰囲気にもにじみ出ているおおらかな性格で人を惹きつける。飄々としているように見えて実は努力家で、指導医たちが教え甲斐のある有望株だって評価していた。
だから余計に自分とは不釣り合いだと思うし、罪悪感みたいなものまで抱いてしまう。
彩のアパートに着き、来客用駐車場に車を停めて階段をあがる。彩の後ろを、上機嫌な顔をした仁寿がついていく。
「ここ、僕の家から歩いて十分かからないんじゃない? 彩さんが、こんな近場に住んでるなんて知らなかったな」
「知ってたら怖いですよ。ストーカーじゃないですか」
「ははっ、そうだよね」
開錠して玄関を開ける。瞬間、手に汗握るような緊張感に襲われた。だって、父親以外の男性を入れるのは初めてだから。
「どうぞ、狭いですけど」
「お邪魔します」
仁寿が、男子禁制の根城に足を踏み入れる。廊下から順に照明をつけて、彩は仁寿にリビングのソファーに座るよう言った。
「すぐに準備しますから、大人しくしていてくださいね」
彩がリビングを出ていく。
仁寿は言われたとおり、借りてきた猫のように大人しくソファーに座って彩を待った。
物が少なくて、きれいに片づいた部屋だ。職場でも、彼女の机の上は整頓されていて、書類や道具が散らかっているのを見たことがない。
ふと、壁に掛けられたコルクボードに目がとまる。ピン留めされたA5サイズの紙。目をこらして、印字された文字を読む。
10/18(木) 14:45 A-CT(骨盤腔)
廣崎 彩
Mucinous cystic tumor of borderline malignancy.
明日の日時。検査の予定があるのだろうか。
あごに手を当てて、仁寿は記憶をさかのぼる。
彼女のお腹に、はっきりと分かる手術痕はなかったと思う。しかし、腫瘍についての診断名がしっかり書かれている。手術をして、病理検査の結果まで出ているということだ。
「お待たせしました」
彩がリビングに戻って来て、仁寿は慌てて視線をそちらに向けて立ちあがる。
以前読んだ本によると、人が日常的に敬語を使うのには理由があるという。集団生活を円滑に営むための常識的な使い方ともう一つ、他人との距離を保つため。つまり、これ以上あなたとは親しくなりませんよという意思表示なんだとか。
仁寿は、彩に近づいて荷物を持った。二重のきれいな目をくりっとさせて、彩が「ありがとうございます」と言う。
「彩さん、明日は仕事だよね?」
「はい」
「一日?」
「いいえ、午前中だけです。どうかしました?」
「秘書さんに頼みたいことがあるのを思い出してね。明日、朝のカンファレンスが終わったら時間をもらってもいいかな。忙しいなら、明後日でもいいよ」
「分かりました。明日、先生が病棟に行く前に声をかけますね」
「ありがとう、助かるよ。じゃ、行こうか」
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