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第三章 夢よ現よ
君の名は
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年が明け、嘉永五年(一八五二年)二月。
今年もかわらず黒く湿った田畑の土手に、かわいらしげな春の野草が芽吹いた。
青天のなか、残雪をのせた大磐梯山の嶺は、天までかけあがりゆく梯子のようにも見える。だから磐梯山とも呼ばれた。
いかにも春らしい明るい陽気にさそわれ、表へでた会津藩士の家族たちは遠く目をほそめる。
「きっと君公は今生の天命をはたされ天に招かれたのだろう」
「いかにも。いまはあそこを昇っておられるに違いない」
かねて体調の不良が噂されてきた会津松平家八代容敬が、胸の痛みが悪化してついに帰らぬ人となった。内憂外患ともいえる時勢のなか、幕政の均衡をささえながら房総の警備に奔走してきた最中のことである。
前年のはじめ、世嗣が江戸から忍ぶように会津入りし、にわかに家臣のあいだで急ぐように婚儀が増えたのも、これを予見してのことだったのだろう。
正式な報をうけた若松城下の郭内は、特に慌てたようすもなく、ひっそりと静穏に英明な主君との別れを惜しんだ。
溜詰は井伊直亮につづき、行方のさだまらない幕政の重石になりうる人を失った。
かたや水戸の徳川斉昭は五十一歳をむかえ、同世代の面々が減るにつれ存在感を増してきた。水戸の烈公ともてはやされて古い徳川縁者からなる大廊下席の主導権をにぎり、幕政改革を唱えて外様藩との誼を広げながら、十五歳になった慶喜を将軍にすえる隙を虎視眈々とうかがっている。
ほかの御三家にも変化があった。紀伊徳川家では五歳にも満たない慶福が、尾張徳川家では慶勝が当主となった。慶勝は尾張連枝の高須松平家から養子にはいった。つまり容保の腹ちがいの兄であるのだが、慶勝の母は斉昭の妹なので斉昭の甥にあたり、より水戸との縁が近しくある。
ときおなじくして西国の薩摩藩では、阿部正弘と親しい島津斉彬が当主となり、土佐でも山内豊信への代替わりを終えたばかりだ。両家の代替わりには幕府の介入が裏からあったともまことしやかに囁かれる。こと薩摩藩では騒動に発展し、家中にいくつかの遺恨をのこした。
異国船がらみの事件もあった。
イギリス船を強奪した清国人三百人が、琉球の八重山島に滞留してたてこもり、イギリスの軍艦がそれを追って捕縛したという。幕府はこの対応に追われ、薩摩藩と連携して琉球列島線の海防に腐心している。
琉球諸島ばかりでもなく、いまや潮のながれにのって江戸と目の鼻のさきにある伊豆大島、八丈島、小笠原諸島、相模国城ヶ島、北方の南部藩と松前藩の海峡沖、佐渡沖と対馬沖の東西水道などなど、四海の津々浦々において外国商船や捕鯨船、測量船の通過がよく目撃されるようになった。
あいかわらず会津のほか彦根井伊家、奥平松平家、川越松平家が幕命をうけて江戸沿岸の警備にあたっている。
幕府は容敬の建言を採りいれ、海防の要としてお台場砲台の建設準備がはじまり、大砲の開発熱もたかまってきた。
幕臣江川太郎左衛門は、私塾をひらいて西洋式砲術を教授している。幕臣大鳥圭介、松代藩士佐久間象山、越前藩士橋本左内らをはじめ、藩に関係なく門戸を開く活動には目新しいものがあった。なにをかくそう江戸へ留学した山本覚馬も江川のところで学んでいる
射程の長い大砲も作らなければならない。江戸と伊豆、佐賀、薩摩では、オランダの技術を礎に、大砲の製造に必要となる反射炉を建造している。
二百八十藩の窮状がひっきりなしに幕府まで寄せられる昨今、どこの家中にとっても重い財政負担になっているが、海防がおびやかされているのだから備えるほかない。
嘉永五年四月。
会津若松城下では、江戸に出府する大行列があった。
房総警備の兵の交代を兼ね、千人以上の行列が一里ほどもつづく。その長さと威容は驚くばかりであったが、身分に関係なくたくさんの見送りの人が沿道にでた。
善左衛門とあさ子も屋敷の門前にでて見送った。見知った顔が行列のなかに数々ある。いつ交戦状態におちいるとも知れない沿岸警備であるから出陣にも等しく、皆々が緊張した面もちだ。
鉄砲、弓、槍穂をたてた行列が過ぎ、いよいよ沿道にでた人々のお目あてとなる行列の本体がやってきた。あさ子たちはもちろん、いっせいに土下座をして最敬礼になった。
馬上の人は背筋をまっすぐ伸ばし、赤紐をゆらす栗毛馬のゆったりとした歩みに揺られ、微笑をたたえながら沿道の顔を一つひとつをあらためて小さくうなずく。
とりわけ娘子たちを中心に、その高貴なたたずまいを盗み見た人からため息がもれた。
彼の名は、会津松平家九代容保。先代容敬の甥であり、若干十七歳の若き当主である。
いつになく周りに使番たちの警護が厳重なのは、近年、なぜか諸国で代替わりをしたばかりの当主がしばしば亡くなっているからだ。くわしい真相はよくわからない。だからこそ警備を厚くすることになった。
頭を下げて待つ二人のもとに、軽やかな蹄の音と、使番たちの固い足音がむこうから近づいてきた。若き当主の気配を浴びるのは、これがはじめての機会になる。あさ子は身が浮きあがるような緊張をたちまち覚えたものである。
が、しかし、なんとしたことだろう。すらりと伸びた栗毛馬の脚が、視界の端にはいってきて河原家のまえで止まった。
「なにか無礼でもあっただろうか、いいや、そんなはずはないけれど――」
頭を下げたまま動転するばかりだった。
馬上から朗らかな声音が降ってきた。どこかで聞き覚えのあるような声が耳にひっかかった。
「河原、人参畑はどうか」
「は、問題なく越冬し、生育は順調そのものにござります」
「そうか、それは祝着。先日、お前の報告を見た。あれはじつによかった」
「はっ、もったいなき御言葉」
かたわらであさ子は、ますます頭が混乱した。
「おりからの清国の混乱と異国船の往来により、人参の扱い高が落ちているのは悩ましい。海防と航路の安全は会津の将来のためにも欠かせぬ、やらざるを得まい。だが攘夷などとうてい不可能、予は義父上のお考えを踏襲するつもりだ。となれば河原の言うとおり、もはや選べる道はすくない。和親通商と富国強兵、これしかあるまい。そしてその時は、会津の国産品目とこれまで蓄積した知見がより重要となる、だったな」
「御意」
どちらも以前から面識があるような口ぶりなのは気のせいでもないのだろう。御薬園をあずかる人参方が御目見えというのは心得ている。
が、あさ子はもっと驚かされることになる。
「これ、河原の奥よ、もそっと頭をあげよ。予の顔を見るがよい。許す」
「はい……」
とまどいはしたが、上げよというのだから上げるしかない。
鐙に乗った足、上等な袴、腰から腕、スラリと伸びた背。恐るおそる持ち上げた視界の上端に、いつか見知った顔をとらえ、あさ子はうっと息を詰まらせた。
腰が抜けそうになるどころか、心臓が止まりそうになって善左衛門の肩につかまった。
銈だ、あの銈が馬上にいるではないか。
眼球が転がり落ちそうなほど目をむいて、鯉のように口をぱくぱくさせるあさ子の顔を指さし、容保が肩を揺らした。
「ハハハ、その顔、今しがた向こうの西郷屋敷で見たばかりだ。あちらも目を白黒させ、気絶しかけていたが」
当然だ。千重子が肥溜めから救出してくれた君が、まさか新しい君公であったとは、さぞや驚いたにちがいない。
「予の特技は一度会った者の顔をわすれぬことぐらいだ。けして見すごすものではないぞ。ともあれ、仲良く息災で暮らせ。あとは子もな。予が江戸から戻ったら、ぜひともよき知らせを聞かせてくれ」
善左衛門とあさ子は、たがいの顔を見合わせ、赤くなった頬をかくすように頭を下げた。
「また、あの日のことは内密にな。膝直しのことも人参畑のことも」
「ぎ、御意」
「後事、頼みおく」
「はっ!」
颯爽と馬首をめぐらせ、容保がトンと軽く腹を蹴ると、ふたたび行列全体が動きはじめた。
やがて、ずいぶん過ぎたころ。
「だ……だだだ、だんなさま」
「なにか」
「ご存知だったのですか」
「ええ、まぁ。あの時は急に君公がお越しになられたゆえ、人参方一同で驚きもしましたが」
「違います!」
「え」
「私のこと、です……」
小さな咳払いを気まずそうにひとつして、善左衛門がゆっくりと首肯した。
「はい、声を聞いてすぐに。見事な御式内でした」
「ぎゃっ!」
あさ子は顔を隠し、屋敷のなかへ駆け戻った。
肥溜めにはまったこともさることながら、まだ縁組を受けるか迷っていた当時とはいえ、顔をあらために行ったことが恥ずかしい。とうとうその日は、善左衛門の顔を正面から見られないまま過ごした。
翌日。
こんどは西郷屋敷から使いの中間がやってきて文が届いた。
やはり千重子からのもので、
「知らぬが花とはまさにこのこと。死んで詫びたいです。 ちえ子」
震える筆跡で書かれてあった。
あさ子もおなじ気持ちだったが、
「上意は絶対です。二人で墓場まで持って行きましょう。 あさ子」
と返した。
ところで嫁入り後の生活は、千重子もつつがなく過ごせているそうだ。でも、何かあっても何かあるなどと書かないのが千重子という人であるし、分限が桁違いの西郷屋敷内のこととなれば、ありのまま書くわけがない。
千重子が作ってくれた匂袋を鼻によせ、まぶたを閉じる。
いまや二人は、めいめいの家はおおきく違えども当主の妻。かつてのように気やすく行き来できる立場ではなくなったが、いずれ落ちついたらぜひとも会いたい。
あさ子は、こちらも元気に過ごせていると日々の暮らし向きをつづり、菊子直伝のニシンの山椒漬けに添えて送った。
今年もかわらず黒く湿った田畑の土手に、かわいらしげな春の野草が芽吹いた。
青天のなか、残雪をのせた大磐梯山の嶺は、天までかけあがりゆく梯子のようにも見える。だから磐梯山とも呼ばれた。
いかにも春らしい明るい陽気にさそわれ、表へでた会津藩士の家族たちは遠く目をほそめる。
「きっと君公は今生の天命をはたされ天に招かれたのだろう」
「いかにも。いまはあそこを昇っておられるに違いない」
かねて体調の不良が噂されてきた会津松平家八代容敬が、胸の痛みが悪化してついに帰らぬ人となった。内憂外患ともいえる時勢のなか、幕政の均衡をささえながら房総の警備に奔走してきた最中のことである。
前年のはじめ、世嗣が江戸から忍ぶように会津入りし、にわかに家臣のあいだで急ぐように婚儀が増えたのも、これを予見してのことだったのだろう。
正式な報をうけた若松城下の郭内は、特に慌てたようすもなく、ひっそりと静穏に英明な主君との別れを惜しんだ。
溜詰は井伊直亮につづき、行方のさだまらない幕政の重石になりうる人を失った。
かたや水戸の徳川斉昭は五十一歳をむかえ、同世代の面々が減るにつれ存在感を増してきた。水戸の烈公ともてはやされて古い徳川縁者からなる大廊下席の主導権をにぎり、幕政改革を唱えて外様藩との誼を広げながら、十五歳になった慶喜を将軍にすえる隙を虎視眈々とうかがっている。
ほかの御三家にも変化があった。紀伊徳川家では五歳にも満たない慶福が、尾張徳川家では慶勝が当主となった。慶勝は尾張連枝の高須松平家から養子にはいった。つまり容保の腹ちがいの兄であるのだが、慶勝の母は斉昭の妹なので斉昭の甥にあたり、より水戸との縁が近しくある。
ときおなじくして西国の薩摩藩では、阿部正弘と親しい島津斉彬が当主となり、土佐でも山内豊信への代替わりを終えたばかりだ。両家の代替わりには幕府の介入が裏からあったともまことしやかに囁かれる。こと薩摩藩では騒動に発展し、家中にいくつかの遺恨をのこした。
異国船がらみの事件もあった。
イギリス船を強奪した清国人三百人が、琉球の八重山島に滞留してたてこもり、イギリスの軍艦がそれを追って捕縛したという。幕府はこの対応に追われ、薩摩藩と連携して琉球列島線の海防に腐心している。
琉球諸島ばかりでもなく、いまや潮のながれにのって江戸と目の鼻のさきにある伊豆大島、八丈島、小笠原諸島、相模国城ヶ島、北方の南部藩と松前藩の海峡沖、佐渡沖と対馬沖の東西水道などなど、四海の津々浦々において外国商船や捕鯨船、測量船の通過がよく目撃されるようになった。
あいかわらず会津のほか彦根井伊家、奥平松平家、川越松平家が幕命をうけて江戸沿岸の警備にあたっている。
幕府は容敬の建言を採りいれ、海防の要としてお台場砲台の建設準備がはじまり、大砲の開発熱もたかまってきた。
幕臣江川太郎左衛門は、私塾をひらいて西洋式砲術を教授している。幕臣大鳥圭介、松代藩士佐久間象山、越前藩士橋本左内らをはじめ、藩に関係なく門戸を開く活動には目新しいものがあった。なにをかくそう江戸へ留学した山本覚馬も江川のところで学んでいる
射程の長い大砲も作らなければならない。江戸と伊豆、佐賀、薩摩では、オランダの技術を礎に、大砲の製造に必要となる反射炉を建造している。
二百八十藩の窮状がひっきりなしに幕府まで寄せられる昨今、どこの家中にとっても重い財政負担になっているが、海防がおびやかされているのだから備えるほかない。
嘉永五年四月。
会津若松城下では、江戸に出府する大行列があった。
房総警備の兵の交代を兼ね、千人以上の行列が一里ほどもつづく。その長さと威容は驚くばかりであったが、身分に関係なくたくさんの見送りの人が沿道にでた。
善左衛門とあさ子も屋敷の門前にでて見送った。見知った顔が行列のなかに数々ある。いつ交戦状態におちいるとも知れない沿岸警備であるから出陣にも等しく、皆々が緊張した面もちだ。
鉄砲、弓、槍穂をたてた行列が過ぎ、いよいよ沿道にでた人々のお目あてとなる行列の本体がやってきた。あさ子たちはもちろん、いっせいに土下座をして最敬礼になった。
馬上の人は背筋をまっすぐ伸ばし、赤紐をゆらす栗毛馬のゆったりとした歩みに揺られ、微笑をたたえながら沿道の顔を一つひとつをあらためて小さくうなずく。
とりわけ娘子たちを中心に、その高貴なたたずまいを盗み見た人からため息がもれた。
彼の名は、会津松平家九代容保。先代容敬の甥であり、若干十七歳の若き当主である。
いつになく周りに使番たちの警護が厳重なのは、近年、なぜか諸国で代替わりをしたばかりの当主がしばしば亡くなっているからだ。くわしい真相はよくわからない。だからこそ警備を厚くすることになった。
頭を下げて待つ二人のもとに、軽やかな蹄の音と、使番たちの固い足音がむこうから近づいてきた。若き当主の気配を浴びるのは、これがはじめての機会になる。あさ子は身が浮きあがるような緊張をたちまち覚えたものである。
が、しかし、なんとしたことだろう。すらりと伸びた栗毛馬の脚が、視界の端にはいってきて河原家のまえで止まった。
「なにか無礼でもあっただろうか、いいや、そんなはずはないけれど――」
頭を下げたまま動転するばかりだった。
馬上から朗らかな声音が降ってきた。どこかで聞き覚えのあるような声が耳にひっかかった。
「河原、人参畑はどうか」
「は、問題なく越冬し、生育は順調そのものにござります」
「そうか、それは祝着。先日、お前の報告を見た。あれはじつによかった」
「はっ、もったいなき御言葉」
かたわらであさ子は、ますます頭が混乱した。
「おりからの清国の混乱と異国船の往来により、人参の扱い高が落ちているのは悩ましい。海防と航路の安全は会津の将来のためにも欠かせぬ、やらざるを得まい。だが攘夷などとうてい不可能、予は義父上のお考えを踏襲するつもりだ。となれば河原の言うとおり、もはや選べる道はすくない。和親通商と富国強兵、これしかあるまい。そしてその時は、会津の国産品目とこれまで蓄積した知見がより重要となる、だったな」
「御意」
どちらも以前から面識があるような口ぶりなのは気のせいでもないのだろう。御薬園をあずかる人参方が御目見えというのは心得ている。
が、あさ子はもっと驚かされることになる。
「これ、河原の奥よ、もそっと頭をあげよ。予の顔を見るがよい。許す」
「はい……」
とまどいはしたが、上げよというのだから上げるしかない。
鐙に乗った足、上等な袴、腰から腕、スラリと伸びた背。恐るおそる持ち上げた視界の上端に、いつか見知った顔をとらえ、あさ子はうっと息を詰まらせた。
腰が抜けそうになるどころか、心臓が止まりそうになって善左衛門の肩につかまった。
銈だ、あの銈が馬上にいるではないか。
眼球が転がり落ちそうなほど目をむいて、鯉のように口をぱくぱくさせるあさ子の顔を指さし、容保が肩を揺らした。
「ハハハ、その顔、今しがた向こうの西郷屋敷で見たばかりだ。あちらも目を白黒させ、気絶しかけていたが」
当然だ。千重子が肥溜めから救出してくれた君が、まさか新しい君公であったとは、さぞや驚いたにちがいない。
「予の特技は一度会った者の顔をわすれぬことぐらいだ。けして見すごすものではないぞ。ともあれ、仲良く息災で暮らせ。あとは子もな。予が江戸から戻ったら、ぜひともよき知らせを聞かせてくれ」
善左衛門とあさ子は、たがいの顔を見合わせ、赤くなった頬をかくすように頭を下げた。
「また、あの日のことは内密にな。膝直しのことも人参畑のことも」
「ぎ、御意」
「後事、頼みおく」
「はっ!」
颯爽と馬首をめぐらせ、容保がトンと軽く腹を蹴ると、ふたたび行列全体が動きはじめた。
やがて、ずいぶん過ぎたころ。
「だ……だだだ、だんなさま」
「なにか」
「ご存知だったのですか」
「ええ、まぁ。あの時は急に君公がお越しになられたゆえ、人参方一同で驚きもしましたが」
「違います!」
「え」
「私のこと、です……」
小さな咳払いを気まずそうにひとつして、善左衛門がゆっくりと首肯した。
「はい、声を聞いてすぐに。見事な御式内でした」
「ぎゃっ!」
あさ子は顔を隠し、屋敷のなかへ駆け戻った。
肥溜めにはまったこともさることながら、まだ縁組を受けるか迷っていた当時とはいえ、顔をあらために行ったことが恥ずかしい。とうとうその日は、善左衛門の顔を正面から見られないまま過ごした。
翌日。
こんどは西郷屋敷から使いの中間がやってきて文が届いた。
やはり千重子からのもので、
「知らぬが花とはまさにこのこと。死んで詫びたいです。 ちえ子」
震える筆跡で書かれてあった。
あさ子もおなじ気持ちだったが、
「上意は絶対です。二人で墓場まで持って行きましょう。 あさ子」
と返した。
ところで嫁入り後の生活は、千重子もつつがなく過ごせているそうだ。でも、何かあっても何かあるなどと書かないのが千重子という人であるし、分限が桁違いの西郷屋敷内のこととなれば、ありのまま書くわけがない。
千重子が作ってくれた匂袋を鼻によせ、まぶたを閉じる。
いまや二人は、めいめいの家はおおきく違えども当主の妻。かつてのように気やすく行き来できる立場ではなくなったが、いずれ落ちついたらぜひとも会いたい。
あさ子は、こちらも元気に過ごせていると日々の暮らし向きをつづり、菊子直伝のニシンの山椒漬けに添えて送った。
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