華が閃く

葉城野新八

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第三章 夢よ現よ

新妻と新姑①

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 まだ薄暗い払暁だった。
 おだやかに目が覚めたあさ子は、ぼんやりと天井の板目をながめているうち、やっとここが原家ではなく河原家なのだと覚った。
 それから寝返りをうち、隣でしずかな寝息をたてている善左衛門の顔にしばし見入った。
 人参畑で出会ったときはどこか頼りない印象をうけたものだが、いまはだいぶ違って見える。披露の宴席で口上を述べた姿は堂々としたものであったし、どういう経緯で縁談にいたったのかも知った。今はまだ、本当にこの人と夫婦になったのかと戸惑う気持ちのほうが大きい。
 高く起伏した喉仏が気になった。布団のなかから手を伸ばし、そっと指先でなぞってみる。細く尖った顎に、芝生の感触にも似た髭がちくちくと生えている。
 まっすぐ通った鼻梁をつついているうち、うっすらと夜が明けてくるのが視界にはいった。
 はっとして、手ばやく髪をととのえ着替えると、音をたてぬよう障子戸を閉め、まだ嗅ぎなれない他家の匂いがする廊下を渡った。
 東天からさわやかな朝陽が明り障子に届きはじめ、会津の秋らしく透明な気でみちている。雀の声によばれふと見あげると、赤黄色の錦をかぶせた東山の斜面がありありと浮かびあがって晩秋の気配が濃くあった。
 やはり河原屋敷は原屋敷とよく似ていた。おなじく三十坪の敷地にあり、間取りもほとんど同じだった。おそらく同じころに建てられた屋敷だったのだろう。塀をへだてて東西と北を隣家に囲まれてあるものの、玄関と縁側が南側をむいて日当たりがよいのはうれしい。湯川を背にしていた原家よりもいくぶん温かくも感じられる。
 これからやるべきことは多い。つぎの吉日まで何もやらなくてもよいと善左衛門は言ってくれたが、それに甘えるわけにもゆかない。
 台所では竈に火がはいっていた。ゆうべは泊まりこみとなった下女のツルが、さっそく朝餉の支度をはじめている。彼女は四十路にさしかかったぐらいで、いかにも町人街で育った逞しさをほうふつとさせる快活な女性だ。大工だった夫に先立たれ、女手一人で子を育てあげた。
 中間の伊右衛門が追加の薪をはこんできた。彼は先代から仕えて年は四十後半にさしかかる。二人とも歴がながく、河原家のことをよく心得ていた。
 あさ子は武芸者が出稽古を申しこむようなつもりで溌剌と声を発した。

「おはよう!」

 びっくりした二人はそろって肩をはねあげ、なにごとかと目を丸くさせてあさ子のほうを見た。

「おはよう、ございます……」
「私も手伝います。里芋、切ります」
「やっ、そちらの包丁はよく切れますからお気をつけなしって」
「武家の娘子たる者、刃物のあつかいには慣れております」
「は、はい……」

 たしかにあさ子の包丁さばきは見ごとであった。指先のうごきは器用であるし、刃筋を立ててトントンと子気味よい音をたてている。きせ子からしっかり仕込まれてきたのと、二尺三寸五分の刀をあつかうのに比べれば包丁など短くて軽いのだからお手のものだ。
 なんだかんだいって、ツルと伊右衛門も郭内の若い娘子のあつかいに慣れているというわけでもない。姑の菊子は二十二のときに遅く嫁入りし、善左衛門と岩次郎は男兄弟だったから、箱入り育ちの武家の娘がどれほどで何ができるのか不安を抱いていたもので、ひそかに安堵したようすで頷きあうのだった。
 若松城下で暮らす士中の妻たちは、台所に立つ者と立たない者があって分限と家風によりまちまちだ。原家は倹約のため下女も置かずにきせ子がすべてをとりしきっていたが、河原家は掃除と料理をツルにまかせ、来られないときだけ姑の菊子が台所に立ち、使いや力仕事のほとんどは伊右衛門がやってきたそうだ。
 あさ子が熱心に漬物を盛りつけていたところ、ツルが味噌汁の味を確認するよう求めてきた。口に含んでみると味がきまっていない曖昧な段階だったが、これはあさ子に気を使ってくれているのだろう。ツルならば目をつむっても味を決められるはずだ。なのにわざと指図の余地をのこし、新妻の顔を立てながら河原家の味をさりげなく教えてくれている。武家に仕える下女とは、こんなにも先まわりをして気を働かせてくれるのかと驚かされもした。

「すこし薄いような気がします」
「はい、では味噌を足しましょう」

 ツルがそのとおりと首肯しながら返事をしたので正解なのだろう。内心でほっとしながら配膳を頼むと、あさ子は仏間に向かった。
 線香の香りがたちこめるなか、背筋を伸ばした善左衛門がこぶりな仏壇のまえで念仏を唱え、そのうしろで菊子と次男の岩次郎が手を合わせる。
 岩次郎は二十二歳になる。背格好は善左衛門と似ているが、顔立ちは亡き父の勘兵衛に似たらしい。頬が四角ばっていくらか武骨だ。
 披露宴のときに話したが、剣術は精武流、槍術は大内流を学び許位を得、日新館の成績のほうは兄ほどではないものの今年いっぱいをもってひと区切りとし、人手不足にあえぐ房総沿岸警備に赴く話が内定している。生まれてはじめての江戸出張であるから、楽しみでないはずがない。
 仲三郎をはじめ、宝蔵院流の面々からも似た話を聞いた。ちかごろは次男三男の部屋住みとはいえ安穏としていられないのが実情だ。
 五十ちかくの菊子は、目尻と口元に皺がはいり白髪まじりであるが、きっと若いころは美しかったにちがいないと思える。整った卵形の輪郭にまっすぐな鼻筋が通ってあるのは、そのまま善左衛門へ受け継がれたのだろう。
 なんといっても、分家筋とはいえ高木家百五十石取りから嫁いできた人だ。高木家一族といえば近習と外様に幅広くまたがり、家老付組の城番や目付など重き役割をつとめる多才の家柄として知られる。だからなのか菊子は品がよくて、とても淑やかな人だ。
 あさ子は一礼して菊子の隣に座り、おなじく手を合わせた。
 そのあとはいよいよ、はじめての朝餉をむかえた。

「うまい、うまいですよ、! これは朝からご飯がすすむ。おかわりを山盛りでお願いします」

 年上の男子から姉上と呼ばれたので戸惑ったが、あさ子はしみじみと嬉しくなってご飯をこんもりとよそってやった。
 岩次郎が興奮気味に言う。

「さすがは家中に武名をとどろかす鬼瓦殿の娘御であられる。健やかなる精神は健やかなる体にやどる。ならばまず食から。兄上はじつによきお方を嫁に迎えられた」
「食事中にさわがしい奴め、あさ殿のまえで恥ずかしい。静かに食べよ」
「何を言われますか。これから河原家はもっと賑やかになるのですよ。私ははやく甥っ子や姪っ子の遊び相手をしたい。ぜひとも房総で吉報をお待ちしております」
「こっ……こら、いいかげんにしろ。失礼きわまりない」

 岩次郎は首を縮める仕草をして悪戯っぽく笑った。

「だがいけませぬ、いけませぬなぁ」
「何がだ」
「新妻を迎えてもあいかわらずの生真面目ぶり。今朝も菜園の面倒をみてきたのですか」
「放っておけ」

 作りの似た原家と河原家であるが、決定的なちがいは庭の使いかたにあった。原家では武芸の稽古場にしていたが、当家では庭の半分を菜園や本草と果樹栽培につかっている。もちろん上役の承諾をちゃんと得てのことであるが、先代の勘兵衛が実験栽培のためにはじめ、亡きあとは善左衛門が引きついできた。

「いいえ、ならぬものはなりませぬ。これからの河原家を背負うのは兄上ですぞ。人生とは山あり谷あり、もっと愉快であってもらわねば皆が疲れてしまう」
「お前を背負うつもりはない」

 善左衛門の仏頂面が面白かったので、あさ子は思わずクスリと笑う。

「これは一本をとられた。しかしたしかに気が早すぎました。失礼いたしました姉上。私は生真面目だけが取り得の兄とも違い、こんな奴ですがどうかお許しを」
「いいえ、構いませぬ。弟や宝蔵院流の方々もそうでしたから」
「ほら、聞きましたか。もともと私が普通なのです」
「うるさい、さっさと食え。また講釈に遅刻したら学校の御目付から訓戒をくらうぞ。もう俺は日新館を離れたから、昔みたいについて行って謝れぬのだからな」
「はいはい、わかってますとも」

 それにしてもと、岩次郎が手にした小鉢を掲げ、感心しきりで唸る。

「こちらのニシンの山椒漬さんしょうづけはじつに美味。姉上が作られたのですか」
「はい。それは二十日ほどまえに漬けましたもの。ちょうど食べごろになりました」
「ふぅむ、いや、ひさびさに食べました。おかげで朝からご飯が何杯もすすんでしまいます。うまい」

 会津の女たちはニシンの山椒漬けに並々ならぬこだわりを持っている。それはわざわざ嫁入り道具のひとつとして升型の大きなニシン鉢を持参したほどだ。
 蝦夷地から北前船ではこばれ、新潟湊より越後口をたどってくるニシンは、山に囲まれた会津にとって貴重なタンパク源となる。単なる田舎料理というわけでもなく、家族の健康を左右しうる大切なひと品である。
 手順はいたって単純だ。干した身欠みかけにしんを米のとぎ汁でもどし、それを山椒の葉と交互に三段四段とにしん鉢のなかに重ねいれる。醤油、砂糖、酒、酢で作った出汁をかけ、あとは十日から二十日ほど漬ける。
 だが単純であるからこその難しさが伴い、干した身欠にしんは、身が固くて生臭さがあるので、ひと手間の工夫と出汁のさじ加減がものを言う。一家に一味、一女に一味と言っても過言ではない。
 どうやら善左衛門の口にも合ったらしい。さっきからよく箸が進んでいる。おかわりの茶碗をさしだして微笑んだ。

「おいしいですよ、あさ殿。私もご飯のおかわりをお願いします」
「はい、ありがとうございます」

 土間の小上がりで朝餉をとっていた伊右衛門とツルからも美味い美味いと舌鼓があがった。

「よかった、苦心した甲斐があった――」

 あさ子はほっと胸をなでおろす。
 じつのところ縁談がきまってから、分量や漬けておく期間など、ありとあらゆる組み合わせを試してきた。なかでも納得がいった組み合わせを持参したのである。向こう半年分の山椒漬けを原家に残してきたので、源右衛門と承治がまたかと呆れているころかもしれない。
 ところでさっきから気になるのは、ツルから山椒漬けの名手だと聞いた菊子の反応だ。ご飯をよそいながら視界の端で見ると、無言のまま静かに食べている姿があった。
 あさ子の気持ちを察してくれた善左衛門が、さりげなくたずねてくれた。

「母上、味がよく染みて美味しゅうございますね」
「ええ、そうですね……」

 そう応じて眼を伏せたままうなずいたので、いまひとつ本心を掴めなかった。
 婚礼のときもそうだったが、菊子の笑顔をまだ一度も見たことがなく、会話らしい会話をかわせていないのは新妻として気がかりである。
 あたらしい家族との食事は想像していた以上に楽しいものであったが、一抹の不安を覚えた朝となった。
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