華が閃く

葉城野新八

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第一章 天よ地よ

宰相様③

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 ますます激しさをました銃砲の音が、外からかさなりあって聞こえ、走り長屋のながくのびた空間に鈍い余韻をのこして反響した。
 血と汗、泥と煤がいりまじった戦場特有の臭いが、雨の湿り気を媒介にしてたまっている。それは出入りする者たちが置いていった空気であり、容保とあさ子の身から溶け出たものでもあった。
 しばらく無言で向きあう二人のあいだに、ふわりと、天守のほうから別の空気ながれてきて鼻さきをくすぐった。
 さそわれてそちらに見やれば、やってきたのは会津の城下で見覚えのない女性だった。
 うす紫色の無地の着物、黒のたっつけ袴、胸元には豊かなふさ紐のついた懐剣袋をさし、腕に白毛のちんを抱いている。
 華奢な体躯でこそあれ、ゆったりと胸を張った美しい姿勢によってひとまわりもふたまわりも大きく見えた。すべるような足どりとたおやかな挙措の一つひとつが、女性の心身にやどる気品を雄弁にものがたっている。
 そしてついつい見いってしまうのは、透きとおるように白いなめらかな肌である。
 空は薄暗く、格子窓から走り長屋にさしこむ光は淡いというのに、その女性がいるだけで周りがぱっとあかるく照らされる。
 まるで季節に咲きほこる立ち葵の花が歩いてくるようだった。
 あさ子はまじまじと目をうばわれてしまっていたが、うしろに藩屈指の薙刀使いである女中たちが侍ってあることから中央の女性が誰であるのかを知り、ただちに畏まって上座にはいるのを待った。
 その人とは、照姫てるひめである。
 姫は容保のかたわらに座すと、鈴音のような声をひかえめにりんと鳴らした。

「こちらが音に聞くおんな弁慶さんですね」

 いかにもと容保が首肯で応じる。

「ええ、やっと姉上におひきあわせかないました」
「でも、私が思っていたお姿とはずいぶんちがいますわ。だって宰相様のお話では、山のように大きな女性だと。しかもお顔だってこんなに可愛らしくいらして」
「申し訳ございません、いささか面白おかしく盛っておりました」
「まぁ、ひどい。またしてもまんまと騙されてしまいました。……あら、宰相様の御髪が」

 照姫は懐から携帯した櫛をとりだすと、容保のみだれた鬢をととのえてやるのだった。
 照姫はもともと会津の人ではない。
 上総国かずさのくに飯野藩いいのはん二万石、保科ほしな家に生まれた。飯野藩は藩祖正之の従兄弟が初代で、いらい両藩の関係はずっと近しくたもたれてきた。
 姫は会津松平家の養女となったのち、豊前国ぶぜんのくに中津藩なかつはん奥平おくだいら家へ嫁いだが、ゆえあって離縁してからは江戸の会津藩邸で暮らしてきた。この三月に江戸引きあげとなり、はじめて会津入りをはたした。
 引きあげを差配したのはくだんの頼母であったが、日光街道筋の宿場で渋滞がおこって衆目に醜態をさらすほど段どりがわるかった。鳥羽伏見から敗走してきた重傷者もいるのだから仕方ないといえばそうだった。
 にもかかわらず照姫は文句のひとつも言わず、むしろみずから乗物をおりて歩き、戦傷した兵を労ってまわる場面があった。
 疑心暗鬼にとらわれ荒みきっていた人々の心が癒され、詰まって怒号すらとびかっていた行列が、たすけあって進むようになったそうだ。
 容保の正室だった敏姫としひめが七年前に早世してあったので、いまは照姫が奥向きをとりまとめてもいる。江戸生まれの女たちと国育ちの女たちのあいだで対立も懸念されたが、照姫が率先して国許の者をとりたてるので、そんなことは起こらなかった。

「照姫様はうるわしくあられ、ふかきご教養と将器をかねそなえておいでだ。いつも些事で反目しあったあの奥向きが、いともあっさりとひとつにまとまったのはどういうわけか。まさに前代未聞のご偉業であられる――」

 そう家中では噂した。
 御年三十五歳。
 いっぽう容保は、あさ子とおなじ三十三歳。尾張御連枝おわりごれんし美濃国みののくに高須松平たかすまつだいら家から会津松平家へ養子入りした人なので、ようするに両者のあいだには血縁というものがまったくない。数奇な運命により当家で知りあった他人どうしである。
 愛犬のちんが容保の膝にとびこんで、肩によじのぼりながら尻尾を振っている。
 犬とは人の気持ちがわかる生きものだ。二人がどこかおさな子をかわいがる夫婦のように見えてしまうのは気のせいでもないのだろう。
 それからあさ子のまえに奥女中がやってきて、堂にいった所作で膝をたたみ、会津三葵あいづみつあおいの蒔絵盆に乗せた茶碗をうやうやしくさしだした。

「こちらは」
「照姫様からです」
「まぁ……」

 素朴で、かたちのよい薄群青の茶碗のなかに、鮮緑の茶がきわだって映える。
 見なれたはずの質素な会津本郷焼あいづほんごうやきの茶碗が、きわめて上等な器に思えてしまうのだから不思議だった。
 これは会津だ。
 会津盆地の土でできた茶碗のなかに、瑞々しく草木がかおり、清水の水面がきらきらと耀く郷里をあらわしているのだ。
 曰く、容保からあさ子が来ると聞いて、茶室が使えないのでわざわざ奥御殿までもどり、照姫おんてずから点ててくれた御茶だという。
 朕の背をなでながら、照姫が首をかしげてやわらかく微笑んだ。

「どうぞ遠慮をしないで。たいへんななかを来たのだから、お体が冷えてのどが渇いたでしょう。いまは持たせてあげられるものもなくて申しわけないのですが」
「い、いいえ……めっそうもございません。身にあまる誉れにございます」
 
 驚畏もおさまらぬまま拝礼していただく。
 おそるおそる茶碗を手にのせ、息をひそめて二度まわし、慎重に唇をつけた。
 やいなや、茶のさわやかな香りと澄んだ味わいがパッとひろがり、煙であれていた喉と鼻腔をやさしくなでてくれた。
 ふわりと、心身を支配していたあらぶる衝動と行き場のない熱が雪がれて、すぅと腹底に下りてひとときだけ静かな心地になれた。
 いつしか閉じてあった瞼をうっすらとあけたところ、容保と照姫が見守るようにしてこちらをうかがっていた。
 はっとして、茶碗をもどして平伏する。

「思いがけず時と場所をわすれてしまいました。おみごとなお手前にあられます」

 照姫がうれしげに微笑み、容保がうなずく。

「そうか、それはよかった。じつは予も帰城してからお前とおなじように一期いちごを味わった。戦国の世をいきた武家が茶の湯を好んだという意味もわかる」
「はい」
「ではすこし落ちついたところで、あらためて河原善左衛門の妻あさ子に申しわたすことがある」

 あさ子は威儀をあらためてにじりさがり、平伏して容保の命を待った。

「これより我らは籠城にはいる。籠城は後方の支えこそ要諦。ついては側女中そばじょちゅうとして姉上に仕えてほしい」

 つづいて照姫が、あさ子の肩にそっと手をそえて言った。

「おあさ、私はこの三月にはいったばかりで会津のことをよく存じません。ですがこの大役を皆とともにしかと果たしたくおもいます。きけばお前は、練れた男ですら打ち負かすほど武芸に長じているのだと聞きました。そんな人がいてくれたら私も皆も安心です。これまで命からがらたいへんな道中をきたのでしょう。身と心を裂くようなつらい思いをしてきたのでしょう。あまりの理不尽にふんまんやるかたない気持ちは私もおなじです。いまは家中の力をあわせ、心をひとつにするとき。どうかたすけてください。お願いできますね」

 いまだ戦場に立ちたい気持ちを胸に秘めてあるが、表向きと奥向きを統べる二人の命となれば是非もない。
 もちろんあさ子は、一心から語気もつよく承従した。

「つつしんで拝命いたします。宰相様と照姫様のおんため、血骨燃えつきるまで、身を粉にして励みます!」

 それを聞いた容保と照姫は、安堵したようすでうなずき合うのだった。
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