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第一章 天よ地よ
宰相様②
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鉄門をくぐり取りつぎ役の小姓に願いでたところ、いまはちょうど入城をはたしたばかりの家老と談判中だからしばし待つようにと言われた。
あさ子は戦場に立つことをまだあきらめたわけではなかったので、あわただしく通りすぎる兵卒たちのなかに見知った顔をもとめながら待った。
さっき平馬の言ったことが、ずっと耳にひっかかっている。
今日をしのげれば籠城戦になると言った。その裏をかえすと逆の可能性がすくなくとも五分はありうるということになる。であるならば、やはり女であろうと武芸の心得のある者は城の守りと敵の撃退にあたるべきだ。
ほかに戦場へおりる手はないものかと考えをめぐらせていたところ、とつと上階から癇癪まじりの甲高い声がふってきた。
「やはり儂の言ったとおりになったではないか! 梶原はいったいなにをしていたのか。これだから最近の若い者は考えが甘くて話にならぬ。皆であんな若造をちやほやするから増長をまねき、こんな事態にいたったのではなかったか」
あさ子にとってよく聞きおぼえのある声だったが、かくれるようにして頭をたれ、どやどやと階段をくだってきた一行がゆき過ぎるのを待った。
従行する二人の配下が、ここは陣中にござる、皆が聞いておりますからお控えくださいと諫めてみても、本当のことを言って何がわるいのだと開きなおり、あたりかまわず大声で喚きちらすのだから始末がわるい。
「そもそもこの城は守りがたい縄張りをしている。とうてい籠城などやりおおせたものではない。かくなるうえは宰相様と喜徳君を米沢でかくまってもらうほかあるまい。もう駄目だ駄目だ、なにもかも終わりだ!」
壁にたたきつけられた軍配が粉々に割れてちらばり、配下の者たちがあたふたと破片をひろい集める。
その不遜きわまりない声の主が誰かといえば、国家老筆頭の西郷頼母である。
五尺たらずの小柄な身を具足につつみ、ドシドシと足音を鳴らしながらすぎてゆく。その姿はまるで地団駄をふむ童のようである。平馬をなじりたおす罵詈はあくことをしらず、大砲の音がするなか御馬場まで遠ざかっても聞こえた。
だがもとをたどれば、平馬を政務役家老に任じたのも、建言を承認したのも容保だ。つまり平馬をこきおろしながら聞こえよがしにあてこすっているのだ。こと昨日今日の布陣について、重臣たちの議上でひと悶着があったばかりとも聞きおよぶ。
「あいかわらず――」
しかるべき立場にある者が陣中で見せてよい態度ではない。
あきれながら一行を見おくるあさ子であったが、取つぎの小姓がやはり不安げなようすでやってきた。
「お、お待たせいたしました……宰相様がお呼びです。どうぞこちらへ」
太い材木をくみあわせた走り長屋の建物は、轟然とした砲撃のなかにあっても微動だにしていなかった。はじめて鉄門へたちいったが、さすがは若松城というべきか、平馬が籠城戦は可能であると考えた根拠もうなずけた。
そして硬い踏み心地のする階段をのぼったさきで、床几に腰かけた容保と、養子の喜徳があった。
左手に北原采女と山崎小助の老臣たちが悄然とした面持ちで座している。あとは近習と小僧が何人かいるといった具合で、陣さばきの中枢となる君側にしてはあまりに心もとなかった。
喜徳は若干十三歳である。
かの水戸烈公こと徳川斉昭の十九番目の息子で、つまり昨年の十月に大政を奉還して将軍職からのいた徳川慶喜とは、十八も年がはなれた腹ちがいの兄弟にあたる。
まだ実子のなかった容保は、おととしに喜徳を養子としてむかえていたが、恭順の意を世にしめすためこの春さきに家督をゆずった。
喜徳本人は何もわるくないのであるが、よりによって会津を駒のように利用してきた豚一(慶喜をあらわす隠語)の弟など、我らの君公ではないと拒否する声も多くある。
あさ子は殿中の作法どおり、二人の顔を見ないようにして平伏した。
「来たか。近うよってくれ」
容保は角のないやわらかな口調でまねいたあと、まわりに目配せして人払いをたのんだ。
いっせいに全員がたちあがって天守のほうへ去ってゆき、二人だけがのこされた。
あさ子はひとつだけ膝行をすすめ、ふたたび平伏をした。
「いまは火急のとき。面倒な儀礼など要らぬ。皆もそうしているから遠慮なくおもてを上げてくれ」
しずかな、緊張よりも安心を感じさす声音だった。
「失礼いたします」
ゆっくり持ちあげた視線のさきにあったのは、具足と陣羽織についた黒い泥をぬぐう容保の姿だった。鬢がみだれて襟元に汗がしみている様子からして、陣頭の指揮からもどったばかりだったのだろう。
「さっきからひっきりなしに人がくるので泥をおとす暇もなかった。予はこんな出入りの不便なところよりも皆の顔をみわたせる大広間でよかったのだが、采女らが移れ移れとうるさいので仕方なくここへ来た」
役者のように端正な顔立ちはあいかわらずだが、七年も京師で政局の荒波をおよいできたせいか表情にいささかの翳りをおびている。それは善左衛門や平馬、ほかの者もおなじであったが、女の身ではとうてい想像もおよばないほの暗い道のりを、主従一同でくぐりぬけてきたという証でもあった。
容保がひとりごとのようにつづける。
「お前も知るとおり、大砲の弾などそうそう当たるものでもないのだ。当たるも八卦、当たらぬも八卦。ならばあえてそうした場へ身をなげだし、天運のめぐりと残された使命を占ってみることもある」
「深いおことばです……」
いまのあさ子には、その言いさすところがよくわかる。
「だがいまは、天のめぐりと順逆が一変した。気がつけば予は天朝の敵、賊であるという。そして今朝からの今だ」
「よくぞご無事でご帰城あそばされました」
「身をはって逃がしてくれた皆のおかげだ。予の力ではない」
「すなわちそれは、宰相様には天より託されたご使命がのこされてある、ということなのではないでしょうか」
はたと泥をぬぐう手を止めると、容保は鮮血がしみたあさ子の白無垢を見て、細めた目に悲哀の光をやどしながら二度三度と小さくうなずいた。
「その率直な口ぶり、なつかしく思える。さいごにあったのはまだ会津が江戸の沿岸警備をしていたあたりであったから、もうかれこれ十六、七年もまえになるか」
「はい、よくぞご記憶で」
「予の特技は一度会った者の顔をわすれぬことぐらいだ。しかも河原の妻となればなおさら忘れようはずもない。河原は京から江戸、会津でもよく尽くしてくれた。それもこれもお前のたゆまぬ支えがあったからこそであろう。今は七年の歳月をともに耐えてくれた家臣すべての奥に礼を述べたい。このとおりだ――」
不意に容保が身を前にかたむけた。
あまりに唐突なことであったので、驚いたあさ子は床に額をうちつけて平伏した。
ごん、と鈍い音だけが鳴り、容保が膝をたたいてクスクスと笑いをもらした。
「お前はちっともかわらぬな」
こだわりもなく穏やかに笑う容保の顔は、善左衛門や平馬のものと似ていた。なにかを払い捨てた人というのはそういう笑いかたをする。
容保は格子窓のむこうにただよう黒煙を虚ろにながめ、ふとつぶやいた。
「……すまぬ、許してほしい」
「え……」
「国家をあずかる君主として、お前たちの精忠にこたえられぬばかりか美しき会津を戦場に変え、あまたの尊き命と幸せな暮らしを犠牲にしてしまった。なにもかも予の不徳と力不足がまねいてしまったことに相違ない」
あさ子は膝をにじり寄せ、ちがうと首を横にふった。
「そのようなことは……つねづね河原が申しておりました。宰相様はなんら道をたがえてはおられませぬ。ただご一心に公明正大の大通りを堂々と歩んでこられました。変節したのは佞奸の扇動策にのせられあるべき大義をみうしなった衆人たちのほうです。だからこそ私たちは宰相様をお守りさしあげたいと願いこそすれ、二心をいだく愚か者など会津にはおりませぬ」
「…………」
「ご存知であられましょうか、臣下のあいだではこう話す者もあります。祖宗の土津様(保科正之)とは、宰相様のようなお方であられたのではないかと。宰相様は以前とちっともお変わりありません。なにとぞご自身をお責めになられませんようお願いもうしあげます。そうでなければ、宰相様をお慕いして会津をまもるために散華した者たちが浮かばれませぬ」
ぐっと瞑目して天をあおいだ容保が、かみしめるように頷いた。
「……そのとおりだ。お前の言うとおりだ。弱気に心をからめとられかけたが、いまはっきりと目が覚めた。礼を言う」
数えあげたらきりがない。今年の一月からさまざまなことがあった。
そのなかで容保は、以前よりも臣下に心うちをあかし、上座からおりてきてより近しく接してくれるようになったという。
家臣たちはますます意気に感じ、宰相様のためにと奮ってきたのだった。
あさ子は戦場に立つことをまだあきらめたわけではなかったので、あわただしく通りすぎる兵卒たちのなかに見知った顔をもとめながら待った。
さっき平馬の言ったことが、ずっと耳にひっかかっている。
今日をしのげれば籠城戦になると言った。その裏をかえすと逆の可能性がすくなくとも五分はありうるということになる。であるならば、やはり女であろうと武芸の心得のある者は城の守りと敵の撃退にあたるべきだ。
ほかに戦場へおりる手はないものかと考えをめぐらせていたところ、とつと上階から癇癪まじりの甲高い声がふってきた。
「やはり儂の言ったとおりになったではないか! 梶原はいったいなにをしていたのか。これだから最近の若い者は考えが甘くて話にならぬ。皆であんな若造をちやほやするから増長をまねき、こんな事態にいたったのではなかったか」
あさ子にとってよく聞きおぼえのある声だったが、かくれるようにして頭をたれ、どやどやと階段をくだってきた一行がゆき過ぎるのを待った。
従行する二人の配下が、ここは陣中にござる、皆が聞いておりますからお控えくださいと諫めてみても、本当のことを言って何がわるいのだと開きなおり、あたりかまわず大声で喚きちらすのだから始末がわるい。
「そもそもこの城は守りがたい縄張りをしている。とうてい籠城などやりおおせたものではない。かくなるうえは宰相様と喜徳君を米沢でかくまってもらうほかあるまい。もう駄目だ駄目だ、なにもかも終わりだ!」
壁にたたきつけられた軍配が粉々に割れてちらばり、配下の者たちがあたふたと破片をひろい集める。
その不遜きわまりない声の主が誰かといえば、国家老筆頭の西郷頼母である。
五尺たらずの小柄な身を具足につつみ、ドシドシと足音を鳴らしながらすぎてゆく。その姿はまるで地団駄をふむ童のようである。平馬をなじりたおす罵詈はあくことをしらず、大砲の音がするなか御馬場まで遠ざかっても聞こえた。
だがもとをたどれば、平馬を政務役家老に任じたのも、建言を承認したのも容保だ。つまり平馬をこきおろしながら聞こえよがしにあてこすっているのだ。こと昨日今日の布陣について、重臣たちの議上でひと悶着があったばかりとも聞きおよぶ。
「あいかわらず――」
しかるべき立場にある者が陣中で見せてよい態度ではない。
あきれながら一行を見おくるあさ子であったが、取つぎの小姓がやはり不安げなようすでやってきた。
「お、お待たせいたしました……宰相様がお呼びです。どうぞこちらへ」
太い材木をくみあわせた走り長屋の建物は、轟然とした砲撃のなかにあっても微動だにしていなかった。はじめて鉄門へたちいったが、さすがは若松城というべきか、平馬が籠城戦は可能であると考えた根拠もうなずけた。
そして硬い踏み心地のする階段をのぼったさきで、床几に腰かけた容保と、養子の喜徳があった。
左手に北原采女と山崎小助の老臣たちが悄然とした面持ちで座している。あとは近習と小僧が何人かいるといった具合で、陣さばきの中枢となる君側にしてはあまりに心もとなかった。
喜徳は若干十三歳である。
かの水戸烈公こと徳川斉昭の十九番目の息子で、つまり昨年の十月に大政を奉還して将軍職からのいた徳川慶喜とは、十八も年がはなれた腹ちがいの兄弟にあたる。
まだ実子のなかった容保は、おととしに喜徳を養子としてむかえていたが、恭順の意を世にしめすためこの春さきに家督をゆずった。
喜徳本人は何もわるくないのであるが、よりによって会津を駒のように利用してきた豚一(慶喜をあらわす隠語)の弟など、我らの君公ではないと拒否する声も多くある。
あさ子は殿中の作法どおり、二人の顔を見ないようにして平伏した。
「来たか。近うよってくれ」
容保は角のないやわらかな口調でまねいたあと、まわりに目配せして人払いをたのんだ。
いっせいに全員がたちあがって天守のほうへ去ってゆき、二人だけがのこされた。
あさ子はひとつだけ膝行をすすめ、ふたたび平伏をした。
「いまは火急のとき。面倒な儀礼など要らぬ。皆もそうしているから遠慮なくおもてを上げてくれ」
しずかな、緊張よりも安心を感じさす声音だった。
「失礼いたします」
ゆっくり持ちあげた視線のさきにあったのは、具足と陣羽織についた黒い泥をぬぐう容保の姿だった。鬢がみだれて襟元に汗がしみている様子からして、陣頭の指揮からもどったばかりだったのだろう。
「さっきからひっきりなしに人がくるので泥をおとす暇もなかった。予はこんな出入りの不便なところよりも皆の顔をみわたせる大広間でよかったのだが、采女らが移れ移れとうるさいので仕方なくここへ来た」
役者のように端正な顔立ちはあいかわらずだが、七年も京師で政局の荒波をおよいできたせいか表情にいささかの翳りをおびている。それは善左衛門や平馬、ほかの者もおなじであったが、女の身ではとうてい想像もおよばないほの暗い道のりを、主従一同でくぐりぬけてきたという証でもあった。
容保がひとりごとのようにつづける。
「お前も知るとおり、大砲の弾などそうそう当たるものでもないのだ。当たるも八卦、当たらぬも八卦。ならばあえてそうした場へ身をなげだし、天運のめぐりと残された使命を占ってみることもある」
「深いおことばです……」
いまのあさ子には、その言いさすところがよくわかる。
「だがいまは、天のめぐりと順逆が一変した。気がつけば予は天朝の敵、賊であるという。そして今朝からの今だ」
「よくぞご無事でご帰城あそばされました」
「身をはって逃がしてくれた皆のおかげだ。予の力ではない」
「すなわちそれは、宰相様には天より託されたご使命がのこされてある、ということなのではないでしょうか」
はたと泥をぬぐう手を止めると、容保は鮮血がしみたあさ子の白無垢を見て、細めた目に悲哀の光をやどしながら二度三度と小さくうなずいた。
「その率直な口ぶり、なつかしく思える。さいごにあったのはまだ会津が江戸の沿岸警備をしていたあたりであったから、もうかれこれ十六、七年もまえになるか」
「はい、よくぞご記憶で」
「予の特技は一度会った者の顔をわすれぬことぐらいだ。しかも河原の妻となればなおさら忘れようはずもない。河原は京から江戸、会津でもよく尽くしてくれた。それもこれもお前のたゆまぬ支えがあったからこそであろう。今は七年の歳月をともに耐えてくれた家臣すべての奥に礼を述べたい。このとおりだ――」
不意に容保が身を前にかたむけた。
あまりに唐突なことであったので、驚いたあさ子は床に額をうちつけて平伏した。
ごん、と鈍い音だけが鳴り、容保が膝をたたいてクスクスと笑いをもらした。
「お前はちっともかわらぬな」
こだわりもなく穏やかに笑う容保の顔は、善左衛門や平馬のものと似ていた。なにかを払い捨てた人というのはそういう笑いかたをする。
容保は格子窓のむこうにただよう黒煙を虚ろにながめ、ふとつぶやいた。
「……すまぬ、許してほしい」
「え……」
「国家をあずかる君主として、お前たちの精忠にこたえられぬばかりか美しき会津を戦場に変え、あまたの尊き命と幸せな暮らしを犠牲にしてしまった。なにもかも予の不徳と力不足がまねいてしまったことに相違ない」
あさ子は膝をにじり寄せ、ちがうと首を横にふった。
「そのようなことは……つねづね河原が申しておりました。宰相様はなんら道をたがえてはおられませぬ。ただご一心に公明正大の大通りを堂々と歩んでこられました。変節したのは佞奸の扇動策にのせられあるべき大義をみうしなった衆人たちのほうです。だからこそ私たちは宰相様をお守りさしあげたいと願いこそすれ、二心をいだく愚か者など会津にはおりませぬ」
「…………」
「ご存知であられましょうか、臣下のあいだではこう話す者もあります。祖宗の土津様(保科正之)とは、宰相様のようなお方であられたのではないかと。宰相様は以前とちっともお変わりありません。なにとぞご自身をお責めになられませんようお願いもうしあげます。そうでなければ、宰相様をお慕いして会津をまもるために散華した者たちが浮かばれませぬ」
ぐっと瞑目して天をあおいだ容保が、かみしめるように頷いた。
「……そのとおりだ。お前の言うとおりだ。弱気に心をからめとられかけたが、いまはっきりと目が覚めた。礼を言う」
数えあげたらきりがない。今年の一月からさまざまなことがあった。
そのなかで容保は、以前よりも臣下に心うちをあかし、上座からおりてきてより近しく接してくれるようになったという。
家臣たちはますます意気に感じ、宰相様のためにと奮ってきたのだった。
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