華が閃く

葉城野新八

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第一章 天よ地よ

その女②

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 士気にみちみちた喧騒のさなかのこと。
 予期せぬ異変がおこった。

「ひゃっ……」

 小さな悲鳴が打ちあうように西のほうからつぎつぎとあがり、人ごみのあいだでざわめきの波紋がひろがったのである。
 つられて数人が懐剣に手をかけ身がまえはしたが、敵の兵卒がまぎれこんだわけでもなく、大砲や小銃の着弾があったようでもなかった。
 さっきから雨足がぶりかえして御馬場は下から白濁とけぶる。
 見とおしのわるくなった十間むこうに目をこらせば、数十人が玉砂利をふみしめる音がして、一筋の道がこちらへひらいてくるのがみえた。
 そして異変の正体をあらためた者から色と言葉をうしない、順にあとじさりして見おくるのだった。
 やがてにじむようにあらわれたのは、ものものしい姿をした三女。
 そろいの白無垢と義経袴、手甲脚絆、白襷と白鉢巻で身をきつくしばってある。
 先頭をくる女の年のころは三十がらみ。胸元のまる松川菱まつかわびし紋が燦然ときわだつ。
 女にしてはやや背丈がたかく、身がきりりとひきしまり、おろしてたばねた髪が力づよい足どりにともなって揺れた。
 小脇には手入れのゆきとどいた綾杉肌あやすぎはだの薙刀をたばさみ、腰にさした大小の二本がたけだけしい。脇差は短刀ではなく定寸より長いものだったので、ことさら戦国絵巻からとびだしてきた女大将をおもわせた。
 左右にしたがえた二人は二十歳ぐらいとみえ、どちらも三ツ頭左巴みつがしらひだりともえ紋をつけ、袖口に高木助三郎たかぎすけさぶろう娘と書かれた|袖標そでじるしをぬいつけてある。
 そのまばゆいばかりの白装束があらわすところは、あえて言葉にせずとも自明である。

「われらは決死である――」

 という覚悟にほかならなかった。
 だが娘子たちに悲鳴をあげさせた正体はこれらの戦装束でもなく、それは全身に赤々と散った、凄まじいばかりの鮮血であった。
 まるで果たしあいを終えてきたばかりの武者のように、だれかの身からはげしく噴きでたにちがいない血飛沫が、三女の手甲と着物と袴をずっしりと染めている。
 あたらしい血のにおいが一帯にただよい、雨にしたたりおちて土へとしみてゆく様は、娘子たちの五感を慄然とさせた。
 松川菱紋の女が、あたりをぐるりと見やる。
 娘子たちはおもわず目をそらした。
 人を殺めた者がはなつ薄暗い眼光とは、あたかも重くよどんだ深淵までつうじていて、ふっと吸いこまれるような錯覚がするものだ。
 女はまっすぐ通る声で、つきさすような名乗りをあげた。

「私は国産奉行、河原善左衛門かわはらぜんざえもんの妻にござります。梶原かじわら様は、ご家老の梶原様はいずこにおられましょうか」

 どう接したらよいのか戸惑っているのだろう。応答する者はなかった。そのかわり、

「かわはら……」

 と遠まきにひそひそ噂しあう声がもれた。
 しばらく雨と戦闘の音だけがして、おもくるしい空気にしばられ膠着していたが、それを突きやぶったのは場ちがいなほど元気な声だった。

「おあささん、おあささん!」

 まるで遠い旅さきで懐かしい人を見つけたような、親愛まじりのあかるい声音。人懐っこい笑みを丸顔に開花させ、小きざみにはねて向こうから両手を振っている。

「私です、八重にございます。すみません、通してください。すみません」

 にぎやかに人垣をかきわけて飛びだしてきたのは八重子だ。
 鮮血の白無垢を見るなり、うぶ毛をさかだてて目をかがやかせた。

「さ、さすがであられます! もう敵を斬ってこられたのですね」

 ほつれた髪を指さきでひろいながら、あさ子が首を横にふって否定する。
 ゆっくりと左右にうごかされた顔は生気をうしなったように青白い。
 この夏のはじまりに、米代一之丁よねだいいちのちょう日新館にっしんかんちかくで言葉をかわしたときより十も老けてみえた。
 やっとすべてを察した八重子は、しまったと口もとを両手でふさいだ。

「ややっ、これはとんだご無礼を……申し訳ござりませぬ、おゆるしください」
「いいえ、八重さんこそ弟さんを亡くされたばかりだというのに、ご立派なお心がけであられます。そのスペンサーは兄上様からですか」
「はい、これで三郎のぶんも大将首をしとめてみせます」

 鼻息もあらく自信満々にうなずいた八重子は、急に用事を思いだしたような顔にかわり、つぎには駆けだしていた。

「梶原様ならば先ほどから城内を駆けておられました。いまは宰相様の御前におられるかと存じますので私がお伝えして参りましょう。このまましばしお待ちを」

 そう言い残し、弾かれたように駆けてゆく背はたちまち見えなくなった。
 八重子を見送ったあと、三女は御馬場の端によけて待つことにした。
 すでに娘子たちは動きをとりもどし、あわただしく立ちまわっている。
 ほどなくして、時尾が白湯を運んできてくれた。
 あさ子とともにきた高木糸子たかぎいとこ光子みつこの姉妹は、時尾とは親戚筋にあたり、年がちかいのでよく見知った仲でもある。時尾はもともと貞子という名であったが、この春すぎから奥付きの祐筆として出仕することになってあらためた。

「炊事場が大さわぎになっていたから一つしかもってこられなかったのですが、どうかこちらを」
「お貞さん、心配しておりました。よくぞご無事で。よかった、ほんとうによかった……」

 時尾のおっとりとした笑顔をみて、たもってきた何かがほどけてしまったものか、光子がぽろぽろと涙をながしはじめた。となりにいた姉の糸子が、子どもをあやすように背をさすった。
 いくぶんかぽっちゃりとした面だちの光子は、幼少のころから泣き虫で、しっかり者の姉に甘えてしまうところがある。
 あさ子は時尾からさしだされた湯のみには口をつけず、そのまま光子にまわした。

「お光さんはよく頑張りましたね。すこしお休みなさい」
「めそめそと申し訳ござりませぬ。これまでの道中をおもいだしたら急にたえきれなくなりまして……おあささんは大丈夫なのですか」
「ええ、これからが正念場ですから」

 まっ赤に充血した目をまんまるにさせ、信じられないといった表情で光子がかぶりをふった。

「おあささんはお強いです。私にはとても……なにゆえ私たちがこのような目に合わねばならないのですか」

 すかさずこつんと、頭をたたいて糸子が泣きごとをさえぎった。

「しっかりなさい、光。おあささんがおっしゃるとおりです。これがうつつなのです。それでは満足に働けませんよ」
「はい、わかっております。わかっておりますとも……」

 光子がとりみだすのも無理のないことだった。
 つい今朝がたまで、城下では日常がつづいていたのだから。いや、つづけるために踏みとどまってきた、と言いあらわしたほうが正しいだろうか。
 着物をそめた鮮血に、あさ子はそっと手をそえた。

「いまはただ、なすべきことをなせ。あるべき道をゆけ。そうですよね、お義母かあさま、お国、父上――」

 まだ振りかえるときではない。死にぎわがくれば勝手に走馬灯がまわってくれるだろうから。
 北と東の空から焦げた戦雲がながれてきて、天守のうえに濃くたまる。
 それをつれづれと見あげている慙愧ざんき涕涙ているいを奥歯ですりつぶし、唇をかたくひきむすんだ。
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