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第一章 天よ地よ
その女①
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行列の最後尾についた八重子と時尾は、遅れて脱落しそうになる者をはげまし、母とはぐれて泣く子をなぐさめながら廊下橋をわたった。
本丸へ踏みいれたのはこれがはじめてになる。やはり自然と身がひきしまり緊張をおぼえずにはいられない。
近習が言っていたとおり、二ノ丸へはいってから流れ弾がとんでこなくなったので、八重子は感心もした。
「これを惣構え、というのよね」
いつだったか兄の覚馬から、若松城の由来と縄張りに秘められた構想を教えてもらったことがある。
会津はかつて黒川という地名で呼ばれていた。
陸路がまじわる軍事的な要地であり、肥沃な穀倉地帯が阿賀川ぞいに広がる。のみならず金銀鉄の鉱物資源が豊富に埋蔵されてあった。
農地開拓がそれほど進んでいなかったころだ。必然的にはげしい争奪戦もおこる。
戦国の世に蘆名氏の盛衰があり、二年だけ伊達家の領地となったが、豊臣秀吉の奥州仕置により伊達氏はあっけなくのけられ、いれかわりに蒲生氏郷が移封された。
氏郷という人は、かの織田信長から非凡な才能を見いだされ、英才教育をうけ娘婿にまでなった勇武の将だったが、本能寺の変のあとは秀吉からおそれられた。
秀吉としては、徳川を筆頭にやっかいな東国諸大名を封じこめることが目下の課題で、誰か信頼できる者を当地に置かなければならなかったのと、信長の影が濃くやどる氏郷を京から遠ざけたかった。
なにより内陸の盆地である黒川には海がない。京からとおく、冬は雪で閉ざされる。戦時においては疾風迅雷、平時はすぐれた領国経営をする氏郷といえども海路がなければそうそう容易に手腕を振るえるものではない。この移封は秀吉にとって一石二鳥、三鳥の策だった。
氏郷は、もはや出世の機会はたたれたと嘆きはしたが、信長直伝の精髄をおしみなくそそぎ、経政のいしずえを築いた。城下に楽市楽座をひらき、各地から商人と職人をあつめた。さらに城下の名を若松といううるわしいものにあらためた。
こと特筆すべきは、あらたに普請された広大な惣構えである。
惣構えといえば戦国の世には北条氏の小田原城が名だかい。家臣の家族らが暮らす郭そのものをひとつの要塞として敵の侵入をはばむものだ。
若松城下の郭は南北一・五キロ、東西二キロにもおよぶ。それを外濠がぐるりと囲い、城北に綿𢴠川、南に湯川という長岡までそそぐ阿賀川の支流を天然濠とする。
また短期間に石垣の城を築いてしまうのは織田家中の真骨頂。堅固な石垣と深濠をめぐらし、東に広い敷地の三ノ丸と二ノ丸、北と西に箱型の出丸があって城全体が五角の配置をなし、侵してきた敵は弓鉄砲の交差射を浴びて近づけない。
奥羽随一の七層の天守は、南北をつらぬく大通りにたいして横向きに置かれ、絶妙な角度をつけてまっすぐ見通せないようになっている。
本丸御殿と奥御殿は、たかい石垣と走長屋にかこまれて堅牢、鉄砲や大砲の流れ弾もとどかない。
まさに難攻不落の城。
「この城下には戦場を知りつくした氏郷公の経験と智恵が、いたるところに隠れている――」
そう語った兄の楽しくて仕方なさそうな横顔がなつかしい。
だから娘子たち全員が本丸御殿横の御馬場まで無事にたどりつけたのは、たまたま幸運だったからというわけでもなく、ひとえに会津若松城の巧妙な縄張りのおかげだったといえる。
身と髪についた埃をはらいおとし、身なりをあらためる顔に安堵の色はない。
腰をおろす寸暇もなく、組にわかれて点呼をとった。予定よりも二百人ほど足りていないのは、さきほど目のあたりにした酸鼻なる光景の結果なのだろう。
人数の把握をおえて整列ができたころ、戦じたくの奥女中表使をしたがえた女が二人、厳粛な空気をまとい本丸御殿の長廊下のうえにあらわれた。
若年寄格の大野瀬山、御側格根津安尾という女中取締役である。
つぎに発せられるであろう言葉を待ち、全体がしずまりかえった。
瀬山は御馬場をみわたすと表使からわたされた書状を高々とかかげた。
「上意!」
娘子たちがいっせいに片膝をついて頭を垂れた。
瀬山は儀式めいた所作をもって書状をひろげ、かたく背筋を伸ばし朗々と読みあげる。
「いまや奸賊が朝廷にはびこり大政の公明正大はゆがみ、五義の倫理は地におち、天下の秩序はかたむいた。臣をして君を討たせ、弟をして兄を討たせ、罪なき人民が戦禍にあるのは悲しみにたえない。はなはだしきにいたりては王師をかたり、われらの国境をおかし、城下までいたる勢いにある」
皆がくやしげに唇をかみ、涙をおとす者もある。
「しかりといえども恐るるに足りず。真に恐れるべきは、皇国のゆくすえが奸賊におびやかされ、あるべき人倫と政道が毀損されることにほかならない。これぞまさに皇国と国家の存亡の秋である。われら会津は、祖宗が発せられた会津武士の精忠と大義を奉じ、天下大道の中央を貫くのみを知る。かくなるうえは君側の奸悪を除かざるを得ず。不当にきせられた冤罪をすすぎ青天白日を仰ぐその日まで、ただ人事をつくし、たとえ身死すともあるべき正義を天地の神祇に問う。戦においては後方の支えこそ要諦。娘子たちはすみやかに照姫の配下となり、粉骨砕身はげむよう望む」
「御意!」
娘子たち応答に、迷いの色やためらいといったものはない。
ついに国家存亡の秋がきた。
となれば城へ馳せ参じて父祖代々の恩に報いるのが家臣のつとめ。
ましてや照姫直属の女中として働けるなど、身にあまる栄誉にほかならなかった。
瀬山と安尾が役目の申しおくりを終えると、さっそく娘子たちは各方面に散りはじめた。
それはまるで城内のすみずみに熱き血潮がめぐりだし、若松城が二百八十年の眠りからさめるような光景だった。
本丸へ踏みいれたのはこれがはじめてになる。やはり自然と身がひきしまり緊張をおぼえずにはいられない。
近習が言っていたとおり、二ノ丸へはいってから流れ弾がとんでこなくなったので、八重子は感心もした。
「これを惣構え、というのよね」
いつだったか兄の覚馬から、若松城の由来と縄張りに秘められた構想を教えてもらったことがある。
会津はかつて黒川という地名で呼ばれていた。
陸路がまじわる軍事的な要地であり、肥沃な穀倉地帯が阿賀川ぞいに広がる。のみならず金銀鉄の鉱物資源が豊富に埋蔵されてあった。
農地開拓がそれほど進んでいなかったころだ。必然的にはげしい争奪戦もおこる。
戦国の世に蘆名氏の盛衰があり、二年だけ伊達家の領地となったが、豊臣秀吉の奥州仕置により伊達氏はあっけなくのけられ、いれかわりに蒲生氏郷が移封された。
氏郷という人は、かの織田信長から非凡な才能を見いだされ、英才教育をうけ娘婿にまでなった勇武の将だったが、本能寺の変のあとは秀吉からおそれられた。
秀吉としては、徳川を筆頭にやっかいな東国諸大名を封じこめることが目下の課題で、誰か信頼できる者を当地に置かなければならなかったのと、信長の影が濃くやどる氏郷を京から遠ざけたかった。
なにより内陸の盆地である黒川には海がない。京からとおく、冬は雪で閉ざされる。戦時においては疾風迅雷、平時はすぐれた領国経営をする氏郷といえども海路がなければそうそう容易に手腕を振るえるものではない。この移封は秀吉にとって一石二鳥、三鳥の策だった。
氏郷は、もはや出世の機会はたたれたと嘆きはしたが、信長直伝の精髄をおしみなくそそぎ、経政のいしずえを築いた。城下に楽市楽座をひらき、各地から商人と職人をあつめた。さらに城下の名を若松といううるわしいものにあらためた。
こと特筆すべきは、あらたに普請された広大な惣構えである。
惣構えといえば戦国の世には北条氏の小田原城が名だかい。家臣の家族らが暮らす郭そのものをひとつの要塞として敵の侵入をはばむものだ。
若松城下の郭は南北一・五キロ、東西二キロにもおよぶ。それを外濠がぐるりと囲い、城北に綿𢴠川、南に湯川という長岡までそそぐ阿賀川の支流を天然濠とする。
また短期間に石垣の城を築いてしまうのは織田家中の真骨頂。堅固な石垣と深濠をめぐらし、東に広い敷地の三ノ丸と二ノ丸、北と西に箱型の出丸があって城全体が五角の配置をなし、侵してきた敵は弓鉄砲の交差射を浴びて近づけない。
奥羽随一の七層の天守は、南北をつらぬく大通りにたいして横向きに置かれ、絶妙な角度をつけてまっすぐ見通せないようになっている。
本丸御殿と奥御殿は、たかい石垣と走長屋にかこまれて堅牢、鉄砲や大砲の流れ弾もとどかない。
まさに難攻不落の城。
「この城下には戦場を知りつくした氏郷公の経験と智恵が、いたるところに隠れている――」
そう語った兄の楽しくて仕方なさそうな横顔がなつかしい。
だから娘子たち全員が本丸御殿横の御馬場まで無事にたどりつけたのは、たまたま幸運だったからというわけでもなく、ひとえに会津若松城の巧妙な縄張りのおかげだったといえる。
身と髪についた埃をはらいおとし、身なりをあらためる顔に安堵の色はない。
腰をおろす寸暇もなく、組にわかれて点呼をとった。予定よりも二百人ほど足りていないのは、さきほど目のあたりにした酸鼻なる光景の結果なのだろう。
人数の把握をおえて整列ができたころ、戦じたくの奥女中表使をしたがえた女が二人、厳粛な空気をまとい本丸御殿の長廊下のうえにあらわれた。
若年寄格の大野瀬山、御側格根津安尾という女中取締役である。
つぎに発せられるであろう言葉を待ち、全体がしずまりかえった。
瀬山は御馬場をみわたすと表使からわたされた書状を高々とかかげた。
「上意!」
娘子たちがいっせいに片膝をついて頭を垂れた。
瀬山は儀式めいた所作をもって書状をひろげ、かたく背筋を伸ばし朗々と読みあげる。
「いまや奸賊が朝廷にはびこり大政の公明正大はゆがみ、五義の倫理は地におち、天下の秩序はかたむいた。臣をして君を討たせ、弟をして兄を討たせ、罪なき人民が戦禍にあるのは悲しみにたえない。はなはだしきにいたりては王師をかたり、われらの国境をおかし、城下までいたる勢いにある」
皆がくやしげに唇をかみ、涙をおとす者もある。
「しかりといえども恐るるに足りず。真に恐れるべきは、皇国のゆくすえが奸賊におびやかされ、あるべき人倫と政道が毀損されることにほかならない。これぞまさに皇国と国家の存亡の秋である。われら会津は、祖宗が発せられた会津武士の精忠と大義を奉じ、天下大道の中央を貫くのみを知る。かくなるうえは君側の奸悪を除かざるを得ず。不当にきせられた冤罪をすすぎ青天白日を仰ぐその日まで、ただ人事をつくし、たとえ身死すともあるべき正義を天地の神祇に問う。戦においては後方の支えこそ要諦。娘子たちはすみやかに照姫の配下となり、粉骨砕身はげむよう望む」
「御意!」
娘子たち応答に、迷いの色やためらいといったものはない。
ついに国家存亡の秋がきた。
となれば城へ馳せ参じて父祖代々の恩に報いるのが家臣のつとめ。
ましてや照姫直属の女中として働けるなど、身にあまる栄誉にほかならなかった。
瀬山と安尾が役目の申しおくりを終えると、さっそく娘子たちは各方面に散りはじめた。
それはまるで城内のすみずみに熱き血潮がめぐりだし、若松城が二百八十年の眠りからさめるような光景だった。
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