クロワッサン物語

コダーマ

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【第一章 ウィーン包囲】パン・コンパニオン

パン・コンパニオン(6)

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 シュターレンベルクは敵意のないことを示すように両手を広げてみせた。
 こっちは四十歳も過ぎている。
 あのような子供を一人手なずけるくらい何とでもなる。

「悪いな、お嬢ちゃん。怖い敵がウィーンに攻めてきたんだ。市に近いこの小屋……、いや、家を奴らに占領されるわけにはいかないだろ。この小屋、いや、家は焼き払わせてもらう。お嬢ちゃんはちょっとの間、ウィーンの街で暮らしてくれ」

 子供からは反応がない。
 苛立つ思いをこらえ、シュターレンベルクは不器用に笑みを作ってみせる。

「なに、大きな壁に囲まれてるから街の中なら安全だ。お父さんやお母さんも避難してるだろ。戦争が終わったら、こ……家はちゃんと建て直してやる。約束す──っ」

 鼻先を重い塊が掠める。
 手の平ほどの大きさの平たい楕円状の固形物。
 さきほどシュターレンベルクの額に直撃した因縁の物体である。
 すんでのところで今度は躱し、シュターレンベルクは小屋にどんどん近付いて行った。
 徐々に募る苛立ちを自覚する。

 駄目だ、怒ってはいけない。
 分かっている。
 絶対に怒鳴ってはならない。

「……時間がないんだよ。お嬢ちゃ」

「ダ・マ・レッ!」

 レッの所が妙に甲高くて、こちらの鼓膜に突き刺さる。
 見ると屋根の上でその子は全身を震わせていた。
 目は吊り上がり、攻撃するように歯をガチガチ打ち鳴らしている。

「誰がお嬢ちゃんだ。ア・ヤ・マ・レッ! 僕は男だッ!」

「はぁ?」

「僕はッ! 立派な成人男子ッ! もう二十一歳だ! 絶対にこの水車小屋は壊させない。戦争のとばっちりなんてゴメンだよッ!」

「ああ、分かった、分かった」

 広げた手をひらひら振ってみせる。
 作った笑顔は多分崩れていないだろうが、次第に頬が引きつるのが自分でも分かる。

 この自称立派な成人男子の印象──一言でいえば「面倒くさい」である。

 そもそも二十一歳にもなっているなら志願兵として働いてほしいものだ。
 信仰や各自の事情で兵士として働くことは出来ない良心的兵役拒否者でも、土木作業や物資の整理など後方支援を行うことで街の役に立とうと努力しているのだから。

「ど、どうしますか、閣下」

 ルイ・ジュリアスが身を寄せてきた。
 小声だ。
 シュターレンベルクは、もうしばらく俺に任せろというように頷きを返す。

 小僧を力づくで市内へ連れ帰るのは容易い。
 だが、それはできなかった。
 リヒャルトに仕事を割り振るとき、住人に対する暴力行為を禁じたのは他ならぬ自分であったからだ。

 何故なら、壁の中で彼らは貴重な戦力となるからだ。
 こちらの事情に納得して、できれば意欲に満ちて市壁内へ入ってもらいたいところである。

 その間にも例の武器はビュンビュン飛んできて、三人の足元の土を抉る。
「く・た・ば・れッ!」の叫びと共に。
 やがて武器が尽きたのか、彼は屋根からピョンと飛び降りると、こちらを見ることもなく小屋に飛び込んだ。

「あの、父上……」
 リヒャルトの声は今にも消え入りそうにか細いものだ。
「敵が包囲しているから、ウィーンの街に避難してくれとどんなに説得しても、ずっとあんな調子で。話が通じないというか……」

「分かった」

 あの小僧、会話が成立しないという類の性格の持ち主であることは最早間違いない。
 リヒャルトのような貴族のボンボンが、どんなに言葉を尽くしたところで思うようには動いてくれまい。

「邪魔するぞ」

 躊躇する様子もなく、シュターレンベルクは小屋の戸を開けて中へ歩を進めた。
 甘い匂いが鼻孔をくすぐる。
 後ろの二人が切羽詰まった声をあげるが、気にしない。

「帰れッ! 帰らないなら、君のノドを突いて一緒に死んでやるッ!」

 小僧は震える両手に火かき棒を握り締め、両足踏ん張って立っていた。
 一丁前に、思いつめたような表情を作っているではないか。
 ほら、面倒くさい──尚も笑顔を張り付かせていられる自分に、シュターレンベルクは少々関心する。

 小屋の中は思った以上に狭い空間であった。
 屋外に設置された大きな水車を利用した粉挽き場として使用されているらしい。
 水車と連動した石臼と、木で造られた簡素な作業台が置かれている。

 壁際には粉の入った袋が詰まれていた。
 隅の方に煉瓦を積み上げて作った、一見して手作りと分かる小さな釜が設置されている。
 中に男四人が入ると、互いに動くことも不自由になるほどに物で溢れていた。

 出テケッと怒鳴る小僧の前で、シュターレンベルクはおもむろに上着のポケットに手を突っ込んだ。
 あまりに無造作なその態度にポカンと口を開ける少年。
 その眼前に銀色の鋭い光が揺らぐ。

「な、なにッ?」

 一瞬、怯んだのだろう。甲高い悲鳴をあげてから、少年はまじまじとソレを見詰める。

「ふぉおく?」

 それは銀色に美しく輝くフォークであった。
 持ち手は繊細な装飾で飾られ、柄の先には赤い宝石が埋め込まれている。

「皇帝陛下の食器だ。ほら、これをやるから一緒に街に行こう。な」

 皇帝とその宮廷が首都に居ないのを良いことに、シュターレンベルクは度々王宮の調度や備品を勝手に持ち出していた。
 軍事費に替えることもあれば、こうやって人に与えることもある。
 ウィーンを守る為なら多少のことは許されるのだと、もし咎める者が居れば吠えてやろうと思っている。

「そ、そんなもの……ッ」

 なけなしの矜持を振り絞って顔を背ける小僧に対して、更に畳みかけるように。
 もう一つの銀。

「スプーンも付けるか。合わせて五十グルデンはするかな」

「ごじゅ……」

 五十グルデンといえば正規の聖職禄を受けている司祭の年収と変わらない。
 勿論、こんな集落に住む──市民ですらない彼には、見たこともない夢のような大金に違いなかった。

「よし、皇帝陛下の靴下も付けるか。絹で出来てるらしいぜ」

「………………」

 これでオチたなと確信したシュターレンベルクであったが、小僧は急に顔面を歪めてみせた。
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