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第三章 掬った水面のその色は
天正二年――十月一日、新庄城にて・参
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なるべく音を立てないように。
なるべく周囲に溶け込むように。
風が吹く音に、自分を溶かすように。
木々が葉を、はらりはらりと落とすその中に、自身を馴染ませるように。
そう思い、透明にでもなったかのような気持ちで潜んでいただけに、突然かけられたその声は、周囲の空気を一瞬で割ってしまったような気がした。
京は、ビクッと揺れてしまった自身のその動作にさえ驚きながら、バクンバクンと胸の裡を恐怖にも似た感情が叩くのを抑えつつ、肩越しに振り返る。木々から次々に色づいた葉が落ちるその景色の中にいたのは、ひとりの青年。
顔立ちからすると、信澄と年齢の大差はないように思える。そう考えると、年の頃は二十歳程だろうか。
上背はさほど高くはないが、身体の線はがっちりとしている。袖口から見える手首も太く、日頃から鍛えている武家の男だ。
浅紫の素襖は恐らく元はもっと深い紫だったのだろうが、よほど古いものなのか、それとも手入れをあまりしていなかったのか。すっかり色褪せてしまっているようで、小露も、半分以上が解れており、ぶら下がっているだけの状態だった。
先ほどの男たちの中には素襖を纏った者はいなかった。少なくとも、あの連中の仲間ではない、という判断をしてしまっても良いだろうか。
「……な、何者ですっ」
立ち上がった京を庇うように、未だ肩で息をしている於逸が彼との間に立ち塞がる。男は軽く眉を寄せながら、敵意がない事を示す為か両の手を顔の横に持ち上げた。
「あ、あの。俺は、加茂三郎と言いまして……。この城に、最近仕え始めたばかりの者です」
「加茂、どの……」
信澄から紹介をされた彼の直属の家臣には、加茂姓の者はいなかった。実際、夫は磯野の養嗣子ではあるものの、その家臣の支配系統は異なるようで、それぞれに独立した家臣団を有している。
そう考えると、彼は義父に召し抱えられた直属の家臣のひとりという事だろうか。城下で一度も顔を見かけた事はないが、もしかしたら最近召し抱えられた者のひとりか。
(旧浅井家の家臣に加茂姓がいたかどうかまでは……、……駄目だわ、そこまでは、わからない……)
けれど、とりあえず名乗ったという事は、疚しいところはないという判断になるだろうか。京は、それでもまだ警戒を解かないままに、一歩前へ歩を踏み出し、於逸の前へと出る。
「仰られる通り、わたくしは津田七兵衛さまの妻です。ですが……あの、何故、わたくしが、そうだとお気づきになられたのですか……? 確か、記憶が正しければ、お会いしたことは、なかったかと思うのですが……」
「実は……いま、城へ戻って来た時に、怪しげな男たちが数人ほど、表門のあたりで様子を窺っていたんです。何だろうって思いながら横を通り過ぎた時に、明智の女がどうのって言っていて……」
間違いなく、あの連中に違いない。
於逸が手あたり次第、手桶や目籠を倒したことで、その場に留まれなくなった彼らは、どうやら表門を見張る事にしたようだ。確かにそこを見張ってさえいれば、城内にいる京たちを取り逃がす事はないだろう。
「最初は何の事かわからなかったんですが、先ほどこちらへ逃げ込むように走り去っていく女人の後ろ姿を見かけまして……。その、この城の侍女衆には見えなかったので、そう言えば、津田さまの奥方が、明智のご息女だったなぁと思い出して……」
そこで、追いかけ声をかけてみたという事だった。
「……表門で見張られているならば、やはり戻って義父上さまに助けを求めた方が、良いのかしら」
彼らの目的はいまひとつ、よくわからないままだが、少なくとも京にとってよいものではない事だけは確かだろう。
少女が傍らの於逸へと、ちらり、視線を向けると、彼女は大仰なほどに縦に首を振って頷いた。
「さ、左様に御座いますよ! いつまた、お城の中に入ってくるかわかりませんからっ! 磯野の殿に、お助け願った方がよろしゅう御座いますわ」
「……そう、ね……」
しかし、ここは磯野の城である。
彼の許しを得ずに、あの者たちが城へ入り込むという事はあり得るのだろうか。
(もしかしたら)
磯野の義父も、あの者たちの仲間である可能性もあるのだ。
(でもだったら、義父上さまを訪なった際に、わたくしを捕らえてしまえば良かったという話でもあるのよね……)
敵か、味方か。
もし京の想像通りに、明智――そして織田へ、敵意を持つ者たちならば、もうじき帰ってくるはずの信澄の身にも危険が迫っているという事だ。
(はやく)
旦那さまへ、お知らせしなければならないのに……。
京が迷いに眉を顰めるのへ、いつの間にかすぐ近くまで寄って来ていた加茂が、「あの」とおずおず口を開いた。
「…………実は、ちょっと前に俺、聞いた事があったんです」
「? 何を……、で御座いましょうか」
「殿が……、磯野さまが、織田さまから離れようとなさっているという話です」
「……っ!?」
「そ、それは……加茂どの、どういう……っ!?」
どうやら加茂の話では、磯野とその息子たちが旧浅井の家臣団を招き入れ、謀叛の企てについて話をしている場面に出くわした事があったのだという事だ。偶然、その場を見てしまった為、それ以上の情報を得る事は出来なかったそうだが、間違いなく織田への反逆を口にしていた――と、加茂は言った。
「その、企みは……、間違いなく、義父上も加わっておられたのですか?……」
「はい。間違いありません。それで、まぁ俺、別に仕え始めたばかりで、磯野さまへの御恩も特にないですし。だったら、津田さまへそれをお伝えした方がいいかなぁと思ったんですが、ちょうどそれとほぼ同時に長島での合戦が始まってしまって、津田さまは岐阜へ行かれたので、ご相談する事もままならず……」
「では、先ほど城に入り込んでいた者たちは……」
「あ、今、思い出したんですが。恐らく、その企てをしていた旧浅井の人間だと思います。表の連中、その時に確か、見た気がするので……」
「何と……何という事……っ」
於逸が両手で唇を抑えながら、悲鳴のような声を出す。
京は胸の裡で恐怖にも似た感情に溺れそうな心臓を、宥めるように大きく息を吐き出した。
「あの者たちが、わたくしを狙っていたのは、人質目的ですか」
「恐らく、そうだと思います。津田の奥方さまは、明智さまのご息女ですから」
「……あり得ないわ……」
信長本人の娘ならば、人質の価値もあったかもしれないが、信長が如何に重臣の娘と言えど、自分如きを織田家にとっての人質として捉えるとは思えない。そして、父がその事で織田を裏切るとでも思っているのだろうか。
(だとしたら、父さまも侮られたものだわ)
確かに父は、口数少ない人間ではあったが家族に対して優しい人だった。
けれど、それ以前に彼は織田家の重臣であり、明智家の当主なのだ。
(そして、旦那さまも……)
京の夫である前に、織田家の連枝衆であり、家臣なのだ。
(わたくしに、価値があると思っているのが敵ばかりだなんて……)
何という皮肉だろうか。
京の唇が、ふ、と自嘲に歪んだ。
目の奥が、熱い。
嗤いながら、泣き出してしまいそうだ。
「御方さま……?」
「あ、いいえ。何でもありません」
京はパッ、と沈んでいた睫毛の先を持ち上げると、その面を「津田家の室」へと切り替える。
(そうだ)
今は、出来る事をしなければ。
「話はわかりました。……でも、そうなると、義父上さまは頼る事も出来ないですし、屋敷にいる与右衛門まで話を伝えるにはどうしたら良いのかしら」
「早くしないと、あの者たちが入ってくる可能性もありますわよね。磯野の殿も企てのお仲間ならば」
確かに、城主の許しを得ているのならば、彼らがいつここに入り込んでもおかしくないのではないか。
(あれ……、だとしたら、何故――)
「……あの、そちらの侍女どののみを先に、逃がされては如何です?」
京が、ふ、と意識を引かれた方へと思考を這わせようとしたその時、加茂が声を挟んできた。少女の思考は、そこでぷつん、と途切れ、二、三度の瞬きののちに、その睫毛の先を青年へと向ける。
「あいつら、奥方さまを探している以上、城から出ようとする年若い女への警戒はかなりしていると思いますが、侍女どの相手ですとそれほどでもないと思うんです」
「確かに、於逸に屋敷まで戻ってもらって、与右衛門に話をしてくれれば……あとは彼がうまく事を運んでくれますね」
「……で、ですが! 於逸は、殿に……七兵衛さまに、御方さまを頼むと命じられました。その私が、御方さまのお傍を離れるわけには……!」
「あ、じゃあ……津田の奥方さまは、代わりに俺がお護りするというのは、どうでしょうか。幸いにも俺はこの城の事にはそれなりに詳しいですし、渡邊さまの助けが来るまで奥方さまを御隠しする事も出来ます」
確かにこの城に仕える彼ならば、隠れ潜む場所も京や於逸よりも詳しいだろう。
少女は、嫁いで以降ずっと気遣ってくれ傍近くに仕えてくれていた侍女へと視線を流す。彼女は不安そうに眉を八の字にしながら、ふるふるとその唇を震わせていた。
「於逸。お願い、出来ますか……?」
「御方さま……でも、於逸は……、於逸は……」
「わかっています。でも、あなたにしか、頼めない事です」
まるで神仏にでも祈るかのように、ふっくらとした分厚い手を組みぎゅ、と目を閉じる於逸へと、京はそっと手のひらを重ねる。ふくふくとしたその手は、彼女の心さながらに温かいのかと思ったが、ひやりと冷たいものを少女に伝えてきた。
きっと、これからの事を考え恐怖で身体が硬く冷たくなっているのだろう。
少女は自身の心にもある怯えを、それでも柔らかな笑みに溶かしながら侍女へと「頼みます」と再び声を紡いだ。
於逸はぎゅ、と目を固く閉じたまま、それでもその少女の言の葉にこくり、頷くとゆっくりと睫毛を持ち上げる。
「御方さま。必ず、必ず、渡邊どのが助けて下さいますから。ですから、どうぞ、お心強くお待ちくださいまし」
「えぇ。於逸も、気をつけて。無理はしないで」
何度も頭を下げながら、彼女の大きな背が建物の角を曲がり見えなくなったところで、京は大きく息を吐く。
「きっと、上手く行きます」
「……そう、あってほしいですね」
渡邊には苦労をかけてしまうが、出来る事ならば信澄の帰郷前に事件に片をつけておきたい。磯野家と旧浅井家家臣による謀叛の企てについては、その後、彼や信長が判断する事としても、自身がその枷になっているこの状況だけは、何としても終わらせておかなければ――。
「ところで、ここは安全な場所なのですか? 磯野の義父上さまも企ての加わっておいでならば、本丸近くに潜む事は、危ないのでは……?」
「あ、そうですね。……では、いっそ隠し道から外に抜け出しましょうか」
「……隠し道?」
「えぇ。搦手門の近くに、修繕のされていない門の穴があって、そこから抜け出せるんですよ」
加茂が「あっちです」と指差した方角は、確かに搦手門がある。周囲に落ちるのは、黄や紅、橙に染まった葉。三ノ丸付近ほどではないにしろ、城主家族の住まう屋敷近くだというのに、庭先は散らかっている。
この調子だと、その搦手門側の穴とやらも、放置されたままになっているのだろう。
そちらへと案内する彼の後ろを追いながら、京はちらりちらりと周囲を窺うように視線を左右へと流す。
(奥方さまがいらっしゃらないせいで、お城がこれほどまでに荒れてしまっているのね)
だからこそ、城主だというのに義父の小袖は裾が傷んでおり、生さぬ仲である信澄の嫁である自身の仕立てたものさえも、あの強面が柔らかくなるほどに喜んでくれたのだと思う。
(そう、よ)
喜んでくれていたのだ。
義父は、喜んでくれていた。
あの時、確かに――。
(……待って)
ふ、と京の脳裡に冷たい風が吹く。
まるで熱に浮かされたかのように進んだ事態に、滑り込むように冷えたものが走っていく。
少女の草鞋が、歩を刻むことをやめた。
「……加茂、どの……」
「はい?」
「搦手門近くの、その穴……ですが」
「はい」
ヒュォ……、と冷たい風がふたりの間を通り抜けていった。
カサカサ、と地面に落ちた葉が、転がっていく。
「何故、於逸にその穴を知らせなかったのですか?」
「……」
「それに……」
――幸いにも俺はこの城の事にはそれなりに詳しいですし、渡邊さまの助けが来るまで奥方さまを御隠しする事も出来ます。
先ほど、彼が紡いだその言葉。
うっかり聞き流していたが――。
「わたくしは、与右衛門としか言っていないのに、何故このお城に仕えたばかりのあなたが、わたくしが助けを求める与右衛門が渡邊与右衛門である事が、わかったのですか?」
「……それ、は……」
ひらり、黄に色づいた葉が、彼との間をゆっくりと落ちる中、その次の言葉が加茂から発せられるその前に、建物の角を突如曲がってきた大きな影が「あれ!?」と大声を上げた。
「若さま!? 惣左衛門さまですよねぇ!?」
身の丈、六尺ほどはあろうかと思われるその人が、加茂を指さしながらまるで雷でも落ちたかのような声を響かせた。
なるべく周囲に溶け込むように。
風が吹く音に、自分を溶かすように。
木々が葉を、はらりはらりと落とすその中に、自身を馴染ませるように。
そう思い、透明にでもなったかのような気持ちで潜んでいただけに、突然かけられたその声は、周囲の空気を一瞬で割ってしまったような気がした。
京は、ビクッと揺れてしまった自身のその動作にさえ驚きながら、バクンバクンと胸の裡を恐怖にも似た感情が叩くのを抑えつつ、肩越しに振り返る。木々から次々に色づいた葉が落ちるその景色の中にいたのは、ひとりの青年。
顔立ちからすると、信澄と年齢の大差はないように思える。そう考えると、年の頃は二十歳程だろうか。
上背はさほど高くはないが、身体の線はがっちりとしている。袖口から見える手首も太く、日頃から鍛えている武家の男だ。
浅紫の素襖は恐らく元はもっと深い紫だったのだろうが、よほど古いものなのか、それとも手入れをあまりしていなかったのか。すっかり色褪せてしまっているようで、小露も、半分以上が解れており、ぶら下がっているだけの状態だった。
先ほどの男たちの中には素襖を纏った者はいなかった。少なくとも、あの連中の仲間ではない、という判断をしてしまっても良いだろうか。
「……な、何者ですっ」
立ち上がった京を庇うように、未だ肩で息をしている於逸が彼との間に立ち塞がる。男は軽く眉を寄せながら、敵意がない事を示す為か両の手を顔の横に持ち上げた。
「あ、あの。俺は、加茂三郎と言いまして……。この城に、最近仕え始めたばかりの者です」
「加茂、どの……」
信澄から紹介をされた彼の直属の家臣には、加茂姓の者はいなかった。実際、夫は磯野の養嗣子ではあるものの、その家臣の支配系統は異なるようで、それぞれに独立した家臣団を有している。
そう考えると、彼は義父に召し抱えられた直属の家臣のひとりという事だろうか。城下で一度も顔を見かけた事はないが、もしかしたら最近召し抱えられた者のひとりか。
(旧浅井家の家臣に加茂姓がいたかどうかまでは……、……駄目だわ、そこまでは、わからない……)
けれど、とりあえず名乗ったという事は、疚しいところはないという判断になるだろうか。京は、それでもまだ警戒を解かないままに、一歩前へ歩を踏み出し、於逸の前へと出る。
「仰られる通り、わたくしは津田七兵衛さまの妻です。ですが……あの、何故、わたくしが、そうだとお気づきになられたのですか……? 確か、記憶が正しければ、お会いしたことは、なかったかと思うのですが……」
「実は……いま、城へ戻って来た時に、怪しげな男たちが数人ほど、表門のあたりで様子を窺っていたんです。何だろうって思いながら横を通り過ぎた時に、明智の女がどうのって言っていて……」
間違いなく、あの連中に違いない。
於逸が手あたり次第、手桶や目籠を倒したことで、その場に留まれなくなった彼らは、どうやら表門を見張る事にしたようだ。確かにそこを見張ってさえいれば、城内にいる京たちを取り逃がす事はないだろう。
「最初は何の事かわからなかったんですが、先ほどこちらへ逃げ込むように走り去っていく女人の後ろ姿を見かけまして……。その、この城の侍女衆には見えなかったので、そう言えば、津田さまの奥方が、明智のご息女だったなぁと思い出して……」
そこで、追いかけ声をかけてみたという事だった。
「……表門で見張られているならば、やはり戻って義父上さまに助けを求めた方が、良いのかしら」
彼らの目的はいまひとつ、よくわからないままだが、少なくとも京にとってよいものではない事だけは確かだろう。
少女が傍らの於逸へと、ちらり、視線を向けると、彼女は大仰なほどに縦に首を振って頷いた。
「さ、左様に御座いますよ! いつまた、お城の中に入ってくるかわかりませんからっ! 磯野の殿に、お助け願った方がよろしゅう御座いますわ」
「……そう、ね……」
しかし、ここは磯野の城である。
彼の許しを得ずに、あの者たちが城へ入り込むという事はあり得るのだろうか。
(もしかしたら)
磯野の義父も、あの者たちの仲間である可能性もあるのだ。
(でもだったら、義父上さまを訪なった際に、わたくしを捕らえてしまえば良かったという話でもあるのよね……)
敵か、味方か。
もし京の想像通りに、明智――そして織田へ、敵意を持つ者たちならば、もうじき帰ってくるはずの信澄の身にも危険が迫っているという事だ。
(はやく)
旦那さまへ、お知らせしなければならないのに……。
京が迷いに眉を顰めるのへ、いつの間にかすぐ近くまで寄って来ていた加茂が、「あの」とおずおず口を開いた。
「…………実は、ちょっと前に俺、聞いた事があったんです」
「? 何を……、で御座いましょうか」
「殿が……、磯野さまが、織田さまから離れようとなさっているという話です」
「……っ!?」
「そ、それは……加茂どの、どういう……っ!?」
どうやら加茂の話では、磯野とその息子たちが旧浅井の家臣団を招き入れ、謀叛の企てについて話をしている場面に出くわした事があったのだという事だ。偶然、その場を見てしまった為、それ以上の情報を得る事は出来なかったそうだが、間違いなく織田への反逆を口にしていた――と、加茂は言った。
「その、企みは……、間違いなく、義父上も加わっておられたのですか?……」
「はい。間違いありません。それで、まぁ俺、別に仕え始めたばかりで、磯野さまへの御恩も特にないですし。だったら、津田さまへそれをお伝えした方がいいかなぁと思ったんですが、ちょうどそれとほぼ同時に長島での合戦が始まってしまって、津田さまは岐阜へ行かれたので、ご相談する事もままならず……」
「では、先ほど城に入り込んでいた者たちは……」
「あ、今、思い出したんですが。恐らく、その企てをしていた旧浅井の人間だと思います。表の連中、その時に確か、見た気がするので……」
「何と……何という事……っ」
於逸が両手で唇を抑えながら、悲鳴のような声を出す。
京は胸の裡で恐怖にも似た感情に溺れそうな心臓を、宥めるように大きく息を吐き出した。
「あの者たちが、わたくしを狙っていたのは、人質目的ですか」
「恐らく、そうだと思います。津田の奥方さまは、明智さまのご息女ですから」
「……あり得ないわ……」
信長本人の娘ならば、人質の価値もあったかもしれないが、信長が如何に重臣の娘と言えど、自分如きを織田家にとっての人質として捉えるとは思えない。そして、父がその事で織田を裏切るとでも思っているのだろうか。
(だとしたら、父さまも侮られたものだわ)
確かに父は、口数少ない人間ではあったが家族に対して優しい人だった。
けれど、それ以前に彼は織田家の重臣であり、明智家の当主なのだ。
(そして、旦那さまも……)
京の夫である前に、織田家の連枝衆であり、家臣なのだ。
(わたくしに、価値があると思っているのが敵ばかりだなんて……)
何という皮肉だろうか。
京の唇が、ふ、と自嘲に歪んだ。
目の奥が、熱い。
嗤いながら、泣き出してしまいそうだ。
「御方さま……?」
「あ、いいえ。何でもありません」
京はパッ、と沈んでいた睫毛の先を持ち上げると、その面を「津田家の室」へと切り替える。
(そうだ)
今は、出来る事をしなければ。
「話はわかりました。……でも、そうなると、義父上さまは頼る事も出来ないですし、屋敷にいる与右衛門まで話を伝えるにはどうしたら良いのかしら」
「早くしないと、あの者たちが入ってくる可能性もありますわよね。磯野の殿も企てのお仲間ならば」
確かに、城主の許しを得ているのならば、彼らがいつここに入り込んでもおかしくないのではないか。
(あれ……、だとしたら、何故――)
「……あの、そちらの侍女どののみを先に、逃がされては如何です?」
京が、ふ、と意識を引かれた方へと思考を這わせようとしたその時、加茂が声を挟んできた。少女の思考は、そこでぷつん、と途切れ、二、三度の瞬きののちに、その睫毛の先を青年へと向ける。
「あいつら、奥方さまを探している以上、城から出ようとする年若い女への警戒はかなりしていると思いますが、侍女どの相手ですとそれほどでもないと思うんです」
「確かに、於逸に屋敷まで戻ってもらって、与右衛門に話をしてくれれば……あとは彼がうまく事を運んでくれますね」
「……で、ですが! 於逸は、殿に……七兵衛さまに、御方さまを頼むと命じられました。その私が、御方さまのお傍を離れるわけには……!」
「あ、じゃあ……津田の奥方さまは、代わりに俺がお護りするというのは、どうでしょうか。幸いにも俺はこの城の事にはそれなりに詳しいですし、渡邊さまの助けが来るまで奥方さまを御隠しする事も出来ます」
確かにこの城に仕える彼ならば、隠れ潜む場所も京や於逸よりも詳しいだろう。
少女は、嫁いで以降ずっと気遣ってくれ傍近くに仕えてくれていた侍女へと視線を流す。彼女は不安そうに眉を八の字にしながら、ふるふるとその唇を震わせていた。
「於逸。お願い、出来ますか……?」
「御方さま……でも、於逸は……、於逸は……」
「わかっています。でも、あなたにしか、頼めない事です」
まるで神仏にでも祈るかのように、ふっくらとした分厚い手を組みぎゅ、と目を閉じる於逸へと、京はそっと手のひらを重ねる。ふくふくとしたその手は、彼女の心さながらに温かいのかと思ったが、ひやりと冷たいものを少女に伝えてきた。
きっと、これからの事を考え恐怖で身体が硬く冷たくなっているのだろう。
少女は自身の心にもある怯えを、それでも柔らかな笑みに溶かしながら侍女へと「頼みます」と再び声を紡いだ。
於逸はぎゅ、と目を固く閉じたまま、それでもその少女の言の葉にこくり、頷くとゆっくりと睫毛を持ち上げる。
「御方さま。必ず、必ず、渡邊どのが助けて下さいますから。ですから、どうぞ、お心強くお待ちくださいまし」
「えぇ。於逸も、気をつけて。無理はしないで」
何度も頭を下げながら、彼女の大きな背が建物の角を曲がり見えなくなったところで、京は大きく息を吐く。
「きっと、上手く行きます」
「……そう、あってほしいですね」
渡邊には苦労をかけてしまうが、出来る事ならば信澄の帰郷前に事件に片をつけておきたい。磯野家と旧浅井家家臣による謀叛の企てについては、その後、彼や信長が判断する事としても、自身がその枷になっているこの状況だけは、何としても終わらせておかなければ――。
「ところで、ここは安全な場所なのですか? 磯野の義父上さまも企ての加わっておいでならば、本丸近くに潜む事は、危ないのでは……?」
「あ、そうですね。……では、いっそ隠し道から外に抜け出しましょうか」
「……隠し道?」
「えぇ。搦手門の近くに、修繕のされていない門の穴があって、そこから抜け出せるんですよ」
加茂が「あっちです」と指差した方角は、確かに搦手門がある。周囲に落ちるのは、黄や紅、橙に染まった葉。三ノ丸付近ほどではないにしろ、城主家族の住まう屋敷近くだというのに、庭先は散らかっている。
この調子だと、その搦手門側の穴とやらも、放置されたままになっているのだろう。
そちらへと案内する彼の後ろを追いながら、京はちらりちらりと周囲を窺うように視線を左右へと流す。
(奥方さまがいらっしゃらないせいで、お城がこれほどまでに荒れてしまっているのね)
だからこそ、城主だというのに義父の小袖は裾が傷んでおり、生さぬ仲である信澄の嫁である自身の仕立てたものさえも、あの強面が柔らかくなるほどに喜んでくれたのだと思う。
(そう、よ)
喜んでくれていたのだ。
義父は、喜んでくれていた。
あの時、確かに――。
(……待って)
ふ、と京の脳裡に冷たい風が吹く。
まるで熱に浮かされたかのように進んだ事態に、滑り込むように冷えたものが走っていく。
少女の草鞋が、歩を刻むことをやめた。
「……加茂、どの……」
「はい?」
「搦手門近くの、その穴……ですが」
「はい」
ヒュォ……、と冷たい風がふたりの間を通り抜けていった。
カサカサ、と地面に落ちた葉が、転がっていく。
「何故、於逸にその穴を知らせなかったのですか?」
「……」
「それに……」
――幸いにも俺はこの城の事にはそれなりに詳しいですし、渡邊さまの助けが来るまで奥方さまを御隠しする事も出来ます。
先ほど、彼が紡いだその言葉。
うっかり聞き流していたが――。
「わたくしは、与右衛門としか言っていないのに、何故このお城に仕えたばかりのあなたが、わたくしが助けを求める与右衛門が渡邊与右衛門である事が、わかったのですか?」
「……それ、は……」
ひらり、黄に色づいた葉が、彼との間をゆっくりと落ちる中、その次の言葉が加茂から発せられるその前に、建物の角を突如曲がってきた大きな影が「あれ!?」と大声を上げた。
「若さま!? 惣左衛門さまですよねぇ!?」
身の丈、六尺ほどはあろうかと思われるその人が、加茂を指さしながらまるで雷でも落ちたかのような声を響かせた。
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それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
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青春
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そのほかに外伝も綴りました。
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みにみ
歴史・時代
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台湾空軍特務中士Mr.SASENOこと
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※エースコンバットみたいな世界観で描いてます()
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こんにちは、改めてまたこちらの素敵な小説を始めから読み直させて頂きました。
一般的にあまり知名度の高い戦国大名では無いと思いますが、そのなかでこの津田信澄という人物像が笠緒様の文章表現力やストーリー構成においてとても魅力あふれる描かれ方をされていて、すごく素敵だなと感じました。悲運な幼少期を経ても、優しさと思慮深さと芯の強さももちあわせた素敵なお人柄が、文章を読む中で読み手にしっかりと伝わってきます。
主人公も、おとなしくおどおどと過ごしていた娘時代を経て、妻となった後の徐々に武士の妻としてたくましさを感じるほど成長していっている様もとても魅力的だと思います。
このまだ夫婦としてとても初々しい二人が、事件に巻き込まれながらどのように再会し、どのように夫婦としての絆を深めていくのか、とてもとても楽しみにしています。
うわぁ…!改めて最初から…!
ありがとうございます…っ!もうそれ以外何も言えないのですが、本当にありがとうございます。
めちゃくちゃ嬉しいです……!!
津田信澄という人物を考えた時に、有能である事は当時の記録からも確かで、さらに信長に気に入られるとなるとどんな人物だったのかな、と…そうして出来上がったのがあんな感じの性格でした。
個人的には割と常識人っぽいところもありつつ、ほどほどに変わり者というか、出生からも周りとの距離感を掴むのがうまかったのかなぁと。
主人公の京は、立場を自分で考えた時、絶対コンプレックスの塊になるよな、と思いましたが、やはりそれでも明智の娘。津田家の嫁となったからにはきっと強く生きていく子になるんだろうなぁと思っています。
今後、ふたりの再会が待っている展開ですが…筆が遅くて申し訳ないです。
こうして感想頂けて本当にうれしいので、なるべく早く続きをお見せ出来るよう、頑張ります。
本当にありがとうございます…!
主人公以外の周囲の登場人物まで細かな人物描写がされていて、時代背景の描写なども含めてとても魅力的な作品ですね。一気に読み進めてしまいました。
とてもとても続きを楽しみにしています!
お読み下さり、感想までいただき、ありがとうございます!
その時代、その場所に生きていた人たちを、丁寧に描きたい!という思いで書いているお話なので、そう言っていただけて、とてもとても嬉しいです!
続き、頑張って書こうと思いますので、またお手すきの時にでも、楽しんでいただけましたら幸いです!
読ませていただきました!続きがとても気になる導入で、続きが待ち遠しいです!!
お読み下さり、ありがとうございます!
また待ち遠しいという感想まで頂き、とても嬉しいです…!
地道に進めていこうと思いますので、お手すきのときなどの楽しみにしていただければ幸いです。