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第2章 東エルフィニア
02-012 スチームランド
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健吾がアレクシス・ヒルトに説明する。
「ヒトの領域は12の国に分かれている。
そのうち、国名がわかっているのは3分の1。
工業の国スチームランド、石炭を産するコールランド、鉄鉱石が採れるアイアンランド、羊毛を輸出しているウールランド。
このうち、場所がはっきりしているのは、スチームランドとウールランド。
近いのはスチームランドだ」
アレクシスは即座に「スチームランドだ」と答える。
健吾が頷く。予想していた回答だ。
「スチームランドはエルフの領域に隣接していて、ヒトとエルフの領域は幅1キロある川で区切られている。
この川を渡り、15キロ南下し、幅700メートルの川を渡ると、そこから南がスチームランドだ。
ここからの距離は、想定だが1500キロある。スチームランドまでの燃料と食料は提供する。それ以外のことはできない」
アレクシスはニタニタしながら健吾の説明を聞き、ニタニタしたまま提案を受け入れた。
健吾が続ける。
「明日、出発する」
これは急だったらしく、少し慌てた様子だった。
東エルフィニア建国は、順調とはいいがたい。国家としての体制は整いつつあるが、内実は混乱と混沌に包まれている。
それゆえ、個々の村が個々に統治しないと、治安が乱れ、汚職がはびこってしまう。
メルディの西側一部は、シンガザリに占領されたまま。トレウェリでは、旧都と隣接する村の一部がシンガザリに恭順している。
トレウェリの西隣、アクセニのいくつかの村が東エルフィニアに参加したいと申し入れていた。
亜子の判断では「戦乱がないのだから、それでいいじゃない」と。
これには、キャンプの誰もが賛成している。
「海岸まで300キロ。
海岸に出たら、海沿いの道を南下する。1200キロから1500キロ走ると、ヒトとエルフの領域を分ける大河に達する。
大河は増水していなければ渡れる。増水している場合は、水量が減るまで待つ。
大河を渡り、15キロ南下して、次の川を渡れば、そこから南がヒトの領域だ」
健吾が絵地図で、今後の行動を説明すると、アレクシスは不安げな目をした。地図は大雑把なもので、距離も地形もわからない。不正確な方向がわかるだけ。
これが、2億年後の現実なのだ。しかも、この絵地図はヒトが作った。
このことを健吾はアレクシスに伝えない。この差別主義者をさっさと追い払いたいからだ。
ただ、心美の「エルマは絶対に連れて帰ってきて!」という無茶な指令をどうするか、それを迷っていた。
エルマは父親に似ない穏やかな子で、心美やレスティと仲がよかった。ヒトの領域は安全ではない。子供には過酷な地だ。行けば、そう長くは生きていけない。
そのことは、ホルテレンで得た情報で十分にわかっている。
だが、この時点では、健吾はエルマを父親から引き離す決断をしていなかった。判断はエルマ次第だと考えていて、ことさら残留を促す発言をするつもりはなかった。
健吾はボルトオンターボ付きジムニーシエラで、アレクシス親子は2億年後に彼らを運んできたゲレンデヴァーゲンで、キャンプを発した。
エルマの様子は、出発直後からおかしかった。異常とまで評せないが、精神的に不安定で、言動や様子に首をかしげることがあった。
この頃、村の中心部に診療所を移す計画が決まり、同時にパン屋を開業する話もあった。
エルマは「一緒にパン屋さんやりたい」と幼い女の子らしい発言をしていたが、すでに12歳であるわけで、空気を読む能力を身に付けていた。
エルマの英語はたどたどしいが、堪能な亜子が時間をかけて聞き出したところ、意外なほどしっかりとした考えを持っていた。
「パン屋さんなら、お金をもらえると思うから。パパは、どうやってお金をもらおうと思っているのかわからないの」
つまり、この世界で生きていくには仕事をしなければならないが、父親がどうやって生業を得ようとしているのか、そこが不安なのだ。
実際、その通りで、亜子、彩華、心美、耕介、健吾の5人が、もし、シルカ、レスティと知り合わなかったら、いまの安定した生活はない。
おそらく、フェミ川北岸で魔獣に怯えながら、ささやかな農地にしがみついて、飢えと闘っていた。
この仮定は、ほぼ正しい。5人は、そう考えていた。
エルマは、父親が周囲から嫌われていること、父親がキャンプの面々を見下していることを理解している。
父親は「こんなデミ・ヒューマンのテリトリーなんかにいたくない。ヒトの世界に行く」とエルマに説明した。
エルマは、父親が怖かった。だから、肯定も否定もしなかった。
アレクシスのゲレンデヴァーゲンは、後席とラゲッジスペースに大量の荷物を積んでいた。
多くは、衣類や寝具と食料で、キャンプ用具は不十分だった。
しかし、それらはアレクシスには絶対に必要なものではなく、最も大事な積み荷は2億年前に調達した2億円相当のウィーン金貨だった。
1オンス金貨が800枚、重量で2.5キロ。
アレクシスは、これがあれば何でもできると確信している。事実そうで、間違いではない。
だが、同時に生命を狙われる理由にもなる。そして、この世界における生命の値段は、かなり安価。
簡単に殺され、簡単に奪われる。
エルマは狭い後席を嫌い、父親に許しを申し出た。
「あっちのクルマに乗っていい?」
父親は、ゲレンデヴァーゲンと比べると貧相な小型四駆車に娘が乗ることを許す。
彩華は健吾が心配だった。出発の前にもう一度確認する。
「1人で、本当に大丈夫?」
「あぁ、俺1人のほうがいい。
ホルテレンまでは何度も行っているし、おそらく、そこまでが行程の半分。
人界に立ち入るつもりはないが、人界を見ておきたい。ホルテレンの商人たちが語るような、蒸気の国がひどい場所か、確認しておきたい」
「社会の授業で、四日市の公害のことを習ったけど……」
「そんなレベルじゃないようだ。
30歳まで生きているヒトは珍しいとか。
煤煙と水質汚染で、長く生きられないそうだが……」
「できれば、姉弟を連れ帰って。
無理なら、エルマだけでもいいから」
「わかっている。
あの父ちゃんじゃ、長くは生きられないからね」
彩華は、ワルサーP1自動拳銃と増量弾倉に改造した半自動猟銃を健吾に渡す。
「拳銃は、身体から離さないで。
寝るときも、いつでも」
健吾が頷く。
健吾が先行し、アレクシスが後続するが、健吾車との差が簡単に開いてしまう。健吾の運転技量が高いことと、重量1トン強と軽量な車体にボルトオンターボ付き排気量1460ccのK15Bエンジンがパワフルであることから、1988ccディーゼルで2トンを超える車体を引っ張るゲレンデヴァーゲンでは、機動力が違いすぎるのだ。
ゲレンデヴァーゲンは、V8ツインターボではなかったから長距離移動ができたのだが、航続性能を満足する代償としてエンジンが非力だった。
アレクシスはクルマに詳しくないらしく、この高級5ドア4WDを破格の値で購入したらしい。
「どうして止まっているの?」
エルマの問いに健吾が下手な英語で答える。
「エルマのパパを待っている」
「ふ~ん」
エルマは後方を振り返りもしない。
ホルテレンまでは10日。夜は川や池などの水辺でキャンプした。
アレクシスは立派なテントを持っているが、展張に時間がかかる。
対して、健吾はルーフキャリア最後部に取り付けたタープを引き出すだけで、展張できた。
夏なので暖房は不要だが、それでも明け方は冷える。エルマは暖かい車中泊がお気に入りで、父親のクルマに近付く様子を見せない。
エルマは双子の弟を気にする様子をたびたび見せるのだが、弟は父親から離れようとはしない。
彼の目は明らかにエルマを非難している。
姉弟の間には見えない壁があり、どの方向から見ても仲がいいとは思えない。
ホルテレンまで1日の距離に迫った夜、理由をエルマが教えてくれた。
「ママとパパは、別々に住んでいたの。私はママと、弟はパパと……。
ママが病気になって、死んじゃって、私はパパと住むことになっちゃった。
パパと弟は、私のことが嫌いみたいだった。パパは私がママに似ているから嫌いだって。弟はママに捨てられたと思っているみたい……。
ママが私を選んだから怨んでいるみたい。ママと私を……」
真夏だが、陽が沈み、だいぶたつと寒いと感じる夜だった。
健吾が残り少ない生姜湯をエルマに入れてあげると、エルマが微笑む。
「アヤがママになってくれるって!」
彩華がそう言ったのだろう。彩華の性格から、エルマを見放したりはしない。エルマを連れ帰らなければ、健吾は彩華に殺されかねない。
久々に日本語で呟く。
「ようやく二十歳〈はたち〉で、3人の子持ちかよ。
楽な人生じゃなさそうだな」
健吾はホルテレンで、知古に人界のことを尋ね歩いた。情報は錯綜しているが、共通点もあった。
「陸路ではヒトの国に入れない。
入れはするが、生きて出られるか?
海路で羊の国に向かうべきだ」
誰からもそう説明された。ヒトの国は閉鎖的で、騒乱が多く、治安は最悪。国と呼べる地域は12あるが、それ以外にも豪族や野盗などの勢力によって独立状態にある地域が無数にある。
群雄割拠の人界にあって、ウールランドは国土が広く、強力な軍を有し、治安がよく、政治が安定しているとされる。
「王は入れ札で決まるらしい」
この証言は選挙のことではないかと、思わせた。
羊毛を産することからウールランドと呼ばれているが、石油を含む地下資源に恵まれている。
健吾が運転するジムニーのガソリンも、ウールランドで製造されている。
アレクシスは、2億年後の言葉をまったく解しない。ヒトの言葉も2億年前とは異なる。
健吾はヒトの言葉を少しは解するが、エルフの言葉ほどはわからない。
ヒトの商人の多くは、エルフとドワーフの言葉に精通している。
だから、コミュニケーションは可能。
ヒトも、エルフも、ドワーフも、商人は例外なく、ウールランド以外には「行かないほうがいい」と忠告する。
こういった情報は、アレクシスに説明するが、彼は健吾の説明を受け入れる意志がなかった。
彼は英語が堪能で、人界に行けば言葉が通じると信じ切っている。クルナ村には英語が通じるヒトが複数いるし、そう彼が信じる根拠はある。
だが、人界のヒトのルーツはよくわかっていない。ただ、数万年前の移住者の子孫ではない。
国や地域によってばらつきや例外があるようだが、数千年前から数百年前に移住したヒトが基幹となったようだ。
少なくとも数万年前の移住者は、パンゲア・ウルティマの北東部には定住しなかった。あるいは、できなかった。
健吾は、彼が知る限りの情報をアレクシスに説明した。
この旅の前から。
だが、アレクシスは真剣に耳を傾けようとはしなかった。また、健吾もことさら信じてもらおうとは努力しなかった。
信じないことも判断の1つであり、信じて行動を間違うこともあるのだから。
ウールランドの商船は蒸気タービンが機関で、ボイラーは重油専焼缶。スチームランドの商船は蒸気レシプロで、コークスを焚いて蒸気を得ている。
入手しやすい燃料を利用しているだけとすれば、その通りではあるが、工業技術ではウールランドのほうがやや優れているように、健吾は感じていた。
しかし、ウールランドの社会・政治体制については、入れ札で王が決まること以外、多くはわかっていない。
スチームランドについては、エルフの領域の南側に隣接している以外のことは何もわからない。
健吾はアレクシスにウールランド行きを薦める。
「少しは治安がいいらしい。
ヒツジがたくさんいて、羊肉料理がうまいそうだ」
アレクシスは拒否する。
「ヒトよりもヒツジが多いような田舎は好かないね。
都会がいい。
スチームランドはたくさんの家が建ち並んでいるそうじゃないか。
そこがいい」
健吾は何も言わず、アレクシスの希望を受け入れた。彼は、一度言い出したら他者の意見を受け入れない。
健吾にはアレクシスを説得する意志が一切ない。アレクシスの希望に沿うつもりだった。
それと、健吾は人界をレンズ越しでいいから自分の肉眼で見ておきたかった。
健吾は、エルマに迷いがあることを理解している。父親が彼女のことを考えるなら、父親と行動を共にしたいと思っている。
しかし、彼女に対する関心は低い。彼女は父親を頼りたいが、父親には彼女への関心が低く、そのことに彼女は気付いている。
状況によっては、身体的暴力よりも無関心のほうが子供を傷付けるが、エルマは十分すぎるほど傷付いていた。
道はホルテレンまでは悪くはなかったし、同街以南も走りやすかった。
南下を始めて15日目。
ついに大河に行き当たる。
大河に行き当たる付近には轍はあるが、それを道と呼んでいいかは微妙な状態にまでなっていた。
この橋のない大河を渡り、15キロ南下するともう1本の大河の北岸に達する。
このことは、健吾は事前に知っていた。
「この川を渡る。
中州が見えるか?
中州に轍があるだろ。
轍と轍の間が渡渉点だ。
まず、俺が渡る。中州に着いたら、あんたが渡ってこい。
中州伝いに渡っていく。
対岸に着いたら、いったん南下し、別の川に行き当たったら、西に30キロくらい移動する。
そこに渡渉点がある」
健吾は川の流れに逆らわず、要領よく渡渉していく。
アレクシスは運転自体が下手で、何度もスタックしかけるが、川底が小石と砂であることからどうにか渡ってきた。
次の中州から中州への渡渉も、どうにか追及してきた。
3回目の渡渉は5メートルほどと短く、簡単に渡った。
4回目は、流れの幅が広く速いが浅い。健吾は簡単に渡ったが、アレクシスは流れの真ん中でスタックしかける。
健吾には助けるつもりがない。クルマが流されれば、それで終わり。スタックしても、脱出を手助けする義理はない。
悪運が強いのか、彼が信じる神の加護かはわからないが、今回もどうにか渡渉してきた。
これで、エルフとヒトのテリトリーを分ける大河を渡った。
明らかに人工の傾斜路を上り、河岸段丘を越え、轍を追って南下する。
草丈があるヨシかススキのような植物の回廊を30分ほど進む。
エルマが鼻をつまむ。
「臭いよぅ~」
耐えられない臭いに、健吾も吐き気を感じる。
かなりの川幅がある河川に沿って、西に走る。上流に向かって、2時間弱走ると、ようやく臭いを感じなくなる。
悪臭が減じたのだろうが、ある意味、慣れたのだ。
4頭立てと6頭立ての馬車が渡渉点で待機している。蒸気機関の大型トラクターが1編成。
エルフではなく、ヒトだ。
彼らは口と鼻を布で覆っている。この地点でも、十分に臭い。
アレクシスは呆然としている。
健吾が促す。
「順番だ。
蒸気トレーラーの次があんただ。
対岸があんたが行きたい場所だ」
アレクシスは口にハンカチを当て、気分が悪そうだ。
この地点でも、魚の死骸がゆっくりと流れていく。水は黒く濁り、ガスなのか川面に泡が出ている。
油も浮いている。
大気汚染もひどい。遠望したスチームランドの街の上空は、黒煙が覆っていた。
川の上空は黒くないが、青空でもない。明らかにスモッグだ。
アレクシスがエルマを促す。
「行くぞ」
エルマがジムニーの車内に戻ってしまった。
「イヤらしいな。
当然だ。あんな場所に行きたいのは、あんたくらいだ」
アレクシスが健吾を蔑みの目で見る。
「おまえたちは、デミ・ヒューマンと一緒に生きていけばいい。どうせ、アジアの下等人種なんだから」
アレクシスがジムニーに近付き、助手席のドアに手をかける。エルマを引っ張り出そうと考えたのだろうが、娘の対抗は素早かった。
ドアをロックしたのだ。
健吾は日本の同年齢と比較しても小柄で、ゲルマン系で高身長のアレクシスとは明確な体格差があった。
健吾は運転席側のドアをキーで開けて乗り込み、エルマに問う。
「アヤのところに戻るか?」
父親に怯えたエルマが泣きながら頷く。
しばらくの間、ジムニーをゲレンデヴァーゲンが追ってきたが、アレクシスの運転技量では健吾に追い付けるはずはなく、10分かからずに姿を見なくなる。
エルマが揺れる車内で呟く。
「あんな街に行ったら、死んじゃうよ」
健吾は答えなかったが、スチームランドでは30歳前後での死亡が多いと聞いていた。
大気と水の汚染は何百年も続いており、乳幼児の死亡率はとんでもなく高いらしい。
エルマの話題は、パン屋の開業に集中している。パン屋の開業は、確かに話題としては存在している。
だが、具体性はない。
クルナ村のパンは非常に固く、歯を悪くした老人には食べにくい。パン焼き器で作るパンは非常に柔らかく、老人食として歓迎されていた。
実際、求められれば焼いてきた。多くは無料だが、代金を払ってくれる例も多々あった。
モンテス少佐の診療所と無関係でなく、村の意向は「病人、老人向けのパンを売る店を営んでほしい」とのことだった。
耕介とフィオラはコムギとヒマワリの栽培で手一杯。亜子やシルカは灯火油と食用油の輸送で手一杯。心美とレスティは近隣への小口輸送が大盛況。
リズとフリッツは、モンテス少佐とともに診療所で働いている。
パン屋を営むとすれば彩華なのだが、彼女は健吾ほどの料理自慢ではなく、少し腰が引けている。
大乗り気なのがエルマだ。幼い女の子の願望かもしれないが、彼女は幼いながらも現実を理解している。
健吾がエルマに説明する。
「パン焼き器だけでは、お店は開けないよ」
「パン焼き窯を作ればいいんだよ。
ケンならすぐに作れるでしょ」
「でも、村のみんなは柔らかいパンがほしいんだよ」
「考えたんだけど」
「うん?」
「ナンって知ってる?」
「知ってるよ。南アジアや中央アジアのパンでしょ」
「タンドール窯で焼くんだ」
健吾はエルマが彼女なりに真剣に考えていることを理解していたが、具体的な提案は初めてだった。
「ナンか?
よく知っているね」
「うん。
ママのお友達の家で食べたんだ。
ケンはどんなパンがいい?」
「クルミパン。
ハチミツパン。
クリームパンに小倉あんパン。うぐいすパンに白あんパン。焼きそばパンにスパゲティパン。コロッケパンに照り焼きサンド。
ハンバーガーも食べたいね」
「うゎ~。
フライドポテトもあったほうがいいよね」
「ポテトもいかがですか?」
「ポテトモイカ……」
2人で大笑いする。
健吾は、エルマが提示したナンはいいアイデアだと思った。
また、量的要求を満たすなら当初はコッペパンだけにして、ジャムやコロッケを挟むことで商品の多様化を図る方法もあると考えた。
帰路に要した25日間、エルマのパン屋さん構想は具体性を帯びていた。
健吾はパン焼き窯とタンドール窯の設計をさせられ、メニューも考えさせられていた。
クルナ村名産のひまわり油を使ったドーナツにエルマが大興奮する。
エルフの社会には甘味が少なく、砂糖は存在せず、ハチミツだけ。そのハチミツは金と重量で等価という高額商品。
甘味を確保するため、健吾がオオムギ麦芽から麦芽糖を作っている。村民の一部が知っており、水飴として譲渡されていた。
水飴の噂は徐々に広まっており、秘密は秘密ではなくなり始めていた。
耕介、亜子、シルカの3人は、ナナリコが見たというユニック車を探したが見つけることができなかった。
だが、荷台に軽トラパネルバンを積んだ、クレーン付きクローラーダンプを見つけた。
北東450キロという、過去に遠征したことがない地域だった。持ち主は、荷台の軽トラ内で生活していたようだ。
クローラートラックのキャビンは開放型で、この地域の気候では真夏でも夜間は寒さを感じる。
それと、軽トラは2億年後にやって来てから見つけた可能性が高い。見つけた時点において不動状態で、クローラーダンプの荷台に乗せてキャビンとして使っていた。
燃料切れで、遺棄されたことは確実。耕介は、10年から15年前の遺棄と推測する。
修理に4日を要したが、3人はこの奇怪な乗り物を持ち帰った。
新しい診療所は、いままでの物置小屋と比べたらはるかに立派な建物だった。
屋根はエルフの建築では見られない、樹皮を使った葺き方で、床は川石を敷き詰めたあとにコンクリートを流し込んだ。
これらの施工は、ナナリコが行った。大工の家で育った彼女は建築家で、放置されていた家を見事にリフォームした。
健吾とエルマが戻ると、あと数日で診療所が開業するという段階になっていた。
ナナリコが「次はパン屋さんだね」とエルマに告げると、彼女は飛び跳ねて喜んだ。
診療所開業の数日前、飯屋の女将さんからとんでもない話を亜子が聞いてきた。
日没の直前だった。
「この地域では、家を建てると災いから守るために近所の村民を招いて、宴会するんだって!」
シルカがフッと息を吐く。
「そうだった。そんな習慣があった」
彩華が異論を唱える。
「新築じゃないよ。
ただのリフォーム」
亜子も女将さんにそう言ったのだが、彼女から「あそこまで変えてしまったら、新築と同じでしょ!」と即座に反論された。
そして、付け加える。
「新築祭なんて久しぶりだから、みんなが楽しみにしているのよ!」
健吾がナナリコに通訳すると、彼女が微笑んだ。
「地鎮祭や上棟式みたいなものかもね」
それで、2億年前の日本にも似た習慣があったことを思い出す。
健吾が「明日、どうすればいいのか、聞いてくるよ。土地の習慣には従ったほうがいい」と告げた。
「宗教的な感じじゃないね。
少佐が火災と水害に遭いませんようにと願えばいいだけ。
その後は宴会で、食べるものがつきるまで、客をもてなす。
それを14時頃から日没後まで続けないといけない。日没までに食べ物・飲み物がつきたらいけないそうだ」
健吾が息を吐く。そして続ける。
「女将さんだが、酒を大量に仕入れたんだ。
新築祭用に。
で、なかなか注文がないので、亜子に注文を急かせたわけだ。
料理の注文も受け付けるそうだ」
新築祭という、ただ飯、ただ酒の宴会は大盛況となった。
開宴から日没のお開きまで居座った村役は4人。村の子供たちも大勢やって来た。
飯屋の女将の主導で料理と酒が用意されたのだが、健吾はエルマの発案であるナンを用意する。
受け入れられるか否かの判断のためでもあった。
また、料理が足りなくなると縁起が悪いらしく、その場で作れる料理として、野菜天の材料を用意する。
10枚用意したナンは、瞬く間になくなった。野菜天も大盛況で、どれだけ揚げても、需要の速度に追い付けない。
この大宴会を境に、シルカとともに生活するヒトのグループは、外来者から明確に村民として認知されていった。
「ヒトの領域は12の国に分かれている。
そのうち、国名がわかっているのは3分の1。
工業の国スチームランド、石炭を産するコールランド、鉄鉱石が採れるアイアンランド、羊毛を輸出しているウールランド。
このうち、場所がはっきりしているのは、スチームランドとウールランド。
近いのはスチームランドだ」
アレクシスは即座に「スチームランドだ」と答える。
健吾が頷く。予想していた回答だ。
「スチームランドはエルフの領域に隣接していて、ヒトとエルフの領域は幅1キロある川で区切られている。
この川を渡り、15キロ南下し、幅700メートルの川を渡ると、そこから南がスチームランドだ。
ここからの距離は、想定だが1500キロある。スチームランドまでの燃料と食料は提供する。それ以外のことはできない」
アレクシスはニタニタしながら健吾の説明を聞き、ニタニタしたまま提案を受け入れた。
健吾が続ける。
「明日、出発する」
これは急だったらしく、少し慌てた様子だった。
東エルフィニア建国は、順調とはいいがたい。国家としての体制は整いつつあるが、内実は混乱と混沌に包まれている。
それゆえ、個々の村が個々に統治しないと、治安が乱れ、汚職がはびこってしまう。
メルディの西側一部は、シンガザリに占領されたまま。トレウェリでは、旧都と隣接する村の一部がシンガザリに恭順している。
トレウェリの西隣、アクセニのいくつかの村が東エルフィニアに参加したいと申し入れていた。
亜子の判断では「戦乱がないのだから、それでいいじゃない」と。
これには、キャンプの誰もが賛成している。
「海岸まで300キロ。
海岸に出たら、海沿いの道を南下する。1200キロから1500キロ走ると、ヒトとエルフの領域を分ける大河に達する。
大河は増水していなければ渡れる。増水している場合は、水量が減るまで待つ。
大河を渡り、15キロ南下して、次の川を渡れば、そこから南がヒトの領域だ」
健吾が絵地図で、今後の行動を説明すると、アレクシスは不安げな目をした。地図は大雑把なもので、距離も地形もわからない。不正確な方向がわかるだけ。
これが、2億年後の現実なのだ。しかも、この絵地図はヒトが作った。
このことを健吾はアレクシスに伝えない。この差別主義者をさっさと追い払いたいからだ。
ただ、心美の「エルマは絶対に連れて帰ってきて!」という無茶な指令をどうするか、それを迷っていた。
エルマは父親に似ない穏やかな子で、心美やレスティと仲がよかった。ヒトの領域は安全ではない。子供には過酷な地だ。行けば、そう長くは生きていけない。
そのことは、ホルテレンで得た情報で十分にわかっている。
だが、この時点では、健吾はエルマを父親から引き離す決断をしていなかった。判断はエルマ次第だと考えていて、ことさら残留を促す発言をするつもりはなかった。
健吾はボルトオンターボ付きジムニーシエラで、アレクシス親子は2億年後に彼らを運んできたゲレンデヴァーゲンで、キャンプを発した。
エルマの様子は、出発直後からおかしかった。異常とまで評せないが、精神的に不安定で、言動や様子に首をかしげることがあった。
この頃、村の中心部に診療所を移す計画が決まり、同時にパン屋を開業する話もあった。
エルマは「一緒にパン屋さんやりたい」と幼い女の子らしい発言をしていたが、すでに12歳であるわけで、空気を読む能力を身に付けていた。
エルマの英語はたどたどしいが、堪能な亜子が時間をかけて聞き出したところ、意外なほどしっかりとした考えを持っていた。
「パン屋さんなら、お金をもらえると思うから。パパは、どうやってお金をもらおうと思っているのかわからないの」
つまり、この世界で生きていくには仕事をしなければならないが、父親がどうやって生業を得ようとしているのか、そこが不安なのだ。
実際、その通りで、亜子、彩華、心美、耕介、健吾の5人が、もし、シルカ、レスティと知り合わなかったら、いまの安定した生活はない。
おそらく、フェミ川北岸で魔獣に怯えながら、ささやかな農地にしがみついて、飢えと闘っていた。
この仮定は、ほぼ正しい。5人は、そう考えていた。
エルマは、父親が周囲から嫌われていること、父親がキャンプの面々を見下していることを理解している。
父親は「こんなデミ・ヒューマンのテリトリーなんかにいたくない。ヒトの世界に行く」とエルマに説明した。
エルマは、父親が怖かった。だから、肯定も否定もしなかった。
アレクシスのゲレンデヴァーゲンは、後席とラゲッジスペースに大量の荷物を積んでいた。
多くは、衣類や寝具と食料で、キャンプ用具は不十分だった。
しかし、それらはアレクシスには絶対に必要なものではなく、最も大事な積み荷は2億年前に調達した2億円相当のウィーン金貨だった。
1オンス金貨が800枚、重量で2.5キロ。
アレクシスは、これがあれば何でもできると確信している。事実そうで、間違いではない。
だが、同時に生命を狙われる理由にもなる。そして、この世界における生命の値段は、かなり安価。
簡単に殺され、簡単に奪われる。
エルマは狭い後席を嫌い、父親に許しを申し出た。
「あっちのクルマに乗っていい?」
父親は、ゲレンデヴァーゲンと比べると貧相な小型四駆車に娘が乗ることを許す。
彩華は健吾が心配だった。出発の前にもう一度確認する。
「1人で、本当に大丈夫?」
「あぁ、俺1人のほうがいい。
ホルテレンまでは何度も行っているし、おそらく、そこまでが行程の半分。
人界に立ち入るつもりはないが、人界を見ておきたい。ホルテレンの商人たちが語るような、蒸気の国がひどい場所か、確認しておきたい」
「社会の授業で、四日市の公害のことを習ったけど……」
「そんなレベルじゃないようだ。
30歳まで生きているヒトは珍しいとか。
煤煙と水質汚染で、長く生きられないそうだが……」
「できれば、姉弟を連れ帰って。
無理なら、エルマだけでもいいから」
「わかっている。
あの父ちゃんじゃ、長くは生きられないからね」
彩華は、ワルサーP1自動拳銃と増量弾倉に改造した半自動猟銃を健吾に渡す。
「拳銃は、身体から離さないで。
寝るときも、いつでも」
健吾が頷く。
健吾が先行し、アレクシスが後続するが、健吾車との差が簡単に開いてしまう。健吾の運転技量が高いことと、重量1トン強と軽量な車体にボルトオンターボ付き排気量1460ccのK15Bエンジンがパワフルであることから、1988ccディーゼルで2トンを超える車体を引っ張るゲレンデヴァーゲンでは、機動力が違いすぎるのだ。
ゲレンデヴァーゲンは、V8ツインターボではなかったから長距離移動ができたのだが、航続性能を満足する代償としてエンジンが非力だった。
アレクシスはクルマに詳しくないらしく、この高級5ドア4WDを破格の値で購入したらしい。
「どうして止まっているの?」
エルマの問いに健吾が下手な英語で答える。
「エルマのパパを待っている」
「ふ~ん」
エルマは後方を振り返りもしない。
ホルテレンまでは10日。夜は川や池などの水辺でキャンプした。
アレクシスは立派なテントを持っているが、展張に時間がかかる。
対して、健吾はルーフキャリア最後部に取り付けたタープを引き出すだけで、展張できた。
夏なので暖房は不要だが、それでも明け方は冷える。エルマは暖かい車中泊がお気に入りで、父親のクルマに近付く様子を見せない。
エルマは双子の弟を気にする様子をたびたび見せるのだが、弟は父親から離れようとはしない。
彼の目は明らかにエルマを非難している。
姉弟の間には見えない壁があり、どの方向から見ても仲がいいとは思えない。
ホルテレンまで1日の距離に迫った夜、理由をエルマが教えてくれた。
「ママとパパは、別々に住んでいたの。私はママと、弟はパパと……。
ママが病気になって、死んじゃって、私はパパと住むことになっちゃった。
パパと弟は、私のことが嫌いみたいだった。パパは私がママに似ているから嫌いだって。弟はママに捨てられたと思っているみたい……。
ママが私を選んだから怨んでいるみたい。ママと私を……」
真夏だが、陽が沈み、だいぶたつと寒いと感じる夜だった。
健吾が残り少ない生姜湯をエルマに入れてあげると、エルマが微笑む。
「アヤがママになってくれるって!」
彩華がそう言ったのだろう。彩華の性格から、エルマを見放したりはしない。エルマを連れ帰らなければ、健吾は彩華に殺されかねない。
久々に日本語で呟く。
「ようやく二十歳〈はたち〉で、3人の子持ちかよ。
楽な人生じゃなさそうだな」
健吾はホルテレンで、知古に人界のことを尋ね歩いた。情報は錯綜しているが、共通点もあった。
「陸路ではヒトの国に入れない。
入れはするが、生きて出られるか?
海路で羊の国に向かうべきだ」
誰からもそう説明された。ヒトの国は閉鎖的で、騒乱が多く、治安は最悪。国と呼べる地域は12あるが、それ以外にも豪族や野盗などの勢力によって独立状態にある地域が無数にある。
群雄割拠の人界にあって、ウールランドは国土が広く、強力な軍を有し、治安がよく、政治が安定しているとされる。
「王は入れ札で決まるらしい」
この証言は選挙のことではないかと、思わせた。
羊毛を産することからウールランドと呼ばれているが、石油を含む地下資源に恵まれている。
健吾が運転するジムニーのガソリンも、ウールランドで製造されている。
アレクシスは、2億年後の言葉をまったく解しない。ヒトの言葉も2億年前とは異なる。
健吾はヒトの言葉を少しは解するが、エルフの言葉ほどはわからない。
ヒトの商人の多くは、エルフとドワーフの言葉に精通している。
だから、コミュニケーションは可能。
ヒトも、エルフも、ドワーフも、商人は例外なく、ウールランド以外には「行かないほうがいい」と忠告する。
こういった情報は、アレクシスに説明するが、彼は健吾の説明を受け入れる意志がなかった。
彼は英語が堪能で、人界に行けば言葉が通じると信じ切っている。クルナ村には英語が通じるヒトが複数いるし、そう彼が信じる根拠はある。
だが、人界のヒトのルーツはよくわかっていない。ただ、数万年前の移住者の子孫ではない。
国や地域によってばらつきや例外があるようだが、数千年前から数百年前に移住したヒトが基幹となったようだ。
少なくとも数万年前の移住者は、パンゲア・ウルティマの北東部には定住しなかった。あるいは、できなかった。
健吾は、彼が知る限りの情報をアレクシスに説明した。
この旅の前から。
だが、アレクシスは真剣に耳を傾けようとはしなかった。また、健吾もことさら信じてもらおうとは努力しなかった。
信じないことも判断の1つであり、信じて行動を間違うこともあるのだから。
ウールランドの商船は蒸気タービンが機関で、ボイラーは重油専焼缶。スチームランドの商船は蒸気レシプロで、コークスを焚いて蒸気を得ている。
入手しやすい燃料を利用しているだけとすれば、その通りではあるが、工業技術ではウールランドのほうがやや優れているように、健吾は感じていた。
しかし、ウールランドの社会・政治体制については、入れ札で王が決まること以外、多くはわかっていない。
スチームランドについては、エルフの領域の南側に隣接している以外のことは何もわからない。
健吾はアレクシスにウールランド行きを薦める。
「少しは治安がいいらしい。
ヒツジがたくさんいて、羊肉料理がうまいそうだ」
アレクシスは拒否する。
「ヒトよりもヒツジが多いような田舎は好かないね。
都会がいい。
スチームランドはたくさんの家が建ち並んでいるそうじゃないか。
そこがいい」
健吾は何も言わず、アレクシスの希望を受け入れた。彼は、一度言い出したら他者の意見を受け入れない。
健吾にはアレクシスを説得する意志が一切ない。アレクシスの希望に沿うつもりだった。
それと、健吾は人界をレンズ越しでいいから自分の肉眼で見ておきたかった。
健吾は、エルマに迷いがあることを理解している。父親が彼女のことを考えるなら、父親と行動を共にしたいと思っている。
しかし、彼女に対する関心は低い。彼女は父親を頼りたいが、父親には彼女への関心が低く、そのことに彼女は気付いている。
状況によっては、身体的暴力よりも無関心のほうが子供を傷付けるが、エルマは十分すぎるほど傷付いていた。
道はホルテレンまでは悪くはなかったし、同街以南も走りやすかった。
南下を始めて15日目。
ついに大河に行き当たる。
大河に行き当たる付近には轍はあるが、それを道と呼んでいいかは微妙な状態にまでなっていた。
この橋のない大河を渡り、15キロ南下するともう1本の大河の北岸に達する。
このことは、健吾は事前に知っていた。
「この川を渡る。
中州が見えるか?
中州に轍があるだろ。
轍と轍の間が渡渉点だ。
まず、俺が渡る。中州に着いたら、あんたが渡ってこい。
中州伝いに渡っていく。
対岸に着いたら、いったん南下し、別の川に行き当たったら、西に30キロくらい移動する。
そこに渡渉点がある」
健吾は川の流れに逆らわず、要領よく渡渉していく。
アレクシスは運転自体が下手で、何度もスタックしかけるが、川底が小石と砂であることからどうにか渡ってきた。
次の中州から中州への渡渉も、どうにか追及してきた。
3回目の渡渉は5メートルほどと短く、簡単に渡った。
4回目は、流れの幅が広く速いが浅い。健吾は簡単に渡ったが、アレクシスは流れの真ん中でスタックしかける。
健吾には助けるつもりがない。クルマが流されれば、それで終わり。スタックしても、脱出を手助けする義理はない。
悪運が強いのか、彼が信じる神の加護かはわからないが、今回もどうにか渡渉してきた。
これで、エルフとヒトのテリトリーを分ける大河を渡った。
明らかに人工の傾斜路を上り、河岸段丘を越え、轍を追って南下する。
草丈があるヨシかススキのような植物の回廊を30分ほど進む。
エルマが鼻をつまむ。
「臭いよぅ~」
耐えられない臭いに、健吾も吐き気を感じる。
かなりの川幅がある河川に沿って、西に走る。上流に向かって、2時間弱走ると、ようやく臭いを感じなくなる。
悪臭が減じたのだろうが、ある意味、慣れたのだ。
4頭立てと6頭立ての馬車が渡渉点で待機している。蒸気機関の大型トラクターが1編成。
エルフではなく、ヒトだ。
彼らは口と鼻を布で覆っている。この地点でも、十分に臭い。
アレクシスは呆然としている。
健吾が促す。
「順番だ。
蒸気トレーラーの次があんただ。
対岸があんたが行きたい場所だ」
アレクシスは口にハンカチを当て、気分が悪そうだ。
この地点でも、魚の死骸がゆっくりと流れていく。水は黒く濁り、ガスなのか川面に泡が出ている。
油も浮いている。
大気汚染もひどい。遠望したスチームランドの街の上空は、黒煙が覆っていた。
川の上空は黒くないが、青空でもない。明らかにスモッグだ。
アレクシスがエルマを促す。
「行くぞ」
エルマがジムニーの車内に戻ってしまった。
「イヤらしいな。
当然だ。あんな場所に行きたいのは、あんたくらいだ」
アレクシスが健吾を蔑みの目で見る。
「おまえたちは、デミ・ヒューマンと一緒に生きていけばいい。どうせ、アジアの下等人種なんだから」
アレクシスがジムニーに近付き、助手席のドアに手をかける。エルマを引っ張り出そうと考えたのだろうが、娘の対抗は素早かった。
ドアをロックしたのだ。
健吾は日本の同年齢と比較しても小柄で、ゲルマン系で高身長のアレクシスとは明確な体格差があった。
健吾は運転席側のドアをキーで開けて乗り込み、エルマに問う。
「アヤのところに戻るか?」
父親に怯えたエルマが泣きながら頷く。
しばらくの間、ジムニーをゲレンデヴァーゲンが追ってきたが、アレクシスの運転技量では健吾に追い付けるはずはなく、10分かからずに姿を見なくなる。
エルマが揺れる車内で呟く。
「あんな街に行ったら、死んじゃうよ」
健吾は答えなかったが、スチームランドでは30歳前後での死亡が多いと聞いていた。
大気と水の汚染は何百年も続いており、乳幼児の死亡率はとんでもなく高いらしい。
エルマの話題は、パン屋の開業に集中している。パン屋の開業は、確かに話題としては存在している。
だが、具体性はない。
クルナ村のパンは非常に固く、歯を悪くした老人には食べにくい。パン焼き器で作るパンは非常に柔らかく、老人食として歓迎されていた。
実際、求められれば焼いてきた。多くは無料だが、代金を払ってくれる例も多々あった。
モンテス少佐の診療所と無関係でなく、村の意向は「病人、老人向けのパンを売る店を営んでほしい」とのことだった。
耕介とフィオラはコムギとヒマワリの栽培で手一杯。亜子やシルカは灯火油と食用油の輸送で手一杯。心美とレスティは近隣への小口輸送が大盛況。
リズとフリッツは、モンテス少佐とともに診療所で働いている。
パン屋を営むとすれば彩華なのだが、彼女は健吾ほどの料理自慢ではなく、少し腰が引けている。
大乗り気なのがエルマだ。幼い女の子の願望かもしれないが、彼女は幼いながらも現実を理解している。
健吾がエルマに説明する。
「パン焼き器だけでは、お店は開けないよ」
「パン焼き窯を作ればいいんだよ。
ケンならすぐに作れるでしょ」
「でも、村のみんなは柔らかいパンがほしいんだよ」
「考えたんだけど」
「うん?」
「ナンって知ってる?」
「知ってるよ。南アジアや中央アジアのパンでしょ」
「タンドール窯で焼くんだ」
健吾はエルマが彼女なりに真剣に考えていることを理解していたが、具体的な提案は初めてだった。
「ナンか?
よく知っているね」
「うん。
ママのお友達の家で食べたんだ。
ケンはどんなパンがいい?」
「クルミパン。
ハチミツパン。
クリームパンに小倉あんパン。うぐいすパンに白あんパン。焼きそばパンにスパゲティパン。コロッケパンに照り焼きサンド。
ハンバーガーも食べたいね」
「うゎ~。
フライドポテトもあったほうがいいよね」
「ポテトもいかがですか?」
「ポテトモイカ……」
2人で大笑いする。
健吾は、エルマが提示したナンはいいアイデアだと思った。
また、量的要求を満たすなら当初はコッペパンだけにして、ジャムやコロッケを挟むことで商品の多様化を図る方法もあると考えた。
帰路に要した25日間、エルマのパン屋さん構想は具体性を帯びていた。
健吾はパン焼き窯とタンドール窯の設計をさせられ、メニューも考えさせられていた。
クルナ村名産のひまわり油を使ったドーナツにエルマが大興奮する。
エルフの社会には甘味が少なく、砂糖は存在せず、ハチミツだけ。そのハチミツは金と重量で等価という高額商品。
甘味を確保するため、健吾がオオムギ麦芽から麦芽糖を作っている。村民の一部が知っており、水飴として譲渡されていた。
水飴の噂は徐々に広まっており、秘密は秘密ではなくなり始めていた。
耕介、亜子、シルカの3人は、ナナリコが見たというユニック車を探したが見つけることができなかった。
だが、荷台に軽トラパネルバンを積んだ、クレーン付きクローラーダンプを見つけた。
北東450キロという、過去に遠征したことがない地域だった。持ち主は、荷台の軽トラ内で生活していたようだ。
クローラートラックのキャビンは開放型で、この地域の気候では真夏でも夜間は寒さを感じる。
それと、軽トラは2億年後にやって来てから見つけた可能性が高い。見つけた時点において不動状態で、クローラーダンプの荷台に乗せてキャビンとして使っていた。
燃料切れで、遺棄されたことは確実。耕介は、10年から15年前の遺棄と推測する。
修理に4日を要したが、3人はこの奇怪な乗り物を持ち帰った。
新しい診療所は、いままでの物置小屋と比べたらはるかに立派な建物だった。
屋根はエルフの建築では見られない、樹皮を使った葺き方で、床は川石を敷き詰めたあとにコンクリートを流し込んだ。
これらの施工は、ナナリコが行った。大工の家で育った彼女は建築家で、放置されていた家を見事にリフォームした。
健吾とエルマが戻ると、あと数日で診療所が開業するという段階になっていた。
ナナリコが「次はパン屋さんだね」とエルマに告げると、彼女は飛び跳ねて喜んだ。
診療所開業の数日前、飯屋の女将さんからとんでもない話を亜子が聞いてきた。
日没の直前だった。
「この地域では、家を建てると災いから守るために近所の村民を招いて、宴会するんだって!」
シルカがフッと息を吐く。
「そうだった。そんな習慣があった」
彩華が異論を唱える。
「新築じゃないよ。
ただのリフォーム」
亜子も女将さんにそう言ったのだが、彼女から「あそこまで変えてしまったら、新築と同じでしょ!」と即座に反論された。
そして、付け加える。
「新築祭なんて久しぶりだから、みんなが楽しみにしているのよ!」
健吾がナナリコに通訳すると、彼女が微笑んだ。
「地鎮祭や上棟式みたいなものかもね」
それで、2億年前の日本にも似た習慣があったことを思い出す。
健吾が「明日、どうすればいいのか、聞いてくるよ。土地の習慣には従ったほうがいい」と告げた。
「宗教的な感じじゃないね。
少佐が火災と水害に遭いませんようにと願えばいいだけ。
その後は宴会で、食べるものがつきるまで、客をもてなす。
それを14時頃から日没後まで続けないといけない。日没までに食べ物・飲み物がつきたらいけないそうだ」
健吾が息を吐く。そして続ける。
「女将さんだが、酒を大量に仕入れたんだ。
新築祭用に。
で、なかなか注文がないので、亜子に注文を急かせたわけだ。
料理の注文も受け付けるそうだ」
新築祭という、ただ飯、ただ酒の宴会は大盛況となった。
開宴から日没のお開きまで居座った村役は4人。村の子供たちも大勢やって来た。
飯屋の女将の主導で料理と酒が用意されたのだが、健吾はエルマの発案であるナンを用意する。
受け入れられるか否かの判断のためでもあった。
また、料理が足りなくなると縁起が悪いらしく、その場で作れる料理として、野菜天の材料を用意する。
10枚用意したナンは、瞬く間になくなった。野菜天も大盛況で、どれだけ揚げても、需要の速度に追い付けない。
この大宴会を境に、シルカとともに生活するヒトのグループは、外来者から明確に村民として認知されていった。
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