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2巻

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   プロローグ 拝啓、お姉さま 


 前世のお姉さまへ。
 夢の中で、僕は姉さんにお手紙を書いているところです。
 貴女に言いたいことが山ほどあるから、手紙を書く夢なんて見るのかもしれません。
 今の僕を見たら、きっと姉さんは腰を抜かすほど、驚くでしょうね。
 だって、僕は今、姉さんが描いたBL漫画『イケメンたちが(激)重すぎる』の世界にいるのですから。
 さらに珍妙なことに、僕は漫画の主人公であるフラン・アイリッシュに転生したのです。
 フラン――僕は、貴女が考えた設定そのままでした。
 聖女級の治癒能力を持つ、色欲をそそる絶世の美青年。総受け設定なんかにされたので、本当に困りました。
 だから僕は考えたのです。
 悪役令息のサモンを味方につけようって。最凶悪役の腰巾着になって、総受けフラグを折っちゃおうって。
 結果、サモンの悪役フラグも折れて、僕の計画は上手くいきました。
 一つ予定外だったことは、僕がサモンに恋をしてしまったことです。
 色々ありましたが、サモンも僕が好きだと分かって、今は両想いです。結婚間際なんですよ。
 ですが、彼にはこんな設定がありましたか? それともこれは僕が彼を選んだ新たなルートだから──?


 意識がふわっと浮上して、夢はそこで途切れた。
 しわだらけのシーツの上に突っ伏していると、サモンからの甘い口付けが、僕の背中に何度も降ってくる。彼は時折肌に吸いつき、そして労わるように肌に舌を這わす。
 きっと僕の背中には、赤い痕がびっしり付いているだろう。

「ぜ……っ、絶倫……だ」

 執着するほど愛されているのはいいけれど、僕は既に何度も果てていた。
 なのに、身体を弄るサモンの手は情事後とは思えないほど熱を持っている。
 与えられる淡い快感に息を吐きながら、僕は背後を振り向いた。漆黒の髪の毛が僕の頬をくすぐり、そして髪と同じ色の瞳には僕が映っている。

「フラン」
「サモンく、んっも、んっ……っ」

 もう止めよう、という言葉は彼の唇に塞がれる。息継ぎの間も舌が絡みついて、上手く伝えられない。深まるキスの中、体内に入ったままのサモンの熱が嵩を増す。
 首を小さく左右に振ると、ようやく彼は唇を離した。

「全然足りない。フランが足りない」
「っ」

 彼は瞳に欲望をたぎらせている。その怪しさに魅了されて、僕は動けなくなってしまった。
 息を呑んでいたら、サモンはさらに奥へと腰を進めてくる。果てた後は、より一層敏感に刺激を拾ってしまうので辛い。
 快感から逃れようと僕は腰を引いた。けれど、すぐに彼の方へと引き寄せられて、強く抱き締められる。

「んぁっ、まって、あ……っ、まだ……」
「待たない」

 理性も何もかも捨てて早く自分に染まってしまえと言わんばかりに、サモンは的確に僕の中の気持ちいい箇所を穿つ。

「はっあっ、あっ、んあ」

 揺らされるたび、先走りが性器から零れて、シーツを濡らす。
 どうしようもない快感に理性が溶かされていく。もう僕の口からは喘ぎ声しか出ていない。
 だけど──やっぱり、フィアンセの性欲が強すぎるよ! BL漫画のキャラだから⁉

「ひっ、ん……んぁあ⁉」

 僕が今、姉のBL漫画のタイトルを考えるなら、『BL漫画の主人公に転生したら、婚約者が絶倫すぎる⁉』だ──!



   第一章 プリマリア商会の展望


「貴方しか目に入らない」


 煌びやかな豪邸の一室で、立食形式の晩餐会が催されていた。
 シャンデリアがきらきらと光を反射し、より一層その場に華やかさをもたらしている。
 男性は見栄と胸を張り、女性は贅を尽くし着飾ることで武装する。
 だけど、僕はそんなことをする必要はない。ただそこにいるだけで、人の目を引き、微笑むだけで相手を魅了する。
 それが僕──フラン・アイリッシュの設定だからだ。
 初めて僕の美貌を目にした男は、口を開けて間抜け面をする。そして頬を染め、恍惚とした様子で僕の容姿を褒め称えるのだ。

〝貴方しか見えない〟

 この口説くどき文句も何度言われただろう。
 聞き慣れた言葉だというのに、耳に入った途端、僕は──思わず足を挫いた。
 段差もないフロアでふらついてしまったけど、大恥をかくことはなかった。耳元でそれを囁いた男が僕の腰を支えたからだ。
 強い輝きを持つ漆黒の瞳に見つめられて、僕は自分の顔に熱が籠るのを感じた。
 どっどっど、と胸が波打つ。

「急に何を言うんだい⁉ サモン君⁉」

 動揺している僕とは違い、サモンは眉一つ動かさない。
 この男は平然としているけれど、僕の耳元で低く耳あたりのよい声で甘い言葉を囁いたのだ。腰砕けになるところだった。

「何を驚いている?」
「何をって⁉ 君は今、僕を口説くどいたじゃないか!」
口説くどいた? いつ?」
「時と場合を……え?」

 サモンは、赤面している僕を見て、怪訝そうな表情をしている。とぼけているわけではなさそうで、僕の意識は一瞬宙を舞った。
 え? 口説くどいていない? 
 僕の勘違い──否! 高まる鼓動は口説くどかれたことを証明している。
〝貴方しか見えない〟は、間違いなく口説くどき文句だ。
 なのに、この男は「油断するなフラン。周囲の目が多い時に、そんな表情をするな」と注意し始めるから、ますます意味が分からない。
 理不尽に思えて、僕はサモンを弱々しく睨んだ。

「僕が赤くなるのは、君のせいじゃないか」
「……ほう」

 ほう、とはなんだと僕が口を尖らせた途端、サモンは僕の手を引いて、好奇の目から隠すように別室へと移動した。
 色欲、所有欲、嫉妬に僻み……人が僕に向ける視線には激情や欲が孕まれているから、衆人環視の中では注意を払わなくてはいけない。
 そうと分かっているのに、サモンから不意打ちを食らった。

「ここで休め」

 サモンに連れて来られた奥の広間には、客用の椅子が数脚と木製の衝立ついたてが設けられている。
 この部屋だけががらんとして、静寂に包まれていた。
 誰もいないことを確認した後、僕はふぅっと小さく息を吐き、椅子に近づいた。腰を下ろそうとして何気なく背後を振り返り──悲鳴を上げた。

「ひぇええっ⁉」

 ぎょろりとした茶色い瞳が僕を睨んでいたのだ。
 誰もいないと油断していた僕は、すっかり社交用の顔が剥がれて、ひぃひぃ言いながら、慌ててサモンの後ろに隠れる。

「ササ……サモン君っ!」
「あぁ、道理で人気ひとけがないと思った」

 怯える僕とは違い、サモンは何一つ驚いた様子はない。彼が平坦な声で大丈夫だと言うので、恐る恐る顔を出した。

「……なんだ、絵か」

 なんてことはない。茶色の瞳の正体は、男の人物画だった。
 背後の壁には、サモンの身長ほどの大きな人物画が飾られていたのだ。
 絵の男は、深緑のローブを身に纏い、黒い宝石のついたブローチを握り締めるように持っている。絵の具が何重にも重ねられ、緻密に描かれた油絵は、絵と分かっていても血が通っているような生々しさだ。
 何より、睨んでいるかのような茶色の瞳に怖気立つ。彫りの深い顔立ちをしていて、目が落ち窪んでいるからだろうか。
 それにしても、どこにいても視線が合う……

「ただの絵だ」
「うん……でも、なんだろう。憂いを帯びた男の表情が物淋しいね」

 物言わぬ絵だけれど、何かを訴えているような気がして、胸がざわつく。
 謎めいた魅力を感じて人物画に見入っていると、サモンが身体から一気に黒いもやを放出した。

「え、何⁉」

 僕が驚いた声を上げたのと同時に、黒いもやが人物画を覆う。

「これで気にならないだろう」
「……」

 もしかして、彼は気を利かせて、人物画の視線から僕を隠してくれたのだろうか。時折、優しさが斜め上からやってくる……

「時間は限られている。会場に戻った時のために情報を確認しておこう」
「……うん」

 仕事人間サモンは、僅かな時間でも情報共有にあてる。必要事項を淡々と話す彼は無表情だ。甘い雰囲気は一切ない。
 やはり先ほどは〝口説くどいて〟いなかったのかも。僕の考えすぎか。
 恋にうつつを抜かしている場合じゃない、と彼の話に集中した。


 社交場に戻ってきた僕らは、従者から白ワインを受け取り、人だかりに突入する頃合いを見計う。
 なにげなくグラスに顔を寄せたら、芳醇な匂いが漂ってきた。誘われるようにワインを口に含むと、上質な甘味が口の中に広がる。
 最上級のワインで違いない。このワイン一つで、招待客はいい晩餐会に招かれたと思うだろう。
 晩餐会の主宰者は間違いなくやり手。
 僕はフロアの真ん中にできた人だかりを見やる。男性も女性も主宰者に興味津々だ。
 名だたる貴族が招待されているというのに、場の雰囲気は緊張よりも賑やかさが強い。もてなしがいいため、会話が弾んでいる証拠だ。
 人だかりの中心にいた主宰者が、僕の視線に気が付いた。
 茶髪で精悍な面立ち、彫りの深い目許──ブラウド・ドリアス。
 ブラウドの微笑みは甘い色気を纏い、女性の視線は彼にひっきりなしに注がれている。彼は熱視線を当たり前のように受け止めながら、堂々とした様子で僕とサモンがいる壁際へと向かって来た。
 目の前に立ったブラウドは、藍色の生地に金糸の刺繍が施された立て襟の上着を着用している。服を着ていても恵まれた体躯をしているのが一目瞭然だ。

「やぁ、麗しのプリマリア卿。壁の花があまりに美しいから、みんなの視線が壁を向いてしまうじゃないか。僕がいる中央においで──フラン」
「閣下自らお誘いいただけるとは、光栄です」

 顔に営業スマイルを引っ付けて答える。
 目線の送り方、微笑み方、断り方、腐男子アーモン監修の下、起業前に練習したのだ。
『駄目です、あざとい!』『色っぽくしすぎず、流し目でクールなイメージを持たせてください』と注文が多く、なかなかに厳しかった。
 だからこそ、嫌な相手ブラウドにも頬を引きつらせることなく、愛想よくできる。
 そんなもので物事が順調に運ぶならばお安いものではないか。
 微笑を貼り付けた僕にブラウドは腕を差し出した。彼は爽やかに白い歯を見せて、「さぁ、僕の手をお取りください」なんて気障な仕草で軽くお辞儀までする。
 甘いマスクのたらしは、学園卒業後も健在だ。
 だけどサモンが先回りして、僕の腰に手を添えた。

「ありがとうございます。しかし彼のエスコートは、婚約者である私がいたしますので」

 サモンを見た途端、ブラウドは苦虫を噛み潰したような表情になる。それもそのはず、彼はサモンに《勃起不全インポになる呪い》を何か月もかけられたのだから。
 あの時のブラウドは、「フランの桃尻や太腿を見ても勃起しないなんて、男として有り得ない。終わった……」と生気を失った目をして過ごしていた。
 この男は基本的に爽やかなのに、どうして僕を見ると、桃尻だのなんだのとセクハラ発言をするのか。
 だけどその残念さのおかげで、僕も彼を哀れに思うことはなかった。
 勃起不全インポの呪いは期間限定だったから、学園を卒業した今はもう解けているはずだ。
 その後、彼の身体がどうなったのかは知らないし、興味もない。

「……サモン・レイティアス」

 ブラウドの茶色の瞳は怨みを宿していたけれど、面の皮が厚い彼はすぐに笑顔を取り繕った。

「──全身闇色だから、フランの影かと思った。おっと、失礼」
「謝罪は必要ありません。影のようにフランの傍におりますので」
「ふん、言うようになったじゃないか。フランのは態度がでかい」
「閣下ほどではございませんよ」

 両者の間で火花が飛び交っている。
 だけど、社交の場での争いは、双方にとって利点はない。
 そんな時間はもったいないと、二人は早々に視線を外し、険悪な空気は尾を引かなかった。
 ブラウドは話を戻すように僕を見る。

「癪だが、君たちの商会は大きくなりそうだから、僕も一枚噛みたいね」
「協賛していただけるならば、喜んで」
「じゃあ、先に恩を売っておこう。おいで、紹介しよう」

 ブラウドに連れられて、僕たちは名だたる貴族が集まるフロアの真ん中に向かう。
 かつてはあえて人の輪を避け続けていた僕だ。
 人前に出るのは最も苦手だった。
 だけど、ポーションを製造・販売するプリマリア商会を立ち上げたからには、そうは言っていられない。

「はじめまして、宰相閣下」 

 白髪交じりの中年男性の前に立ち、僕は名乗った後丁寧にお辞儀をした。
 彼のことは既にサモンから情報を得ている。
 真面目で勤勉な性格だから人望がある。倹約家だと伺っているけれど、価値のある物には金に糸目をつけないそうだ。
 こういう見識を備えた人物にこそ、僕たちのポーションを認めてもらいたい。

「少しお時間をいただきたく存じます」

 僕が宰相に微笑みかけると、彼は目を見開き──僕の容姿に釘付けになる。
 この瞬間からはもう、僕の時間チートだ。
 ここぞとばかりに商会を売り込むためのね。
 そうはいっても僕の容姿に見惚れ、曖昧に頷いているだけの場合もあるだろうけど。

「誰もが常備薬といえば思い浮かべる薬──そうなることが我がプリマリア商会の目標です」

 プリマリアの商会を思い出す時に浮かぶのが、薬じゃなくて僕の美貌だって構わない。
 新参者が市場で戦うには、強い印象を残すことが重要だ。
 フォローは優秀な相方サモンがしてくれると絶対的な信頼を寄せているため、僕は大胆に振舞える。
 サモンは雄弁を振るうわけではないけれど、相手が求める情報を引き出し、会話を誘導することが抜群に上手い。広範な知識を持つ彼の言葉は強い説得力を持つ。
 サモンがいれば、向かうところ敵なしだ。
 とはいえ──根が陰キャの僕には、タイムリミットがある。
 学生時代はずっと、サモンという盾に隠れて視線から逃げていた。
 それが急に変われるわけではなく、頑張れる時間が非常に短いのだ。
 何が苦手かというと、様々な思惑のねっとりとした視線だ。身体に纏わりつき、気分が悪くなる。
 隣にいる中年男性が僕の尻にばかり視線を向けているのに、少し前から気付いていた。
 社交用の顔はハリボテだから、もう剥がれちゃいそう……

「フラン」

 僕のことを絶妙に分かっているサモンは、先に馬車に戻っていろと声をかけてくれた。
 助け舟にありがたく乗って、シンデレラ並みの駆け足で人の目から離れた。
 ドリアス家の使用人に帰ることを伝えると、彼らは丁寧な仕草で大きな玄関を開けてくれる。
 外にはよく手入れされた芝生に、水が滝のように落ちている噴水、馬の石像、優美さを誇る庭園が広がっていた。
 けれど壮麗なそれらよりも、僕の視線は上に向いた。
 空には幾万の星が輝いていたのだ。
 どこまでも澄み切った漆黒の夜空はサモンの持つ色みたいだ。
 夜空に見惚れていたら、後ろから「こんばんは」と声をかけられる。
 振り向くと、やたらと高くとんがった鼻の青年が帽子を取って挨拶をした。

「はじめまして、プリマリア卿。あまりのお美しさに不躾にもお声がけしてしまいました」

 男は自らをウェスハムと名乗った。南に位置する辺境の地の領主だそう。
 知らない名だと思いながら軽く会釈をすると、ウェスハムの目が欲望のたぎるギラギラしたものになる。
 うげ。はっきり言ってきもい。
 こういう男にはまず、自分にはサモンという結婚間際の婚約者がいることを伝えて牽制していた。

「サモン・レイティアス? レイティアスの者が婚約者?」
「えぇ」

 ウェスハムの表情にあからさまな落胆が浮かぶ。
 レイティアス──その大貴族の名を出せば、大抵の者は僕から手を引くのだ。
 レイティアス一族の歴史は古い。
 銀行の仕組みを取り入れ、現在の経済にも大きな影響を与えている。ルーカ王国のみならず諸外国の金融機関にもレイティアスの息がかかっている。
 王族だっておいそれと手出しはできない。敵に回すにはあまりにも一族の力が強大なのだ。
 ──サモン・レイティアスに気に入られたから、今の僕がある。
 そうでなければ、今頃、複数の男たちに翻弄される淫靡な暮らしが待っていただろう。
 さながら、寵愛を受けるだけの愛玩人形。
 迫ってくる男キャラたちはみんな強引だったから、自分の夢など持てず、領地は弟に任せることになったに違いない。
 こうして、僕が自分らしくいられるのは、意志を尊重し同じ方向を向いてくれるサモンのおかげだ。
 サモンという稀有な存在を脳裏に浮かべながら、ウェスハムに微笑みかける。

「今日も、共に来ておりました。私の傍にいた男性です」
「──えっ、まさか、先ほどまで貴方の隣に我が物顔で立っていた男ですか⁉ あの男は闇色ではありませんか⁉ 気は確かですか、なんておぞましい」

 ウェスハムは、いぶかしげに口を曲げ、黒髪・黒目というだけでアレルギーでもあるのか、肌を掻き始めた。

「あぁ、闇の者の名を呼んでしまった。今すぐ別れた方がいい。今に貴方の身にも災いが降りかかりますよ!」
「……随分、失礼ではありませんか」

 差別を含んだ言動に、僕は愛想笑いを止めて、視線をきつくする。
 黒髪・黒目は膨大な魔力を持つことから、悪魔のようだと忌み嫌われている。
 だけど、レイティアス一族に黒髪・黒目がいることは貴族内では周知のことだ。
 王都で開かれるパーティーで、こんなに不躾に差別を表に出す失礼極まりない人間は、あまり見かけない。
 無礼者に嫌味の一つも言ってやろうとした時だ。
 絶妙なタイミングで、背後からサモンが僕に声をかけてきた。

「フラン、待たせたな」
「──サモン君!」

 サモンは、僕をやや後ろに下がらせた。

「失礼。ウェスハム卿、私の婚約者がどうかしましたか?」

 ウェスハムは急に目の前に現れた黒色を見て、顔を青ざめさせる。

「ひっ、わ……私の名を?」
「えぇ、存じ上げております」

 晩餐会の出席者全員の名をサモンは頭に入れている。
 すると、ウェスハムは口元をわなわなと震えさせ「呼ぶな! この悪魔め、汚らわしい!」と叫び、駆け足でその場を去って行った。

「──はぁあ⁉」

 吐き捨てられた罵声に、思わず地団太を踏む。

「僕のサモン君になんてことを言うんだ! 無礼千万!」
「フラン、まだ敷地内だ。気を抜くな」
「……っ」

 今ウェスハムに怒るべきなのはサモンの方なのに、その表情は微動だにしない。
 僕は頬を膨らませ、サモンを見た。彼は溜め息混じりで注意を続ける。

「よせ。外でその顔をするな」
「……」

 表情を変えないままでいると、サモンの腕が僕の肩に伸び、彼の方へ引き寄せられた。
 僕を周囲の視線から隠してくれたのだと分かる。
 彼の悪い癖だ。自分のことより僕のことばかり優先するのはどうしたものか。
 サモンがそうなるように仕込んでしまった自分自身に溜め息を吐き、彼と共に馬車に乗り込んだ。
 御者の声がして、馬車はゆっくりと動き始め、ブラウド邸を後にする。


   ◇


 アイリッシュ家に到着したら、家族も使用人も既に寝静まっていた。
 すっかり日付を跨いでしまったが、僕はすっきりするために風呂場に向かう。
 クリーン魔法を使えば身体は綺麗にできるけれど、前世の日本人の記憶も相まって、僕は無類のお風呂好きだ。
 苦手な大衆の目もいやらしい目にも耐えたのだ。
 疲れた時こそ風呂に入らねば。
 僕は服を脱ぎ、浴室に入った。アイリッシュ家の風呂は、爵位を受け継いだ時に僕の希望で増改築した。埋め込み式の浴槽を床より低い位置に設けている。
 元は一人用だった浴槽は、今では余裕で三人は入ることが可能なほど大きい。
 浴槽に水を張った後は、指で魔法陣を描き、炎の魔法詠唱をする。
 魔法は匙加減を覚えればとても便利なものだ。今の僕は自分の最適温度に湯沸かしするなんてお茶の子さいさい。
 それから、ポーションを一滴ぽちょんと垂らせば完璧。万能湯の完成だ。
 この用法を思いついた僕は天才かも。
 湯に肩まで浸かって心地よさを味わっていると、曇りガラスのドアがノックもなく開いて、ぎゃっと悲鳴を上げる。
 開けたのはサモンだった。

「サモン君! なぜ君が⁉」

 大袈裟に反応すると、サモンが怪訝そうに僕を見る。

「なぜって、なぜ?」
「い、いや。なんでもないよ……。お湯にポーションを垂らしたから、疲れが取れるよ。君もお入りよ」

 仕事人間のサモンは日常の動作を魔法で時短したがるので、軽く水浴びはしても風呂に入ることは珍しい。
 裸など見慣れているのに妙に緊張してしまう。
 最後に一緒に風呂に入ったのは、学生の頃だったからかな。
 サモンはデスクワーカーだけど、魔法は体力もいるから日々鍛錬を欠かさない。その体躯に無駄な贅肉は一切なく、均等に筋肉が付いている。
 サモンが身体を洗い終えるまで食い入るように見惚れていたので、彼が振り向くと視線が合う。気恥ずかしさに思わず視線が泳いでしまった。
 サモンは浴槽に入りながら、「なんだ?」と疑問を口にする。

「ううん、なんでもない」
「そうか」
「うん……」

 贔屓目抜きで、サモンは精悍な面立ちをしている。されど彼は、愛想笑いこそすれど、表情は乏しい。
 いつも無表情だから、怒っている、怖い、という先入観を他人に与えてしまうのだろう。
 ──それでも、ウェスハムの態度はない。
 あの男の罵詈讒謗ばりざんぼうを思い出して、僕は頬を膨らませた。


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