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第1章〜サーカス列車の旅〜
第14話 勤務初日
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気づいたら眠っていたらしい。背中と首の痛みで目が覚めた。車輪が線路の上を転がる音と振動、檻の中で眠る獅子の発する鼻をつくような獣の匂いで、昨日起こったことが現実なのだと分かった。耳栓はいつの間にか耳の穴から外れて床に落ちていた。
ケニーはシドニーの街のベーカリーで何度も買って食べた美味しいクリームチーズパンのように白いぽっこりお腹をシャツからはみ出させ、大の字になって鼾をかき歯軋りしながら眠っている。半身を起こし鈍く痛む首を回し、欠伸と一緒に大きく伸びをしたところでルチアが現れた。
「おはよう」と右手を上げ笑いかけると、ルチアも「おはよう」と微笑んだ。
「今、パパがくるわ。そのおじさんを起こしておいてね」
「分かった!」
慌ててケニーの腹を人差し指でつついて起こそうとするも、彼は長い唸り声をあげ子どものように「ママ、まだ寝かせてくれよ~」と答えるばかりだ。幼い頃の夢でも見ているんだろうか。考えてみたら彼も引きこもる前は私と同じように母親に甘えたり、眠いのを叩き起こされ学校に行っていた時代があったのだ。彼から奪われた未来ーー友人たちと遊び、語らい、マイペースにできるような仕事を見つけて、素敵な恋人と笑い合う未来がこれから訪れることを心から祈った。本当に神様がいるとしたら、私たちに手遅れなんてないっていうことを、いつからでも人生はやり直せるってことを教えて欲しい。私はケニーと少しでも明るい未来を見たい。
不意にガラリとドアが開いて男が入ってきた。黒いスーツに身を包んだ、長身ですらりとした男だったが、どこか胡散臭い匂いがする。ミラーやルチアとは違う黒髪と真っ黒な瞳をしていて、尖った顎の下には黒い髭が生えている。私は未だ夢の中にいるケニーを揺り起こし、彼の閉じていた目が開いたのを確認して立ち上がった。ケニーは目の前に仁王立ちになる男の姿を見て「わっ、誰だ?!」と声を上げて飛び起きキョロキョロと辺りを見回し、背後の檻のライオンを見て昨夜と同じようにギャー! と大声で叫んだ。
「ケニー、ここはサーカス列車よ。昨日ここに泊まったでしょ? 団長が来たのよ。話を聞きましょう」
「ああ……そういえばそうだったな」
ケニーは慌てて立ち上がると、ピンと手脚を伸ばして身を固めかしこまったように団長を見た。目の前の男はその蛇のような鋭く狡猾そうな目で値踏みするように私とケニーを上から下までジロジロ眺め、「君たちが侵入者だね?」と口角を上げた。まるで犯罪者のような呼ばれ方だ。まぁ勝手に乗り込んだのは事実だけれど、事情が事情だし。
男の光のない冷たい瞳と作り物のような笑顔に、得体の知れない違和感と恐ろしさを感じた。私はこの人が苦手だ。多分この先好きになることはできないだろう。悲しいことに、私のこういう直感はよく当たる。
「私はこのミルキーウェイ・トレインサーカスの団長のピアジェという者だ、よろしく頼むよ」
銀河鉄道サーカス。宮沢賢治の童話のタイトルみたいで素敵な名前だと思った。
彼は私たち二人と握手を交わした後、口の端を上げて見せた。私はこの笑い方を、『人形スマイル』と呼ぶことにした。とりあえず今は目の前の男の機嫌を損ねないように、上手くやるしかない。
「僕はネロです。23歳です。彼は伯父のケニー。前は広告会社に勤めてたんです」
「よよよ……よろしくお願いします!」
完全に萎縮したみたいに、ケニーはガチガチに固まった身体と声で挨拶をした。ケニーのこの反応は一見極端ではあるが、目の前の男には妙な威圧感があった。ただそこにいるだけで他人に恐れを抱かせるようなーーちょうどすぐ頭上からクレーンにぶら下げられた100tの積荷が降りてきて、今すぐにこの場から逃げねばならないのに脚が竦んでしまって動けないような。
「新入りの君には掃除や洗濯なんかの雑用や、動物の世話を頼みたいんだが……」ピアジェは探るように私を見た。
「家事はよくやっていたので……。あと、祖父母が農場を経営していて、そこでよく動物の世話をしていました。なので大丈夫だと思います」
団長は指で鼻の下の髭をさすって、ふむと短く相槌を打った。
「「このサーカスは私の曽祖父の代から続いていて、100年以上の歴史がある。今年は創立100年を記念して世界公演をすることにした。2年近くかけて世界中の国々を廻り公演する予定だ。家族に会えるのなど年に数回だし、外国にいる時間の方が長い。想像以上に過酷だが、君にはついてくる覚悟があるかね?」」
彼の表情も声も不気味なほどに冷静だ。本心の読めない洞穴のような瞳に、下手したら飲み込まれてしまいそうだ。
「あります、何でもします! 何があっても絶対に弱音を吐きません」
男は数度頷きケニーに目をやった。
「君は何ができる?」
「はい、一応ウェブデザインの資格を……。広告の仕事もしていたので……」
「うちにはパフォーマーやスタッフ含め60人くらいの団員がいる。演者以外にコックもいるし、電気機器や照明や音響などの機材を扱う仕事をしている者もいる。営業をする奴もな。
広告担当者っていうのもいるんだが、先月一人辞めてしまってね。実はうちにはHPがあるんだ。このご時世、インターネットを使った広報活動ってのは超がつくほどの重要課題だ。他にも何人か事務員がいるが、どいつもこいつも使えない馬鹿ばっかりでな。よければ君に広報の仕事をやってほしいんだが……」
有無を言わせぬ口調だった。ケニーは「やります、やります」と何回も頷いた。
そもそも通信環境とか大丈夫なんだろうかと不安を覚えたところで、見透かしたみたいにピアジェが答えた。
「じゃあ早速今日から頼むよ。事務所はWi-Fiが通るようにしてある。と言っても電車での移動だから、通信は不安定だし多少不便を感じるかもしれんが……。事務所にあるパソコンを一台使っていい」
その後ピアジェはもう一度私に視線を移した。
「君はネロといったか。雑用に関してはジェロニモという小僧がいるから、そいつに聞くんだな。それと、うちには日本人の獣医師とアメリカ人の調教師がいるんだが、ルチアと一緒に彼らの手伝いをしてくれ。餌やりなんかの世話は主にルチアがやってるから、彼女に教わるように。じゃあ、ごきげんよう」
男はまたにっと不気味に笑うと右手をあげて踵を返し、『雨に唄えば』を口ずさみながら歩き去った。
ケニーはシドニーの街のベーカリーで何度も買って食べた美味しいクリームチーズパンのように白いぽっこりお腹をシャツからはみ出させ、大の字になって鼾をかき歯軋りしながら眠っている。半身を起こし鈍く痛む首を回し、欠伸と一緒に大きく伸びをしたところでルチアが現れた。
「おはよう」と右手を上げ笑いかけると、ルチアも「おはよう」と微笑んだ。
「今、パパがくるわ。そのおじさんを起こしておいてね」
「分かった!」
慌ててケニーの腹を人差し指でつついて起こそうとするも、彼は長い唸り声をあげ子どものように「ママ、まだ寝かせてくれよ~」と答えるばかりだ。幼い頃の夢でも見ているんだろうか。考えてみたら彼も引きこもる前は私と同じように母親に甘えたり、眠いのを叩き起こされ学校に行っていた時代があったのだ。彼から奪われた未来ーー友人たちと遊び、語らい、マイペースにできるような仕事を見つけて、素敵な恋人と笑い合う未来がこれから訪れることを心から祈った。本当に神様がいるとしたら、私たちに手遅れなんてないっていうことを、いつからでも人生はやり直せるってことを教えて欲しい。私はケニーと少しでも明るい未来を見たい。
不意にガラリとドアが開いて男が入ってきた。黒いスーツに身を包んだ、長身ですらりとした男だったが、どこか胡散臭い匂いがする。ミラーやルチアとは違う黒髪と真っ黒な瞳をしていて、尖った顎の下には黒い髭が生えている。私は未だ夢の中にいるケニーを揺り起こし、彼の閉じていた目が開いたのを確認して立ち上がった。ケニーは目の前に仁王立ちになる男の姿を見て「わっ、誰だ?!」と声を上げて飛び起きキョロキョロと辺りを見回し、背後の檻のライオンを見て昨夜と同じようにギャー! と大声で叫んだ。
「ケニー、ここはサーカス列車よ。昨日ここに泊まったでしょ? 団長が来たのよ。話を聞きましょう」
「ああ……そういえばそうだったな」
ケニーは慌てて立ち上がると、ピンと手脚を伸ばして身を固めかしこまったように団長を見た。目の前の男はその蛇のような鋭く狡猾そうな目で値踏みするように私とケニーを上から下までジロジロ眺め、「君たちが侵入者だね?」と口角を上げた。まるで犯罪者のような呼ばれ方だ。まぁ勝手に乗り込んだのは事実だけれど、事情が事情だし。
男の光のない冷たい瞳と作り物のような笑顔に、得体の知れない違和感と恐ろしさを感じた。私はこの人が苦手だ。多分この先好きになることはできないだろう。悲しいことに、私のこういう直感はよく当たる。
「私はこのミルキーウェイ・トレインサーカスの団長のピアジェという者だ、よろしく頼むよ」
銀河鉄道サーカス。宮沢賢治の童話のタイトルみたいで素敵な名前だと思った。
彼は私たち二人と握手を交わした後、口の端を上げて見せた。私はこの笑い方を、『人形スマイル』と呼ぶことにした。とりあえず今は目の前の男の機嫌を損ねないように、上手くやるしかない。
「僕はネロです。23歳です。彼は伯父のケニー。前は広告会社に勤めてたんです」
「よよよ……よろしくお願いします!」
完全に萎縮したみたいに、ケニーはガチガチに固まった身体と声で挨拶をした。ケニーのこの反応は一見極端ではあるが、目の前の男には妙な威圧感があった。ただそこにいるだけで他人に恐れを抱かせるようなーーちょうどすぐ頭上からクレーンにぶら下げられた100tの積荷が降りてきて、今すぐにこの場から逃げねばならないのに脚が竦んでしまって動けないような。
「新入りの君には掃除や洗濯なんかの雑用や、動物の世話を頼みたいんだが……」ピアジェは探るように私を見た。
「家事はよくやっていたので……。あと、祖父母が農場を経営していて、そこでよく動物の世話をしていました。なので大丈夫だと思います」
団長は指で鼻の下の髭をさすって、ふむと短く相槌を打った。
「「このサーカスは私の曽祖父の代から続いていて、100年以上の歴史がある。今年は創立100年を記念して世界公演をすることにした。2年近くかけて世界中の国々を廻り公演する予定だ。家族に会えるのなど年に数回だし、外国にいる時間の方が長い。想像以上に過酷だが、君にはついてくる覚悟があるかね?」」
彼の表情も声も不気味なほどに冷静だ。本心の読めない洞穴のような瞳に、下手したら飲み込まれてしまいそうだ。
「あります、何でもします! 何があっても絶対に弱音を吐きません」
男は数度頷きケニーに目をやった。
「君は何ができる?」
「はい、一応ウェブデザインの資格を……。広告の仕事もしていたので……」
「うちにはパフォーマーやスタッフ含め60人くらいの団員がいる。演者以外にコックもいるし、電気機器や照明や音響などの機材を扱う仕事をしている者もいる。営業をする奴もな。
広告担当者っていうのもいるんだが、先月一人辞めてしまってね。実はうちにはHPがあるんだ。このご時世、インターネットを使った広報活動ってのは超がつくほどの重要課題だ。他にも何人か事務員がいるが、どいつもこいつも使えない馬鹿ばっかりでな。よければ君に広報の仕事をやってほしいんだが……」
有無を言わせぬ口調だった。ケニーは「やります、やります」と何回も頷いた。
そもそも通信環境とか大丈夫なんだろうかと不安を覚えたところで、見透かしたみたいにピアジェが答えた。
「じゃあ早速今日から頼むよ。事務所はWi-Fiが通るようにしてある。と言っても電車での移動だから、通信は不安定だし多少不便を感じるかもしれんが……。事務所にあるパソコンを一台使っていい」
その後ピアジェはもう一度私に視線を移した。
「君はネロといったか。雑用に関してはジェロニモという小僧がいるから、そいつに聞くんだな。それと、うちには日本人の獣医師とアメリカ人の調教師がいるんだが、ルチアと一緒に彼らの手伝いをしてくれ。餌やりなんかの世話は主にルチアがやってるから、彼女に教わるように。じゃあ、ごきげんよう」
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