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騎士の娘、騎士の妻であること
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怒号が聞こえる。
町を巡回していたイーサンと相棒のエリックは、突然聞こえてきた怒号に緊張する。
怒号が聞こえる方角をたしかめそちらへむかって走った。
男が大声で言い合いをしているのは聞こえるが姿はみえない。
人が集まっている場所から再び怒鳴り声がした。
人をかきわけると男二人が刃物を持って喧嘩をしていた。男達は非常に興奮していて手がつけられそうもない。
どちらの男もすでに刃物で切られ血を流している。状況は差し迫っていた。
「治安維持隊だ。動くな!」
大きな声をだし注意をそらそうとするが、興奮して大声でののしりあっている男達にはまったく聞こえていない。
彼らを取り囲んでいた人達が、イーサンとエリックをみて状況をつたえようと声をはりあげるのでますます場が騒然となる。
「動くな二人とも。刃物をおろせ」
エリックに目線をおくり、どちらがどの男を無力化するのか確認しあう。
「邪魔するな。関係ねえだろう!」
刃物を振り回し男がいう。
「動くなといっただろう! 刃物をいますぐ地面におけ!」
イーサンとエリックは大声を張りあげるが、どちらの男もイーサン達を無視し相手に襲いかかっている。
二人が地面にたおれ取っ組み合っているところを、イーサンとエリックは刃物の位置に注意しながら近付く。
地面にぬいつけられた男の刃物は手からはなれているが、その男の上に馬乗りになっている男は、下敷きになっている男をまさに刺そうとしていた。
イーサンが男に体当たりをする。
予想していなかった体当たりをくらい、馬乗りになっていた男の手から刃物がおち男の体が地面へころがりおちた。
「エリック!」
下敷きになっていた男を拘束するよう声をかけ、馬乗りしていた男を地面に押しつけ拘束していると、「イーサン、よけろ!」エリックの声がした。
声のする方へ視線をおくると、エリックが拘束していた男がエリックを突きとばし、落ちていた刃物を手にしイーサンが拘束している男を刺そうとしている。
イーサンはとっさに刃物をもった男の障害物になるよう、地面をころがり男の足下へ体をすべりこませ、すかさず男の両足をつかんだ。
イーサンの体につまづいた男がバランスをくずし、イーサンの体に崩れ落ちてくる。
するどい痛みを肩に感じたが、イーサンはすみやかに男の手から刃物をとりあげた。
つまずいた拍子に刃物を握った男の手がゆるんでいたため、簡単に刃物が手からはなれた。刃物を出来るだけ遠くへはなすため地面にすべらせた。
イーサンが応援を頼もうと思っていると、すでに騎士団に喧嘩を知らせた市民がいたらしく同僚の姿が近付いてくるのがみえた。
応援にかけつけた同僚の助けをえて男達をそれぞれの姿が見えない場所に移動させ、けがの処置をおこなう。
捕縛されたあとも二人は怒鳴りあっていたが、ようやく興奮状態がおさまりおとなしくなった。
「イーサン、早くこれを」
イーサンはエリックが差しだした布を受け取ろうとしたが、手に力がはいらず受け取れない。視界がぼやけ体がぐらついた。
イーサンの体がエリックへ傾いでいった。
◆◆◆◆◆◆
「イーサンがけがをして病院にいる」
リンダは父、マイケルからイーサンが勤務中に腕と肩を切られたと聞かされた。
すぐにイーサンが収容されている病院に向かおうとするが体が動かない。
出かける用意をと母や伯母が準備する姿をみながら、リンダも用意しようとするが自分の意志に反しまったく体が動かなかった。
「持っていく物はとくにない。もし必要ならあとで届ければいいから、早く」
父にせかされ座っていた椅子から立ち上がろうとしたが、足に力がはいらずリンダは立ち上がれない。
母がリンダの体を支え立ち上がらせる。
「リンダ、しっかりしなさい。イーサンはけがをしたけど命の心配はないのよ。大丈夫。こういうことはよくあるの。日頃から鍛えている騎士は治りも早いから。
とにかくあなたの顔を見せてあげなさい。こういう時は愛する人に側にいてもらいたいものだから」
母がリンダをはげます。
「大丈夫だから。ショックなのは分かるけど大丈夫。病院にいったら、こっちが心配して損したと思うほど元気だったりするのよ。お母さんも何度もそういうことがあったの。大丈夫だから」
母が笑顔をみせた。その笑顔に怯えも不安もないことにリンダはほっとする。
リンダ達は病院へと急いだ。
ようやくイーサンの病室にたどりついたリンダは、寝台に横たわったイーサンの青白い顔をみて倒れそうになった。
「イーサンは眠っているだけだ」
リンダを父が支えた。
その瞬間、父が大けがをした時の記憶が頭の中に一気によみがえった。
父が処置を受けている部屋の前で動揺する母と、母を抱きしめる兄の姿。
医師や助手が大きな声を張り上げながら父の怪我を処置する様子。
血の臭い。うめき声。
体中を包帯で巻かれた父の姿。
「いや! お父さん、死なないで!」
父に近寄ろうとしてもどうしても近寄れない。強い力でおさえられ動けない。
リンダは声をはりあげ父をよぶ。しかし父の体はぴくりとも動かない。
「お父さん! お父さん!」父に手をのばすがとどかない。
リンダは体が浮いているような気がした。
ふわふわした感覚が心地よい。
「リンダ!」
誰かに名前をよばれている。
「リンダ!」
目をあけると父の顔があった。
――ああ、お父さん。無事だったんだ。
リンダはよかったといおうとしたが声がでない。
「大丈夫か? 気をうしなって倒れた」
リンダはマイケルの瞳をみつめた。
薄茶色の瞳の奥に小さな空色がまじるマイケルの瞳を、最後にこれほど間近でみたのはいつのことだろう。
お互いの顔がくっつくほど近くに寄らなければ見えない、父の瞳の奥にある空色。
鼻と鼻をくっつけ父の瞳の空色をさがすのが大好きだった。
「体を動かすぞ」
マイケルがリンダの体を支え側にある椅子に座らせた。
先ほどまで感じていたふわふわした体の感覚はなくなり、今度は逆に体がひどく重く感じた。
母がよんできた看護師にいろいろと質問され、脈をはかられてとしているうちに、イーサンがけがをして病院にきていることを思い出した。
「イーサンは?」
リンダが問うとイーサンの母、マギーが、「喧嘩の仲裁にはいって肩と腕を切られて出血がひどかったけど大丈夫。それ以外は擦り傷や打撲ていどよ」と静かにいった。
イーサンの病室の近くにある椅子に座らされたリンダは義母の落ち着いた様子に安心する。
リンダにとって義母のマギーは頼りになる大人で、いつも安心感を与えてくれる人だった。
「どうせイーサンはしばらく寝てるから休憩室でお茶でも飲んで目が覚めるのを待ちましょう」
義母にうながされリンダと両親は休憩室へむかった。
義母から義父のスティーブは捜査のために出張中で来られないときく。
しばらくお互いの親戚や知人の近況について話したあと、義母がリンダと話したいといいリンダの両親は席をはずした。
イーサンに離婚してほしいといってから義母と会うのは初めてだ。結婚記念日に花を届けてくれた時に会ったきりだった。
「リンダ、イーサンは明日には退院するけど退院後の世話はどうする? 別居中だしうちで世話してもいいわよ」
義母に単刀直入に切りだされリンダは口ごもった。
素直な気持ちとしてはイーサンの世話をしたい。しかし離婚をすると決め別居している。ここで妻として義務を果たすのがよいことなのかリンダには判断がつかなかった。
「夫婦なんだから世話してやってよ。質問してすぐに嫌だといわなかったから世話してやってもいいと思っているんでしょう?」
義母が笑顔でリンダにいった。
「騎士にとって仕事中のけがはつきものだからね。不安で怖かったと思うけど大丈夫よ。
アネットもいったと思うけど、こっちが心配で死にそうな思いで病院にきたら、けがをした本人はぴんぴんしているなんてめずらしくないから。
でもこういうこともある程度は慣れるけど、夫が病院に運ばれたと聞いた時に感じる不安や恐怖は、どれだけ経験しても完全に慣れることはないのよね」
リンダは義母も母も夫のけがや入院による不安や恐怖と戦ってきたのを知っている。リンダはあらためて二人を強いと思った。
「うちの実家は大工で多少のけがはすることがあっても死ぬことはないから、スティーブと結婚する時は大反対されたわ。とくに父にね。
夫が死んだらどうするんだ。死ななくても障害が残るようなけがをすることもある。逆恨みされて騎士の家族に害をなす奴だっている。
それはもう、ありとあらゆる可能性を並べたててやめろといわれたわよ」
義母がからから笑う。
「若かったわよね。それに何も知らなかったから好きという気持ちで突っ走ったわよ。
スティーブと結婚したことを後悔したことはないけど、もし騎士の仕事や、騎士の妻がどういうものかよく知ってたら結婚しなかったと思う」
義母がリンダの視線をしっかりとらえた。
「リンダ、騎士の妻でいるのがつらいなら離婚も仕方ないと思ってる。我慢強いあなたはこれまでずっと我慢してきた。限界がきて当たり前だしね。
でもね、まだイーサンのことが好きなら二人で幸せになる道をさがしてほしい。
騎士団もいろいろな部署があるのは知ってるでしょう? 部署が変われば働き方も変わる。
スティーブだって若い頃は治安維持隊でいまのイーサンと同じ仕事をしてたけど、自分の能力と私との関係を考えて捜査部に異動したの」
それはリンダにとって初めて聞く話だった。リンダが知っている義父はすでに捜査部で働いていた義父だった。
「治安維持隊は緊急の呼び出しが多いでしょう。結婚当初は約束してもやぶられるし、緊急呼び出しで急にいなくなるしでもめにもめたのよ。
リンダと違って私は我慢できない性格だから、不満はその日のうちに解消させるとばかりに不満をぶちまけてた。
スティーブがけがした時に、違う仕事をするか離婚するかどちらかにしろといったら部署をうつっちゃった」
義母がいたずらが成功した子供のような笑みをみせた。
「正直、スティーブがそこまでするとは思ってなかったから、私のせいで好きな仕事をあきらめさせたかもってあわてたけど、スティーブ自身、自分の能力に思うところがあったようで私の不満が後押しになったらしいの。このままこの仕事をつづけてよいのかと」
義母がリンダにウィンクする。リンダは義母のこのような明るさが好きだった。
物言いはストレートだがいやみはなく温かい。それがリンダにとっての義母だった。
「結婚記念日も一緒に祝えない生活をするのがリンダとイーサンにとって良いといえないのはたしかよね。
とくにあなたは子供の頃からずっと騎士の娘として我慢してきてる。
でも我慢しなくてよい道は必ずあると思う。イーサンが部署をかえるか、いっそのこと騎士をやめるという手もある。
イーサンはあなたと別れるつもりはないわ。まだイーサンのことを好きでいてくれてるなら、これから一緒にどうするのか考えてみて」
義母がリンダの手をとり握った。
「リンダ、あなたマイケルと腰をすえて話したことある? アネットから、アネットとマイケルの関係についてはいろいろ聞いていると思うけど、マイケルから同じ話を聞いたらぜんぜん違う話になってたりするものよ。
かつていまのイーサンと同じ立場だったマイケルから話しを聞いてみたらどうかな。男性としてや騎士として結婚生活をどう考えているのか聞くのはリンダの役に立つと思う。
それにマイケルに言えなかったことたくさんあるでしょう。本当はもっと一緒にいてほしかった。よい子だとほめて抱きしめてほしかった。
子供のころに言えずにいたことをぶつけてみたらどう? もうあなたは大人になったし結婚もして親の手からはなれてる。マイケルに何もいわず、ただ我慢する子供でいなくてもいいのよ。
アネットからイーサンに離婚を切りだしたリンダをマイケルが家から追い出したことは聞いてる。父娘で一度しっかり話してみたらどう?」
リンダは義母に抱きしめられた。義母からレモンの香りがする。
レモンが好きな義父のためにイーサンの実家はいつもレモンを常備していた。レモンの香りはイーサンを思い出させる。
「うちの息子は気がきかないし、リンダの気持ちをくむなんて芸当はできない。
でもね、話せばちゃんと考えるし理解する。だからイーサンに言いたいことをぶちまけなさい。察するなんて高等な技をイーサンに求めては駄目よ」
マギーが握っていたリンダの手をはなし、やさしくなでた。
「それとね、リンダが本当にイーサンと離婚したいなら反対しないから。
あなた達が結婚した時にスティーブにリンダが離婚したいといったら離婚させる、反対したらあなたと離婚すると離婚申し立て書に署名させてるから」
マギーが満面の笑みでいった。
「リンダ、あなたはイーサンを幸せにしてくれた」
マギーがリンダの手を包みこむように握りなおした。
「イーサンの母として、あなたの幸せがイーサンと夫婦であることを願っているけど、あなたがどのような決断をしようとその決断を受け入れるわ」
義母がくすりと笑う。
「男は鈍感だから、たまに離婚をつきつけるぐらいのことをしないとちゃんと考えないのよ。
離婚すると気軽にいっては駄目だけど、いまのリンダのように本気で離婚してよいと思った時は遠慮せず離婚をつきつけなさい。
でも離婚をつきつける時に一度でいいからイーサンにやり直す機会を与えてやって」
リンダは「やり直す機会」という言葉に心が反応したような気がした。
こなごなに砕けすっかり形をなしていない心は、ずっと砕けたままの状態だった。
その小さな欠片がすこし動いたような気がした。
「そうそう。イーサンがあなたとの離婚の話をしにきてから、スティーブの態度が目に見えてよくなったのよ。
日頃は忘れがちだけど、妻の忍耐と献身に感謝しない夫は捨てられることを思い出したみたい」
マギーが晴れ晴れとした笑い声をたてた。
町を巡回していたイーサンと相棒のエリックは、突然聞こえてきた怒号に緊張する。
怒号が聞こえる方角をたしかめそちらへむかって走った。
男が大声で言い合いをしているのは聞こえるが姿はみえない。
人が集まっている場所から再び怒鳴り声がした。
人をかきわけると男二人が刃物を持って喧嘩をしていた。男達は非常に興奮していて手がつけられそうもない。
どちらの男もすでに刃物で切られ血を流している。状況は差し迫っていた。
「治安維持隊だ。動くな!」
大きな声をだし注意をそらそうとするが、興奮して大声でののしりあっている男達にはまったく聞こえていない。
彼らを取り囲んでいた人達が、イーサンとエリックをみて状況をつたえようと声をはりあげるのでますます場が騒然となる。
「動くな二人とも。刃物をおろせ」
エリックに目線をおくり、どちらがどの男を無力化するのか確認しあう。
「邪魔するな。関係ねえだろう!」
刃物を振り回し男がいう。
「動くなといっただろう! 刃物をいますぐ地面におけ!」
イーサンとエリックは大声を張りあげるが、どちらの男もイーサン達を無視し相手に襲いかかっている。
二人が地面にたおれ取っ組み合っているところを、イーサンとエリックは刃物の位置に注意しながら近付く。
地面にぬいつけられた男の刃物は手からはなれているが、その男の上に馬乗りになっている男は、下敷きになっている男をまさに刺そうとしていた。
イーサンが男に体当たりをする。
予想していなかった体当たりをくらい、馬乗りになっていた男の手から刃物がおち男の体が地面へころがりおちた。
「エリック!」
下敷きになっていた男を拘束するよう声をかけ、馬乗りしていた男を地面に押しつけ拘束していると、「イーサン、よけろ!」エリックの声がした。
声のする方へ視線をおくると、エリックが拘束していた男がエリックを突きとばし、落ちていた刃物を手にしイーサンが拘束している男を刺そうとしている。
イーサンはとっさに刃物をもった男の障害物になるよう、地面をころがり男の足下へ体をすべりこませ、すかさず男の両足をつかんだ。
イーサンの体につまづいた男がバランスをくずし、イーサンの体に崩れ落ちてくる。
するどい痛みを肩に感じたが、イーサンはすみやかに男の手から刃物をとりあげた。
つまずいた拍子に刃物を握った男の手がゆるんでいたため、簡単に刃物が手からはなれた。刃物を出来るだけ遠くへはなすため地面にすべらせた。
イーサンが応援を頼もうと思っていると、すでに騎士団に喧嘩を知らせた市民がいたらしく同僚の姿が近付いてくるのがみえた。
応援にかけつけた同僚の助けをえて男達をそれぞれの姿が見えない場所に移動させ、けがの処置をおこなう。
捕縛されたあとも二人は怒鳴りあっていたが、ようやく興奮状態がおさまりおとなしくなった。
「イーサン、早くこれを」
イーサンはエリックが差しだした布を受け取ろうとしたが、手に力がはいらず受け取れない。視界がぼやけ体がぐらついた。
イーサンの体がエリックへ傾いでいった。
◆◆◆◆◆◆
「イーサンがけがをして病院にいる」
リンダは父、マイケルからイーサンが勤務中に腕と肩を切られたと聞かされた。
すぐにイーサンが収容されている病院に向かおうとするが体が動かない。
出かける用意をと母や伯母が準備する姿をみながら、リンダも用意しようとするが自分の意志に反しまったく体が動かなかった。
「持っていく物はとくにない。もし必要ならあとで届ければいいから、早く」
父にせかされ座っていた椅子から立ち上がろうとしたが、足に力がはいらずリンダは立ち上がれない。
母がリンダの体を支え立ち上がらせる。
「リンダ、しっかりしなさい。イーサンはけがをしたけど命の心配はないのよ。大丈夫。こういうことはよくあるの。日頃から鍛えている騎士は治りも早いから。
とにかくあなたの顔を見せてあげなさい。こういう時は愛する人に側にいてもらいたいものだから」
母がリンダをはげます。
「大丈夫だから。ショックなのは分かるけど大丈夫。病院にいったら、こっちが心配して損したと思うほど元気だったりするのよ。お母さんも何度もそういうことがあったの。大丈夫だから」
母が笑顔をみせた。その笑顔に怯えも不安もないことにリンダはほっとする。
リンダ達は病院へと急いだ。
ようやくイーサンの病室にたどりついたリンダは、寝台に横たわったイーサンの青白い顔をみて倒れそうになった。
「イーサンは眠っているだけだ」
リンダを父が支えた。
その瞬間、父が大けがをした時の記憶が頭の中に一気によみがえった。
父が処置を受けている部屋の前で動揺する母と、母を抱きしめる兄の姿。
医師や助手が大きな声を張り上げながら父の怪我を処置する様子。
血の臭い。うめき声。
体中を包帯で巻かれた父の姿。
「いや! お父さん、死なないで!」
父に近寄ろうとしてもどうしても近寄れない。強い力でおさえられ動けない。
リンダは声をはりあげ父をよぶ。しかし父の体はぴくりとも動かない。
「お父さん! お父さん!」父に手をのばすがとどかない。
リンダは体が浮いているような気がした。
ふわふわした感覚が心地よい。
「リンダ!」
誰かに名前をよばれている。
「リンダ!」
目をあけると父の顔があった。
――ああ、お父さん。無事だったんだ。
リンダはよかったといおうとしたが声がでない。
「大丈夫か? 気をうしなって倒れた」
リンダはマイケルの瞳をみつめた。
薄茶色の瞳の奥に小さな空色がまじるマイケルの瞳を、最後にこれほど間近でみたのはいつのことだろう。
お互いの顔がくっつくほど近くに寄らなければ見えない、父の瞳の奥にある空色。
鼻と鼻をくっつけ父の瞳の空色をさがすのが大好きだった。
「体を動かすぞ」
マイケルがリンダの体を支え側にある椅子に座らせた。
先ほどまで感じていたふわふわした体の感覚はなくなり、今度は逆に体がひどく重く感じた。
母がよんできた看護師にいろいろと質問され、脈をはかられてとしているうちに、イーサンがけがをして病院にきていることを思い出した。
「イーサンは?」
リンダが問うとイーサンの母、マギーが、「喧嘩の仲裁にはいって肩と腕を切られて出血がひどかったけど大丈夫。それ以外は擦り傷や打撲ていどよ」と静かにいった。
イーサンの病室の近くにある椅子に座らされたリンダは義母の落ち着いた様子に安心する。
リンダにとって義母のマギーは頼りになる大人で、いつも安心感を与えてくれる人だった。
「どうせイーサンはしばらく寝てるから休憩室でお茶でも飲んで目が覚めるのを待ちましょう」
義母にうながされリンダと両親は休憩室へむかった。
義母から義父のスティーブは捜査のために出張中で来られないときく。
しばらくお互いの親戚や知人の近況について話したあと、義母がリンダと話したいといいリンダの両親は席をはずした。
イーサンに離婚してほしいといってから義母と会うのは初めてだ。結婚記念日に花を届けてくれた時に会ったきりだった。
「リンダ、イーサンは明日には退院するけど退院後の世話はどうする? 別居中だしうちで世話してもいいわよ」
義母に単刀直入に切りだされリンダは口ごもった。
素直な気持ちとしてはイーサンの世話をしたい。しかし離婚をすると決め別居している。ここで妻として義務を果たすのがよいことなのかリンダには判断がつかなかった。
「夫婦なんだから世話してやってよ。質問してすぐに嫌だといわなかったから世話してやってもいいと思っているんでしょう?」
義母が笑顔でリンダにいった。
「騎士にとって仕事中のけがはつきものだからね。不安で怖かったと思うけど大丈夫よ。
アネットもいったと思うけど、こっちが心配で死にそうな思いで病院にきたら、けがをした本人はぴんぴんしているなんてめずらしくないから。
でもこういうこともある程度は慣れるけど、夫が病院に運ばれたと聞いた時に感じる不安や恐怖は、どれだけ経験しても完全に慣れることはないのよね」
リンダは義母も母も夫のけがや入院による不安や恐怖と戦ってきたのを知っている。リンダはあらためて二人を強いと思った。
「うちの実家は大工で多少のけがはすることがあっても死ぬことはないから、スティーブと結婚する時は大反対されたわ。とくに父にね。
夫が死んだらどうするんだ。死ななくても障害が残るようなけがをすることもある。逆恨みされて騎士の家族に害をなす奴だっている。
それはもう、ありとあらゆる可能性を並べたててやめろといわれたわよ」
義母がからから笑う。
「若かったわよね。それに何も知らなかったから好きという気持ちで突っ走ったわよ。
スティーブと結婚したことを後悔したことはないけど、もし騎士の仕事や、騎士の妻がどういうものかよく知ってたら結婚しなかったと思う」
義母がリンダの視線をしっかりとらえた。
「リンダ、騎士の妻でいるのがつらいなら離婚も仕方ないと思ってる。我慢強いあなたはこれまでずっと我慢してきた。限界がきて当たり前だしね。
でもね、まだイーサンのことが好きなら二人で幸せになる道をさがしてほしい。
騎士団もいろいろな部署があるのは知ってるでしょう? 部署が変われば働き方も変わる。
スティーブだって若い頃は治安維持隊でいまのイーサンと同じ仕事をしてたけど、自分の能力と私との関係を考えて捜査部に異動したの」
それはリンダにとって初めて聞く話だった。リンダが知っている義父はすでに捜査部で働いていた義父だった。
「治安維持隊は緊急の呼び出しが多いでしょう。結婚当初は約束してもやぶられるし、緊急呼び出しで急にいなくなるしでもめにもめたのよ。
リンダと違って私は我慢できない性格だから、不満はその日のうちに解消させるとばかりに不満をぶちまけてた。
スティーブがけがした時に、違う仕事をするか離婚するかどちらかにしろといったら部署をうつっちゃった」
義母がいたずらが成功した子供のような笑みをみせた。
「正直、スティーブがそこまでするとは思ってなかったから、私のせいで好きな仕事をあきらめさせたかもってあわてたけど、スティーブ自身、自分の能力に思うところがあったようで私の不満が後押しになったらしいの。このままこの仕事をつづけてよいのかと」
義母がリンダにウィンクする。リンダは義母のこのような明るさが好きだった。
物言いはストレートだがいやみはなく温かい。それがリンダにとっての義母だった。
「結婚記念日も一緒に祝えない生活をするのがリンダとイーサンにとって良いといえないのはたしかよね。
とくにあなたは子供の頃からずっと騎士の娘として我慢してきてる。
でも我慢しなくてよい道は必ずあると思う。イーサンが部署をかえるか、いっそのこと騎士をやめるという手もある。
イーサンはあなたと別れるつもりはないわ。まだイーサンのことを好きでいてくれてるなら、これから一緒にどうするのか考えてみて」
義母がリンダの手をとり握った。
「リンダ、あなたマイケルと腰をすえて話したことある? アネットから、アネットとマイケルの関係についてはいろいろ聞いていると思うけど、マイケルから同じ話を聞いたらぜんぜん違う話になってたりするものよ。
かつていまのイーサンと同じ立場だったマイケルから話しを聞いてみたらどうかな。男性としてや騎士として結婚生活をどう考えているのか聞くのはリンダの役に立つと思う。
それにマイケルに言えなかったことたくさんあるでしょう。本当はもっと一緒にいてほしかった。よい子だとほめて抱きしめてほしかった。
子供のころに言えずにいたことをぶつけてみたらどう? もうあなたは大人になったし結婚もして親の手からはなれてる。マイケルに何もいわず、ただ我慢する子供でいなくてもいいのよ。
アネットからイーサンに離婚を切りだしたリンダをマイケルが家から追い出したことは聞いてる。父娘で一度しっかり話してみたらどう?」
リンダは義母に抱きしめられた。義母からレモンの香りがする。
レモンが好きな義父のためにイーサンの実家はいつもレモンを常備していた。レモンの香りはイーサンを思い出させる。
「うちの息子は気がきかないし、リンダの気持ちをくむなんて芸当はできない。
でもね、話せばちゃんと考えるし理解する。だからイーサンに言いたいことをぶちまけなさい。察するなんて高等な技をイーサンに求めては駄目よ」
マギーが握っていたリンダの手をはなし、やさしくなでた。
「それとね、リンダが本当にイーサンと離婚したいなら反対しないから。
あなた達が結婚した時にスティーブにリンダが離婚したいといったら離婚させる、反対したらあなたと離婚すると離婚申し立て書に署名させてるから」
マギーが満面の笑みでいった。
「リンダ、あなたはイーサンを幸せにしてくれた」
マギーがリンダの手を包みこむように握りなおした。
「イーサンの母として、あなたの幸せがイーサンと夫婦であることを願っているけど、あなたがどのような決断をしようとその決断を受け入れるわ」
義母がくすりと笑う。
「男は鈍感だから、たまに離婚をつきつけるぐらいのことをしないとちゃんと考えないのよ。
離婚すると気軽にいっては駄目だけど、いまのリンダのように本気で離婚してよいと思った時は遠慮せず離婚をつきつけなさい。
でも離婚をつきつける時に一度でいいからイーサンにやり直す機会を与えてやって」
リンダは「やり直す機会」という言葉に心が反応したような気がした。
こなごなに砕けすっかり形をなしていない心は、ずっと砕けたままの状態だった。
その小さな欠片がすこし動いたような気がした。
「そうそう。イーサンがあなたとの離婚の話をしにきてから、スティーブの態度が目に見えてよくなったのよ。
日頃は忘れがちだけど、妻の忍耐と献身に感謝しない夫は捨てられることを思い出したみたい」
マギーが晴れ晴れとした笑い声をたてた。
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王子と婚約関係にある侯爵令嬢のメリベルは、訳あってずっと秘密の婚約者のままにされていた。学園へ入学してすぐ、メリベルの魔廻が(魔術を使う為の魔素を貯めておく器官)が限界を向かえようとしている事に気が付いた大魔術師は、魔廻を小さくする事を提案する。その方法は、魔素が好むという悲しい記憶を失くしていくものだった。悲しい記憶を引っ張り出しては消していくという日々を過ごすうち、徐々に王子との記憶を失くしていくメリベル。そんな中、魔廻を奪う謎の者達に大魔術師とメリベルが襲われてしまう。
魔廻を奪おうとする者達は何者なのか。王子との婚約が隠されている訳と、重大な秘密を抱える大魔術師の正体が、メリベルの記憶に導かれ、やがて世界の始まりへと繋がっていく。
登場人物
・メリベル・アークトュラス 17歳、アークトゥラス侯爵の一人娘。ジャスパーの婚約者。
・ジャスパー・オリオン 17歳、第一王子。メリベルの婚約者。
・イーライ 学園の園芸員。
クレイシー・クレリック 17歳、クレリック侯爵の一人娘。
・リーヴァイ・ブルーマー 18歳、ブルーマー子爵家の嫡男でジャスパーの側近。
・アイザック・スチュアート 17歳、スチュアート侯爵の嫡男でジャスパーの側近。
・ノア・ワード 18歳、ワード騎士団長の息子でジャスパーの従騎士。
・シア・ガイザー 17歳、ガイザー男爵の娘でメリベルの友人。
・マイロ 17歳、メリベルの友人。
魔素→世界に漂っている物質。触れれば精神を侵され、生き物は主に凶暴化し魔獣となる。
魔廻→体内にある魔廻(まかい)と呼ばれる器官、魔素を取り込み貯める事が出来る。魔術師はこの器官がある事が必須。
ソル神とルナ神→太陽と月の男女神が魔素で満ちた混沌の大地に現れ、世界を二つに分けて浄化した。ソル神は昼間を、ルナ神は夜を受け持った。

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