悪魔と委員長

GreenWings

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山津波

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 たまっていた洗濯物と掃除機掛けを終わらせたますみはリビングに座して一息ついていた。
 土曜のこの時間はテレビをつけて情報番組を流すようにしている。同世代よりもテレビを見る時間に恵まれないますみが世間を知る為自分に課している日課だ。

 いつもならそれを耳に入れながらアイロンがけや繕い物など座ってできる事をしているのだが、たまたま今日はそう言ったものがない。
 義祖父の一件以来弟の手伝いが一層熱心になりますみの負担がいくらか軽減されていたからだ。

 本来ならその弟もこの場にいるはずなのだが遠足の下見の為に教師達と共にクラスの代表の一人として出かけてしまっている。
 コースの問題点の摘出や到着場所で飯盒炊爨はんごうすいさんがスムーズに行われるようにリハーサルを行うなどが目的だそうだ。

 春の遠足は学校からそのまま歩いて出発するが、秋の遠足はバスで出発し、その先で歩く事になる。
 楽しむ為では無く問題点の抽出やかまどを作るために良いロケーションを探す為のこの下見で責任感の強い弟はきっと疲れて帰ってくるに違いない。いつもよりも元気になりそうな夕食を用意して迎えてあげたいとますみは考えていた。

 ますみの隣に座る老人がぽつりとつぶやく。

「この板の仕組みを理解した。光景や音を凹凸の暗号に変えて記録しておき、波に乗せてばら撒かれたものを解読して元の形に再現するものだ」

「勉強熱心ですね、エスレフェス」

「まぁな。人間の事は知っておく必要がある」

 ますみに返事を返した後、悪魔は思わず彼女の顔を見た。

「言い当てましたよエスレフェス!あなたの名は明かされました!もう私に力をふるう事は出来ません」

 ますみは悪魔に向き直り十字を切った。

「図書館で熱心に読み漁っていたと思ったら俺の名を探していたのか」

「あきらめて住処に帰りなさい」

 凛としたますみの声に一度間を置くと悪魔はゲラゲラと笑った。

「何が可笑しいのです」

「そんだけ調べたんなら知ってるだろ?力のある悪魔ってのはな、いくつも名前を持ってんだよ。お前が言い当てたのは確かに俺の名だが、それはいくつもあるうちの一つでしかない。そしてそれは真の名ではない。人間が勝手に付けた名の一つだ」

「黙りなさいエトリクシャ」

「ハズレだ」

「鬼六! 」

 さすがに悪魔も力が抜けた。

「……なぁ小娘、言えば良いってもんじゃねぇぞ。諦めろ」

 ますみはぷいと顔を背け元の様に行儀よく座った。
 テレビから不安を煽る様な緊急速報の音が鳴ったのはその時だった。

 反射的に画面上部のテロップに目をやるがそれを読み終わる前に和やかだった情報番組の雰囲気は緊迫感溢れるものに変わった。

「速報が入りました。今画面に表示されている区域の方々は…… 出ていますでしょうか。大丈夫?今画面に表示されている区域の方々は避難の用意を始めて下さい。赤い区域の方々は自治体の指示に従ってできる限り速やかに避難を開始してください。 ……繋がるの? 」

 スタジオがざわついている。

「弊社の取材陣が偶然現場に居合わせた為急遽中継を行います」

 半ば強引とも思えるスイッチングで画面は屋外に切り替わった。
 そこはどこか山の中の光景だった。レポーターが興奮した口調で現状を報告している。
 別件の中継での帰り道に遭遇した事態、渡るはずだった橋が水没、否、埋没したのだ。
 轟音を響かせて土色の濁流が激しく泥を跳ね上げながら目前を過ぎてゆく。
 暴力的なその様は見ていると眩暈さえ感じそうになる。
 スタッフが橋に差し掛かる少し前に川の水面が橋を乗り越え、瞬く間にそれが土石流に変わったと言う。
 彼らが自治体へこれを報告し、避難勧告が出されたらしい。

 ここ数日ずっと山間部での集中豪雨が続いてはいたが、深刻な被害はまだ出てはいなかったし、都市部においてはさほど大きな雨も見られなかった為まさに寝耳に水状態だった。

 画面の向こうに土砂を伴った暴流が視線を強引に誘導し、不動の川岸との差で乗り物酔いにも似た症状を微かに引き起こさせる。

「こいつぁ面白れぇな。ヨーロッパじゃなかなか見られない光景だ。見ろ!岩まで転がってくるぞ!ハハハハハ!圧巻だな! 」

 はしゃぐ悪魔に眉をひそめた後、ますみは自分に出来ることはあるだろうかと思いを巡らせながら再び画面に視線を戻した時、それは映った。

 張り出した根を引っこ抜かれた様に丸出しで流されてくる巨大な倒木、その枝に引っ掛けられる様にして左側を下に傾いた状態で自動車が張り付いている。濁流にもまれながら必死にしがみついている海難遭難者の様なそれは鋼鉄の体とは無関係に弱々しく見え、不安を煽った。
 その漂流者の流れる速度が若干弱まったと思って少しした時、それは流木共々急流の中で動きを止めた。
 引っかかったのだ。今や流れの中に埋もれてしまったコンクリートの橋にせき止められた岩や土砂に流木がぶつかり、それがつかえて動きを止めたのだ。
 問題はその後だった。
 右側の後部座席の窓が開いた。顔がのぞいた。ますみの血の気は一気に引いた。

 似ているだけとか、そう見えるだけなどとはかけらも思わなかった。
 その少年の顔は今朝見たばかりだ。弟が乗り込んだ担任の車の後部座席に乗っていたかなたのクラスメイトだ。

 正常性バイアスなど一切働かなかった。
 全身の血液が沸騰したと思う様な熱に吐き気を感じると共に、激しい喉の渇きと耳鳴りを伴う動悸、指先の震えが彼女を襲った。
 声の出でぬままに弟の名を唇がなぞる。

「どうした、小娘」

 次の瞬間ますみは自室の携帯電話にかじりついていた。
 弟へのコール。電源を切らなくてはならない場所に居ない限りたいていの場合かなたが応答するまでに七回はかからない。
 留守番電話サービスの案内が流れ始めると即それを切り、ますみはそのままタクシー会社に掛けた。肺の中を炙られている様な緊迫感の中にありながら、今は取り乱すわけにはいかないと必死に理性を繋ぎ止める。
 二回のコールの後繋がった相手に極めて冷静に必要な車と自分の住所と急いでいる事を告げると思いついた物をぽんぽん手下げに放って玄関を飛び出した。

 一番近くにいる者を呼ぶので五分もかからないだろうと言われたが、自分が玄関を出た時に車が来ていない事にますみは焦りを感じた。

「ははぁ、あの乗り物にあの小僧が乗っていたって事か。俺の助けが必要なんじゃねぇか? 」

 耳元で囁く悪魔を無視し、通りの角に顔を出した車に向かって走り出す。
 タクシーはますみに気づいて速度を落とし、彼女の横で止まるとドアを開けた。

「お待たせ委員長ちゃん。急いでるんだって? 」

 はいとしか答えられないままますみは後部座席に躍り込むと目的地を言おうとしてそれがどこであるのかわからない事に気づいて愕然とした。

「どこに行きましょうね」

「あああ あの、か かなたが!かなたが!!川です!!今、川が大変なことになっていて! 」

 冷静な表情とは裏腹に要領を得ないますみの言葉に運転手は表情を引き締めた。彼は普段のますみがどんな人物であるのか知っている。その彼女がこの様な様子になるなど尋常ではない事態に間違いない。

「川?大変?ああ、さっきカーナビのテレビで流れてたな。土石流の事かな? 」

 ますみが涙交じりに何度もうなずく。

「よしゃ、おじさんに任せとき。あの場所なら知ってる。うちのバアさんもカカアも委員長ちゃんには何度も世話になってんだ。バアさんが足くじいたときは家までおぶってくれた事もあったね。超特急で行くともさ。その代わりちょっと委員長ちゃんは寝といてくんないかな。おじさんがスピード違反したって委員長ちゃんが気付かないようにね」

 運転手はウインクするとアクセルを踏み込んだ。

 自分のせいで交通法規を犯させるなんてますみにとっては言語道断だったが運転手は自分がそうしたいからでますみには関係ないと聞かなかった。

「こちら7号車、本日業務を終えます。なのでこの後の事は会社には関係ありません」

「何を言っているのですか7号車」

「委員長ちゃんの一大事なんだよ!察しろ! 」

 運転手は無線を切ると普段よりも深くアクセルを踏んだ。二種免許を持つという事は運転に対しより深い責任を持つことだと彼は認識しているし誇りにしている。だが今だけは悪役になっても良いと思った。いつも以上に神経をとがらせて車を操り、そしてわざと『ネズミ捕り』で有名な通りを選んだ。
 くだんの場所を超過速度で通過すると案の定パトカーが追いかけてきた。

「そこのタクシー止まりなさい」

 運転手は警告に即座に従い自分から降りていくとパトカーから出てきた警官たちに開口一番言い放った。

「良い所に来た!先導してくれ! 」

 顔を見合わす警官二人相手に運転手はさらにまくしたてる。

「人の命がかかってんだよ!委員長ちゃんの身内がどうにかなったらあんた達責任とれるのか?!あ?! 」

 戸惑った警官が気圧されながら訪ね返す。

「どういう事ですか」

「委員長ちゃんの身内が危機にあってんだよ!だから委員長ちゃんは急いでいるんだ。こんなとこで足止め食っている場合じゃないんだ。この瞬間に何かあったらどうすんだって事だよ!だからそのパトカーで先導してくれってんだよ! 」

「いきなりそんなことを言われましてもですね。はいそうですかとはいきませんでしょう。先導するにも決まりがありましてね。」

「あんたら市民の為に働く様に税金で雇われているんじゃないのか。今がその時だろうに、くだらないネズミ捕りで点稼せしてないで役に立ったらどうだ。大体よ、あんたらと委員長ちゃん、日頃どっちが人々の為に動いてるかってんだ!給料もらっているあんたらが足の悪いうちのカカアの荷物を持ってくれたことが一度でもあったのかよ。え?そこ行くと委員長ちゃんはお礼も受け取らず、自分の時間削ってまで困った人見かけるたびに周りの人の役に立ってんだ、あんた達だって知ってんだろ!その委員長ちゃんに助けが必要だって時に何やってんだ。お巡りってのは誰の為の存在だ?法律か?国か?市民の為だろ!もう一度言うぞ。あんたら誰の為に居るんだ」

 若い方の警官は彼女が行った所でと困ったように頭を掻いたが、幾らか年上に見える方は表情が変わった。

「ああ、あなたの言う通りだ」

「先輩、なに言ってるんですか」

「そうだ、我々警官は市民に尽くすために存在しているんだ。今動かなくてどうする。すぐ署に連絡しろ。責任は私がとる。許可を渋る様なら無線の電波が悪くなるだけだ、事後報告でもなんでも良い。始末書が嫌なら君はここに残っても良い」

「話せるじゃないかお巡りさんよ。頼んますぜ」

 やり取りを車内で目撃していたますみは外に出て三人に深々と頭を下げた。
 運転手はウインクをして見せ、先輩の方の警官は敬礼をした。

「さぁ、急ぐよ委員長ちゃん。合法的にスピード違反だ。掴まってな! 」

 サイレンを鳴らし回転灯を点灯させたパトカーが紅海を割る奇跡の様に道路に空きを作って行く。そのすぐ後をますみを乗せたタクシーは追走した。

 本来ならば緊急車両が通る時、交差点に進入することは許されないのだが、それを守ろうとしない者、そしてそれを見て我もと後に続く者の多さが何度も事故を起こしかけるが、パトカーもタクシーも驚くべき反応でそれらを回避した。

「あぶねぇな。けど安心しな。事故って委員長ちゃんを足止めさせるなんてことしねぇからな」

 安心はそこに等ない、ますみが欲しい安心はかなたの無事なのだから。

 かなたがあの川の中で引っかかっている車の中にいることは疑う余地もない。
 後部座席に乗っていた者が居るという事は十中八九走行中、つまり移動中に流されたと言う事だ。かなただけたまたま乗り合わせていないなんて言う解釈は都合が良過ぎると言うものだ。

 かなたは電話に出なかった。車から顔を出していたのはかなたの友達だけだった。その事がさらにますみの不安に拍車をかける。
 車にはかなたの友達が乗っていた、それは流された時に車から脱出するいとまが無かったという事だ。
 となれば運転手である教師もかなたもまだその車に居ることは間違いない、であるのに先ほどの中継では顔を出さなかった。
 かなたが電話に出ない事と合わせたら、車が流された時に何らかの大きな衝撃があり、それによって教師もかなたも意識を失っている可能性があると言う事だ。

 もし大怪我をしていたらどうしよう……。
 まさか命にかかわっているのでは……。

 心臓を冷たい両手で握り潰される様な感覚を覚え、ますみは体を大きく震わせた。
 気分が悪い、呼吸が難しい、なんだか視界が暗い……。

 肩で荒い息をしているますみの様子に気づいた運転手が背中越しに声を掛ける。

「委員長ちゃん、どうしなすった。酔ったかね。ちょいと乱暴な運転しているが、しばらくの辛抱だ」

「ええ、大丈夫です、気になさらないで下さい……」

 自分の発した声にますみはぞっとした。
 いつもの声ではなくかすれたような子供とは思えない声だった。

「スピード落とすかい……? 」

 前方を向きながらも運転手はますみのあまりの調子の悪さを気遣う。

「いえ、このままお願いします」

 ますみの前にある前部座席の背の部分に悪魔の顔が浮き出した。

「おい、大丈夫かよ。顔色悪いぞ。今ここでお前に死なれる訳に行かねぇぞ。契約しろ。弟は助けてやる」

「黙りなさいエスレフェス……。かなたは神様のしもべです。決して見放されたりはしません」

 悪魔は鼻で笑った。

「だったら何故お前はそんなになって心配しているんだ。わかっているからだ。しもべである事が命を奪われないという事ではない事を。信心深い者が捧げ物にされた事例はいくらでもあるからな」

 ますみはかぶりを振った。

「かなたは捧げものにはなりません! 」

「根拠がねぇな」

 悲鳴のようなますみの声を聴いた運転手が背中で言う。

「委員長ちゃんしっかりしな!弟さんは大丈夫だ、きっと今頃レスキュー隊が助けている頃だ、怖い思いをした弟さんを慰めてやるのが委員長ちゃんの仕事なんだから落ち着かなきゃいけねぇ」

 ますみはかすれた声ではいと答えたがその耳元で悪魔が囁く。

「そう上手くいくものかな。神ってのは気まぐれだ。俺が思うにお前は盲目的な信者ではない、賢い部類の信者だ。だったらわかるだろう。神は神の味方であって、人間の味方ではない事を」

「やめなさいエスレフェス。私を誘惑しても無駄です」

「声に力がねぇな。まぁ確かにお前の言う通りあの小僧は捧げものではないだろうな。アブラハムとイサクのくだりとは違ってあの小僧を差し出せなどと神は言っていない。ならあの小僧の危機に意味はあるのか?神が預からないところで起こっている事じゃないのか?どうして神があの小僧を助けると思う」

 ますみはキッと悪魔を見返したが悪魔はその視線をしっかり受け止めながらさらに続けた。

「もし神がお前の弟を救う気が在ったのならそもそもあの乗り物に閉じ込められていると思うのか?川に流される前にどうにかできたんじゃないのか?少なくとも俺ならそうするがな。俺に思いつく事を神がしないと思うのか? 」

 一度そこで言葉を区切った悪魔だったがますみの言葉がすぐに返らない事に若干目を細め容赦なく続ける。

「良いか小娘、世界中ではな、理不尽に奪われてゆく命なんて珍しくはないんだ。ああそうだそういう命の方がそうじゃないものよりはるかに多い。この事実が何を示しているかわかるか?神はいちいち危機に瀕している奴を救ったりはしないって事だ。それはな、ここが楽園エデンではないからだ。ここは人間の世界、人間達で何とかしなくちゃならない世界だからだ。確かに気まぐれな介入は何度かあっただろう、だがそれを個人レベルで毎回期待するのは間抜けだってんだよ」

「やめなさいエスレフェス。無駄です」

 悪魔を見つめ返したままますみは答えるが悪魔はやめることをしない。

「ならお前はこれを神の意志だと言うのか?弟に課せられた試練だとでも?本当に試練か?単純にそこであいつの役目が終わるだけじゃないのか? 」

「エスレフェス! 」

 悪魔はますみに顔を寄せた。

「俺は神とは違う。契約はきっちり果たす。状況はわかっているんだろ?決断は早い方がいいぞ」

「黙りなさい! 」

 悪魔は今やますみの隣に座り、ぴたりと顔を隣に寄せて囁いていた。

「このまま弟を失っても良いのか?あの小僧は俺の目から見ても姉思いの良い奴だ。お前の為なら命だって差し出す様な奴さ。だがその命もただ無駄に泥の中に埋もれようとしている。押し寄せる泥水に意思はない、お前の気持ちなんざ全く関係ないって事だ。なぁ、あの小僧は今まで何度お前を救った?救われたって思った事があるんだろう? 」

 ますみの頬が震え下唇が噛まれる。

「お前が救ってやらなくていいのか?誰よりも立派な、大人より立派なお姉ちゃんになるんだろう? 」

「あなた、私の心を……! 」

 悪魔は目を細め涼しげな笑みを浮かべた後かっと瞳を見開いた。

「契約しろ。弟を助けてやれ」

「あなたの助けは借りません」

 凛として見返すますみの視線を受け止めたまま悪魔は哀れそうに小さくかぶりを振る。

「じゃぁ聞くけどな、誰があいつを助けられる?歩いて川の真ん中まで行くか?あの激流を船でも漕いでいくのか?空でも飛んで行くっていうのか?お前が行った所で何一つ状況は変わらない。むしろ事態は悪化しているのかもな。そしてお前はあの乗り物が土砂に埋もれていくのを指をくわえて眺める羽目になるんだ」

「なりません! 」

 激しく否定するますみを悪魔は嘲笑しながら返した。

「いいや、なるね。お前は心のどこかで何とかなると思い込もうとしているが、そんなのは願望でしかない。よく考えて見ろ。今起こっている事は別に大事件じゃない。日常的に世界のどこかで起こっている災害の一つでしかない。いいか小娘。お前ひとりにとって非日常でも全世界から見たら通常運転の日常だ。騒いでいるのも地元だけだぞ。そんな日常の一幕の当たり前に出る犠牲者を、いちいち神が救うものか」

 ますみは答えられずただ拳に力を込めたまま悪魔を見つめ返した。

「だが俺は違う」

 悪魔は背を伸ばしてそう言った後、再び顔を寄せた。

「悪魔はどんな小さな声にでも耳を傾ける。重要であろうとなかろうと、規模が大きかろうと小さかろうと、正しかろうと間違っていようと、契約をするのであれば必ずそれを遂行する。それが呪いを望むものであっても救いを求める声であってもだ。契約の前では悪魔は神の様な裏切りはしない」

「かなたは無事です」

「いつまでもそうやって希望的観測にすがっていると取り返しがつかなくなるって言ってんだ。わからないのか」

「私を揺さぶろうとしても無駄です!神様は誰もお見捨てになりません! 」

 何度も声を荒げて独り言を言うますみにタクシーの運転手は声を掛けなかった。それほどまでに気が動転しているのだろうと思ったからだ。
 一刻も早く弟のそばに行かせてやりたい、しかしいざ着いた時にこの少女は危ない事を始めたりしないだろうかとの不安が頭をよぎった。

「小娘、お前は魂を悪魔に渡す事が悪い事だと思っているのではないか?だとしたらそれは大きな間違いだ。そもそも聖書のどこを見ても悪魔に魂を渡してはならないとは書かれていない。神への忠誠を誓ったまま俺と契約をすればいいだけの事だ、契約書には神への信仰を継続する事もしっかり明記してやろう。」

「詭弁です!魂を渡すことは悪魔に従う事。それは神様への信仰を捨てる事です」

 ますみはそこで何年も浮かべた事の無かった怒りの表情のままふた雫涙を流した。

「私はあなたにそそのかされて罪を犯しました。神様への信仰を忘れ、あなたに力を使うように指示しました……。二度とあなたの言葉は聞きません」

 悪魔は白けた表情でしばらくますみを見つめた。

「何言ってやがる。お前が願いを言ったから身重の女は助かった。神はそうしなかった。あの女を見殺しにした事が正しいって言うのか?あの時巻き添え食った連中はまぁたまたまだが全員が魂の質が低い連中、いわば神にしてみても救う程のもんじゃなかった奴らだ、実際神は手を出さなかった。まだ一切罪を犯していない命と他人の不幸を面白がって見ている連中を天秤にかける事も無いと思うがな」

「今ならわかります。罪の無い魂も罪のある魂も神様の前では平等です。どう扱うべきなのかは神様のご判断です。私は傲慢でした。そして何よりあなたに指示を出した私自身が最も罪深い者です。悪魔の力は借りません! 」

「おうおう、だったら弟は死んでも良いってんだな」

「良くありません! 」
 
 ますみは悪魔の顔を押し返す勢いで叫んだ。

「神様は私からかなたを取り上げたりはなさいません! 」

 悪魔は再び冷ややかに笑った。

「そうかい、だが、もしあの小僧への試練ではなくお前を試すためだったならどうかわからんよな。お前に対する試練、お前ほどの信心深い奴相手なら与える試練が想像を絶する過酷なものである可能性もあるよな」

 ますみの表情がありありと怒りから恐怖へ変わって行くのを認め悪魔は甲高く笑った。

「俺は人間のそういう顔が大好きだ! 」



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