フロイント

ねこうさぎしゃ

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五つめの願い

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 アデライデはフロイントの手をそっと握った。潤んだ瞳が揺れ、熱い吐息がアデライデの唇から漏れた。
「フロイント……。その前に、ひとつだけ聞かせてください……」
「……なんだ?」
「なぜ、あなたはわたしと契約を交わさなかったのですか……?」
 思わぬ問いに、フロイントは目を見張ってアデライデを見た。アデライデは再び熱い吐息をこぼしながら口を開いた。
「わたしは魔族の方々のルールは知りません。けれどバルトロークに捕まって、魔族の方は人間と契約を結ぶものなのだということがわかりました。でもあなたはわたしに対して、契約書にサインをすることを求めませんでした。それはなぜなのですか……?」
「それは──」
 フロイントはアデライデの青く揺れる瞳を見つめた。
 バルトロークに限らず、魔物は普通人間の魂を本能的に求める。しかし人の魂の力は強いもので、自らの意思が伴わなければ如何に魔物の魔力が強大であっても、真にその魂を自由にすることは難しい。だから魔物は人が自ら喜んで魂を差し出すように仕向けるため、その人間が欲しがる何かを与えるという餌をぶら下げて契約書に署名をさせる。だがフロイントはそもそも人間の魂を欲しいと思ったことが一度もなかった。だから人間と契約を交わすような機会を積極的に作ろうともしなかった。
 アデライデを初めて見た瞬間、その魂の光に惹かれて自分の手元に置きたい、自分のものにしたいという生まれて初めての衝動に突き動かされたことは事実だが、しかしアデライデをさらってこの館に閉じ込めたときにも、契約を結ぶという考えなど毛頭浮かびもしなかった。しかしそれはバルトロークが言ったように、長く魔物の世界と隔たって生きて来たゆえに契約の結び方を忘れてしまったからというような理由のためではなかった。フロイントが欲したものは確かにアデライデの魂であったかもしれないが、しかしそれはバルトロークのそれとは──魔物としての本能的な欲求とは異なる性質のものだった。
 フロイントはアデライデの青く光る瞳を見つめ、静かに口を開いた。
「──俺がおまえに契約を交わすことを求めなかったのは、そんなことをして得られるようなものが欲しかったからではない……」
 アデライデは小首を傾げ、問いかけの色を浮かべてフロイントの顔を見つめた。
 その愛らしくやさしい眼差しを見つめ返しながら、フロイントははじめてラングリンドの森でアデライデを見つけた瞬間に、自分の体の奥底から爆発的とも言える勢いで沸き起こった衝動を思い出していた。世界や自分自身からも背を向け、自ら何事かを欲したり、そのために行動するというようなこともなく、ただ無為に生きていた自分の目の前に突然現れたひとつの光──。どうしても欲しかった。何としても手に入れたかった。
 契約を交わせばアデライデを自分のそばに留めておくという願望を実現することは簡単だったかもしれない。だがフロイントは契約によって手に入る喜びの虚しさを直感的に覚っていた。それはフロイントがほんとうに望むものではなかった。フロイントが希求したのはアデライデの魂をただ単に「所有する」ということではなかった。
 では自分が何を求め期待しているのかということは、フロイント自身にも初めのうちはわからなかった。ただ強く何かを切望し、それがフロイントの心をいつも駆り立てていることだけはわかっていた。それはときに、フロイントを身の内から切り裂いてしまうほどに強烈な、痛みをも感じさせるものだった。
 息も吐けぬほどの苦しみと、心と肉体とを一時に翻弄するような期待が入り乱れ、せめぎ合うようなこの想いが、いったいどこから、何を源として生まれたものであるのかを見極めることは、魔物とも人間とも距離を置いて生きて来たフロイントにとっては難しいものだった。しかし今はよくわかる──。それは契約を交わして得られるものではないのだ。
 フロイントの耳底に、あの光の声が甦る。

 ──あなたはアデライデを愛しているのではありませんか?

 光の声は血と共にフロイントの全身を巡って広がり、心を痺れさせたように震わせた。フロイントはそっと目を閉じた。
 自分の想いが愛を根源に沸き起こったものであると気づかされた今となっては、アデライデに対して契約を迫るという考えが最初から浮かびもしなかったことの理由のすべては明白だった。
 フロイントが真に求めたのは、アデライデの魂に「愛される」ことだった。契約を交わして得られるかもしれない虚ろな愛によってではなく、アデライデのまことの意思のままにその光に包まれることだったのだ。
 フロイントは瞼を開け、アデライデを見た。アデライデは次の言葉を待つように、揺れる瞳をフロイントに注ぎ続けていた。アデライデの視線を受けるフロイントの心もまた激しく揺れていた。言葉を続けようとするフロイントの口を、怯えにも似た緊張とためらいが重く閉ざそうとするようだったが、フロイントは大きく息を吸い込むと、アデライデを真っ直ぐに見て言った。
「……俺はあの森でおまえを目にした最初の瞬間から、それが愛だとは知らず、おまえを深く愛したのだ。そしてその想いと同じくらいの強さで、おまえに愛されることを望んだ。契約の力などでおまえの魂を縛っておまえの愛を得るのではなく、おまえの自由な魂のままで俺を愛して欲しかったのだ……」
 言いながら、フロイントは息苦しさに胸を詰まらせた。愛を告げることがこんなにも強い力で胸を締め付けるなど、フロイントは知らなかった。
 アデライデの大きく見開いた瞳から、一滴の涙がこぼれた。フロイントは思わず指を伸ばし、そのきらめく宝玉のような涙をそっと拭った。
「すまない……」
「……どうして謝るのですか?」
「……何故だろうな……」
 アデライデの涙は、拭った指を通してフロイントの胸にもぽつりと落ちた。愛を言葉にしてしまうと、最初の恐れは蝋燭の火が吹き消されるように霧散し、後にはただ静かに澄んだ湖だけが果てしなく広がるようだった。
 フロイントは秘められた神殿を息を殺して覗く幼子のように、アデライデを見つめ囁くほどの声で言った。
「……愛とは不思議なものだな。自分でもわからない気持ちばかりが湧いてくる……」
 アデライデはフロイントの胸にぴたりと頬を寄せて泣き出した。その熱を帯びた頬と涙に、フロイントはアデライデの髪をそっと撫でて言った。
「どうしたのだ、アデライデ? どうして泣いているのだ……」
「……わかりません……」
 ますますぽろぽろと熱い涙を胸にこぼすアデライデに、フロイントはそっと囁いた。
「アデライデ、そんなに泣いては体に障るぞ。さぁ、もうじき夜が明ける。俺におまえの五つ目の願いを叶えさせてくれ。そしてその後は、もう一度ゆっくり眠るのだ……」
 フロイントの言葉にアデライデはゆっくりと顔を上げた。その目にはとめどなく涙があふれてこぼれ続けていたが、熱い息を吐き出すと、唇を震わすように開いて言った。
「フロイント、わたしの五つ目の願いは──今と変わらない想いで、ずっとわたしを愛していてほしいということです……」
 アデライデの願いの言葉を聞いたフロイントは、思わず息を止め、茫然とアデライデを見つめた。胸には一瞬にして様々な感情が怒涛となって押し寄せた。突然フロイントの目には涙があふれ、激しいむせび泣きに顔を伏せた。
 アデライデはフロイントのその様子を見ると、俄かに不安な息遣いになりながら、
「フロイント……、わたし、いけないことを願いましたか……?」
 アデライデの小さな声にフロイントは顔を上げ、頬を濡らす涙を手の甲で拭うと、
「……いいや、そうではない。ただ……ただ、おまえの言葉が胸にしみて、嬉しいのだ。嬉しくても泣くと教えてくれたのはアデライデ、おまえだったろう?」
 そう言って、フロイントは微笑んだ。
 アデライデは静かに息を呑んで、フロイントの顔を見つめた。それは、初めて目にするフロイントの微笑だった。



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