フロイント

ねこうさぎしゃ

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五つめの願い

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 館を包む空はほんのりと明るくなり始めていたが、まだ白く光る満月が空の低いところに浮かんでいた。アデライデに話すべきかどうか迷ったが、じっと自分を見つめるアデライデに向き直ると、その青い瞳をまっすぐに見返して、「俺自身、定かではないことだとは思っているのだが……」と前置きをして、フロイントは事の経緯を話し始めた。
「──おまえが連れ去られた後、完膚なきまでに叩きのめされていた俺は虫の息だった。だがすぐにも息絶えるだろうという今際の際を朦朧とさまよっていた俺の目は、まるで洪水のように眩くあふれる光をとらえた。それは窓の外に今も浮かぶあの月から放たれているようにも思えた。そして耳には声が聴こえた……。厳かな、だが不思議に包み込まれるような声だった。その声は生死を司る精霊だと名乗った。そして俺に立ち上がれと、まだ死ぬ時期ではないと言った。そればかりか、その声は俺が今この瞬間生まれ変わり、目覚めるのだとも言った。俄かには信じがたく、言わば異常な状況に置かれた俺は、正直なところ混乱し、それ以上に怒りさえ湧いた。……だがその声と問答を繰り返すうちに、俺はおまえをあのバルトロークの手から奪い返すまでは死ぬわけにはいかないと強く思った。気がつくと俺は光の中、再び立ち上がっていた。立ち上がった俺の体に光が染み込み、致命傷を受けて機能の停止しかけていた体中の傷は見る間に癒え、そればかりか未だかつてない魔力が体の奥底から湧き上がり、全身を満たすのを感じた。そして声に背中を押され、俺はバルトロークの城に向かった。
 俺は確かに生まれ変わった心境だった。魔力に劣り、取るに足らぬ者と軽んじられ、自分自身そうだと信じて疑いもせず生きてきた俺が、はっきりと自分の力を確信し、強い気持ちに突き動かされてバルトロークの城に乗り込んだのだ。奴の守兵どもなど物の数にも入らなかった。後はおまえも知っての通りだ。あの禍々しいまでに飾り立てられた大広間で、俺はバルトロークを撃ち破り、おまえが俺のために奴と交わした契約も無効となった。そして今、おまえと共に、ここにこうしている──。……俺自身この館の階下、正餐室で見たあの光や声は、死を目前にした俺の精神が作り出した幻だったのかもしれないと疑う気持ちはあるが、しかし今も俺の内側にバルトロークを討ったとき以上の魔力が燃えているということもまた事実なのだ──」
 アデライデはフロイントの話にじっと耳を傾けて聞き入っていたが、やがてゆっくりと窓の外にまだ静かに浮かんでいる月を仰いだ。
「──きっと、幻などではなかったと思います。ほんとうに月が──精霊が、助けてくださったのだと思います……」
 そう言ったとき、アデライデは不意に、フロイントと過ごすこの瞬間が静寂で満たされていることに気がついた。思わず息を潜めて耳に意識を集中させたアデライデは、これまで絶えず館の外を取り巻いて脅かすようにも聞こえていた風の音が、ほんの微かにさえ聞こえてこないことをはっきりと確認した。
「風が止んでいる……」
 驚きのうちに呟いて、アデライデは青い瞳をまっすぐフロイントに向けた。
「フロイント……あの冷たく心を引き裂くようだった風は、もう吹いていないのですね……」
 感情の昂ぶりを押さえるようにして話すアデライデの瞳の美しさに、フロイントの胸は射抜かれたように震え、思わず息を呑んだ。
「フロイント、あなたは……わたし達は、もう大丈夫……。何も心配することなんてないのだわ……」
 感動に息を詰まらせて囁くようなアデライデの潤んだ瞳を見つめながら、フロイントはアデライデへの愛おしさがいやが上にも高まっていくのを感じたが、同時に暗い灰色の雲が重々しく立ち込めていくのがわかった。フロイントは自分の胸にもたれれかかって、潤んだ美しい瞳で嬉しそうに顔を見上げるアデライデからそっと視線を外し、次第に夜の終わろうとする夜空にそれでもぼんやりとかかっている月を見つめた。
 バルトロークが最期に吐いた言葉は実際現実のものになるだろう。フロイントは魔王などその影さえ見たことがなかったが、魔界のすべての魔族を統べる絶対的な王として君臨し、その政治は厳格で容赦のないものであることぐらいは知っている。この魔界では位における序列が重要視され、それを守ることに重きが置かれていることも理解していた。バルトロークの城に集まっていたのはどれも皆上位の魔物であった上、とりわけ最上位たる公爵──ましてや魔王の寵臣であることを誇りとしていたバルトロークを殺した罪科は到底看過されるものではないだろう。命でもってその償いを要求されることは免れないはずであり、今にも刑の決定の記された通知状が届くかもわからない。
 すべて承知の上ではあったが、アデライデの柔らかく甘い視線に包まれると、フロイントの覚悟は揺らぎ、脆くも崩れ落ちてしまいそうになる。しかしとにかくもフロイントはアデライデへの想いを少しでも多く表しておきたかった。だが不用意なことを口にして、心やさしいアデライデを不安にさせ、清らかな瞳を曇らせたくはなかった。アデライデにはいつでも微笑んでいて欲しい。それがフロイントの願う唯一だった。
 フロイントはアデライデに視線を戻すと、そっとアデライデの手を取った。その手の熱さに一瞬驚いたが、魔王からの書状が今この瞬間にも届くかもしれぬと気に掛かかり、フロイントはすぐに口を開いてアデライデに言った。
「アデライデ、もうじき夜が明けるが、空にはああしてまだ月が浮かんでいる。つまり今はまだ夜なのだ……おまえの願いを叶える満月の夜──。アデライデよ、五つ目の願いを言ってくれ……」

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