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――三百年後。
もう、自分の呼吸すらも喉を裂く。吐きそうだ。いや、もう吐いた。何度か少し。
もう走れない、もう無理だ。
ひび割れたような耳障りな声で威嚇を怒鳴るオーク達の声は、もう遠くはない。
「はっ、あ!」
走り続けた足がもつれ、つまずいて、男はそのまま地に両手をついた。
頭領に一度、それも初めて剣の上達をほめられたからと、完全に調子に乗っていた。巡回は森の外へ出なくていいと言われていたのに。
何かあれば砦に戻って知らせろと、そう言われていたのに。
十数匹もいたか、オークの兵士達を見たヘルマンは、まっすぐに砦へ向かうこの魔物達の、せめて方向を逸らせないかと試みたのだ。
陽動を誤り、すぐに駆け込もうと思った森から、どんどん離れていく。
走りに、走って、もう走れない。もう、ここまでか。
「何をしているッ! 止まるな、走れッ! 顔を上げろ! 矢の届かぬよう、岩陰の向こうに入れッ!!」
怒鳴り声と共に、ヒュッと背から風を切る音がして、地に着いた手の傍に歪んだ矢が立って。
死にたくない!
まだ死にたくない、その一心で立ち上がり、目にも入っていなかった大きな岩の向こうへと駆け込み。ほとんど顔から突っ込むようにして地面に滑り込んで、砂を噛んだ。
喉は干上がり、したくもないのに喘いで止まらぬ呼吸が、余計に喉をかすれさせる。
助かった、という感覚はなかった。
だが、自分以外の誰かがいたことは分かる。
オークの声はさきほどよりも近く、騒がしく、背筋が震え上がり。
それでも、濁って聞き取りにくいオーク達の声の中に、何度もエルフと喚く声が聞こえて、顔を上げた。
エルフだ。エルフが通りかかったのか? それとも、砦のエルフが自分を探しに?
それはないな、と、すぐに打ち消しながら、ヘルマンは恐る恐る岩から目だけ出して、そして、その目を剥いた。
オークの放った矢が掠め、いななきを上げて後ろ足で立ち上がる馬から、乗り手は、ねばらず飛び降りる。
跳び上がって宙転したかと思えば、着地した途端、その低い姿勢のままで間を置かず矢を放ち。無理な姿勢から射ったにも関わらず、一体のオークがのけぞって倒れる。
それでも、オーク達は倒れた仲間など振り返らず、馬から降りたエルフへと殺到する。
ヘルマンは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
オーク達の足は、見た目よりも速い。ヘルマンも、それで誘導を誤ったのだ。
瞬く間に距離が詰まっているのに、なお次の一矢が放たれるのが見えて、息を飲む。
オークは倒れたが、まさかあの数を至近距離でも矢で倒すつもりなのかと、見ている方がハラハラするような。だが、ハラハラなど、する間もなかった。
弓を引き上げたのは見た。確かに見たが、今はもう、既にその両手にはそれぞれ剣が握られていて。
両手と両足が、バラバラに、けれど完全に調和して動く様は、舞いのようだ。
美しい剣舞に構わず群がるオークの、中心辺りから、ポンポンと丸い何かが飛び出て。
落ちたそれを何だろうと目で追って、ヘルマンは身震いした。
細身の甲冑をまとった舞手の長い黒髪が躍り、伸びやかな手足が宙を泳げば、オークの首が飛ぶ。
残酷で美しい舞いに、だが、オークはヘルマンのような感情の揺らぎなど持たぬよう、なお飛びつき、掴み掛かろうと押し寄せている。
またどこからか、聞き取れぬような音で誰かが声を上げ。
トン、トン、と軽やかにバックステップを踏む黒髪のエルフは、三歩目でひらりと大きく身をかわす。
今度はなんだと思うそばから、何かが真っ直ぐに飛び来て。
バタバタといくらかのオークが倒れ、何匹かが炎に巻かれて悲鳴を上げる。
「え、あ!」
出どころは、岩陰の逆側で見えなかったのだ。
恐ろしいのも忘れて立ち上がったヘルマンは、ベスシャッテテスタルの方向に、騎馬の数人が杖を掲げているのに気づく。おそらく、多分、だが、今のは谷のエルフの魔術ということだろうか。
援護だ、これで自分も彼も助かる、と。
振り返れば、黒髪のエルフは火に巻かれたオークにとどめを差し終え、弓を背に収めるところだった。
「いや、持ってたのは剣だよな!?」
思わず、驚きが声に出てしまう。
彼の両刀はすでに腰から下がっていて、弓から剣に持ち替えるのも見えなかったと思い出すが。心は、まったく腑に落ちない。
もう、完全にポカンとしてしまい。黒髪のエルフと谷のエルフが、互いに胸に手を当て額を下げる、エルフの礼を交わしているのを呆然と見守るばかりだ。
フィー…と、かすれた鳥の声のような口笛を吹きながら、黒髪のエルフが歩いてくる。
驚いて離れてしまったのか、彼が乗っていた馬が向こうの方から戻ってくるのが見えて、今の口笛は馬への合図かと合点して。
たった今、十数匹のオークを屠ったとは思えぬ整ったエルフの姿に、ヘルマンは慌てて立ち上がり直し、砂だらけの服を急いであちこちはたく。
肩甲骨にかかるほどだろうか、少し癖のある垂らした黒髪は、顔の横だけ戦士らしく細く編まれ。白金の甲冑に、黒に近い深緑色のマントは、初めて見るが、聞いたことくらいはある。
「生きていたか。運がいいようだな」
「あッ、ありがとうござ、ッ、うッ」
口も喉もカラカラで、声が続かない。
ぺこぺこと礼代わりに頭を下げ。戻ってきた馬に預けていたらしい、黒髪のエルフが差し出してくれる水筒を受け取り。
「顔も砂だらけだ。口をすすいでから飲んだ方がいい」
指示が先回りで細かい。
そんなエルフらしさが急におかしくて、むせそうになるのを誤魔化し、助言された通りに口の中の砂をすすいで吐き出してから、やっと水にありついた。
「ほんと、ありがとうございました。……ええと、近衛のエルフさん…?」
戻す水筒をまた馬へ預け、黒髪のエルフが頷く。
深緑のマントをつけるのは、エルフの中でも王宮直属の近衛兵だけだと聞いたことがある。甲冑を着けているが重装備でなく、兜もしていない。
儀礼用の甲冑ということか、と、“にわか”の知識ばかりが思い出され。
「名はハルカレンディアだ。近衛といっても下っ端なものだから、谷への使者を務めていたのだ。境の森の砦の者か?」
なるほど、と、王宮の外では見かけぬはずの深緑のマントを見た理由に納得して。自分のことを尋ねられるのに、はいと頷く。
「砦に来てまだ2年です。いらない末息子なもので、噂に聞く砦で名を上げようと思ってきたんですが、…見回りのつもりが、余計なことをしてしまって」
うん、と頷いて、歩こうとハルカレンディアが促すのを意外に思いながら、歩き出す。
てっきり、馬に乗って去ってしまうだろうと思っていた。
「勇敢だな。悪いことではないが、もう少し周囲に目を配れるようになればもっといい」
はい…、と、返す言葉もなく頭を下げる。気のせいだろうか、かすかに息を抜いたような隣の気配が、クスリと笑ったように思えて、はああ…と、情けないため息をついた。
「訪れるのは少し振りだ。砦はどんな様子だろうか?」
あ、はい。と、背筋を伸ばし直し。ふと、毎日を活き活きと満たし、オークを陽動しようなどと思い立たせるほど、度胸のある方とはいえない自分を高揚させている、砦での日々が頭に浮かんで。
「話には聞いてたけど、すばらしいですよ。エルフ国で、エルフと人間と獣人が共闘する部隊はここだけだし、5年交替とはいえ、国軍のエルフ達がわざわざ俺達に教えに来てくれるなんていうのも」
言葉通り、他にはない。物理職と詠唱職のエルフ二人組が、と手振りがつくほど熱心に語るのを、物理職?と、遮られたりして。
剣や槍、弓という物理的な攻撃手段を使う者をそう呼び、対になるよう、魔術師を詠唱職と呼んでいる、と。
国軍の用語じゃなかったのか、などと、互いに感心し合ったりして。
「特に、弓術隊のめざましさはやっぱりすごいです。剣術部隊や槍術の連中から、出番が回ってこないって、文句が出てるのを聞きます」
それはすごいな、と、穏やかに返される相槌が、耳に柔らかく。
「低いものだが、防壁があるからだろう。まず弓の出番になるのは道理だ」
はい、と頷き、壁の低さについて尋ねた時、古参の男が、高かったらうっとうしいからだよ。と、首を竦めたのを思い出す。
「それに、谷のエルフが唯一来るとこだっていうのもありますね。そういう“他にはない”が目白押しで、市場も賑わう一方で」
「商と軍は案外相性がいいものだが、軍が強くなければ商は逃げてしまう。みな有能なようだ」
静かな相槌に、いちいちなるほどと感心しながら。馬の手綱を引くハルカレンディアを、ヘルマンはチラと横目に見上げ。
どこまで歩くのだろうか、まさか付き添ってくれているのだろうか、と、思うのが声にでも聞こえたように、少し顔を向け、ハルカレンディアは頬笑む。
「砦に友人がいるのだ。近くへ来たのだから、顔くらい見せないとまた叱られてしまう。ケレブシアを知っているだろうか?」
高貴を絵に描いたような、けれど、何かどこかが確かに気さくな、葉色の瞳のエルフが自分の隣を歩くわけに、落ちかけた納得が吹き飛んだ。
「あ、あ! ああ、“銀と珊瑚の魔女”のお知り合いですか…!」
砦いちの魔術師であり、薬師であるケレブシアの、美しいが取り付く島のない横顔を思い出せば、胸が高鳴る。
魔女?と、ハルカレンディアが笑う。
「彼は男性だぞ」
「あっ、はい、はっ、はい…」
そんなはずもないのに、邪な思いを見透かされたような心地になって、大いに慌てる。
「ああ、その、あまりにも、なんというか、人智を越えたような魔術の使い手だから、あの、俺達が勝手にそう呼んでるだけで……。…それに、あの、変な意味じゃなくて、男とは思えない美しさで…」
正面の顔すら向けてもらったこともないというのに、その横顔を思い出すだけで、胸が躍る。
そうだな…と、寄越される、何故かひどく静かな声を不思議に思いつつ。では、正面ではなくこっちを通りましょうと、馬を引くハルカレンディアを脇道へと案内し。
「あれは、心のやさしい子だからな。……時につれて深くなる悲しみが、余計に彼を美しくするのだろう」
どこか、自分に向けられるのではなく、独りごちるようなハルカレンディアの声に、ふと。ああ、彼もエルフなのだと胸に落ちる。
エルフ達はみな一様に青年の姿をしていて、その長い寿命とはまるで無関係のように、誰も彼も若々しい。けれど、と、長く砦にいる古参が物知りげに話していたのを思い出す。
エルフの老若は、瞳に現れるのだそうだ。
人間には知ることのない、百年、数百年、エルフによっては数千年にも及ぶ、長い時がもたらす憂いが、エルフ達の瞳には宿っているのだという。
憂いか、と、その本当の意味を知らぬながら、横目でハルカレンディアを覗き見て、ヘルマンは瞬いた。
「狼の牙ですか? 立派なものですね」
まるで、祈りに似た仕草だと思った。
だが、歩きながら音もなく唇に寄せられているハルカレンディアの指には、牙としか見えぬものが握られていて。まだ若いヘルマンは、自分がそれを、エルフらしくないと感じたことにすら気づかない。
ハルカレンディアが掌に乗せて少しこちらに向けてくれて、それが突然現れたのではなく、鎖に通して首から掛けられているのだと知った。
「…いいや。これは、…鬼の牙だ」
首飾りになっている牙が、襟元から鎧の下の衣服の内に落とされるのを見て、服の下に下げているのだと納得する。
「鬼? 鬼って、実在するんですか?」
おとぎ話だと思ってた…と感心するヘルマンに、ハルカレンディアは頬笑み。
「今はもういない。……、…これは、三百年も前に私を捕らえ、それから数十年も、…いや。…今も捕らえて放さぬ鬼の、その牙なのだ」
ゴクリと息を飲んでから、けれど、うん?と、首を傾げてしまう。
三百年前、数十年。でも、今も捕らえられて? 牙は、討伐の証ではないということか?
謎かけだろうか、と、首をひねるばかりのヘルマンは、けれど、進む先から聞こえてきた声に、ハッと顔を上げる。
「ハルカレンディア!」
怒っているような、少し拗ねたような、長命の印象を裏切る独特の、密かによく知った声。
垂らした癖のない銀の髪、遠くて瞳の色は見えないが、サラサラと流れるような生地のローブ。銀と珊瑚の魔女と呼ばれる半エルフの魔術師、ケレブシアだ。
砦から離れた泉のそばに家を構える魔術師には、真っ直ぐ砦に向かわない、こちらの道の方が早く会えると考えはしたが。遠目でも見分けがつくほど親しい友人らしい、とハルカレンディアを振り返る。
「ケレブシア!」
応じて手を上げ、先までの静けさがうそのように、大きく手を振る黒髪のエルフ。
目を丸くしてハルカレンディアを見上げながら、ふいに腹に落ちる。
数百年を生きる、エルフに特有の憂いをたたえた、葉色の瞳。細く編み込んだ長い髪に、スラリと細身の長身。静かな動作や、語り口、謎かけのような話しぶり。その物静かさが嘘のような、苛烈な戦い。
すべてが絵に描いたように「エルフらしい」彼に、感じる、不思議な“良い”違和感の出どころ。
手綱を離して馬の歩みを馬に任せ、早足になるハルカレンディアを見送って。そうか、と、ヘルマンは勝手に合点する。
すべてのエルフに重く垂れ込めるという憂いにすら、一条の光を差すよう。
このエルフの声は、明るいのだ。
(おしまい)
もう、自分の呼吸すらも喉を裂く。吐きそうだ。いや、もう吐いた。何度か少し。
もう走れない、もう無理だ。
ひび割れたような耳障りな声で威嚇を怒鳴るオーク達の声は、もう遠くはない。
「はっ、あ!」
走り続けた足がもつれ、つまずいて、男はそのまま地に両手をついた。
頭領に一度、それも初めて剣の上達をほめられたからと、完全に調子に乗っていた。巡回は森の外へ出なくていいと言われていたのに。
何かあれば砦に戻って知らせろと、そう言われていたのに。
十数匹もいたか、オークの兵士達を見たヘルマンは、まっすぐに砦へ向かうこの魔物達の、せめて方向を逸らせないかと試みたのだ。
陽動を誤り、すぐに駆け込もうと思った森から、どんどん離れていく。
走りに、走って、もう走れない。もう、ここまでか。
「何をしているッ! 止まるな、走れッ! 顔を上げろ! 矢の届かぬよう、岩陰の向こうに入れッ!!」
怒鳴り声と共に、ヒュッと背から風を切る音がして、地に着いた手の傍に歪んだ矢が立って。
死にたくない!
まだ死にたくない、その一心で立ち上がり、目にも入っていなかった大きな岩の向こうへと駆け込み。ほとんど顔から突っ込むようにして地面に滑り込んで、砂を噛んだ。
喉は干上がり、したくもないのに喘いで止まらぬ呼吸が、余計に喉をかすれさせる。
助かった、という感覚はなかった。
だが、自分以外の誰かがいたことは分かる。
オークの声はさきほどよりも近く、騒がしく、背筋が震え上がり。
それでも、濁って聞き取りにくいオーク達の声の中に、何度もエルフと喚く声が聞こえて、顔を上げた。
エルフだ。エルフが通りかかったのか? それとも、砦のエルフが自分を探しに?
それはないな、と、すぐに打ち消しながら、ヘルマンは恐る恐る岩から目だけ出して、そして、その目を剥いた。
オークの放った矢が掠め、いななきを上げて後ろ足で立ち上がる馬から、乗り手は、ねばらず飛び降りる。
跳び上がって宙転したかと思えば、着地した途端、その低い姿勢のままで間を置かず矢を放ち。無理な姿勢から射ったにも関わらず、一体のオークがのけぞって倒れる。
それでも、オーク達は倒れた仲間など振り返らず、馬から降りたエルフへと殺到する。
ヘルマンは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
オーク達の足は、見た目よりも速い。ヘルマンも、それで誘導を誤ったのだ。
瞬く間に距離が詰まっているのに、なお次の一矢が放たれるのが見えて、息を飲む。
オークは倒れたが、まさかあの数を至近距離でも矢で倒すつもりなのかと、見ている方がハラハラするような。だが、ハラハラなど、する間もなかった。
弓を引き上げたのは見た。確かに見たが、今はもう、既にその両手にはそれぞれ剣が握られていて。
両手と両足が、バラバラに、けれど完全に調和して動く様は、舞いのようだ。
美しい剣舞に構わず群がるオークの、中心辺りから、ポンポンと丸い何かが飛び出て。
落ちたそれを何だろうと目で追って、ヘルマンは身震いした。
細身の甲冑をまとった舞手の長い黒髪が躍り、伸びやかな手足が宙を泳げば、オークの首が飛ぶ。
残酷で美しい舞いに、だが、オークはヘルマンのような感情の揺らぎなど持たぬよう、なお飛びつき、掴み掛かろうと押し寄せている。
またどこからか、聞き取れぬような音で誰かが声を上げ。
トン、トン、と軽やかにバックステップを踏む黒髪のエルフは、三歩目でひらりと大きく身をかわす。
今度はなんだと思うそばから、何かが真っ直ぐに飛び来て。
バタバタといくらかのオークが倒れ、何匹かが炎に巻かれて悲鳴を上げる。
「え、あ!」
出どころは、岩陰の逆側で見えなかったのだ。
恐ろしいのも忘れて立ち上がったヘルマンは、ベスシャッテテスタルの方向に、騎馬の数人が杖を掲げているのに気づく。おそらく、多分、だが、今のは谷のエルフの魔術ということだろうか。
援護だ、これで自分も彼も助かる、と。
振り返れば、黒髪のエルフは火に巻かれたオークにとどめを差し終え、弓を背に収めるところだった。
「いや、持ってたのは剣だよな!?」
思わず、驚きが声に出てしまう。
彼の両刀はすでに腰から下がっていて、弓から剣に持ち替えるのも見えなかったと思い出すが。心は、まったく腑に落ちない。
もう、完全にポカンとしてしまい。黒髪のエルフと谷のエルフが、互いに胸に手を当て額を下げる、エルフの礼を交わしているのを呆然と見守るばかりだ。
フィー…と、かすれた鳥の声のような口笛を吹きながら、黒髪のエルフが歩いてくる。
驚いて離れてしまったのか、彼が乗っていた馬が向こうの方から戻ってくるのが見えて、今の口笛は馬への合図かと合点して。
たった今、十数匹のオークを屠ったとは思えぬ整ったエルフの姿に、ヘルマンは慌てて立ち上がり直し、砂だらけの服を急いであちこちはたく。
肩甲骨にかかるほどだろうか、少し癖のある垂らした黒髪は、顔の横だけ戦士らしく細く編まれ。白金の甲冑に、黒に近い深緑色のマントは、初めて見るが、聞いたことくらいはある。
「生きていたか。運がいいようだな」
「あッ、ありがとうござ、ッ、うッ」
口も喉もカラカラで、声が続かない。
ぺこぺこと礼代わりに頭を下げ。戻ってきた馬に預けていたらしい、黒髪のエルフが差し出してくれる水筒を受け取り。
「顔も砂だらけだ。口をすすいでから飲んだ方がいい」
指示が先回りで細かい。
そんなエルフらしさが急におかしくて、むせそうになるのを誤魔化し、助言された通りに口の中の砂をすすいで吐き出してから、やっと水にありついた。
「ほんと、ありがとうございました。……ええと、近衛のエルフさん…?」
戻す水筒をまた馬へ預け、黒髪のエルフが頷く。
深緑のマントをつけるのは、エルフの中でも王宮直属の近衛兵だけだと聞いたことがある。甲冑を着けているが重装備でなく、兜もしていない。
儀礼用の甲冑ということか、と、“にわか”の知識ばかりが思い出され。
「名はハルカレンディアだ。近衛といっても下っ端なものだから、谷への使者を務めていたのだ。境の森の砦の者か?」
なるほど、と、王宮の外では見かけぬはずの深緑のマントを見た理由に納得して。自分のことを尋ねられるのに、はいと頷く。
「砦に来てまだ2年です。いらない末息子なもので、噂に聞く砦で名を上げようと思ってきたんですが、…見回りのつもりが、余計なことをしてしまって」
うん、と頷いて、歩こうとハルカレンディアが促すのを意外に思いながら、歩き出す。
てっきり、馬に乗って去ってしまうだろうと思っていた。
「勇敢だな。悪いことではないが、もう少し周囲に目を配れるようになればもっといい」
はい…、と、返す言葉もなく頭を下げる。気のせいだろうか、かすかに息を抜いたような隣の気配が、クスリと笑ったように思えて、はああ…と、情けないため息をついた。
「訪れるのは少し振りだ。砦はどんな様子だろうか?」
あ、はい。と、背筋を伸ばし直し。ふと、毎日を活き活きと満たし、オークを陽動しようなどと思い立たせるほど、度胸のある方とはいえない自分を高揚させている、砦での日々が頭に浮かんで。
「話には聞いてたけど、すばらしいですよ。エルフ国で、エルフと人間と獣人が共闘する部隊はここだけだし、5年交替とはいえ、国軍のエルフ達がわざわざ俺達に教えに来てくれるなんていうのも」
言葉通り、他にはない。物理職と詠唱職のエルフ二人組が、と手振りがつくほど熱心に語るのを、物理職?と、遮られたりして。
剣や槍、弓という物理的な攻撃手段を使う者をそう呼び、対になるよう、魔術師を詠唱職と呼んでいる、と。
国軍の用語じゃなかったのか、などと、互いに感心し合ったりして。
「特に、弓術隊のめざましさはやっぱりすごいです。剣術部隊や槍術の連中から、出番が回ってこないって、文句が出てるのを聞きます」
それはすごいな、と、穏やかに返される相槌が、耳に柔らかく。
「低いものだが、防壁があるからだろう。まず弓の出番になるのは道理だ」
はい、と頷き、壁の低さについて尋ねた時、古参の男が、高かったらうっとうしいからだよ。と、首を竦めたのを思い出す。
「それに、谷のエルフが唯一来るとこだっていうのもありますね。そういう“他にはない”が目白押しで、市場も賑わう一方で」
「商と軍は案外相性がいいものだが、軍が強くなければ商は逃げてしまう。みな有能なようだ」
静かな相槌に、いちいちなるほどと感心しながら。馬の手綱を引くハルカレンディアを、ヘルマンはチラと横目に見上げ。
どこまで歩くのだろうか、まさか付き添ってくれているのだろうか、と、思うのが声にでも聞こえたように、少し顔を向け、ハルカレンディアは頬笑む。
「砦に友人がいるのだ。近くへ来たのだから、顔くらい見せないとまた叱られてしまう。ケレブシアを知っているだろうか?」
高貴を絵に描いたような、けれど、何かどこかが確かに気さくな、葉色の瞳のエルフが自分の隣を歩くわけに、落ちかけた納得が吹き飛んだ。
「あ、あ! ああ、“銀と珊瑚の魔女”のお知り合いですか…!」
砦いちの魔術師であり、薬師であるケレブシアの、美しいが取り付く島のない横顔を思い出せば、胸が高鳴る。
魔女?と、ハルカレンディアが笑う。
「彼は男性だぞ」
「あっ、はい、はっ、はい…」
そんなはずもないのに、邪な思いを見透かされたような心地になって、大いに慌てる。
「ああ、その、あまりにも、なんというか、人智を越えたような魔術の使い手だから、あの、俺達が勝手にそう呼んでるだけで……。…それに、あの、変な意味じゃなくて、男とは思えない美しさで…」
正面の顔すら向けてもらったこともないというのに、その横顔を思い出すだけで、胸が躍る。
そうだな…と、寄越される、何故かひどく静かな声を不思議に思いつつ。では、正面ではなくこっちを通りましょうと、馬を引くハルカレンディアを脇道へと案内し。
「あれは、心のやさしい子だからな。……時につれて深くなる悲しみが、余計に彼を美しくするのだろう」
どこか、自分に向けられるのではなく、独りごちるようなハルカレンディアの声に、ふと。ああ、彼もエルフなのだと胸に落ちる。
エルフ達はみな一様に青年の姿をしていて、その長い寿命とはまるで無関係のように、誰も彼も若々しい。けれど、と、長く砦にいる古参が物知りげに話していたのを思い出す。
エルフの老若は、瞳に現れるのだそうだ。
人間には知ることのない、百年、数百年、エルフによっては数千年にも及ぶ、長い時がもたらす憂いが、エルフ達の瞳には宿っているのだという。
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だが、歩きながら音もなく唇に寄せられているハルカレンディアの指には、牙としか見えぬものが握られていて。まだ若いヘルマンは、自分がそれを、エルフらしくないと感じたことにすら気づかない。
ハルカレンディアが掌に乗せて少しこちらに向けてくれて、それが突然現れたのではなく、鎖に通して首から掛けられているのだと知った。
「…いいや。これは、…鬼の牙だ」
首飾りになっている牙が、襟元から鎧の下の衣服の内に落とされるのを見て、服の下に下げているのだと納得する。
「鬼? 鬼って、実在するんですか?」
おとぎ話だと思ってた…と感心するヘルマンに、ハルカレンディアは頬笑み。
「今はもういない。……、…これは、三百年も前に私を捕らえ、それから数十年も、…いや。…今も捕らえて放さぬ鬼の、その牙なのだ」
ゴクリと息を飲んでから、けれど、うん?と、首を傾げてしまう。
三百年前、数十年。でも、今も捕らえられて? 牙は、討伐の証ではないということか?
謎かけだろうか、と、首をひねるばかりのヘルマンは、けれど、進む先から聞こえてきた声に、ハッと顔を上げる。
「ハルカレンディア!」
怒っているような、少し拗ねたような、長命の印象を裏切る独特の、密かによく知った声。
垂らした癖のない銀の髪、遠くて瞳の色は見えないが、サラサラと流れるような生地のローブ。銀と珊瑚の魔女と呼ばれる半エルフの魔術師、ケレブシアだ。
砦から離れた泉のそばに家を構える魔術師には、真っ直ぐ砦に向かわない、こちらの道の方が早く会えると考えはしたが。遠目でも見分けがつくほど親しい友人らしい、とハルカレンディアを振り返る。
「ケレブシア!」
応じて手を上げ、先までの静けさがうそのように、大きく手を振る黒髪のエルフ。
目を丸くしてハルカレンディアを見上げながら、ふいに腹に落ちる。
数百年を生きる、エルフに特有の憂いをたたえた、葉色の瞳。細く編み込んだ長い髪に、スラリと細身の長身。静かな動作や、語り口、謎かけのような話しぶり。その物静かさが嘘のような、苛烈な戦い。
すべてが絵に描いたように「エルフらしい」彼に、感じる、不思議な“良い”違和感の出どころ。
手綱を離して馬の歩みを馬に任せ、早足になるハルカレンディアを見送って。そうか、と、ヘルマンは勝手に合点する。
すべてのエルフに重く垂れ込めるという憂いにすら、一条の光を差すよう。
このエルフの声は、明るいのだ。
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地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
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