星に牙、魔に祈り

種田遠雷

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66、連れ立ち

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 深く宿る悔やみがあるのは、かなり寝過ごしたらしいと、天幕の隙間から差し込む微かな光で知れることよりも。
 目を覚まして真っ先に思い出したのが「砦に帰ってから妊娠させて欲しい」と、口走ったことだ。
 身を起こして気怠く座り込み、欠伸をしているアギレオの横で、顔を覆う。
 帰りの道中で出産したら、大変なことになる。とまで考えた自分が信じがたい。
「私は男だから、妊娠はしない……」
 フッと、アギレオの笑う息が聞こえるのが、予想通りで。
 深い後悔の片隅に、自分が正常であると安堵する。
「起きてまずそれかよ。したっていいぜ」
「いいとか悪いとかではない…。機能がない…」
 機能って、と笑っているアギレオの声に、両手はひとまず下ろし。
「腰から下に力が入らない…」
「おー。前もそう言ってたな。ここにゃ務めはねえんだから、ゆっくりしてな」
 うん…と、半分は項垂れるように目を閉じ。
 髪を撫でてくれる手が、けれど、離れて起きる気配なのに、再び目を開く。
「お前は仕事があるのか…」
「ンー? ねえよ。俺ゃもう、氏族の人間じゃねえしな。起きれなくても水は飲むだろ?」
 飯は食うか?と、衣服を身に着けながら問われるのに、腹は減っていないと首を振り。なら外で食ってくっかな、と言っているのに、もらってきてここで食べろと強請る。
 水をもらって、行儀悪く寝転んだまま水差しから水を飲み、相変わらず肉を食っているアギレオを眺め。
「子供ができなくても、帰らなければな」
 ン?と、振り返り、眉を上げるアギレオに、目で頷く。
「帰りたくなくなったかよ」
 まあ遠すぎてダリィのは確かだ、などと首を回しているのを見ながら、少し考え。そうではないなと、小さく頭を振る。
「帰りたいとは思っている。おそらく、ずっと」
 アギレオと二人の家や、みなのいる砦に。それに、生まれ育った国に、敬愛する主君のお膝元に。
「だが、留まってもっと見てみたいものはあるな。冬の暮らしもそうだし、日々の暮らしも、ヴァルグの文化もまだまるで見ていない。…お前は? お前こそ、ここにいたくはならないのか?」
 眉を上げるアギレオの、ほんの少し、読めないような複雑な笑みを、じっと見つめ。
「十五の年で山を下りてみりゃ、雪や氷に道を塞がれることはねえし、オークまで食わなきゃならねえほど食いモンに困るわけでもねえ。山になんか二度と戻らねえぞと思ってたことすらあるが。――戻ってみりゃなんてことねえ。冬はこれからだが、羊を追うのも氷を割って水を汲むのも、やってみりゃほんとになんてことねえ。妙なもんだ」
 途中から先が耳に入らず、目を見開く。
「オークを食うのか!?」
「ああ…。今は食いモンが足りるからな。そんでも、今頃に貯めとく食いモンが冬を越すのに足りなきゃ、わざわざ巣まで襲ってでも食うことがあったぜ」
 あっ帰りてえ。二度と食いたくねえ。と、けれど戯けている様子であるのに、開いた口を閉じそびれ。
「私は…むしろ少し興味が湧いたぞ…。…おそらく、だが、世界中でもオークを襲うのはヴァルグだけなのではないだろうか…。一体どういう暮らしなんだ…」
 貧しいだけさ、と、やはり笑っているのに、瞬いて。
「冗談はともかく、もう夏も終わりだ。雪が降り始めたら山を下りられねえからな。――いても10日だぜ」
 わかった、と頷きながら、オソグリスやヴィボラは悲しむなと。小さく痛む胸に息をついた。
「なあ…」
「うン?」
 手を伸ばせば、握り返され、様子を見るように足腰に力を入れてわずかだけ寝返りを打つ。仰向けが横向きになっただけで、身を投げ出すように伸ばしながら、頬笑んでいるアギレオを見つめ。
「お前は、ヴァルグの男だったのだと、気がついた」
 ン?と、眉を上げて続きを促されるのに、思い起こすよう目を伏せて。
「ここへ来て、暮らしを見て、氏族の人々から聞く話にも、景色そのものにも。私の知るアギレオが、どこから来た者であったのか、つながったように思えた。お前は、ヴァルグの男だったのだなと」
 どう言えばいいだろうかと、言葉を次ぎながらも考え。けれど、思いがけずアギレオが、ああと合点の声を上げて。
「それはちょっと分かる気がすんな。アレだ、和平の前。お前と王都に行って、お前が軍隊の建物にスタスタ入ってって、出てきたら着替えてたりとか、王様と話したり、レビと王都の話してたりな。それ見て、あそこで生まれて育ったエルフだったんだなあ…みてえなことは思ったな」
 ひとつ瞬いて。そうか、と、目許を緩める。
「アギレオ…」
 両手を伸ばせば、ン?と、鼻先で柔らかく声をして、少し上半身だけ抱き起こすようにして、抱き締められ。
 結婚を申し込んでくれたアギレオの言葉が、ふいに思い出されて。
 まだ力を込めれば震えそうな足腰に、力を込める。
 生まれた場所で肉の身体を得て、またこれを離れていくまでの、短い間。それが何百年であろうと、何千年であろうと、限りあるかぎり、欲深い己はきっと、短いと感じるのだ。
 そりゃそうだけどよ、と、アギレオなら笑うだろうか。
 離れたくない、行かないでくれと、半分はわざと駄々をこねる己を抱えて。なんだよ、とか、ちったあ手伝ってこねえとお前のが居心地悪ぃだろうが、とか、宥めたりすかしたりする“ふり”で相手をしてくれるアギレオを、少し長い時間、そうして引き留めた。

 思う存分ぐずって気が晴れる頃には、足腰のしびれも取れてずいぶん力も入るようになった。
 寝具の上掛けを抱え、昨日女達が洗濯していた場所へと、足を忍ばせるように運んでいく。汚れたシーツを洗うのが、実をいうとあまり嫌ではない。
 寝具が傷むのが気になり、みっともない姿をアギレオに見られるのは今でも恥ずかしい。それに、高原の水は限りなく冷たく、少し背が震えるほどだが。
 昨夜のアギレオがどんな風だったのかと思い出し、はしたない記憶の反芻はんすうを楽しみながら、シーツを取り回して汚れを揉み落とす。
 苦心して水を絞っていると、離れたところで洗濯していた女性が声を掛けてくれて、両端をそれぞれ持つようにして、絞るのを手伝ってもらった。そのまま、干す場所を尋ね、案内してもらう最中にあれこれと話す中に、シーツの洗濯について真正面からからかわれて、赤面してしまったり。
 大きな泉で水を汲んで、人目を不快にせぬよう天幕の陰で身を清め。
 馬や羊の世話、剣を始めとした格闘の稽古。食事の支度や天幕の手入れ。国に持ち帰ろうと、紙と書く物を持って歩けば、手伝いがてらにも尋ねたいことは後から後から増えて。
 焚き火を囲む夕食の際に、オソグリスが「そろそろ雪が降るな」とポツリと言うまで、日々は瞬く間にすぎた。
 アギレオは「そうだな」と答えたきり、それがどうしたとも言わず。
 けれど、みなの口数がすこし少なくなって、そうか、と己にも理解できた。

「おいちょっと待て。馬が潰れちまうわ」
 あれもこれもと、オソグリスとヴィボラが荷をくれるのに、腰に手をやり眺めていたアギレオが、ついに呆れたように言う。
「そうか…」
「じゃあ馬ももう一頭持っていきなさいよ。そしたら平気でしょ」
 心遣いはありがたいが、10日いたばかりの己でも、彼らが懸命に冬を迎える支度をしている最中なのを知っている。
 けれど、辞しようとした声を、ヴィボラの声に飲み込んだ。
「む、息子ふたりに贈ってやれるのが、こ、これだけなのよ。多くなんか、ないじゃない」
 ぐすぐす、と鼻すら鳴らすヴィボラに、うんうんとオソグリスが相槌を打って。
 大きく息を吸って吐き、沁みるような胸を堪えて、ヴィボラの傍へと歩み寄る。
「ありがとうヴィボラ、オソグリス。だがどうか、お二人の冬には足りるように備えて欲しい。また来ます」
「うォい。簡単に言うんじゃねえ」
「き、きっとよハル。また来るのよ、ハル。そこの薄情息子を、連れてきてね」
 やれやれといった風なアギレオの声を聞き流し、堰の切れたように泣き出すヴィボラに抱きつかれて、しかと抱き締め。
「…ヴィボラ。あんまり困らせるもんじゃない。ハル、こんな雪山くんだりまで、わざわざ年寄りの顔なぞ見に来んでよろしい。…それぞれのあるべき場所で、なすべきことをしっかりやりなさい」
 ため息まじりのオソグリスの声も、けれど、震えてはいないだろうか。
 ありがとうございます、と、頷く眉が下がってしまう。
 踏み出しがたい心中をこらえ、乗ってきた馬に跨がって、アギレオと二人で歩み出す。
 ついつい振り返ってしまう己と違って、振り向かず道の先を見据えたままであるのが、アギレオらしい。
 彼の分までたっぷりと未練がましく、草を分けて馬の足を進め。
 草原を離れて山を下る道に差し掛かったところで、大きく息がもれた。
「次は、道中をもっと短い時間で進みたいものだな」
「お、おッ前…、マジでまた来る気なのかよ」
 冗談だろ、と、どうやら本気で驚いているらしいアギレオに、眉を寄せてしまう。
「来れぬわけではないのだから、来ればいいだろう」
 クリッペンヴァルトでの、航海研究をもっと進めれば、魔術の力でもう少し速く着けないだろうか…と、顎をさすって思案し。
「四腕のオソグリスが言ってただろうが。年寄りと遊んでる場合でもねえよ」
 しつこいな、と、本人のおらぬ前でも下がった二つ名をわざわざつけるアギレオに、少し呆れ。
 けれど。
 あるべき場所で、なすべきことをなせと。震えそうな声で告げたオソグリスの、確たる表情を思い出して、小さく唇を引き結ぶ。
「…お前が次の頭領にゆずる時には、また来れるだろうか…」
 まあ、せめてそんくらいだよな、と、なんでもないような声で応じるアギレオも、己も、きっと考えている。人間達の短い命のことを。
 けれど、それでも。
 だからこそ、誰もが己の仕事をせねばならぬのだと、つく息を腹に隠した。
 しばし黙って道を下る中、アッと突然声を上げたアギレオに、顔を上げる。
「そういや、お前に話してやる約束だったな。――しばし、余の昔話に付き合うがよい」
「!?」
 急に声色を改め、古い言葉遣いになり、オホンと咳払いまでしてみせるアギレオに、目を丸くし。
「今は昔、はじまりまで遡れば、エルフというのは、星の光であった」
 ふむ、と、語り口はともかく、よく知る創世史記を語り始めるアギレオの声に耳を澄ませて。
「あいや、この話は、そなたにはちと長過ぎるであろう」
「!?!? それは、どういう…」
 一体何が始まったんだ!?と、目を白黒させる己を置き去りのよう、ブハッとアギレオが吹き出して笑う。
「今のはお前んとこの王様の真似だけどよ、」
「お、お前…ッ」
 なんて不敬なやつだ!、と一度叱ってから。
 けれど、決してもちろん陛下のことではなく。アギレオのおかしな口上こうじょうを思い出して、己も噴き出してしまう。
「ま。話す時間はいくらでもあるな。こっから先、ずっと連れ合うんだからよ」
 それが、砦に戻るまでの、長い旅程の話ではないと、もちろん分かる。
「どんな話なんだ?」
 聞かせてくれ、と、続きをねだって。
 クリッペンヴァルト国の国境、境の森の砦への長い旅路。
 そして、きっと、そこからもまだ続いていく、この男との連れ立ち。
 いくら続こうとも欲深い己には短い時を、ひと時たりとも逃すまいと、アギレオの声に耳を傾けた。
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