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消えた神々と黄昏の都
それは愛、これも愛
しおりを挟む東の窓から陽が射しこみベッドのシーツを照らした。やわらかい毛が顔へ当たってくすぐったい、規則正しい寝息をたてる男の髪は金糸のつやを帯び、まつ毛は光に透ける。
シーツから出ようとすると太い腕が巻きついて外せない、抜けだそうと藻掻いていたら彼のまぶたが開いて黄金色の瞳が見つめる。
「……ラルフ、目が覚めてんのなら離してよ」
「ノォォン! ミナトが冷たい!! 」
こちらを見る目は恨めしげになり、ますます強固にスクラムを組まれる。ラルフの気が済むまで湊は胴体をしめられ魚のようにピチピチと悶えた。
ようやく落ち着きラルフと朝ごはんを食べる。ワイン酢とハチミツを水で割った甘酸っぱい飲み物、定番の卵料理にパンや果物がならんだ。きのうの気鬱が消えたラルフに安心して温かいパンを手に取る。バターとハチミツを練りこんだパンは焼き目が香ばしくて甘い。テラスのながめを楽しみ食事をいただく、ディオクレスの菜園に蝶が舞っていた。
穏やかな朝の空気をやぶり、あわただしく訪ねてきた兵士が書簡を渡した。受け取ったラルフは眉根をよせて目を通す。
「北城塞都市の兵士が問題を起こしたらしい、私は先にヴァトレーネへ戻る。ヒギエアを残していくから、ミナトは心ゆくまで調べものをするといい」
食事を終えて立ちあがったラルフは早々に用意をすませ、書簡を届けた兵士と宮殿を後にした。
「なんだよ、ラルフのやつ……」
昨晩はあんなに気落ちして懐いていたラルフがひとり出て行き、釈然としない湊は口を尖らせる。ヴァトレーネの事ならとっくに関係者の気持ちだ。しかし湊が行ったところで事件を解決できるはずもなく、ラルフがここへ連れてきたのは元の世界へ帰る方法を探すため――。
調べものの内容は頭へ入ってこない、本を閉じた湊は矛盾してやり場のない苛立ちに頭を掻く。
盛大にため息を吐いたとき書庫の扉がひらいた。図書館員や使用人ではなくヒギエアだった。彼女が微かに口元をゆるめ、先ほどのため息を聞かれてしまったと察した。湊がごまかしつつ来訪理由をたずねたら、ディオクレスの記した薬草やハーブの成長記録本を見にきたようだ。
棚から冊子を取った彼女はとなりへ腰をおろした。
「ため息つくほど熱心に調べているのね。それとも他に気になることでもあった? 」
笑った藍色の目は湊へ向けられる。ラルフの兄アレクサンドロスも遠征へ赴くため、日が昇ってすぐ艦隊を率いて発った。昨晩の事といい、胸のもやもやが晴れない湊はラルフの兄弟関係について尋ねた。
ヒギエアは薬草の冊子を抱え、すこしの間考えていた。
「仲が悪いわけじゃないと思う、アレクは典型的な帝国軍人なの。ディオクレス様が大きな改革をおこなったけど帝国ではまだ軍人の力が強いわ」
兄弟の父も中枢に近い軍人で権力争いのすえ暗殺された。アレクのように力の誇示で政権をとる考えは根強く、甘い汁を吸うべく貴族も支持する。あのキャベツを愛するディオクレスでさえも、かつては大軍を指揮する将だったという。
帝国は広大になりすぎた。ふえた民の食料と財源を確保するため周辺の国々を平定する。目は届かなくなり不正がおこなわれ、帝国内部では権力争いが勃発する。虚栄と欲望が膨れあがって重みで沈みゆくのだと語るヒギエアの瞳は北方の夜空のごとく冷たい光を帯びる。
「ヒギエアは自分の国へ帰ろうとは思わないの? 」
「私の国だと生きる環境は悲惨、きっと海賊どもの略奪でなにも残ってないでしょうね。ロマス帝国は沈みかけていても住みやすい豊かな大国なのよ」
ディオクレスがいてラルフの管轄するこの地はヒギエアが彼女らしく生きられる場所なのだろう、もともと豊かな国で育った湊には壮絶で重い言葉だった。
自分がここにいる意味はあるのだろうかと、頭によぎり湊は手元の本へ目をおとす。こちらを見つめていたヒギエアは頬杖をついて軽く息を吐いた。
「ミナトの悩みは自身で解決するものね。ちょうどディオクレス様が畑で作業されてる時間よ、私より良いアドバイスが聞けるかも」
ヒギエアはそう言って薬草の本を読みはじめる。湊は彼女の言葉に押し流されるように書庫を出た。
働く人々の喧騒が宮殿の回廊へひびき、アーチをくぐると石灰石のブロックへ反射した日差しが目をかすめた。畑の一角に老人の姿があった。使用人も手伝いキャベツの収穫を終えた畑を掘りおこしてる。
「おや、夜の髪をもつ青年ではないか! 良いところへ来た」
「ディオクレスさん、俺は青年っていう年でもなくて……」
「はっはっは、おまえさんは謙虚じゃな。心配しなくとも、ワシからすれば大概はピチピチの若者よ」
目を丸くして笑ったディオクレスは持っていた長い柄の道具を湊へ手渡す。土のなかへ刃をいれてひっくり返す鍬だ。袋をもった使用人が肥料を投入し湊は鍬で土を返した。キャベツ爺さんのかけ声のもと、一心不乱に耕せばこめかみから汗が流れおちた。
最近は腰にくるようになったとディオクレスは嘆き、次は豆でも植えようかと画策している。
心にあったモヤモヤは書庫にいた時よりいくぶん晴れた。ラルフが帝国のことで悩んでいるのではないかと、思いきってディオクレスに問う。
「ふむ、ラルフのことかね? 」
ラルフは無知でも愚かでもない、民に人気のある彼を利用しようとする貴族は多い、とくに野心に満ち老成した考えをもつアレクと渡りあうには若過ぎる。彼がアレクや貴族たちに引き摺られないようしっかり留め、見守って導く者が必要だと答えがかえってくる。
「おまえさん、それが出来るじゃろう? 」
ディオクレスの瞳がまっすぐこちらを見据え、湊の鼓動は跳ねた。なんの変哲もない平凡な男、光りかがやくラルフに相応しい人間は他にいるに違いないと心の片すみで思っていた。
「……こんな俺が役に立つのでしょうか? 」
「アキツミナトよ、必要なのは強き肉体や勇猛果敢さだけではない。真に不可欠なのは知と愛。おまえさんはこの国のことを知りラルフを知ろうとしている――――あとは、そう、愛じゃ」
ディオクレスがキャベツへ注ぐのも愛のひとつ、よき土壌を用意してよき野菜を育て収穫する。残念なのはキャベツとちがい、育てた人間は時として欲におぼれ悪い実になってしまう。ディオクレスは空気をふくませてフカフカになった土を持ちあげ、ため息をついた。
***************
情欲の愛、友愛、親愛、無償の愛。
夕食の席でディオクレスの摘んだチーズスティックが説明とともに振りまわされる。天空の神殿を崇めていた古い国の人が語った愛、4つにとどまらず愛の数だけ種類がある。
「愛の種類だなんて、ロマンチックね」
白ワインのグラスを傾けたヒギエアがうっとりと呟いた。ディオクレスが色とりどりの果物を愛に例えてならべ、ヒギエアを先頭に女の人たちの手が伸びて果物をつまむ。
本日は奥方と婦人たちに囲まれ女子会の雰囲気だ。
「ミナトはどれを選ぶ? 」
ヒギエアが笑うと女子たちの目が集中して、あせった湊は手のとどく所にあった果物を口へ放りこむ。噛めば瑞々しい果汁があふれて甘みがひろがる。なにかよく分からないけど、とても美味しいフルーツだった。
「あらやだミナト、それはエロースよ」
「え、あ、いや違うんです! たまたま目の前に! 」
エロース、情熱的な欲望の愛。
禁断の果実を食べてしまい、狼狽える湊のまわりで口を覆ったご婦人たちは恥ずかしそうに黄色い声を上げる。
ディオクレスに助けを求める視線を送ったものの、お爺ちゃんは関係なく全部の果物を食してる。膝をついた湊はそのまま女子会の燃料となって幕を閉じた。
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