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第三章 続 魔女と天使の腎臓
私が歩いた最後の日
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私が歩ける最後の日
『……こんにちは』
尾行を始めてから三時間は経っただろう。パチンコ屋から出てきた彼の後をつけ、彼が人気の少ない公園のベンチで缶コーヒーを飲んでいる所に声をかけた。
『……あ?』
大男の蛇のような視線が、私の体を巻き締めるように捉える。尾行からは既に三時間近くが経過していた。女の子の姿は既にない。あの後、女の子は父と別れ、バスに乗ってどこかへ行ってしまったのだ。私は尾行の対象を大男に絞り、そして今に至る。
『誰? きみ』
不機嫌さと攻撃性を隠そうともしないその表情が私の被虐心をくすぐる。顔付きからして年齢は三十代半ばと言った所だろう。整った顔立ちはしているものの、清潔感の欠片もない身なりのせいで台無しだ。年齢も、清潔感も、私の理想の男性像とはかけ離れているけれど、しかし肉弾戦では決して敵わないと瞬時に理解出来るその圧倒的な身長と肉付きの良い体格は、まさに私の理想そのもの。かつての私なら、こんな男に犯されても興奮していたのかも知れないと思った。
……でも、今はもう無理だ。狭心症を引き起こしてからは、私に残存する数少ない欲望であった性欲までもが希薄になってしまった。ドキドキしない、ムラムラもしない。運動は当然として、感情の高ぶりさえも毒となって、私の心臓を握り潰そうとしてくるのだ。喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、私は感じてはならない。自慰を覚えたあの日から毎日のように絶頂を味わっていたはずなのに、一ヶ月以上も自慰に手を染めなかったのなんて、産まれて初めてだ。何もかもが怠くて、息苦しくて、面倒臭い。
だからこれは、心のリハビリなのだ。かつてのトキメキを取り戻す為の大切な儀式。魔法の実在を知り、心を弾ませ、毎日のようにムカつく人間を殺し回った中二の頃の私に戻りたい。ザンドは今の私をつまらないと言うけれど、そんな事は他でもない私自身がよくわかっている。
今の私に、毎日毎日飽きもせずに殺しを続けていた、かつてのような気力はない。魔法を使うのも億劫に感じてしまうのだ。……だから。
『……私? 私は天使。……ねぇ、おじさん』
私はザンドを取り出し、彼に一つの魔法をプレゼントした。
『……ちょっと頭と金玉をいじらせてよ。……ザンド』
『……』
高校生活九週間目。夕方のニュースを見て、私は自分の計画が水の泡になった事を知る。
先週出会ったあの大男は飛び切りの逸材だと思った。あの父娘のやり取りを見て、彼が自分の娘に虐待紛いの仕打ちか、或いは虐待そのものを行っているのは明確だ。服の隙間から見えた痣は身体的な虐待を彷彿とさせ、大男の行動一つ一つに警戒しながら怯える娘の反応は、心理的な虐待を受けている可能性を示唆している。その上何日も使い回されたよれよれの衣服はネグレストの象徴でもあるわけで、この時点であの大男はスリーアウト。性的な虐待を受けているのかまでは判断出来ないものの、あの大男の残虐性を理解する上で必要な材料は十分揃っている。
……が、そんな彼が今現在も娘と共に暮らしていると言う事は、恐らく彼の残虐性は表立って露見していないものと思われる。彼女を取り巻く周りの大人が無能でないのだとしたら、虐待を隠蔽し続けている彼はとても狡猾な人間だ。なら、私がその狡賢さを取り除いてやろうと思った。
人間から賢さを奪う方法は簡単だ。その人間の持つ攻撃性や衝動性を刺激してやればいい。感情的になればなるほど、人は頭を使えなくなる。そこで私は彼の脳と精巣に、魔法で細工を施した。彼の攻撃性と衝動性を高める為に、ドーパミンとテストステロンの合成を促進させ、反対に精神安定に作用するセロトニンの合成は抑制したのである。
テストステロン。俗に男性ホルモンと呼ばれる性ステロイドで、ペニスの発達、骨格の強靭化、筋肉や体毛の増量などの作用を持っている。また、精神面においては攻撃性と幸福感の増長を促す事でも有名である。
人に限らず、全ての生物においてオスという動物は、このテストステロンの作用によって攻撃的で残虐な性格を示すものだ。人間のオスは社会に教育される事でその残虐性を押し殺せているものの、しかし犯罪者の多くが男性である事からもその攻撃性は一目瞭然。
別にそれが悪い事だとは思わない。野生動物において、攻撃性の発現は生きる上で必須だ。攻撃性がなければ外敵に立ち向かう事も、自分の群れを守る事も、メスを犯して子孫を残す事も出来なくなる。オスの持つ攻撃性は、野生においては種の存続の為に必要不可欠なのだ。
また、野生から隔離された人間社会においてもこの攻撃性をプラスに働かせる事は可能だ。確かに犯罪者の多くは自らの攻撃性を制御出来なかった低脳のオスである事に違いはないけれど、逆に歴史に名を残す偉業を成し遂げた偉人の多くもやはり人間のオスなのである。男女平等が浸透しつつある現代においても、ノーベル賞受賞者の多くはやはりオスが大多数を占めているのだから、結局攻撃性というのは使い方次第なのだろう。
攻撃性とは積極性であり、快楽でもある。五人のお母さんをいじめ抜いた私には、その事がよくわかる。故に人間のオスは、この攻撃性をどう扱うかによって大きく三つに分類されるのだ。攻撃性を押し殺す事に成功した99%の一般人。攻撃性を勉学やスポーツ、芸術などと言った努力する方向へ向ける事に成功した0.1%未満の偉人。そして己の攻撃性に溺れた1%の低脳犯罪者。あの大男は間違いなくこの1%の低脳犯罪者に属するオスだと……、そう思っていたのに。
テレビのニュースを見てため息を漏らす。とても酷いニュースだと思った。三十代の男性が都内の公衆トイレで兄妹二人と無関係な女の子一人を相手に暴行を加えていたという、なんとも惨たらしいニュース。
通報を受けて駆けつけた警察官によると、三十代男性はトイレの中で蹲りながら苦しんでいたらしい。被害者の状況は兄妹が軽傷で、たまたま立ち合っていた無関係な女の子は顔に針を縫う怪我。でも被害者は三人とも命に別状はないのだとか。
酷いニュースだ。本当に酷いニュースだ。
『……つっかえねえ』
あれだけの大男でありながら子供の一人も殺せていないだなんて。
『……何それ。見かけ倒しじゃん。十人くらいは余裕で殺しそうって……思ったのになー。……あーあ。つまんないの』
私はテレビを消して布団を頭まですっぽりと被る。俗に言う不貞寝である。
【怒ってる?】
そんな私の姿がザンドの目には怒っているように映ったらしい。まぁ、目と言っても本であるザンドにそんな物は存在しないけれど。
「……ううん。怒ってないよ?」
私は勝手に体から飛び出したザンドを体内へ押し戻す。怒ってないとは言いつつもイラっとしたのは事実だ。図星、突かれちゃった。深呼吸でもして落ち着かないと。私は怒っちゃいけないんだから。
『リラーックス……、リラーックス……、リラーックス……』
いずれ天使になる私に、怒りと言う感情は似合わない。
それはそれとして今のニュース、一つだけ気になる所があったな。加害者の男が蹲りながら苦しんでいた原因だけど、病院に搬送された男のお腹の中から袋詰めのクッキーが出て来たって。
動物の体には巨大な空間が存在する。その空間は横隔膜によって二つの空間に分けられており、心臓と肺が収納された空間の事を胸腔。胃や腸のような消化器官に膵臓や脾臓、腎臓等と言った多数の臓器が収納された空間の事を腹腔と呼ぶ。袋詰めのクッキーが出て来たのは、胃の中ではなく腹腔の中かららしい。
胃の中にクッキーがあったのなら口から入ったという事なんだろう。腸の中にクッキーがあったのなら胃から送られたか、或いは肛門から入れられたという事なんだろう。でもクッキーが出て来たのは大男の腹腔からだ。臓器が収納されている空間にクッキーが入っていた。そんな所に異物を入れる方法なんて、それこそお腹に穴を開けて直接入れる以外に思い浮かばない。
どうしてそんな所にクッキーなんかが入っていたんだろう。意味がわからい。外科手術をしたとかでもないなら、それこそ瞬間移動をしたとしか……。
『……ねぇ、ザンド』
【何?】
『……。ううん、やっぱりなんでもない』
もしかして私以外にも本を拾った人間がいるのかな? ……なんて。
今回の計画の失敗は、私の虚無感をどこまでも深く押し広げる結果となった。期待していたんだ。衝動性を抑え込めなくなったあの大男が、一体どんな犯罪行為に手を染めるんだろうって。包丁を持って保育園や小学校に押し入り、複数の児童を無差別に殺し回ってくれれば最高だった。そんなニュースをテレビで見た暁には、すっかり霞んでしまった私の気力も、かつてのような活力に満ちた炎で再燃してくれるような気がしていた。
でもダメだな。何もかもが上手く行かない。ていうかあいつもあいつだよ。トイレに児童を連れ込む所まで行ったなら、せめて一人くらい殺してみろって話だ。小学生の一人くらい、私だって魔法なしで殺せるのに。
この失敗の原因は、間違いなくあの大男の無能さにある。私の魔法は確実に成功し、あの男に僅かに残る理性も慎重さもすっぽり取り除いたはずだ。服で隠れる程度の場所しか殴れないような理性を切り払い、衝動に任せて殺人に手を染められるだけの攻撃性を与えてあげたのに……。
『…………ちくしょう』
魔女としての限界に到達しつつある私には、まるで自分の魔法が未熟なせいで失敗してしまったのではないかと思えてしまうのだ。
『……ちくしょう……、ちくしょう……っ!』
怒りと悔しさが湯水の如く溢れ出る。私の心臓はボロボロだ。怒ってはいけない。わかっている。わかっているけど、気持ちなんて意識でコントロール出来るものでもない。それらの感情は心だけに押し止まらず、私の体まで突き動かした。とは言え今の私に出来る憂さ晴らしなんて、こうして枕を叩く程度のもの。それでもこれしか出来ないのだから、私は一心不乱に枕を殴りつけた。同じ言葉を何度も連呼し、歯茎を噛み締め、壊れた人形のように拳を叩きつける。
『……っ』
しかし、もはや私の心臓はその程度の憂さ晴らしさえ許してくれないのだと知った。私の胸に違和感が宿ったのだ。行き場のない怒り、悔しさ、そして枕を殴る程度の軽い運動。私の心臓は、その程度の血圧上昇にも耐えられなくなってしまったらしい。
この違和感を覚えるのもこれで三度目だね。そういえば先生、何て言ってたっけ。もしもまた狭心症の影響で意識を失うような事があればその時は。
『……』
その時は……。
世界から光が消えていく。よく漫画の表現で、気絶した人の頭の上をぐるぐると星が回っていたりするけれど、あれって半分本当だ。人は睡眠以外で意識を失うと、視界の外側から少しずつ黒に染まって行くのだ。その黒の中にはチカチカと光る星のようなものが散りばめられていて、やがてその怪しい闇に視界と意識を飲み込まれる。三度目となる今回も、私の視界はこれまでと同じように黒く染まって行った。
『……こんにちは』
尾行を始めてから三時間は経っただろう。パチンコ屋から出てきた彼の後をつけ、彼が人気の少ない公園のベンチで缶コーヒーを飲んでいる所に声をかけた。
『……あ?』
大男の蛇のような視線が、私の体を巻き締めるように捉える。尾行からは既に三時間近くが経過していた。女の子の姿は既にない。あの後、女の子は父と別れ、バスに乗ってどこかへ行ってしまったのだ。私は尾行の対象を大男に絞り、そして今に至る。
『誰? きみ』
不機嫌さと攻撃性を隠そうともしないその表情が私の被虐心をくすぐる。顔付きからして年齢は三十代半ばと言った所だろう。整った顔立ちはしているものの、清潔感の欠片もない身なりのせいで台無しだ。年齢も、清潔感も、私の理想の男性像とはかけ離れているけれど、しかし肉弾戦では決して敵わないと瞬時に理解出来るその圧倒的な身長と肉付きの良い体格は、まさに私の理想そのもの。かつての私なら、こんな男に犯されても興奮していたのかも知れないと思った。
……でも、今はもう無理だ。狭心症を引き起こしてからは、私に残存する数少ない欲望であった性欲までもが希薄になってしまった。ドキドキしない、ムラムラもしない。運動は当然として、感情の高ぶりさえも毒となって、私の心臓を握り潰そうとしてくるのだ。喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、私は感じてはならない。自慰を覚えたあの日から毎日のように絶頂を味わっていたはずなのに、一ヶ月以上も自慰に手を染めなかったのなんて、産まれて初めてだ。何もかもが怠くて、息苦しくて、面倒臭い。
だからこれは、心のリハビリなのだ。かつてのトキメキを取り戻す為の大切な儀式。魔法の実在を知り、心を弾ませ、毎日のようにムカつく人間を殺し回った中二の頃の私に戻りたい。ザンドは今の私をつまらないと言うけれど、そんな事は他でもない私自身がよくわかっている。
今の私に、毎日毎日飽きもせずに殺しを続けていた、かつてのような気力はない。魔法を使うのも億劫に感じてしまうのだ。……だから。
『……私? 私は天使。……ねぇ、おじさん』
私はザンドを取り出し、彼に一つの魔法をプレゼントした。
『……ちょっと頭と金玉をいじらせてよ。……ザンド』
『……』
高校生活九週間目。夕方のニュースを見て、私は自分の計画が水の泡になった事を知る。
先週出会ったあの大男は飛び切りの逸材だと思った。あの父娘のやり取りを見て、彼が自分の娘に虐待紛いの仕打ちか、或いは虐待そのものを行っているのは明確だ。服の隙間から見えた痣は身体的な虐待を彷彿とさせ、大男の行動一つ一つに警戒しながら怯える娘の反応は、心理的な虐待を受けている可能性を示唆している。その上何日も使い回されたよれよれの衣服はネグレストの象徴でもあるわけで、この時点であの大男はスリーアウト。性的な虐待を受けているのかまでは判断出来ないものの、あの大男の残虐性を理解する上で必要な材料は十分揃っている。
……が、そんな彼が今現在も娘と共に暮らしていると言う事は、恐らく彼の残虐性は表立って露見していないものと思われる。彼女を取り巻く周りの大人が無能でないのだとしたら、虐待を隠蔽し続けている彼はとても狡猾な人間だ。なら、私がその狡賢さを取り除いてやろうと思った。
人間から賢さを奪う方法は簡単だ。その人間の持つ攻撃性や衝動性を刺激してやればいい。感情的になればなるほど、人は頭を使えなくなる。そこで私は彼の脳と精巣に、魔法で細工を施した。彼の攻撃性と衝動性を高める為に、ドーパミンとテストステロンの合成を促進させ、反対に精神安定に作用するセロトニンの合成は抑制したのである。
テストステロン。俗に男性ホルモンと呼ばれる性ステロイドで、ペニスの発達、骨格の強靭化、筋肉や体毛の増量などの作用を持っている。また、精神面においては攻撃性と幸福感の増長を促す事でも有名である。
人に限らず、全ての生物においてオスという動物は、このテストステロンの作用によって攻撃的で残虐な性格を示すものだ。人間のオスは社会に教育される事でその残虐性を押し殺せているものの、しかし犯罪者の多くが男性である事からもその攻撃性は一目瞭然。
別にそれが悪い事だとは思わない。野生動物において、攻撃性の発現は生きる上で必須だ。攻撃性がなければ外敵に立ち向かう事も、自分の群れを守る事も、メスを犯して子孫を残す事も出来なくなる。オスの持つ攻撃性は、野生においては種の存続の為に必要不可欠なのだ。
また、野生から隔離された人間社会においてもこの攻撃性をプラスに働かせる事は可能だ。確かに犯罪者の多くは自らの攻撃性を制御出来なかった低脳のオスである事に違いはないけれど、逆に歴史に名を残す偉業を成し遂げた偉人の多くもやはり人間のオスなのである。男女平等が浸透しつつある現代においても、ノーベル賞受賞者の多くはやはりオスが大多数を占めているのだから、結局攻撃性というのは使い方次第なのだろう。
攻撃性とは積極性であり、快楽でもある。五人のお母さんをいじめ抜いた私には、その事がよくわかる。故に人間のオスは、この攻撃性をどう扱うかによって大きく三つに分類されるのだ。攻撃性を押し殺す事に成功した99%の一般人。攻撃性を勉学やスポーツ、芸術などと言った努力する方向へ向ける事に成功した0.1%未満の偉人。そして己の攻撃性に溺れた1%の低脳犯罪者。あの大男は間違いなくこの1%の低脳犯罪者に属するオスだと……、そう思っていたのに。
テレビのニュースを見てため息を漏らす。とても酷いニュースだと思った。三十代の男性が都内の公衆トイレで兄妹二人と無関係な女の子一人を相手に暴行を加えていたという、なんとも惨たらしいニュース。
通報を受けて駆けつけた警察官によると、三十代男性はトイレの中で蹲りながら苦しんでいたらしい。被害者の状況は兄妹が軽傷で、たまたま立ち合っていた無関係な女の子は顔に針を縫う怪我。でも被害者は三人とも命に別状はないのだとか。
酷いニュースだ。本当に酷いニュースだ。
『……つっかえねえ』
あれだけの大男でありながら子供の一人も殺せていないだなんて。
『……何それ。見かけ倒しじゃん。十人くらいは余裕で殺しそうって……思ったのになー。……あーあ。つまんないの』
私はテレビを消して布団を頭まですっぽりと被る。俗に言う不貞寝である。
【怒ってる?】
そんな私の姿がザンドの目には怒っているように映ったらしい。まぁ、目と言っても本であるザンドにそんな物は存在しないけれど。
「……ううん。怒ってないよ?」
私は勝手に体から飛び出したザンドを体内へ押し戻す。怒ってないとは言いつつもイラっとしたのは事実だ。図星、突かれちゃった。深呼吸でもして落ち着かないと。私は怒っちゃいけないんだから。
『リラーックス……、リラーックス……、リラーックス……』
いずれ天使になる私に、怒りと言う感情は似合わない。
それはそれとして今のニュース、一つだけ気になる所があったな。加害者の男が蹲りながら苦しんでいた原因だけど、病院に搬送された男のお腹の中から袋詰めのクッキーが出て来たって。
動物の体には巨大な空間が存在する。その空間は横隔膜によって二つの空間に分けられており、心臓と肺が収納された空間の事を胸腔。胃や腸のような消化器官に膵臓や脾臓、腎臓等と言った多数の臓器が収納された空間の事を腹腔と呼ぶ。袋詰めのクッキーが出て来たのは、胃の中ではなく腹腔の中かららしい。
胃の中にクッキーがあったのなら口から入ったという事なんだろう。腸の中にクッキーがあったのなら胃から送られたか、或いは肛門から入れられたという事なんだろう。でもクッキーが出て来たのは大男の腹腔からだ。臓器が収納されている空間にクッキーが入っていた。そんな所に異物を入れる方法なんて、それこそお腹に穴を開けて直接入れる以外に思い浮かばない。
どうしてそんな所にクッキーなんかが入っていたんだろう。意味がわからい。外科手術をしたとかでもないなら、それこそ瞬間移動をしたとしか……。
『……ねぇ、ザンド』
【何?】
『……。ううん、やっぱりなんでもない』
もしかして私以外にも本を拾った人間がいるのかな? ……なんて。
今回の計画の失敗は、私の虚無感をどこまでも深く押し広げる結果となった。期待していたんだ。衝動性を抑え込めなくなったあの大男が、一体どんな犯罪行為に手を染めるんだろうって。包丁を持って保育園や小学校に押し入り、複数の児童を無差別に殺し回ってくれれば最高だった。そんなニュースをテレビで見た暁には、すっかり霞んでしまった私の気力も、かつてのような活力に満ちた炎で再燃してくれるような気がしていた。
でもダメだな。何もかもが上手く行かない。ていうかあいつもあいつだよ。トイレに児童を連れ込む所まで行ったなら、せめて一人くらい殺してみろって話だ。小学生の一人くらい、私だって魔法なしで殺せるのに。
この失敗の原因は、間違いなくあの大男の無能さにある。私の魔法は確実に成功し、あの男に僅かに残る理性も慎重さもすっぽり取り除いたはずだ。服で隠れる程度の場所しか殴れないような理性を切り払い、衝動に任せて殺人に手を染められるだけの攻撃性を与えてあげたのに……。
『…………ちくしょう』
魔女としての限界に到達しつつある私には、まるで自分の魔法が未熟なせいで失敗してしまったのではないかと思えてしまうのだ。
『……ちくしょう……、ちくしょう……っ!』
怒りと悔しさが湯水の如く溢れ出る。私の心臓はボロボロだ。怒ってはいけない。わかっている。わかっているけど、気持ちなんて意識でコントロール出来るものでもない。それらの感情は心だけに押し止まらず、私の体まで突き動かした。とは言え今の私に出来る憂さ晴らしなんて、こうして枕を叩く程度のもの。それでもこれしか出来ないのだから、私は一心不乱に枕を殴りつけた。同じ言葉を何度も連呼し、歯茎を噛み締め、壊れた人形のように拳を叩きつける。
『……っ』
しかし、もはや私の心臓はその程度の憂さ晴らしさえ許してくれないのだと知った。私の胸に違和感が宿ったのだ。行き場のない怒り、悔しさ、そして枕を殴る程度の軽い運動。私の心臓は、その程度の血圧上昇にも耐えられなくなってしまったらしい。
この違和感を覚えるのもこれで三度目だね。そういえば先生、何て言ってたっけ。もしもまた狭心症の影響で意識を失うような事があればその時は。
『……』
その時は……。
世界から光が消えていく。よく漫画の表現で、気絶した人の頭の上をぐるぐると星が回っていたりするけれど、あれって半分本当だ。人は睡眠以外で意識を失うと、視界の外側から少しずつ黒に染まって行くのだ。その黒の中にはチカチカと光る星のようなものが散りばめられていて、やがてその怪しい闇に視界と意識を飲み込まれる。三度目となる今回も、私の視界はこれまでと同じように黒く染まって行った。
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