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第二章 魔女とタバコを吸う少年

わかってた

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「……ダイチ」

 親父の矛先が俺に狙いを定めた。ちょうどいいや。どうせ死ぬなら最後くらい、奴の血管を弾けさせてやる。人間とチワワの戦いだろうが、噛み付くくらいの事はしてやるさ。

「はっ……」

 俺は鼻で笑いながら、昨日の事をなぞるようにその言葉を親父に突きつけた。

「お前……。弱い者いじめしかじでねえだろ? ……相手は、攻撃しで来ないっで、思い込んでるせいで……無防備に背中を……晒ぜちゃ」

 昨日親父がヨウイチさんに言い放った言葉を、そっくりそのまま言い返してやった。言い返してやったつもりだった。その言葉を最後まで言い切る事は出来なかったけれど。

 親父の拳が立つのもやっとな俺の顔に飛んで来た。立つのがやっとな俺にそれを避ける力はない。ってか、体調万端だろうが親父の本気の暴力を避ける自信はねえや。俺は親父の暴力を真正面から受け止め、そしてうつ伏せに倒れた。

 俺の目の前に袋が落ちている。袋の口からは香ばしい匂いを醸し出す砕けたクッキーがバラバラに溢れ出ていた。最早立つ事も出来なくなった俺でも、手は辛うじて動かせる。砕けた欠片に手を伸ばして口に運ぶと……、なるほど。血の味しかしねえや。

「なぁ……親父。これ……うめえわ。親父も……食えよ。親な、ら……よ」

 そんな俺の視界に親父の靴が飛び込んで来た。ぐりぐりと、ごりごりと、体重を乗せながら俺の手のひら諸共アキのクッキーを踏み躙る。当然痛い。笑えないくらい痛い。親父が足を退かすと、そこには俺の手のひらだった物が大雑把に転がっていた。剥がれ爪、根本から皮膚を突き破って飛び出した爪。とても俺の拳とは思えなかった。それなのに、もう悲鳴の一つもあげる気力がない。

 そんな状態でも生存方法の模索を放棄した役立たずな走馬灯は、相変わらず俺に過去の景色を見させてくれた。脳裏に浮かぶ光景はどれもこれもこの窮地の突破には役立たないゴミクズのような光景ばかり。でも、それらは間違いなく俺が自分で選んで歩いて来た人生そのもの。ゴミクズのような光景しか思い出せないのは、ゴミクズのような人生しか歩んで来なかったから。

「家族として娘を教育してるんだよ。邪魔しちゃダメだろ?」

 役立たずな走馬灯の意味は、他でもない俺自身がよく理解していた。

「何が……家族だクソジジイ……っ」

 ゴミに塗れた記憶が、剣と化しながら次々と俺の脳内を駆け回る。

「でめえ、アキとは血の繋がっだ……親子だろうが……。何平気な顔で、手ぇあげでんだよ。家族泣がして何も感じねえのがよぉ……?」

 ゴミで出来たその剣は、容赦なく俺ごと親父を突き刺した。

『……は? ……ふざけんなよ。おいゴラ、クソババア! 何勝手に入って来てんだよ殺すぞてめえ!』

『ま、待って! 違うの! お母さん、ちゃんとノックしたんだけど、ダイちゃん今イヤホンしてたでしょ? ……ぅあ、い、痛い!』

『関係ねえよ! 出て来なかったらそのままほっとけばいいだろが! くだらねえ用事で一々来んな!』

 ずしりとした感触が背部に宿った。親父に馬乗りにでもされたんだろう。すると俺の視界が徐々に上昇し始める。親父に後ろ髪を引っ張られながら、俺の頭部は地面から引き離された。……が、すぐにその視界は急降下する。有生がされたように、俺もトイレの床目掛けて顔を叩きつけられたのだ。何度も、何度も、何度も、何度も。

「家族なら……アキのグッキーくらい、食っでみろよ……。何子供の作っだもん捨ででんだよ。甘いのがぎらいだがら……何だよ。鈍臭えアギが作っだんだぞ? ……どれだけ頑張っだかくらい、わかんだろ……ぉっ⁉︎」

『ち、違う……! くだらない用事じゃなくて、そ、それ! 流し台に……、オムライスが捨ててあったから。それでダイちゃん、ご飯食べてないでしょ? だから……』

 そんな絶体絶命のピンチに晒されながらも、不思議と心は穏やかだった。一種の諦めの境地なんだろうか。昔、肉食動物に体を食われながらも至って平気な顔をしていた鹿の動画を見た事がある。生き物は死に直面するとあらゆるリミッターが外れるそうだけど、死から逃れる事が出来ないと判断すると、逆に精神を落ち着かせるように脳が指令を下すとかなんとか。

 でも、穏やかなのは心だけだ。俺の瞳からは涙が、俺の口からは泣き言がとめどなく溢れてくる。

「ガキに酒……飲まじで、なに笑っでんだよ……ぉ! ……ぞんな事して何が楽じいん、だよぉ⁉︎」

『おいのび太。お前タバコ吸いきれなかったから罰ゲームな』

「大体いい大人が……自分よ、り……弱い奴脅じ、てんじゃねえぞ……! 何脅して……万引ぎなんかざぜ……てん、だ? 頭……、イカレてんじゃねえのか……でめえ⁉︎」

『ば……罰ゲーム?』

『そ。次の土曜にイオンで万引きとかどうよ? 俺達みんなでお前の勇姿見届けてやっからよ』

 床に顔を叩きつけられるのも、十発を超えたあたりから妙な異音が口から零れ落ちる。けれど顔中が腫れ上がったせいで目蓋も数ミリしか開かず、その異音の正体を視認する事が出来ない。でも上手く発音出来ない事や、カランっといった異音からして、それが折れた歯が零れ落ちた音である事は容易に想像出来た。

「おまけにてめえ、……アギがら、金まで……う、奪ったろ……」

『……あの。……あの、ね。さっき財布の中を見てみたら……その、五万円なくなってて……。お風呂に入る前は……、ちゃんとあったはず、なんだけど……』

 もしこれが逆の立場なら、俺はどうするんだろう。やり過ぎたとビビって逃げ出すんだろうか。それとも折れた歯に気分を良くして更なる暴力を加えるんだろうか。その疑問の答えはわからないけれど、親父は後者の人間らしい。

「人の金……奪っでんじゃねえよぉ……っ!」

『……あのね、ダイちゃん。お母さん、今までずっと知らないフリしてきたけど……もうダメなの。……お願い、返して。あのお金は本当に大事なお金なの……。お父さんからの仕送りはとっくに尽きちゃったし、今まではなんとかパートで食い繋いで来たけど、それももう限界で……』

 最早親父は喋らない。怒りを漏らすよりも、俺を壊す事を楽しんでいる。親父は一旦俺から腰を上げた。それが暴力からの解放でないのはわかりきった話だ。

「汚ねえ盗みばっか、しやがってよぉ……っ!」

『べ、別にお母さん、ゲームを買うなって言ってるんじゃないよ? 友達と遊ぶなら同じ趣味を持った方がいいって、ちゃんとわかってるから。だから……、ね? せめて欲しい物があったらお母さんに言って欲しいなー、……なんて』

 親父に右手首を掴まれながら、右腕の肘を踏まれる。親父がそのまま勢いよく俺の右手を引っ張ると、俺の右腕の骨は割り箸のように呆気なくへし折れた。それと同時に濁流のような悲鳴が漏れたけれど、それでも親父への恨み言は止めどなく口から零れ落ちる。

「そこまで……ぁ……そこ、までしでおいて……自分の家族からも……奪うのかよ? ……どこまで奪えば気が……済むんだよぉ⁉︎」

『そりゃあ何でもかんでも全部買ってあげる事は出来ないけど……、でも、ダイちゃんが友達付き合いに不自由しない分にはちゃんと買ってあげるし……。だから……、だからお願い。こんな泥棒みたいな真似だけはやめて……? お願いだから……』

 それと同じような事が左腕でも行われた。またしても悲鳴が漏れたものの、それでもなお俺の口からは親父への悪態が止まらない。

「知ってんのがてめえ……? お前のせいで……アキがどんだけひもじい思い……し、でんのが……。安いハンバー、ガー……泣きながら食ってだ……んだぞ。……毎日毎日……同じ汚ねえ服、着続け、て……っ」

『わ、わかってる! 十分過ぎるくらいお金を送ってくれているのは、ちゃんとわかってる……。私の財産管理がなってないのも……、ちゃんとわかってる。……でも、お願い。今……、本当にお金がなくて……』

 体が一気に軽くなった。親父に胸ぐらを掴まれながら持ち上げられた俺は、側からみれば絞首刑にでもあった罪人のようだろう。親父は俺の体を片手で持ち上げ、そしてトイレの壁に押し付けた。夏場に合わないひんやりとした壁の感触が背中全体を覆った。

 多分、これが最後だ。腫れた目の隙間からぼんやりと映り込むこの光景が、きっと俺が最後に見る事になるであろうこの世の光景。

「何が虎……だ。馬鹿野……郎。……お前……マジで俺の……親だわ。……無抵抗な奴……ばっか痛めづげて……よ」

『こいつ何やっても全然嫌がらねえじゃん、キモチわるっ!』

『何も描かなかったやつは殺すぞ。早く描け』

『待て! 腕には描くなバレるだろ! 服で隠れる部分だけ描け!』

 俺はこのまま親父の馬鹿力に殴られる。コンクリートの壁に体を固定された状態でだ。体を殴られたら肋骨が折れて内臓に刺さるかもしれない。頭を殴られたら間違いなく脳みそ諸共ぐちゃぐちゃだ。もう、どんなに考えても俺が生き残る未来が見えない。

「弱え奴ばっが狙って……」

『やんのか? お前俺に勝てると思ってんの?』

『こっちのセリフだデクの棒。ってか何キレてるわけ? 背はデカいくせにケツの穴は小せえん……ゔぁっ⁉︎』

『……おい。次ナメた口きいたら殺すぞ?』

 俺の視界に映るのは、拳を構えた親父とそんな親父に泣きながらしがみつくアキ。それと……あれ。有生がいない。さっきまで手洗いの近くで蹲っていたのに、鼻血の痕と思わしき血痕が出口の方まで続いている。

「弱え奴ばっが……傷つけでぇ……っ」

『お前、下級生に友達になって欲しいって頼み込んでたらしいな? だっせえ』

 ……そうか。あいつ、逃げたのか。

「弱え奴ばっか泣がしで……いい気に……なって、……よ」

『おい有生! 顔上げろ! こっち見ろ!』

 なんとか逃げられたのか。……よかった。

「……クソが。クソが……クソが……クソがクソがクソが。クソみてえな事ばっか……しやがってこの……クソったれ……が。てめえが……、でめえがどんだけ……酷えことしてんのか……っ、ガキの俺でも……わがってんだよ。……なのに。なのに……なんで……いい歳したてめえが……気づかねえんだよ……っ、ごの、クソ野郎ーっ!」

 そして、これが俺がこの世で紡ぐ最後の言葉になるようだった。ここから先、俺は一切人の言葉を話せなくなったのだから。

 まるで昨日の出来事をなぞるようだった。昨日の有生を真似るようだった。こんなにも親父への悪態を遺言のように吐き続けたのに、親父と来たら全く効いてねえんだ。俺ごと親父を突き刺したつもりが、結局は俺自身にしか刺さらない自傷行為にしかなり得なかった。

 俺の視界は血と涙で完全に閉ざされる。最早光の強弱しか目に飛び込んで来ない。血の混ざった涙を泥水のように零しながら、俺はただただ泣いていた。涙の理由は真逆だろうけれど、それでも昨日の有生のようにみっともなく泣き続けた。

 光の強弱しか区別出来ない俺の視界に一筋の強い光が差し込んだ。トイレの入り口からだろうか。一瞬、間一髪の所でパトカーが到着したのかと思ったものの、しかし警察らしき人の足音もなければパトカーのサイレン音さえしない。俺の耳に届いているのはアキの泣き声と。

「もう、死ねよ」

 親父の呟きと。そして。

「移……法。……リム・…………ギーロ・ラウ…………・ファイ……」

 耳を澄ましてやっと聴き取れる程の、有生にとてもよく似た声。

 親父に持ち上げられていたはずの体が、重力に従って落ちていくのを感じた。百七十超えの身長が床に叩きつけられたんだ。痛くないはずがないのに、痛みはミジンコ程も感じなかった。痛みさえ感じ取れない体になっちまったらしい。 

「アキ! 外……って……人呼ん……来……! 早……!」

 光だけはなんとか感知出来ていた視覚もやがて暗くなり、聴覚も一気に遠のいた。最早耳元で何かを囁かれてもまともに聞き取る事は出来ないだろう。五感が全て黒一色に染まって行く。

「回……魔……。メリ……・ゼガ……・……マレ!」

 でも、まだ辛うじて口は動かせる気がする。ほんの一言だけど、頑張れば喋れるような気がする。その一言が今言うのに相応しい言葉なのかはわからないけれど。

「……あり、……せ。……ご……めん」

 ……あぁ。なんか、めちゃくちゃ暖かくて気持ちいい。
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