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第二章 魔女とタバコを吸う少年

兄は母だった

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 自分の誕生日を忘れる事がよくある。誕生日にはしゃぐ姿がカッコ悪いとか、自分の誕生日に無関心な自分をカッコよく思っているとか、そういうわけじゃない。人間が一番知恵を付けるべき幼児期に誕生日という知識を与えられなかったから、俺はイマイチ自分の誕生日というものに実感が持てない。幼児期の俺に一番知識を与えてくれたのはテレビだ。親でも友でも先生でもなく、テレビだけが唯一の俺の知識庫だった。

 俺の中にある一番古い記憶は妹にミルクをあげている記憶。それが何歳の頃かはわからない。自分が何歳の頃なのかも、妹が何歳の頃なのかもわからない。だけど記憶に残っているって事は物心のついた三歳前後の事だろうし、きっとそのくらいの頃だと思う。

 俺は妹にミルクをあげていた。親父の拳とお袋の悲鳴が飛び交う家の中で、まだ言葉もろくに話せない妹にミルクをあげていた。

 当時の俺の家を一言で言い表すなら牢獄だ。俺達家族は親父の許可なしに外出する事が出来なかった。いや、外出どころか何もする事が出来なかった。親父はすぐにキレてすぐに手を出す男だ。その引き金となる行為が日常のどこに潜んでいるのか、俺達にはわからなかった。

 トイレを流す音がうるさいからとお袋は殴られていた。冷蔵庫に酒が入っていないからとお袋は殴られていた。勝手に飯を食っていたからと殴られ、風呂に入っていたからと殴られ、テレビを見ていたからと殴られ、そしてたまたま視界に入っていたからと殴られた。

 お袋が一番殴られない方法。それは親父の前では何もしない事だった。親父の暴力に怯えながら部屋の隅で静かに座っている置物。かつての俺にとってのお袋は、それだけの存在でしかない。

 それでも古い記憶を掘り起こしてみると、自分が生きる為に必要最低限の行動はしていたと思う。親父に許可を取って買い出しに行っていたし、親父に許可を取って家事だってしていた。しかしそれらの行動も次第に頻度を落としていき、いつしかお袋は親父が留守にしている間でさえ何もしない人形となってしまった。親父に許可を得て行動する人間から、親父の許可が出るまで何もしない人形になってしまった。

『ママ。ご飯』

 親父の留守中。部屋の隅でじっと座るだけのお袋にそう呼びかけたのを覚えている。何度も何度もその肩を揺さぶったのを覚えている。それらの呼び掛けにお袋が一度も応えてくれなかったのも、当然覚えている。

 お袋が何もしてくれないのなら、俺は自分で食べ物を調達するしかなかった。幸いにも冷蔵庫の中にはしっかりと食べ物が入っていた。親父は頻繁にお袋に飯を作らせていたし、お袋をぱしらせて食料品を買いに行かせたりもしたから。そりゃあ必ずしも出来上がり品が冷蔵庫に入っているとは限らなかったけど。

 お袋の作った飯の残りなり、スーパーやコンビニで買った惣菜の残りなりが冷蔵庫に入っていれば、それを食べながら一日を過ごした。それらがない日はちくわとか、レタスとか、トマトとか。素材をそのまま齧って一日を過ごした。生肉を食べて腹を壊した事もあったっけ。自分が生きる為に、食べ物だと認識した物はなんでも食べた。テレビでしか知識を得る術のなかった俺でも、食べなければ死ぬ事は知っていたから。死がなんなのかまでは知らないにしても、食べなければ生きていけない事は知っていたから。そしてそれは俺だけに限った事ではなかった。

 冷蔵庫から引っ張りだした豆腐をくちゃくちゃと食べる俺の耳に騒音が流れこんで来る。この部屋での騒音なんて親父の怒声かお袋の悲鳴くらいのもので、これらは親父とお袋が同時に存在しないと起こり得ない騒音だ。だから親父が留守中の今、騒音の発生源は別にある。アキの泣き声だった。

 そういえば社会の時間で歴史を習った時に教師が言っていたっけ。昔の戦いでは敵から逃げる時、赤ん坊の泣き声はリスクにしかならないから仕方なく殺す事もあったって。でも考えてみれば赤ん坊のアキが泣く姿を俺は殆ど見た事がない。親父の前で泣き声をあげればどうなるのか、赤ん坊でさえ判断出来る程の劣悪な環境だったんだろうか。

 あの時のアキの泣き声は、誰を呼ぶ為のものだったんだろう。普通に考えればお袋だろう。自分を産んだ実の母親への救難信号なんだろう。腹が減っていたのか、オムツの中が蒸れていたのか、その原因まではわからない。しかしアキは親父のいない隙をついて必死に泣いていた。自分を救ってくれる大人を必死で探し求めていた。

 でもお袋は動かなかった。その時のお袋は本当にただの人形でしかなかった。自分の命で手一杯で、小さな命を救う余裕なんてなかったんだ。

 気がつくと俺はミルクを作っていた。全てに無関心になったお袋だけど、それでもせめて子供にだけは関心を持とうとはしていたんだろう。押し入れの中にはお袋が大量に買い貯めていた粉ミルク缶や離乳食、オムツなんかが仕舞い込まれていたのを覚えているし、その日までアキが生き続けていたのが何よりの証拠だ。

 どうしてあの時の俺はアキにミルクを作ってやったんだろう。お袋が自分だけが生きるのに精一杯だったのはわかる。あの時点では親父の暴力はお袋にしか向けられていなかったから。

 俺とアキは子供だから許されていた……とかではなく、多分興味さえ持たれていなかったんだ。実際あの時点で俺は親父と会話をした記憶がない。それどころか視線を合わせた記憶だってない。俺がお袋を人形のようだと思い込んでいたように、親父も俺とアキを人形や置物程度にしか思っていなかったんだろう。

 でも、それだけだ。俺は親父から暴力を振るわれていなかっただけ。三歳のガキだぞ? 狭い部屋の中から自分の食い物を探すだけでも精一杯。お袋が殺されないよう生きるのに精一杯だったように、俺だって自分一人を生かすのに精一杯だった。お袋と同じで、自分以外を助ける余裕なんてなかったはずなのに。

 人の命を救っている自覚はなかった。どちらかと言えばたまたま外で見かけた鳩や野良猫に餌を与えている感覚に近かったと思う。でも、そういう感覚の根っこの部分って、結局は愛しさや可愛らしさにあるんだろう。分量も温度管理も何もかもが適当に作られた無造作なミルクを吸うアキに、あの頃の俺は可愛らしさを見出していた。ミルクを平らげでから眠りに落ちるアキに、温かさを見出してしまった。こうして幼い俺はアキを育てるようになる。

 毎日のようにアキの食事を準備した。毎日のようにアキのオムツを取り替えた。体から異臭がすれば風呂桶にお湯を入れて体を洗ってやったし、寝る時も積極的にアキの隣で寝るようになった。それらは全て俺一人が生きる上では必要のない行為だ。必要のないどころか負担にしかなり得ない行為だ。でも、不思議と苦に思う事はなかった。

 あの家は四人の人間が暮らしているにも関わらず、皆が皆一人ぼっちだった。自分にしか興味のない親父と自分にさえ興味のないお袋。多分、そんな環境に毒されたんだ。アキを育てている間、俺はひとりぼっちから二人ぼっちになる事が出来た。とても温かいと、そう思う事が出来た。

 そんな生活がしばらく続いて、アキはすくすくと成長していった。ハイハイ中心の移動手段が二足歩行へと切り替わり、泣き声を漏らすだけの口からも明確な言葉が出るようになった。下痢や発熱を患った事は何度かあれど、命に関わるような重い病気になる事はなかったな。案外不衛生な部屋で生きた事で強靭な免疫がついたのかも知れない。現に俺だって十二歳になる今日の今日まで重い病気を患った事がないわけだし。

 アキが最初に発した言葉は覚えていない。でも、言葉を覚えたアキが頻繁に発するようになった言葉はよく覚えている。『お兄ちゃん』だ。相変わらず親からは必要最低限のコミュニケーションを受ける事もなかったし、俺だってそんなに口数の多い方じゃない。だからアキの知識も殆どはテレビによる影響なんだろう。そんな限られた知識庫の中からアキは『お兄ちゃん』という言葉の意味を理解し、そして多用した。

 本来アキくらいの歳の子が最も多用すべき言葉はパパやママだと思う。自分を生かしてくれる最も大切な存在だ。でも、アキにとって自分を生かしてくれる存在はパパでもママでもなく、兄である俺だった。生存本能がアキにそう理解させたんだろう。

 アキはよくお兄ちゃんお兄ちゃん言いながら俺の後をついて来ていた。テレビを見るのも一緒、飯を食うのも一緒。風呂や寝る時だって一緒だったし、なんならトイレにだって着いて来ていたっけ。その事に関しては俺も俺で満更じゃなかった。お互い、歳の近い友達なんて一人もいなかった身だ。突っぱねる理由なんて特段なかった。何をするのも一緒の、そんな仲のいい兄妹だった。

 朝から晩まで手を繋いで過ごしていた。流石に片時もとまでは言い切れないけど、俺の両手が塞がりでもしない限りは俺もその手を離したいとは思わなかった。アキの小さな手を握っている時だけ、俺は生きていると実感する事が出来た。

 俺達は世界一仲の良い兄妹だったんじゃないかと思う。ちびまる子ちゃんやクレヨンしんちゃんを見るたびに不思議に思っていた。なんでこの登場人物達は兄弟喧嘩なんかしているんだろうって。喧嘩するほど仲が良いなんて言葉は嘘っぱちだ。俺とアキがテレビアニメやドラマで見るような兄妹喧嘩をした事なんて、一度もなかったから。

 本当にのどかで、穏やかで。それこそ親父が家にいない間は幸せで幸せで仕方がなかった。そんな俺の気持ちは、ある日を境に破綻する。

 ある日を境に親父が家に帰る頻度が激減した。今思えばきっと外で別の女でも作っていたんだろう。稀に帰ってくる親父から漂う奇妙な香りも、今思えば香水の類だと判断出来る。真相は予測の枠を飛び越えないものの、ともかく親父の帰る頻度が減ったのは間違いなかった。じゃあ親父が帰って来なくなって幸せだったかと言うと、俺は胸を張って首を横に振るだろう。

 俺とアキが飯を食えていたのは親父のおかげだった。家に帰った親父がお袋に飯を作らせるなり飯を買って来させるなりしたおかげで、俺達はその残り物にありつく事が出来た。お袋は親父の命令ならなんでもする人形だ。逆に言えば、親父の命令がなければ何もしない人形だ。親父の帰宅の頻度が減る事は即ち、お袋が親父の為に飯を用意する頻度の減少も意味していた。

 ある日、親父が長期間帰って来なくなった。親父のいない時間と反比例して冷蔵庫の中身も減っていった。それなのにお袋は買い出しに行こうとはしない。何日も親父は帰宅せず、今日帰って来る可能性だってゼロに等しいのに何もしない。いつもと変わらず部屋の隅で座っているだけだった。

 日に日に冷蔵庫の中身が消えて行く。冷蔵庫の中身はあっという間に底を尽きた。冷蔵庫から食料品が消えた所で俺は押し入れに手を伸ばす。その中にはアキの成長に伴い、食べる頻度が少なくなった粉ミルク缶や離乳食がほどほどに残っていたからだ。俺はそこから離乳食を引っ張りだし、そしてアキに食べさせた。

『アキ。あーん』

『あーん』

『美味しい?』

『うん』

 俺はアキの食料には手を出さなかった。それが仮初の親心なのかどうかはわからないけれど、この食べ物にだけは決して手を出してはいけないような気がした。それに手を出したが最後、自分が自分でいられなくなるような気がした。そう誓ったはずだった。しかし数日にも及ぶ餓えは、俺のそんな誓いをいとも容易く粉砕してしまう。

 水だけを飲む生活が続いたある日、俺の中で何かが切れる音がした。水だけの生活が何日続いたかは覚えていないけれど、部屋の隅で姿勢正しく座っていたはずのお袋がぐったりと倒れるようになるくらいの時間が経っていたのは確かだった。

 俺はそんなお袋なんて気にも留めずに押し入れを開け、中にあった食料品を片っ端から引っ張り出す。そして人間を捨て、獣のようにそれらを貪った。

 瓶入りの離乳食を片っ端から開けて啜った。粉ミルクを手掴みで掬い取って貪った。お湯に浸けて戻すタイプの離乳食もスナック菓子感覚で頬張った。そうして妊婦のように膨らんだ自分の腹を見た時、俺はアキに対して抱いていた愛らしさを圧倒的に上回る快楽に脳を支配された。一度知ってしまった暴食という快感を手放せなくなった。

 アキのミルクや離乳食も、俺の暴食をきっかけにあっという間に底が尽きた。次に俺が手を出したのは調味料だった。ケチャップを食べ、マヨネーズを食べ、砂糖を食べた。油を飲んだ。ソースを飲んだ。醤油や塩も飲んで、激痛にも近い塩辛さに喉をやられて吐き出した。そうして床に吐き散らかした醤油を、再び啜っては吐き出す事を繰り返した。アキも俺を真似るように、俺の吐き出した調味料を啜っていた。

『……』

 そして遂には調味料までもが底をついた。虚ろな俺の視界に飛び込んだのは、とっくのとうに食べ物が尽きた冷蔵庫。今更こんなのを見ても食べ物が入っていない事くらいわかりきっているのに。

 ……いや、違う。逆だ。冷蔵庫の中には最後の飲食物が入っているのを俺は知っていた。けれどそれは食べられる物であって、食べてよい物ではないのだ。それに手を出したが最後、自分にどのような不幸が訪れるのか十二分に理解していた。理解していたけど。

 俺は冷蔵庫から酒を取り出した。もう長い間親父が帰って来ていない紛れもない事実を前に、理性のタカが外れる。

 俺が缶のプルタブを開けられるようになったのは小学校に入ってからだ。当時の非力な俺ではプルタブを立てる事が出来ず、それでもスプーンを捩じ込んだりして懸命に開封する。やっとの思いでプルタブが立って缶の開封に成功するも、力加減もクソもないやり方なせいで缶は俺の手から転げ落ちる。床に酒が注がれる。俺とアキは溢れた酒を啜り、そして。

『何やってんだ』

 親父が帰って来た。
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