上 下
26 / 82
第参話──九十九ノ段

【玖】花魁

しおりを挟む
 ――襖を開けた途端。
 激しい目眩が零を襲った。
 ……いや、階段自体が歪んでいる。
 整然と並んでいたはずの段板が奇妙に浮き上がり、捻れる。天井絵の錦鯉は立体となり、金張りの天井板から抜き出ていく。

 零は咄嗟に襖を閉じた。そして、肩でパタパタと翅を揺らす蛾を手に取った。
「何をしてるんですか――ハルアキ」

 蛾――に変化へんげしたハルアキは、細い脚を動かして、フサフサとした触角を零に向ける。
「今まで気付かぬとは、油断にも程がある」
「気付いてましたよ。桜子さんにくっ付いて来たでしょう? 女将さんに目眩ししましたよね」
「…………」
「私に任せるんじゃなかったんですか?」
「別に、そなたなどを心配してはおらぬ。……ただ、余が役立たぬと申した言葉は許せぬ」
「はいはい。……では」
 零はニコリと蛾を見つめる。
「この階段に巣食う怪異の正体を、桜子さんと一緒に明かしてください。――私が、死ぬ前に」
 そう言うと、零は蛾を襖の隙間に放り込んだ。
「うわっ! 何をす……」
 そして叫び声を遮るように、ピシャリと襖を閉めた。

 ――するとそこは、既に『異空間』と化していた。
 階段であったモノは無限に延び、歪み、捻じれ、絡み合う。
 果てしなく碧い空間に、上に下に、それはまるで蜘蛛の巣のように伸びていく。
 そして今も、空間は蠢く。頭上すぐを、逆さまになった階段が蛇のように滑っていき、零は髪を揺らして身を屈めた。
 その網の目の狭間に広がる、底知れぬ碧の中を、巨大な錦鯉が縫うようにゆったりと泳いでいる。
 閉じたばかりの襖も、空間に飲まれて跡形もない。

 零は目を細めた。
 ――ここは、妖の考える、『九十九段』という存在を抽象化した概念だろう。
 そう察した彼の背筋を悪寒が奔る。――まさか、ここに潜む妖に、これまでの力があるとは。

 妖とひとえに呼ぶものの、その能力は様々だ。ただ存在しているだけの無害なもの、積極的に人に干渉しようとするもの、人に明確な悪意を向けるもの。
 それらの妖のうち、人に害をなすものを『鬼』と呼ぶ。
 鬼の中でも、異空間を発する力を持つものはごく一部。多くの悪意を取り込み、ひとつの『器』に収まりきらなくなった存在。

 ハルアキに忠告されるまでもなく、ここに来る前から、嫌な予感はあった。しかし、これほどとは……。これも、彼の見込みの甘さだ。
 鬼の持つ悪意――呪いを祓うには、零だけの力では及ばないだろう。勿論、ハルアキ――現在の安倍晴明の力を借りたとて同じ事。
 ならば、『あの方』を頼るしかない。
 となると、この場に零以外の存在があってはならないのだ。

 零は懐に手を入れる。そして、漆黒の鞘に収められた短刀を取り出した。
 ――かげ太刀たち
 怪異を断罪する刃。――この世とあの世の秩序の番人、太乙たいおつしもべとして、役割を全うするためのもの。
 そして、零と彼女を繋ぐもの。

 すると、帯にぶら下げた煙草入れの根付が激しく揺れた。零は宥めるようにそれを撫でる。
「もう少し待っていてください、――小丸こまる
 そこに封じられているものは、犬神――彼の相棒だ。妖を感じ取り、早く出せと急かすのだ。

 縦横無尽に動き回る階段の奥を眺める。ある場所は交差し、ある場所は螺旋を描き、その奥行は八方に膨張していく。
 こうも広くては、この異空間の主を探すのに骨が折れそうだ。

 零は煙草入れから煙管キセルを取り出し、そこに刻み煙草を詰め、火を点けた。その煙を頭上に掲げ流れを見る。
「…………」
 これは、妖の存在を探るものだ。その位置、強さを、煙の動きから測る。
 火皿から立ち上る紫煙は、緩やかに周囲に流れる。動き回る階段に乱されながらも、やがてそれは一定の方向へと向かいだした。
「……行きましょう、小丸」
 零は階段に足を踏み出した。

 だが階段は、易々と彼を通す気はないようだ。足元がうねり、零は宙に投げ出された。咄嗟に段を蹴り、横を奔る階段に飛び乗る。
 異空間と言えど、上下の感覚はある。横向きでは体勢を保てず、すぐに別の階段へ移動せねばならない。
 巨蛇のように空間を這い回る階段。そこを次々と飛び移っていく。
 そうして紫煙を追ううち、零は気付いた。
 この階段の動き。これは彼を拒絶しているのではない。――導いているのだ。

 やがて、階段は螺旋に渦を巻いた。零の立つ階段がその中心を滑っていく。その回廊を抜けた先――。

 一本の階段が、天に向けて延びている。
 それを跨いで立つアーチ型の門。その傍らに、柳が枝を揺らす。
 その向こうにあるのは、赤提灯が飾られた二階建ての建物の列。

 ――吉原である。九十九段の突き当たりの屏風に描かれていた名所絵。そのままの景色が、そこにあった。

 弁財天の見下ろす吉原大門おおもんの向こうに立つ、花魁。

 青、翠、赤、紫、黄、白――。
 艶やかな色彩の打掛に、眩い網目模様の金襴の帯、そして、伊達兵庫髷だてひょうごまげに挿した鼈甲べっこうかんざし……。
 白塗りに深紅の紅が微笑んだ。
「やっとおいでんなした、お待ちしており申した」
 この異空間の『主』。花魁の姿をした鬼は、艶っぽい瞳で見下ろしている。

 零は大門の前に乗り移る。鋼鉄製の門は、美しく飾られながらも、冷たい色をしていた。
 ……まるで牢獄の鉄扉のように。
 もしかしたら、この花魁はこの門からは出られないのではなかろうか。ふと零はそんな風に感じた。

 花魁の白い手が伸び、緩やかな動きで彼を招く。
「こっちにお来んさい。わちきとの約束、果たしてくんなまし」
 ――約束?
 零は目を細めた。そして悟った。
 ……やはり、この花魁は、お陸ではない。
 お陸は、死後は別々となったとはいえ、一旦は平政と本懐を遂げている。
 それに、お陸は岡場所の湯女である。吉原の花魁ではない。
 ――ならば、この花魁は何者だ?

 零は身構えた。門を抜ければ、鬼の手の内。完全に彼女に取り込まれるだろう。
 すると花魁は小首を傾げる。
「おやまあ、つれないお人でありんすなぁ。……もしや、わちきの顔をお忘れなすったか」

 ――その時、花魁の背後に何かが動いた。
 それは左右に細長く、八本に伸びる。――蜘蛛だ。黒い産毛うぶげで覆われた脚が半ばで折れ、こちらに尖った爪の先を向ける。
「なら、もっと近くで見てくんなまし」

 花魁の帯が解ける。それは鞭のようにしなり、門を抜け零に向けて飛んだ。
 狭い階段、逃げ場はない。咄嗟に手の短剣を抜く。
 ――だが陰の太刀はやはり、その姿を現さない。
 冴えない銀色の刀身に目を遣り、零は息を吐いた。

 この短剣は、怪異の正体――呪いの形を見極めねば、真の姿を現さない。それは、この持ち主である太乙との契約のひとつであり――零自身が掛けた制約でもある。
 彼が、人間としての意識を保つための、制約。

 そうは言うものの、自らその懐へ飛び込んだとはいえ、このまま捕らえられるのは気が進まない。
「痛い目を見るのは、趣味じゃありませんね」
 零は階段から身を投げた。他の階段に飛び移り、帯を避けようとしたのだ。
 ……しかし、その向こうに現れた、投網のような蜘蛛の巣は避けられない。
「――――!」
 刃を閃かせる。しかしこの短刀は、この姿では紙も切れない約立たずなのだ。いとも簡単に絡め取られ、零は情けない姿で階段から吊り下げられた。

 階段の上を見上げる。
 花魁はその場を動かない。逆に蜘蛛の巣がするすると巻き取られ、彼は門の中へ放り込まれた。
 その体を花魁の蜘蛛の脚が受け止める。
「野暮な物をお持ちでやんすな」
 零はその抱擁に身を任せる――と見せかけ、短刀を花魁の首元に突き立てた。切れはせずとも、脅しくらいにはなるだろう、そう思ったのだ。

 だがその切先は、白い首に届く事はなかった。
 蜘蛛の糸が、短刀を握る手首を捻り上げる。
「クッ……!」
 鈍い音と痛みが奔る。
 握力を失った手から短刀が離れ、階段に落ちた。そして数段を滑り落ちると、階段を外れ虚空へ吸い込まれていった。

 咄嗟に零は身を捻る。
 ――小丸、頼みましたよ。
 零は心で念じ、自由な左手を背後に隠し、煙草入れの根付を外す。それは短剣を追うように転がっていった。

 花魁に目を戻す。
 彼女は零に顔を寄せ、じっと零の顔を見ていた。……恐らく、小丸には気付いていない。
 白塗りしたその顔立ちは、傑作と称される絵から抜け出したような美しさだ。
 ――ただ、その目には白目がない。
 ぬめぬめと光る漆黒の眼球が、零を無表情に見下ろしていた。

「野暮は嫌いと言ったじゃありんせんか」
 鋭く黒い爪のある両手が、彼の頬を覆った。
 甘い吐息が耳元に囁く。
「わちきの事、思い出させてあげんす」
 身動きの取れない顔に、花魁の唇が重なる。
 ――その舌先に感じた強烈な痺れが、零の視界を滲ませた。

 命運をハルアキに託したとはいえ、余りに情けないザマだ。零は自嘲した。
 しばらく、こちらからは手出しをできないだろう。……この先は、彼らを信じるしかない。

 だがその意識の糸が途切れる寸前、彼はもうひとつの謎に気付いてしまった。
 ――屏風絵にあった、二人の禿が、ここにはいない。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

王が気づいたのはあれから十年後

基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。 妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。 仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。 側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。 王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。 王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。 新たな国王の誕生だった。

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

父が死んだのでようやく邪魔な女とその息子を処分できる

兎屋亀吉
恋愛
伯爵家の当主だった父が亡くなりました。これでようやく、父の愛妾として我が物顔で屋敷内をうろつくばい菌のような女とその息子を処分することができます。父が死ねば息子が当主になれるとでも思ったのかもしれませんが、父がいなくなった今となっては思う通りになることなど何一つありませんよ。今まで父の威を借りてさんざんいびってくれた仕返しといきましょうか。根に持つタイプの陰険女主人公。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。